後悔はもうしない
勢い任せに続編書きました。私の中で結構気に入っているらしいです。
今回は後半にちょっと危ないシーンがございますので、苦手な方は急いでバックしてください。
ぬるいですけどね。
では、どうぞ。
→
僕は自分の名前が好きではありません。
けれど、あの人は沢山僕の名前を呼んでくれました。
あの人の優しい声が、恋しいです。
―――
ガララ…ガコン
半日を過ぎた頃、大きな屋敷の前に僕を乗せた馬車は止まりました。
馬車をひいていた初老の方は先に主人を下ろします。
主人はカツカツと杖を鳴らしながら荷台に近づきます。
僕は泣き腫らした顔を誰にも見られたくなくて、ずっと俯いていました。
涙はもう乾いていました。
けれど、心はまだ痛みました。
後悔がずっと心を傷つけていました。
コンコン
杖で荷台を叩く音がしました。
僅かに顔を上げると、主人と従者の方が見上げてました。
主人の手には鎖が握られています。
『315279番、降りろ』
「…はい」
「先ほどよりも高いので気をつけてください」
「はい」
降りる高さは乗る時よりも高く、自分一人では怪我をしてしまいそうです。
下を見つめたまま考えていると、見かねた従者の方が手伝ってくださいました。
持ち上げてくださった従者の方は意外と長身の方でした。
軽々と僕の体を持ち上げ、地面に置きます。
「ありがとうございます」
「いえ」
頭を下げてお礼を口にすると、目尻に皺を寄せて微笑みかけてくれました。
その際に、見え隠れした獣のように鋭い犬歯に気づきました。
きっとこの方も人間ではないのでしょう。
けれど、優しい方です。
ジャラ
『行くぞ』
「はい」
鎖を引かれ、主人の後に続きます。
ガコン、ギイィィ
大きな屋敷に合わせた大きな扉が開きました。
夜の暗闇でも存在を主張する屋敷の中に入りました。
―――
『お帰りなさいませ』
『ん』
屋敷の扉の先には少数の召し使いさん達が主人に頭を下げていました。
けれど、どの人も気品を漂わせた方達です。
主人の三歩後ろを歩く従者の方も、召し使いの方々に軽く会釈をしていました。
僕も後に続きながら気持ち程度に頭を下げます。
スッ
主人の前に若い男の人が立ち、深々と敬礼しました。
細いフレームの眼鏡とまとまった髪が冷たい印象を与えます。
『お帰りなさいませ、ご主人様』
『何か変わったことはあったか?』
『お手紙が二通とお荷物が届いております。その他は特にございません』
『そうか。
コレは今日買った人間だ。人員が足りないと言っていたからな。なるべく手間がかからないのを選んでおいた。後は全てお前に任せる』
『ご配慮感謝致します。
了解致しました』
頭上で主人と召し使いの方が会話を終えると、僕の鎖は召し使いの方に渡されました。
それから主人は従者の方と屋敷の奥に行かれ、他の召し使いの方は自分の仕事に戻られました。
よく見ると、人間の方は一人もいらっしゃいませんでした。
皆さん別の種族の方ばかりです。
目の前の方も、外見は人間に近いですが瞳が人の物ではありません。
僕のように黒色ではない水色の瞳は、泉のように綺麗だと思いました。
ジャンッ
ジッと見上げていると、召し使いの方は鎖を引っ張りました。
少し首が苦しかったですが呻き声を出さないように堪えました。
『着いてきなさい』
「はい」
『ふむ、確かに手間はかからなそうですね』
最後の言葉の意味はわからず返事ができませんでしたが、独り言だったのか怒られることはありませんでした。
誰もいなくなったホールを召し使いさんの早さに遅れないよう一生懸命歩きました。
主人と違い長身の召し使いさんは早く、慣れない四足歩行に何度か躓きそうになりながらも必死に追いかけました。
―――
通された部屋は小綺麗な部屋でした。
そこそこ広い室内で、生活用品が揃っています。
綺麗な絨毯を遠慮なく踏む召し使いさんの後に、僕は続けませんでした。
反抗ではなく、遠慮の意味で止まりました。
停止した僕に振り返り疑問の視線を向ける召し使いさんは、多少苛立った様子でした。
僕の前まで歩き、革靴の爪先で顎を掬います。
