9 憂鬱
アルヴァ・バル国王は憤慨していた。
その手にはアスラン連邦主席ドルキカの親書がくしゃくしゃに握りつぶされていた。
「ふざけた事を……っ! つまりサミーアを帰す気はないと……そういう事か!」
いつになく激昂した国王の怒号に、御前で跪くイリスは元より王の側に控える兵や政務官までもが肩を震わせた。
「申し訳ございません、アルヴァ様。私の力及ばず、サミーア殿の居場所が掴めぬままの帰還となってしまいました」
「いやそなたの所為ではない。よくぞ一人でも戻ってくれた」
「それで、サミーア殿からこの様なものが」
イリスは例の紙をアルヴァに見せた。ジャンナトの地、とだけ書かれたそれを見て、アルヴァはにんまりと笑みを浮かべた。
「さすがサミーアよ。転んでもただでは起きぬな」
「如何なさいましたか」
「サミーアはな、アスランの弱部を調べておったのだ。アスランは肥沃な土地だから、いずれはバルクが治めるべきだと言ってな。私は侵攻する気などなかったから要らぬと言ったが……。あちらがその気なら容赦はすまい!」
アルヴァは拳を振り上げて唾を飛ばす。赤い顔をして激昂するその様子は、以前会った時の仁君とは程遠かった。
「バルクを足蹴にした事後悔させてやろうぞ。望み通りジャンナトの地を攻めるのだ!」
こうしてあれよあれよと言う間に、一月後の出兵が決まってしまった。イリスは僅かな違和感を感じながらも、それに従うしかなかったのだ。
「それで? 私の部屋に来たという事か。帰還して早々何事かと思ったよ」
「申し訳ありません。ですがどうにも気合いが入らぬので……」
「気持ちは分かるけれどね、あまり言ってはいけないよ。君は此度から直属小隊をもつ事になったんだろう?」
「はい、褒美に賜りました。明日にも顔見せです」
「ならばそんな顔を上官がしてはいけないよ。兵の士気に関わる」
「承知しております……」
そうは言ってもイリスの顔は晴れない。部屋で帰って来るなりのイリスの愚痴を聞いていたセスタは、優しげに苦笑しながらうんうんと頷いていた。
「ですが、何故攻めねばならぬのでしょう。あまりにアルヴァ様らしくない気がします」
「確かに、ね。いつもならばそういった進言を宥める方だからな」
「確かにサミーア殿は取り返さねばならないと思います。ですが攻め行ってしまえば彼を危険に晒す恐れだってある。もう少し吟味すべきではないですか」
「……君主というのは、綺麗事だけでは務まらないという事だね」
「どういう事ですか」
「君もアスランに行って思わなかったかい。彼の国はひどく豊かだ。比べて我が国は砂漠に囲まれた厳しい土地」
「そうですね、それは強く感じました」
「我が国はずっと欲していたのだよ、あの肥沃な土壌を。民にとってはそれが一番大事だ。だが切っ掛けがなかったのだ」
「それが此度なのだと?」
「勘繰るとね。そうでなくてはアルヴァ様らしくない。あまりに無理な出兵だと思うのだろう?」
セスタの言葉に、イリスはこくんと頷いた。
此度の出征は、アスランの不義に対するものだけではないのだ。この強硬な出兵の違和感は消化されたのだが、その分新たに表れたのは少しの忌避感。
「侵攻戦……か」
「戦に出たくない、って顔だね」
「まさか。陛下がその様な決断をなされたのですから、私がそんな事を思っていては将失格でしょう」
「そう決めたのなら、そうするんだ。一番いけないのは迷うことだからね」
「了解、しました」
イリスの少しつっかえた返事に、セスタは彼女の肩をとんと叩いた。
国王としての責務故に、望まぬ戦を決めたアルヴァ。あのらしからぬ態度はそれを隠す為のものだったのだろう。国王がそう決めたのだ、イリスが迷う理由などあってはならなかった。
そう決意し直したイリスだったが、再び憂慮すべき事態がおきた。いや更に切羽詰まった状況であるというべきかも知れなかった。
それは翌日、イリスが彼女付け直属小隊の面々との顔合わせに出向いた時だった。
「女の上官ってのはやり辛いな」
「奴はついこの前軍部入りしたばかりの新兵だぜ、それがあれよあれよと副将だ」
「やっぱりアレかな。噂ではセスタ殿に取り入ったとか? もしくは薬師殿に泣きついたかな」
「そんな奴に命を預けるのか? 真っ平だぜ」
「俺等って見捨てられたのかな。女の下に付けられるなんて」
通りで額を付き合わせる兵たち数人。どこの世界でもこういった事はあるのだが、やはり面と向かって聞いてしまうと居心地が悪い。イリスとて彼らの気持ちが分からぬ訳ではないが、彼らが言った通り命を預かるのだ。聞かぬふりして泣き寝入りする訳にもいかなかった。
「悪いがセスタ殿もシェコー殿もそんな方ではないだろう。それに、貴殿らは見捨てられてもいない」
聞いていたぞ、と言外にして、イリスは凛と彼らの前に立った。
