2:〔約束ごと〕
「泉。帰んないの?」
「ん。用事は無いけど、なんとなくな」
「そっか」
透は俺の言葉にそう返すと、隣の席から椅子を引っ張り出して正面へと座り込む。手に持っていた鞄は椅子の横に置き、机にぐだりと伏せていた。
「今日は良い天気だよねぇ。こうしてるとついつい寝ちゃいそうだよ」
ふにぃ、と気の抜けた声を出した透に苦笑する。そんなことをするから女の子に見られるんだよ、とは言わない。
後ろから聴こえる携帯カメラの連続シャッター音に、果たして透は気付いているのだろうか? ちなみに、俺の後ろにいる生徒は女子である。
「帰るなら帰っててもいいんだぞ。道場に行かなきゃならないんだろ」
「何年前の話だよぉ……。もう道場は強制じゃないんだから」
「でも、結構頻繁に顔は出してるんだろ?」
「まぁね」
にへら、と笑う透。シャッター音が背後から高らかに響いた。直後に何か噴き出すような音が聞こえたが、気にしない。多分鼻血でも出たのだろう。
「たまには泉も一緒にどう? 筋は良いと思うんだけど」
「やめてくれ。お前に付き合ってたら身体が持たないんだよ」
事実、透に付き合って身体を動かせば、翌日はベッドから起き上がれない程の筋肉痛に襲われる。
この細い身体のどこにそんな体力があるのか。透七不思議のひとつだ。残る六つは暇なときに募集しておこう。すぐに集まる気がしないでもない。
「こんな腕に俺はぶん投げられたのか。このやろうこうしてくれる」
「くすぐったいくすぐったいー」
「……細くて柔らかいんだよなぁ。これは真面目に七不思議に数えておこう」
七つ集まれば掲示板にでも貼ってみようか。女子に群がられる透の姿が容易に想像出来る。ざまあみろ。
「って痛い痛い痛い! なんだいきなり!」
「なんかムカついた」
……鋭い。
思い切り手の甲をつねられた俺は、バシバシと透の肩を叩いてその手を離させた。
赤くなった部分を涙目で擦りつつ、若干不機嫌になった透に視線を向ける。彼は既に、俺の机を贅沢に使って寝そべっていた。
「泉君」
「あ、悠。お疲れ様」
「うん。ありがとう」
目の前にある頭をひっぱたいてやろう、と考えたところで、不意に声がかけられる。鞄を方に掛けた悠が、教室へと入ってくるところだった。
生徒会の業務が終わったのだろう。黒板の上に掛かっている時計を見れば、短針は既に五の数字を指していた。
「泉君と透は、なんで残ってたの?」
「いや、特には。……でも、悠が来たし帰ろうかな」
「僕はまだ残ってるよー。一人で帰ると紡が拗ねちゃうから」
立ち上がった俺を送るのに、寝そべったまま手を振る透。確かに、紡はあれで寂しがり屋な面があるから、透の選択は正しいと言えるだろう。紡も、俺や悠が待っているより、透が待っていてくれた方が嬉しいだろうし。
「じゃあ、先に帰るな。また明日、透」
「またね、透」
「じゃあねー」
ヒラヒラと手を振る透を背中に、俺と悠は教室を出る。
俺に歩く早さを合わせて歩く悠は、少しこちらに身を寄せて口を開いた。
「今日はどうしようか。泉君の家でご飯にする?」
「今日は妹がいるから、家は駄目かな。悠の家で」
「……そっか、そうだね。じゃあ買い物していこう!」
不自然に声を高くした悠を見て、ただでさえ狭い視界が細くなるのを感じた。
悠は不器用だと思う。嘘が吐けない癖に、無理をして元気な振りをして。
二人の時くらいは気を抜いて自然体でいて欲しいけれど、それを俺が言うのはおこがましいというものだろう。
悠をこうさせている原因は、他でもない俺にあるのだから。
「さ、上がって上がって?」
先に靴を脱ぎながら、悠は楽しげに言った。その手には先程スーパーマーケットで買ってきた食糧が入ったビニール袋。俺の片手にもそれはぶら下がっており、二人並んで台所へとその荷物を置きにいく。
「少し時間掛かるけど……」
「いいよ。適当に寛いでるから」
言ってから、中々自分がふてぶてしいことに気が付く。いかに慣れ親しんだ場所とはいえ、所詮は人の家だというのに。
とは思いつつも、俺は台所から居間へと足を運ぶと、適当な場所に腰を下ろしてテレビのリモコンを手に取った。
自慢ではないが、悠の家なら基本、どこに何があるかは把握出来ている。多分、そろそろティッシュペーパーの予備が底を尽きる頃だろう、なんて予測がつくぐらいだ。
それが何故かと聞かれれば、まぁそれだけ頻繁に悠の家に訪れているからなのだが。一月の半分は悠の家に足を踏み入れているように思う。それも主観的なもので、もしかするとそれ以上かもしれない。
「…………」
黙ったまま、テレビのチャンネルを回していく。無難なバラエティ番組を映したところでリモコンを置くと、一息ついて制服のブレザーを脱いだ。ネクタイも緩め、ワイシャツのボタンをひとつ、もうひとつと外す。
――そこでやっと、俺は左目の死角から意識を外すことが出来た。
