健気ヒロインを装う女が現れたので、真似をしてみようと思います
貴族の子息令嬢が通う王立学園で、今一番の話題と言えば、これだ。
『第六王子殿下が男爵令嬢に夢中』
この噂は学園内だけに留まらず、王家はもちろん、欲望渦巻く社交界にまで及んでいた。
しかし身内の不祥事にも関わらず、王家がこの件に関して何か手を打つことはなかった。
全ては第六王子の婚約者、ヴィクトリア公爵令嬢に託されているのである――。
◆
件の男爵令嬢ニナ・ポレットは、今日も今日とて王子様の横にべったりとくっついている。
腕を絡ませ、胸を押し当て、潤んだ瞳で見上げ、囁くのだ。
「私、やっぱりヴィクトリア様に嫌われてるみたいです……。今日もまた睨まれちゃった」
上目で見つめた後は、悲しげに俯いてみせる。
小柄で可愛らしい容姿と相まって、その姿に庇護欲を掻き立てられる男性も多そうだ。
彼女は王都から遠く離れた田舎の男爵領で育ち、王立学園へ入学するために今年上京してきたばかりの、所謂お上りさんである。
一般常識を持った令嬢であれば、王族と話し、触れ合うなどといった恐れ多い行為、とてもじゃないができないし、しようとも思わない。
しかし田舎で両親から愛され甘やかされ、蝶よ花よと育てられた彼女は違っていた。
お姫様扱いをされて育ち、本当に自分がお姫様になれるのだと勘違いしてしまっているのだ。
また、同学年に本物の王子様がいたことで、勘違いに拍車がかかる事態となった。
恐れ知らずな彼女は、王子様と結婚してお姫様になるべく、まずは王子の婚約者から排除しなければと考えた。
『私、ヴィクトリア様に嫌われちゃったみたい』
『またヴィクトリア様を怒らせちゃいました。私ったら駄目ですね』
『私もヴィクトリア様みたいに強ければなぁ』
『私が第六王子殿下と仲良くしてるから、ヴィクトリア様は嫉妬してるんだと思います』
『ヴィクトリア様に苛められるのは、きっと私に原因があるんです。ヴィクトリア様は悪くないの……!』
ヴィクトリア様が、ヴィクトリア様が、とニナはユリウスへ訴える。
涙を浮かべ、時には弱々しく微笑みながら、まるで悪役から苛められる悲劇のヒロインかのように振る舞った。
公爵令嬢という立場上、ヴィクトリアは陰であることないこと噂されるのには慣れていた。
噂が耳に入ったとしても、ある程度の分別があれば目を瞑っている。
けれど今回、そのある程度をニナは超えてしまったのだ。
おまけにユリウスも「いくら嫉妬したからって苛めは良くないぞ!」などと言い出す始末。
ヴィクトリアは考えた。
男爵家に圧をかけることもできるが、きっとまたユリウスに泣きつくことだろう。
泣きついたところで、大した権力もない第六王子に何ができるわけでもないのだが。
ユリウスに何かできるだけの力や地位を、王家は与えていないのだ。
ニナ・ポレット自体を事故死にみせかけて始末することもできる。
けれど、殺したいほど憎いわけでもないし、そこまで残忍な人間でもない。
さてどうしたものかと思案する中で、ヴィクトリアはふと思いついた。
「彼女の真似をしてみようかしら」
その言葉に、ニナの対人関係や言動を探り、報告をしてくれていた付き人が目を丸くする。
付き人には前々から「不敬罪で投獄すれば良いのでは?」と言われていた。
「ヴィクトリア様があのような人間の真似をするなど……」
「あら、彼女の演技力は大したものじゃない。頭の出来はあまり良くないみたいだけど、でもそんな人間からでも学べる事はきっとあるわ」
「あれから何が学べると言うのです……」
「やってみなきゃ分からないわよ。そうと決まったら早速ユリウス様のところに行きましょう!」
渋る付き人をよそに、善は急げと外出の準備を進めるヴィクトリア。
