プロローグ
「立て!」
牢の外から掛けられた声で、女は意識を取り戻した。身じろぐと、カシャリと鎖が摩れる音がする。あぁ、虜となっていたのだ、と今更ながらに女は自覚した。
牢から出され、女は引きずられる様に回廊を歩いてゆく。女を連れた兵はある煌びやかな扉の前で足を止めた。そこには身分の高そうな、それでいて腕に自信のありそうな若い男が立っていた。
「丁重に扱え、と言われなかったか」
「はっ。ですがこの者、なかなかの手練れにて……」
「言い訳はいい」
ぴしゃりと言い放ちながら眉根を寄せた男は、重厚な扉を見遣って溜め息を吐いた。中の将軍にせっつかれてでもいるのか、男は苛立たしげに指先を動かしている。
「まぁよい。将軍がお待ちだ。早く入れ」
兵は一礼し、その煌びやかな扉をゆっくりと開けた。女もそれに倣って部屋に足を踏み入れる。なかなかの手練れと評されはしたが、その様子からはもう抵抗の意思は感じられなかった。
「待ちくたびれたぞ」
玉座に座した男は部屋に入って来た女の姿を見留め、静かに声を投げた。隣の兵がぴんと背筋を伸ばす。
「久しいな……。斯様に草臥れた装いでも違わぬ美貌よ」
玉座から投げ掛けられる声は、心なしか楽しそうだ。
その男、将軍の姿を見た女の色を亡くした瞳に、次第に憎悪を火が灯る。
「私が憎いか?無理もない、そなたから全てを奪った男だ」
将軍は玉座からゆっくりと腰を浮かせた。そのまま一歩一歩女へと歩み寄る。その足取りは、言葉同様に嬉々とした色が篭っている。
「だが私がそなたから奪ったもの、そなたの手へと戻してやろう」
その言葉に女は瞳を瞬かせる。瞳に色が戻った──藁を掴む様な、僅かな希望に縋る様な、そんな色が。それを見て、将軍はほくそ笑む。
「違うかたちでな」
一層笑みを深くした将軍は、愕然とした女を一瞥すると、扉へと足を進めた。重厚な扉を押し開けると、扉の脇に控えていた先程の男が歩み寄る。将軍は彼にだけ聞こえる様に、声を潜めた。
「あれを捕らえた者は解るか」
「は、調べますれば。褒美でも与えますか」
「いや…」
一層小さくした声に、男は将軍に額を寄せる。それを見留めて将軍はにやりと笑った。
「処分せよ」
一言だけ、冷たく言い放って。男は一瞬怪訝な表情をしたが、合点がいったのか静かに頷いた。将軍は満足そうに頷くと、踵を返し再び重い扉を開けて部屋に戻っていった。
重厚な扉が閉まる間際、鎖に繋がれたままの女の瞳が男を捕らえた。燃えるような紅い髪を振り乱して、憎悪の色をしっかりと宿して男を睨みつけている。
煤だらけの姿でも美しい彼女のその激情の瞳に囚われかけて、彼は頭をふるふると振った。男は肩まである彼の灰色の髪をかきあげて、息を吐きながら思う。
あの女はまさに傾国の美妃。
傾国は自ずが望む望まざるに関わらず、行く道は茨の一途に他ならぬ。それが一見最良の道に見えていても、先に待ち受けるは破滅のみ。今確かに言える事は、あの女を待ち受けるは恥辱に塗れた一生でしかありえない、という事だけだ。
だが、彼女に一切の咎はない。彼女があの美貌であるのも責任はない。そして彼の国も、祝い事に湧く平和な国だったではないか。
だれも咎人がいない相手ならば何故、あんなにも凄惨な戦をしなければならなかったのか。罪も無く、敵にもなり得ない彼の国を何故惨たらしく滅ぼさなければならなかったのか。一族を根絶やしにしなくても、もっと上手い方法があったのではないか。
年若いこの軍人の胸には、苦い思いが楔の様に残ったのだった。