3:〔花咲く海と〕
「兄ちゃん、兄ちゃん。時間だよ」
「ん……。あと、五分」
「はいどーん」
「おぶっ!」
腹部に強烈な衝撃。急激に覚醒した意識と共に、ぱっちりと目が開く。
目の前には、腹の上に正座をしている女の子の姿があった。
「海……。その起こし方は止めろと言うに」
「兄ちゃんが起きないのが悪いのさっ」
ビシッ! とサムズアップする妹にすかさずデコピンを放つ。おうおうと涙ぐむそいつを腹の上から下ろし、思い切り身体を伸ばした。
花咲海。
俺の妹であり、現在中学三年生。受験を控えた身ではあるが、どうやらこの兄とは頭の出来が違うらしく、焦って勉強する必要が無い為にのんびりと毎日を過ごしているように見える。
我が妹ながら容姿に優れ、何度かファッション雑誌に載ったこともあるとかないとか。
「ご飯出来てるよ。早く食べよう?」
「わかったよ。着替えるから出てってくれ」
「ほわぁー兄ちゃんのベッドー!」
「出てけ変態」
正気か疑う発言と行動を起こした妹を部屋の外に投げ、鍵を掛けてから着替えを始めた
「あれ? 今日は眼帯なんだ」
「洗うのを忘れててな。少し目立つけど、一日我慢するさ」
純和風な朝食を口にしつつ、妹と何気無い会話を交わしていく。
二人で使うのが精一杯の机は、当然ながら向かい合う二人の距離も近くなる。だからどうということもないが。
「兄ちゃんご飯粒ついてるぱくっ」
「平然と食うな」
精々がこんな攻撃を食らうくらいである。
こんな俺達だが、近所の評判は割と良い。今時仲の良い兄妹だ、と微笑ましく見られているらしい。
両親はここにはいない。生きてはいるが、軽い絶縁状態というやつだ。二年前までは一緒に住んでいたのだが、どうやら俺の知らない間に妹と両親の間で一悶着あったようで。
結果から言えば妹が両親をこの家から追い出し、退院した俺は変わらずここに住むことになっていた。
両親と妹の間で何があったのかは、一応聞いている。が、俺は敢えて知らない振りをしている。気持ちの良い話では決して無いし、何より……。
「そういえば兄ちゃん。またあの女の家に行ったでしょう」
ピシリ、と空気が固まる音がした、気がした。
妹の発するこのプレッシャーに、大体の人間は否応なしに固まることになる。が、慣れっこな俺は平然と味噌汁を啜りながら答えた。
「ああ」
俺の答えに、海は眉間に皺を寄せる。あぁ美人が台無し、いやかえって美人が映えるのか?
「行かないでって、何度も言ってるのに」
「その度に答えてるぜ? それは出来ないって」
先程までの明るい空気が、あっという間に海の深海まで堕ちていく。
――また始まった。
魚の小骨を取りながら、俺は小さく溜め息をついた。これさえなければ完璧な女の子なのに。
「あのなぁ。いい加減に悠にも普通にしろよ。お前の気持ちもありがたいけどさ」
「嫌。あの女が兄ちゃんの左目を奪ったんだもん。私は一生許さないからね」
激情を秘めた瞳。
海の性格の難点はここだ。一度許さないと決めたことは、何がどうなろうと許さない偏執的な考え方。
ヒステリックとまではいかないが、それに近い激情を、その物事にいつまでも抱き続けるのだ。
今もこうして、悠に対して抱いている嫌悪感を隠しもしない。俺が関わっているだけに、殊更だろう。
海からしてみれば、悠は俺から左目を奪った憎むべき人間なのだ。一度そう決め付けてしまった為に、妹は二年間変わらずに悠を憎み続けている。
俺からすれば、その恨みは検討違いもいいところなのだが。何を言ってもこの妹は聞きやしないので仕方無く放置している。実力行使に出ない限りは、だが。
朝食を片付けた俺は、海と共に玄関をくぐって外に出た。今日も快晴……とはいかず、どうにも空の機嫌が悪い様子。
今にも雨が降りだしそうな暗い空を見て、傘を片手に歩き出した。海とは向かう方向が逆なので、家の前でお別れだ。
「今日は真っ直ぐ帰ってきてよ。待ってるから」
「はいはい。約束するよ」
じゃあねー、と手を振って歩いていく海を見送り、自分も背を向けて歩き出す。
家から高校まで、徒歩で約二十分。多少歩くが、帰宅部の身なので運動と割り切って足を動かしていく。
運動自体は好きな方なので、長距離歩行も苦にならないのが幸いか。音楽を聞きながら行けばあっという間だ。
「……降ってきたな」
道中、半分程来たところで、顔に冷たい水が当たった。多少なら気にせず歩くところだが、どうやら本降りになりそうなので大人しく傘を指しておいた。
乾いていたアスファルトが、あっという間に黒く濡れていくのがわかる。イヤホンを外すと、雨が力強く地面を叩く音が聴こえてきた。
「うひゃあ、降ってきたねー」
「透。おはよう」
「おはよう、泉。ついでに傘に入らせて」
既にその小さな身体を此方に寄せている透が、顔を拭きながらそう言った。
びしょ濡れとまではいかないものの、それなりに濡れた様子の透。湿った髪が妙に色っぽい、気がする。
「お前、傘は?」
「持とうかとも思ったんだけどね。お父さんが、雨くらい全て弾き飛ばしていけ、なんて言うから」
「無理だろ」
「無理だよねー。まぁそれが理由じゃなくて、単純に、走れば降りだす前に学校に着けるかなって」
「いや無理だろ」
透の家から学校までは十キロ以上ある。
「いやー、後数分だったのに。惜しかった」
「素直にタクシー使えよ。朝からあんな距離走るなよ」
「え? 僕帰宅部だし、運動には丁度いいかなー、くらいな気持ちなんだけど……」
「……俺とお前の差が、またひとつ明確になったよ」
毎度のことだが、この小さな身体のどこにそんな馬力が宿っているのだろう。
「透。入るならこっちの傘に入りなよ。男二人よりいいだろう」
「おはよう紡。あと断る」
「なんで!?」
「だって、紡の傘可愛いけど小さいし。泉の傘は大きいから、僕が入っても全然余裕だから」
いつの間にか近寄ってきていた紡が、透にバッサリと切り捨てられる。
確かに、彼女の傘は俺の傘と比べて小さい。二人で使えば、互いの肩がはみ出してしまう。まぁ、大体の傘はそうだと思うが。
「で、でも。男同士で相合い傘は少し……」
「いいじゃん別に。ねぇ泉」
「俺に振るな」
「ほら、良いって」
「言ってねぇ」
こん、と透の頭を小突く。てへ、と舌を出した透に溜め息をつくと、俺は止めていた足をまた動かし始めた。普通、男がやれば殴られても文句は言えない仕草だが……。まぁ、透だからいいのか。
片方だけ外していたイヤホンを仕舞い込み、携帯電話から流れる音楽を止める。
ものの数十秒で、雨音に負けないくらいに騒がしくなったのだ。音楽で暇を潰す必要も無くなった。
右に透。左に紡。三人で歩く時には決まってこの形。
それを妙に嬉しく感じながら、学校への道を行く。