そうしてやって来た王宮の一室で、突然やって来たヴィクトリアに、ユリウスは気まずそうに視線を彷徨わせ、そわそわと脚を擦り合わせていた。
婚約者がいながら他の女にうつつを抜かしている罪悪感でもあるのだろうか。
色々と言いたいことはあったが、今日はすべきことがあるからと、ヴィクトリアはそれらをグッと呑み込んだ。
そしてニナがいつもしているように瞳を潤ませ、悲しげな表情を作る。
ついでに胸の前で祈るように手を組み、怯えて見えるよう微かに震えてみせた。
「ユリウス様……」
「!? な、ど、どうした」
王族の婚約者であるヴィクトリアは、感情を露わにしてはならないと教育されている。
ユリウスは現在進行形で感情丸出しだが、ヴィクトリアは教育に従い、王族の婚約者として相応しい言動を心掛けてきた。
そんな彼女が涙を浮かべる姿は、親ですら幼少期以来、見たことがないだろう。
(貴重な私の涙、しかとその目に刻みなさい)
ぽろりぽろりと、ヴィクトリアの目から涙が零れ落ちていく。
その様子がユリウスの目に映るよう、タイミングはしっかりと見計らっている。
妃教育の中に涙の流し方が含まれているのかは分からないが、ヴィクトリアの演技は見事なものであった。
見る者に悲痛さが伝わってくるような、思わず同情せずにはいられない涙。
そんなヴィクトリアの涙を目の当たりにし、ユリウスはこれまた分かりやすく狼狽えた。
「私は、ニナ様に嫌われているのでしょうか……」
「なななんだ急に」
「ニナ様に言われたのです、私のような女はユリウス様にふさわしくないと」
「……? それはヴィクトリアがニナに言ったんだろう?」
「私は婚約者がいる男性への接し方をお伝えしただけなのですが……そのように受け取られてしまったのですね。あぁ、だからニナ様はあんな事をっ……!」
「あ、あんな事?」
涙が途切れそうだったため、ヴィクトリアはさも傷付きましたと言わんばかりに顔を手で覆って隠す。
鼻をすんすん鳴らすことで泣いているアピールは欠かさない。
ユリウスの様子を目視確認できなくなってしまったが、ありがたいことに彼はヴィクトリアの隣へと移動して来てくれた。
「ヴィクトリア、泣くな。お前が泣くなんて一体何が……」
ユリウスは本気で心配していた。
二人が婚約したのは、五歳の時のこと。
ヴィクトリアはその頃から既に貴族令嬢としての気品と、公爵令嬢としての強かさを持ち合わせていた。
厳しい妃教育に弱音を吐くことなく、涙を見せることももちろんなく。
いつだって穏やかに微笑み、時には毅然とした態度で意志を示す。
貴族令嬢としても王子妃としてもお手本のような女性であった。
その彼女が見せる、初めての涙。
これにはユリウスも驚き、慌て、心配した。
気遣わしげにヴィクトリアの肩へ手を置き、どう慰めたものかと頭を悩ませている。
一方でヴィクトリアは、早速一つの学びを得ていた。
どうやらユリウスは、女の涙に大層弱いらしい。
そして涙を流しながらも健気に頑張る、守ってあげたくなるような女の子が、ニナのような女の子がユリウスは好きなのだ。
なんて馬鹿らしい、とヴィクトリアは鼻で笑ってしまいそうだった。
『守ってあげたくなる女の子』が作り物であると気付きもせずに、またこうして騙されているのだから。
……とは言え、一番の馬鹿は自分だと、ヴィクトリアは分かっている。
だってこんなにも愚かなユリウスのことを、ヴィクトリアは愛してしまっているのだ。
勉強ができないわけではないが、王族らしからぬ警戒心のなさで騙されやすく、駆け引きも隠し事も苦手なユリウス。
自分にないものを持つ、正反対な彼に惹かれたのか、理由はヴィクトリアにも分からない。
ただユリウスのお馬鹿なところも、考えなしなところも、人を簡単に信じてしまうところも、ヴィクトリアには可愛く思えてしまうのだから仕方がない。
恋とはままならないものなのだ。