『理由を述べなさい』
「絨毯を汚してしまいます」
『なるほど。汚いという自覚はあるのですか。
なら、先にその体を洗いますか』
「…?」
「ああ、返事をするものでしたからてっきり言葉が通じているのかと思いました。これで理解できますか?」
「はい」
「なら、風呂に入りなさい。着替えは此方で用意しておきます」
「ありがとうございます」
「仕事ですので」
まるで荷物を抱えるように脇に抱えられ、部屋に設置された浴室の中に下ろされました。
細かい造りの風呂桶やバスタブはとても高そうです。
天井も垢やカビ一つ見当たらない綺麗な白です。
物珍しい高級品にキョロキョロしていると、入口にいた召し使いさんが話しかけました。
淡々とした話し方は子供が相手だと泣かれそうです。
「どうしました?」
「綺麗な浴室でしたので驚いていました。
この首枷と鎖も一緒に洗った方がいいですか?」
「ああ、それは趣味が悪いので外しましょうか」
ピキィン、ガラッ
近づいた召し使いさんが鎖に触れると、甲高い音をたてて首枷が外れました。
膝に落ちた首枷の重さとは反対に、呼吸がしやすくなりました。
首に触れてみると本当に首枷がありません。
「ありがとうございます」
「ジャラジャラ音をたてて歩かれても煩いですからね。
では、髪先から爪先まで綺麗に洗ってください」
「はい」
床に落ちた首枷や鎖を手に召し使いさんは浴室を出ていきました。
僕は衣類を脱ぎ、それらを隅に置いてから体を洗いました。
ジャアアア…
温かいお湯は久しぶりです。
体を洗うこと自体久しぶりです。
とても気持ち良いです。
パタタ
頭上から降るシャワーと共に頬に流れる滴はしょっぱくて、冷たかったです。
また涙が溜まってたのかもしれません。
僕は何時から泣き虫になってしまったのでしょう。
少しだけ、弱音を吐きました。
許されぬ願望を、口にしました。
「あの方の元に、戻りたいです」
小さな小さな呟きはシャワーに掻き消され、僕は強めに顔を洗いました。
泣いていることがバレたら迷惑がかかってしまいます。
奴隷が気を遣わせるなんてあってはなりません。
早く髪先から爪先まで、隅々まで綺麗にしなければなりません。
それが今の命令です。
―――
静かに浴室の扉を開けると、タオルと着替えが置いてありました。
召し使いさんが用意してくださったのでしょう。
「ありがとうございます」
此処にはいないけれど、お礼を口にしました。
すると、返事が返ってきました。
「それに着替えたら出てきなさい」
「はい」
扉の向こうにいらしたようです。
待たせないようにタオルで全体を拭き、着なれない服を身につけました。
ネクタイというのはどうも苦手なので、リボンにしてから着ていた服を手に脱衣室を出ました。
開けた部屋の先には、椅子に腰掛けた召し使いさんが本を読んでました。
「その服はゴミ箱に捨てなさい」
「はい」
短い命令に従い、部屋の隅に置かれたゴミ箱にそっと入れました。
手が汚いままでは失礼なので、脱衣室で洗ってからまた部屋に戻ります。
パタン
耳障りにならないよう音を最小限に扉を閉めました。
何も言われないので扉の前で立ち尽くしていると、指先で手招きされました。
それに従い召し使いさんに近づきます。
指先で床に座るよう促され、床に膝を着きました。
そっと見上げると長い指が僕の髪に触れました。
ちゃんと洗えているのか確かめているようです。
「まあ、今日はこのくらいでいいでしょう」
「ありがとうございます」
「ネクタイは結べなかったのですか?」
「申し訳ありません」
「これから覚えていただければ問題ありません。お客様がいらした時にしっかりしていないと失礼ですからね」
「はい」
シュル
結んだリボンを解き、手慣れたようにネクタイを結んでくださいました。
召し使いさんがしているように綺麗な形のネクタイです。
ジッと見つめていると、また外されました。
「手順は見てましたね。一人でやってみてください」
「はい」
シュル
記憶にある順番でネクタイを結んでいきます。
やはり覚えていたとしても苦手は変わらないようです。
キュッ