特にショックを受けてはいないが、聞いた手前何かしらの行動は取るべきと思ったのだ。兵たちも気まずそうに去るだろう、そう思っていたのだが、諌める周りを無視して一人の兵がイリスの前に立った時、彼女は驚きに目を瞬かせた。
「恐れながら。自分はどうにも納得がいかぬ思いです。何故女性の将などを重用なさるのか疑問です」
「それは私のみならず、それをお決めになった陛下をも疑う言葉だ。聞かなかった事にする。気持ちは分かるがな」
「都合が悪いからですか」
「何がだ?」
「真っ当な理由で取り立てられたのであれば、疑問にお答え出来る筈」
「正論だな。だが私も今の登用には驚いているのだ、理由は陛下だけがご存知だろう」
「それでは自分の疑問は晴れません」
「だろうな。だが気を晴らす事は私にも出来よう。男に負けぬ武を以ってしてな」
イリスが言うと、その兵は面白くなさそうに鼻を鳴らして去っていった。無礼な態度を隠そうともしない彼に、僅かに頭痛を覚える。
顔合わせも済んでいないうちからこれだと先が思い遣られる。痛む頭を抑えながら、イリスはこれからの調練の事を憂いたのだった。
そして彼女の懸念通り、顔合わせを兼ねた初めての調練は散々だった。
自分たちより年下で、女で、新入りで──そんな若造に血気盛んな男たちが簡単に付き従う筈もないのだ。直接的な言葉こそなかったものの、彼らの視線は明らかに拒絶を表していた。
「私が君たちの指揮官を任されたイリスだ。君たちは私直属の小隊として来たる次の戦に出る事になる。私自身軍人としては若輩者であるが、君たちを預かる上官として精進していく所存だ。どうか宜しく頼みたい」
イリスの所信表明にも、白けた空気が漂う。顔合わせもそこそこに、皆訓練を始め出した。
本当に先が思いやられる。腕を組んで様子を見遣っていたイリスだったが、剣や槍を振るっている兵たちの中にある物を見付けた。
剣を振る動きに合わせて、ぴょこぴょこと動く短めの紅い髪。それは小隊の中でも若い兵卒のものだった。イリスはその燃える様な紅い髪に目を奪われたのだ。
この大陸では様々な髪の色の民族が存在する。だがイリスは、自身と同じ紅い髪の人を見た事がなかったのだ。生まれの分からない彼女にとって、自分と同じ容姿を持つ人間が何かの手掛かりになってくれるかも知れない、そんな風に思えた。
だが今イリスは歓迎されていない、記憶が無い事など話してしまっては更に厄介な事になりかねなかった。
そんな事を考え続けた所為だろうか、イリスの視線は紅い髪の兵にずっと注がれていた。それを受ける本人がそれに気付かぬ筈もなく。
「何かおかしいでしょうか、イリス殿」
その彼が問いかけて来て初めて、イリスは不躾な視線を送り続けていた事に気付いたのだった。
「すまない、何でもない」
「……? そうですか」
訝しげに見遣る紅い髪の彼。だがその視線に悪意は感じられなかった。もしかすると少しは話せるかも知れない、そう楽観した時だった。
「おい、シン! 足並みを乱すな」
「は。すみません!」
シンと呼ばれた紅い髪の彼は、調練へと戻って行ってしまった。ポツリと残されたイリスは、自嘲に口を歪める。
「足並み、か」
彼ら部隊の者からすればイリスこそが、足並み乱す張本人なのだ。しかしイリスも如何にすれば足並みを揃えられるのか、分からなかった。だから少し様子を見よう、そう問題を先送りにする決断をした。
だがその少しの間にも、部隊の者のイリスに対する芳しくない噂は激しくなるばかりだった。調練では話をしても馬耳東風、大切な報告が素通り、さすがのイリスにも我慢の限界を迎える日が来た。
「いい加減にしないか」
地を這う様な声に、いつもはイリスに視線を寄越さない部隊の者たちも一瞬その動きを止めた。いつも苦笑して見ていただけの上官が、遂に。
「私を気に入らないのは理解が出来ると言った。だがそれを言い訳にするにしては、やってはいけない事だったな」
そう言ってパサリとイリスが投げたのは、来たる次の月の戦に関するものだった。イリスの部隊の配置と策に関する事である。それがイリスを素通りし、政務官の元にいっていたのだ。
さすがにそれは看過出来なかった。
「こんな事をして何の意味がある? 他人を危険に晒す事にどんな理由があるというのだ。君たちも武人であるなら、分別がつかないか!」
集められた兵たちはびくりと肩を震わせはするものの、気まずそうに視線を交わし合うだけだ。怒りに震えるイリスにとっては、それも気に入らない。
「女々しいものだな、ここで楯突く物もいないとは。本に私が殺したい程に目障りだというならば、面と向かって来るが良い。それ程気骨ある者ならば私も喜んで相手しよう。だがその覚悟もないならば、今後一切この様な真似はするな」
ここまで言っても暖簾に腕押し、反応がない。一人くらい誰か反論して来ても良いものだが、彼女の言葉は響かないのか。
もうイリスにも言葉がなかった。調練に身の入らぬまま、その日はお開きになったのだった。