今もヴィクトリアの涙にいとも簡単に騙され、一生懸命慰めの言葉を探しているのだと思うと、愛しくてたまらなかった。
「ヴィクトリア、何があったんだ。一体どうしたんだよ……」
「信じていただけないかもしれませんが……ニナ様に注意した時、私のような女はユリウス様にふさわしくないと言われたのです……。そ、その後からですわ。ニナ様が嘘の噂を流し始めたのです」
「嘘の噂?」
「ユリウス様も聞いた事があるでしょう……? 私がニナ様を苛めて孤立させているだとか、私がニナ様にわざと足をかけて転ばせたとか……」
「それは……」
「うっ、わたっ、私は、公爵令嬢として、ユリウス様の婚約者として、注意すべきだと思ったのです。でも上手くいかず、あんな嘘を広められてしまって……私ったら駄目ですわね……」
「嘘、なのか?」
手で顔を覆っている間に、再度涙を溜めることができた。
ヴィクトリアはすかさず手を外し、ユリウスを見ながら涙を流す。
「信じられませんよね……。良いのです、私が悪いのです」
弱々しく微笑んでみせれば、ユリウスは困った顔をしながらも、慣れない手つきでヴィクトリアの涙を拭ってくれた。
ユリウスはこの後、ヴィクトリアとニナの言い分、どちらが正しいのかを調査することだろう。
調査と言っても、大層なものは必要ない。
少し調べれば、すぐにニナの虚言であると分かるはずだ。
そう、すぐに分かるはずなのに、ユリウスはこれまで調査をしなかった。
ニナの発言を鵜呑みにし、信じ切っていた。
だからこそユリウスには、彼自身の手でニナの罪を暴いてもらう必要がある。
信じ、愛する女の罪を、自らの手で暴き、関係に終止符を打たせるのだ。
――王宮を後にしたヴィクトリアは思う。
たかが男爵令嬢にコロッと騙されてしまったユリウス。
公爵令嬢を蹴落とし、王族に手を出してしまったニナ。
どちらが悪いかと言われれば、どちらも悪い。
そして、ユリウスの手綱を握り切れていなかった自分も悪いのだ、と。
◇
翌日、何も知らないニナは、いつものようにヴィクトリアのもとへとやって来た。
話し掛けはしない。
近付いて来ては、ヴィクトリアが何かしたかのように怯え、涙を浮かべるのだ。
いつもの流れであれば、そこへちょうどユリウスがやって来て、ヴィクトリアを非難する。
非難と言っても「また嫉妬したのか?」とか「仲良くしろよ!」とか、その程度のものだけれど、それでもニナにとっては十分だった。
王子様が自分の味方をしてくれた。
それはとてつもない優越感をニナに与え、やはり自分こそがお姫様なのだと思わせた。
そして今日もいつも通りの展開になると疑いもせず、ヴィクトリアへ近付き、ユリウスの登場を楽しみに待った。
ヴィクトリアがニナの真似をしているだなんて、思いもせずに。
「ひっ……!」
ニナを見た瞬間、ヴィクトリアは思わずと言ったように小さく悲鳴をあげる。
公爵令嬢が、体を震わせ、涙を浮かべている。
ただの公爵令嬢ではない。
王族の婚約者でもある彼女が、何かありましたと言わんばかりの顔で怯えているのだ。
それを見た周りの生徒達は、途端に騒然となる。
懇意にしている家門の子息令嬢が慌てて駆け寄り、ヴィクトリアの周りを守るようにして取り囲んだ。
「ヴィクトリア様!? どどどうされました!?」
「大丈夫ですか? どこかお怪我でも……?」
「警備の人間を呼びましょうか。それとも公爵家に連絡した方が……!?」
思った以上に心配し、慌てた様子の周りに、ヴィクトリアは罪悪感を抱く。
しかしここで演技をやめるわけにもいかず、涙を浮かべたまま、安心させるよう微笑んでみせた。
「ありがとう。でも私は大丈夫ですわ」
生徒達の憧れであり、完璧令嬢と名高いヴィクトリア。
彼女が初めて見せる弱々しい姿に、集まった一同は安心するどころか痛ましげに顔を歪めた。