召し使いさんよりも不恰好になりましたが、ネクタイを結べました。
召し使いさんは苦い顔を浮かべています。
細かい作業は不得意なんです。
「…日々、練習してください」
「申し訳ありません」
「最悪、お客様が来訪される時はリボンを用意します」
「申し訳ありません」
「仕事ですので」
こめかみを抑える召し使いさんに深々と頭を下げました。
不器用な自分でごめんなさい。
申し訳ない気持ちでいっぱいです。
―――
「ネクタイの件は後にして、先ずはこの屋敷の説明をしましょう」
「はい」
疲れた表情で眼鏡を中指で押し上げ、短いため息を一つ吐きました。
長い指が項に触れたまま引き寄せ、犬のように膝に顎を乗せさせられました。
召し使いさんは項を擽りながら話します。
「この屋敷の主はお前を購入された『ドグ・シュル様』です。魔族の中でも上位の貴族で、魔王様から直々に仕事を頂くほどです。その為、屋敷には上位の者が来訪することが多いので、ご主人様の部屋にはくれぐれも近づかぬようにお願いします」
「はい」
「屋敷の召し使いは私とマイノを含めた十五名です。従者の『マイノ』はご主人様の付きの為、あまりお会いする機会はないでしょう。因みにマイノが一番の古株です。
執事長は私『ヒュラドグ』です。召し使いを纏めたりなど、屋敷の中を管理しています」
「ヒュラドグ様、ですか」
「私はそれで構いません。
貴方の仕事は主に雑用です。私や他の召し使いの手伝いをなさってください。基本的に起床は朝の五時半、就寝は二十三時となっております。食事は食堂でなさってくださいね」
「はい」
「貴方の部屋はこの部屋です。私と一緒ですが不満はありますか?」
「いえ」
「一々物置部屋を掃除するのは面倒ですから助かります。
着替え等はクローゼットに入っておりますが、衣装部屋にも一通り入っております」
「わかりました」
「以上が大まかな説明になりますが、何か質問はございますか?」
「いえ」
短い返事をすると、ヒュラドグ様は軽く頷きました。
細かい説明をされても多分頭に入らないので、大まかに教えていただけて有り難いです。
大体の内容は覚えました。
外は真っ暗です。
森の梟がホーホー鳴くのが聞こえます。
薄暗い灯りの部屋は落ち着いて、項に触れる体温が温かくゆっくりと眠りを誘います。
うつらうつらと眉唾んでいると、様子に気づいたヒュラドグ様が親指で僕の頬をなぞります。
「口を開けなさい」
「はい」
クチュ
薄く開いた口の中にヒュラドグ様の指が入りました。
一体何をなさるのでしょうか?
寝ぼけている僕はヒュラドグ様の指を噛まないように開けるだけです。
ヒュラドグ様は呟くように長い呪文を唱えた後、やっと指を引き抜きました。
ちょっと顎が疲れました。
トン
ヒュラドグ様は僕の額に指を当て、短く問いかけました。
「貴方は主、ドグ・シュルに忠誠を誓いますか?」
ああ、忠誠の儀式だったようです。
僕が知っている儀式以外の順序だったので最初はわかりませんでした。
僕は購入された時から決意していました。
反抗する理由はありません。
「はい、誓います」
「よろしい」
カッ
青白い光が舌と項を包み、眩しさにキツく目を瞑りました。
舌と項はほのかに温かく、何やら僕は術をかけられたみたいです。
暫くすると光は止み、何事もなかったかのような平穏が流れます。
僕から手を離し、顎を手で掴み上げたヒュラドグ様は薄く微笑みました。
「これで貴方は“ご主人様の不利益になるようなことは口に出来ず、屋敷からも逃げ出せない。嘘を吐くことも、反抗することさえ許されない。屋敷の下僕”です」
冷たく嘲笑するような言い方で僕の現実を教えてくれました。
ヒュラドグ様に見える舌と項には紋章、頬には解読不明な文字が刻まれてます。
鏡を見ていないので今の僕にはわかりません。
けれど、現実を受け入れる選択肢以外は残されてないことだけはわかります。
「はい」
返事をすると、ヒュラドグ様は一瞬驚いた顔をされました。
まるで理解不能なものを目の前にしたような、複雑な表情です。
僕は変なことを口にしてしまったのでしょうか?