どこか張り詰めていた心が緩み、心無し強張っていた表情筋も柔らかくなっていく。
こうして、絶対に安全な状況にならないと、左目の死角から意識が外せない自分に呆れつつも、悠の家にいるという安心感に身を委ねることにする。
ちなみに言わせてもらうと、俺が安心だと判断出来る条件は、基本的に周りに人がいないことが絶対となる。例外として透や紡、悠。後は妹くらいのものか。それ以外の人間が近くにいると、嫌でも俺は見えない視界に警戒を置いてしまう。
必然的に、一日の大半は半分張り詰めた精神状態で過ごすことになる。そんな中で、こうしてリラックス出来る時間は当然ながら貴重なものだ。
「はーい。お待たせお待たせ」
カチャカチャと食器が鳴る音が耳に届く。悠がエプロン姿で、本日の夕食を俺へと運んできてくれた。
目の前に置かれた献立は、白いご飯に御味噌汁。キャベツの千切りの横にはプチトマト。これは……おそらくは白身魚のフライだろうか。それが手頃な大きさで二切れ。小皿には昨日も出てきたきんぴらごぼうが乗っている。
――うん。普通に美味そう。
自分の分を持ってきた悠が右隣に座ったので、ちらりとその横顔を見る。目が合ったので、頂きますと手を合わせて箸を取った。
「どう?」
「それ、毎日聞くよな」
「毎日聞くよー。不味かったら嫌じゃない」
「そんなことは無いから安心してよ。今日も美味しゅうございます」
「それは良かった。……うん。良かった」
割と本気で胸を撫で下ろしている悠は、そこでやっと自分も箸を取る。
何を心配しているのか。大体のことはそつなくこなす彼女は、家事だって人並み以上にやっている。これで料理だけがダメダメだったらそれはそれで面白いが。
「ご馳走さま」
「お粗末さまでした。洗ってるから、お風呂でも入ってくれば?」
「んー……。そうだな、じゃあ、その後に帰るとしよう」
あまり遅くなると妹がうるさいだろうが、まあ仕方ない。あれも憎くて言ってる訳じゃあるまい。謝れば許してくれるだろう。
そんなことを思いつつ、バスタオルを手に風呂場へと向かう。
ついた先で徐に服を脱ぐと、見苦しくない程度に畳んでから風呂場に足を踏み入れた。
シャワーを浴びて、身体を洗ってから湯船に浸かる。
義眼を外した左目。萎縮してしまった眼球は、自分でも気味が悪いと思う。
頭を洗う前にそう思いつつ、シャワーから出るお湯を頭に掛けた。
風呂から上がると、悠は俺に眼帯を渡してきた。義眼を外している時は、基本的に眼帯を着けている俺。悠からそれを受け取って、見えない視界に蓋をする。
「喉乾いたでしょ? 飲み物、用意してあるから」
「あぁ。ありがとう」
「お礼なんていいよぅ」
笑う悠に苦笑しながら、居間へと向かう。何も風呂場から出たすぐそこに待機してなくてもいいだろうとは思うが、これも今更なので何も言わない。
悠が近くにいる時はいつもこうなのだ。甲斐甲斐しいというかなんというか、とにかく悠は俺に世話をやいてくる。
別に迷惑な訳ではない。むしろ嬉しいし、それ以上に助かっている。それは事実だ。
だが。
「はい、どうぞ」
「あ、あぁ」
丁寧にコップへと注がれたスポーツドリンク。氷によって冷えたそれを、悠は俺に両手を添えて差し出してきた。
若干声を詰まらせながら、俺はそれを受け取って喉に流し込む。
汗をかいたこともあってか、一息でそれを飲み干すと、悠は俺からコップを受け取り、すぐにまたスポーツドリンクを注いでいた。
「あのさ」
「いいの。泉君の世話は私がするって、約束したんだから」
有無を言わさぬ表情で言う悠。
俺が困っているのはこれだ。彼女は、二年前に交わした約束を、今も律儀に守り続けているのだ。
約束の内容は悠の言葉通り、『俺の身の回りの世話を、悠がすること』だった。
だが、それは俺が殆ど冗談でいったようなものだったのだが……。
「悠……だからさぁ。あれは、俺が入院している間だけの約束だったんだけど」
「ダメ!」
急に語気を荒める悠。何が駄目だと言うのだろうか。
「泉君の左目は、私のせいで見えなくなった。だから私は、泉君の無くした視力の分を補う義務があるの!」
「別に左目って言っても、そのまま左半分見えなくなったわけじゃないし」
「泉君が何を言ったって、私は止めないよ。私は、泉君に命を助けられた。私の代わりに、泉君は世界の半分を失った。……私がいなければ、いず」
「ストップ。最後のは怒るからね」
「…………でも」
「わかったよ。でも、あんまり無理しなくていい。それだけ言いたかった」
心無し、シュンとしてしまった悠の頭にポンと手を置き、軽く一撫で。それだけで悠の機嫌は上向きになる。
透や紡にはキチンと『お姉さん』なのに、俺が関わるとどうにも彼女は子供っぽくなる。
それが少し嬉しく感じてしまう自分がいることに溜め息を吐きつつ、冷えたスポーツドリンクを一息に煽るのだった。