ヴィクトリア様は今、辛い感情を抑え、隠そうしている。
いつも気丈に振る舞っておられるが、自分達と同じでまだ学生、まだ十六歳なのだ。
それなのにこれまで苦しい表情一つ見せず、自分達の模範となってくれていた。
そんな彼女が初めて弱った姿を見せている。
なんとかしてあげたい、なんとかしなければ。
そうして集まった者達のヴィクトリアへの同情がピークに達した時だった。
「ヴィクトリア!!」
それは騒つきが一瞬で静まり返るほどの、強い強い呼び掛けであった。
声のした方を見れば、険しい顔をしたユリウスの姿が。
ユリウスの登場に、ニナは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ユリウス様ぁ!」
「ヴィクトリア、どうした」
駆け寄るニナを避け、ユリウスはヴィクトリアへと話し掛ける。
いつものようにユリウスの腕へ絡みつこうとしていたニナの手が、空中でビシリと固まる。
更に、ヴィクトリアがちらりと意味ありげにニナへと視線を向ければ、ユリウスは怒りの形相でニナを睨み付けた。
「ニナ……いや、ポレット男爵令嬢、ヴィクトリアに何をした?」
「え……? わ、私は何もしてません! むしろヴィクトリア様に睨まれて、私、怖くてっ……」
いつもと違う反応のユリウスに戸惑いながらも、いつも通りの小芝居を始めるニナ。
その恐れ知らずなところは、彼女の長所なのだろう。
けれど、やはり彼女には頭が足りなかった。
怯える公爵令嬢と、公爵令嬢側に立っている第六王子。
この構図から、すぐさま己の誤ちを理解できたなら。
いや、それができたなら、そもそも公爵令嬢を男爵令嬢が陥れようだなんて、そんな馬鹿なことは考えなかっただろう。
「ニナ様、どうしてそんな嘘を……。私がユリウス様の婚約者である事が気に食わないのは分かっています。でも、でもそんな言いがかり、ひどいっ……!」
「は?」
これまでのヴィクトリアであれば、無表情のまま「私は何もしておりません」とだけ言い、その場を離れていた。
ニナとの会話は、ヴィクトリアにとっては無駄な時間でしかないのだ。
しかし今日のヴィクトリアは、怯えたようにユリウスの背中へと隠れ、涙を浮べている。
周りの生徒達もそんなヴィクトリアを見て「お可哀想に……」と同情的だ。
ニナからすると全くもって面白くない展開である。
それでも彼女は、最後にはみんな自分の味方をしてくれると信じていた。
「ごめんなさい、ヴィクトリア様。きっと私が何かしちゃったんですね。だからさっきもあんな恐ろしい顔で私を睨んで……」
「いいえ、謝るのは私の方ですわ。ニナ様は、私がユリウス様の婚約者であることが許せないのでしょう? ユリウス様にふさわしいのは自分だって、いつも仰ってましたものね。だから今もこうして私を貶めようと……」
「そ、そんなこと言ってません! 嘘をついて私を貶めようとしているのは、ヴィクトリア様の方じゃないですか! ひどいわ、ユリウス様、助けてっ……!」
ユリウスに助けを求めるも、彼はただただ冷めた目でニナを見つめていた。
いつもならばニナを庇い、ヴィクトリアへ苦言を呈する場面だ。
それなのにどうして……と動揺するニナを嘲笑うかのように、ヴィクトリアの追撃は止まらない。
「やだ、そんなに怒鳴るなんて怖いわ。ユリウス様、助けてっ……!」
ユリウスの背中にひしとしがみ付くヴィクトリア。
このようにヴィクトリアから頼りにされることなど、ユリウスには初めての経験だった。
ヴィクトリアはユリウスに頼ることなく、大抵のことは一人でこなせてしまう。
厳しい妃教育も、周囲からの嫉妬や嫌味も、ユリウスに相談することなく、なんでも一人で対処できてしまう。
そんな彼女から初めて頼られた瞬間、ユリウスの心を満たした感情は喜びだった。