しかし、すぐにヒュラドグ様は表情を元通りにさせました。
謝罪するタイミングを僕は逃してしまいました。
「…今日は、もう眠りましょう。貴方も疲れているでしょうし」
「はい」
腕を引かれ、ベッドの上に座らされました。
大きなベッドはふかふかして、二人が寝ても狭く感じない幅があります。
シュルル
隣でネクタイを解く音がしたので、僕もヒュラドグ様に習いネクタイを外しました。
上着を脱ぎ、ベルトを外します。
ヒュラドグ様の分も持ち、クローゼットに綺麗にしまうと背中に声をかけられました。
ベッドに倒れる音がしたのできっと横になられたのでしょう。
「今更ですが、貴方の名は?」
「315279番です」
「本名の方です」
「……〇〇〇〇です」
「〇〇〇〇、ですか?」
「はい」
驚いた声が後ろから聞こえました。
僕は背を向けたまま振り返れません。
僕は自分の名前が好きではありません。
その理由は、僕の名前が名前にするような名前ではないからです。
汚ならしい、人々に馬鹿にされ続けた名前です。
だから、ヒュラドグ様が驚くのは当然でしょう。
大抵の方は最初、名を聞いただけで驚かれます。
あの方くらいです。
驚きもせず、何度も何度も僕の本名を呼んでくれたのはあの方だけです。
あの方だけなんです。
あの方声で名を呼ばれる瞬間だけが、唯一自分の名前を嫌いにならなかったのです。
優しい優しいあの声は、まるで魔法のようでした。
小さく深呼吸をし、ゆっくりと振り返ります。
嫌悪に顔を歪めるヒュラドグ様は僕から視線を外しました。
僕はそんなヒュラドグ様の前に跪き、ヒュラドグ様の足を膝に乗せます。
チュ
そのまま片方の靴を持ち上げ、爪先に唇を落としました。
確か此処が、忠誠を示す部分だったと思います。
「……」
「ヒュラドグ様」
顔を上げると意味がわからないといった表情を向けてらっしゃいました。
僕は薄く笑みを浮かべ、言葉を続けます。
「この下僕を哀れと思われるならば、ヒュラドグ様が新しい名をつけてくださいませんか?」
「新名、ですか?」
「はい。屋敷の、ヒュラドグ様の下僕の名です」
コトン
靴紐を外し、ヒュラドグ様の靴を脱がします。
ベッドの下に脱がした靴を並べ、再び足を丁寧に持ち上げます。
「ヒュラドグ様、お願いします」
そして、手ではなく口を使って靴下を脱がします。
この行為に面食らった顔で成り行きを見守るヒュラドグ様は、ただただ驚愕しておりました。
パサ
脱がした靴下を膝に落とし、もう片方を脱がそうとしたところで静止されました。
「わかった。もうやめろ」
「はい」
チュ
足の甲に一つ、口づけをしてからゆっくりと下ろしました。
片手で顔を隠されるヒュラドグ様の首がとても赤いです。
両手で普通にヒュラドグ様の靴下を脱がし、自分の物と一緒に洗濯物用の籠に入れました。
再びヒュラドグ様の前に跪き、様子を伺います。
先程から顔を上げてくださらないのは、赤面しているからでしょうか?
外見とは裏腹に中身は初な方のようです。
ちょっと意外でした。
「…来なさい」
「はい」
ヒュラドグ様が手を伸ばされたのでベッドに上がり、縁に待機します。
すると焦れったかったのか、僕の腕を引いて強く引き寄せました。
突然のことに僕は流されるようにヒュラドグ様の腕の中に収まります。
肩に顔を埋められているせいか、くぐもった声で話されます。
「…もう、あんな行為はしないでください」
「申し訳ありません」
「貴方は、人としての尊厳などは持たれていないのですか?あんなことは、産まれた時から最下位の者がする行為ですよ」
「申し訳ありません。生き残る為に人尊や殆どの感情等は捨てました。申し訳ありません」
「…何故謝るのですか?」
「ヒュラドグ様が悲しんでらっしゃるからです」
「悲しんでいません」
「申し訳ありません」
「…馬鹿な方ですね」
「はい」
肩を濡らす涙の理由はわかりません。
ですが、優しい方だということだけは抱き締める腕の強さが教えてくれました。
奴隷の身分で抱き締め返すことはできません。
ポン、ポン、
ですが、今だけは背中を撫でることを許していただきたいです。