と同時に、ヴィクトリアをこのような状態にまで追い詰めたニナに対し、強い怒りを感じていた。
自分の行いを棚に上げていることには、残念ながら気付いていない。
「ポレット男爵令嬢、ヴィクトリアを貶めるような発言は控えてもらおうか。これまでの発言に関しても、全て嘘であったと調べはついている」
「えっ……う、嘘じゃないわ! 私、これまで何度もヴィクトリア様からひどい暴言を吐かれて、暴力だって振るわれてっ……!」
ここまできても尚嘘を吐き続けるニナに、ヴィクトリアはある意味感心していた。
王族からの「調べはついている」という発言。
恐らくニナは、この意味が分かっていないのだ。
呆れを通り越して感心してしまうほどの頭の悪さである。
「ヴィクトリアは俺の婚約者……つまり王族の婚約者だ。彼女の側には常に王家の護衛がついている。その護衛から事実については確認済みだ」
「護衛……? そんな人どこに……い、いえ、それよりも、ユリウス様はその護衛の言うことを信じるのですか!? きっとヴィクトリア様に脅されて」
「ポレット男爵令嬢」
ニナの発言を遮るようにして、ユリウスが名を呼ぶ。
ニナは体を強張らせ、涙を浮かべて縋るようにしてユリウスを見つめた。
「王家の護衛を疑うのか? それは王家に対する嫌疑として受け取るが……それで良いか?」
「ち、違いますっ! 私はただ……!」
「俺に嘘を吹き込み、公爵令嬢かつ王族の婚約者でもあるヴィクトリアを貶める発言。更には王家への批難。それらは許されざる行為だ。まだ続けるのであれば、不敬罪として投獄することになるぞ」
「そんなっ……どうして……? ずっと私の味方だったじゃないですか。ヴィクトリア様より私の方が好きだって、そう仰ったじゃないですか!」
「!?」
このニナの発言に驚いたのは、ユリウスだった。
それは決してやましいことがあったからではない。
「何を言ってるんだ? 俺がヴィクトリアよりもお前を好き?」
「そうです! 私の話をいつも楽しそうに聞いて、私の名前を呼んで、愛おしそうに見つめてきたじゃないですか! それなのにこんな……私、悲しいっ……」
はらはらと涙を流すニナは、正直言って自分に酔っていた。
周りは皆、自分達を見ている。
まるで自分が物語のヒロインになったかのような心地だった。
ヒロインは、最後には救われるものだ。
あらゆる苦難を乗り越え、悪を倒し、ヒーローである王子様と結ばれる。
ニナはその瞬間を今か今かと待ち侘びていた。
「……ニナ・ポレット、何を勘違いしているのかは知らないが、俺は一瞬たりともお前に好意を抱いたことはない。俺が好きなのはヴィクトリアただ一人。そのような勘違いは非常に不愉快だ」
「っ!?」
顔を引き攣らせ、心底不快だとでも言いたげな表情をするユリウス。
その目に浮かぶのは明らかな嫌悪であり、それにはさすがのニナも気が付き、驚いた。
そしてユリウスの後ろで事の成り行きを見守っていたヴィクトリアもまた、ニナと同様に驚いていた。
ユリウスは、ニナのことが好きなのでは?
昨日の一件で調査を行い、ニナに幻滅したのでは?
好意を抱いたことがないなんて、好きなのはヴィクトリアだけだなんて、その場しのぎの嘘でしょう?
あんなに分かりやすいユリウスの考えが読めずに、ヴィクトリアは困惑し、思わず「嘘よ……」と呟いていた。
そうだ、嘘だと、何故か自分に言い聞かせるように。
すぐ後ろから聞こえてきた呟きに、今度はユリウスが驚く番だった。
振り向けば、珍しく戸惑った表情を浮かべるヴィクトリアの姿が。
「嘘とはなんだ、嘘とは」
「だってユリウス様はニナ様の言うことを信じ、ずっと味方をしていたではないですか。そこには少なからず好意があったのでは……?」
ユリウスはグッと言葉を詰まらせ、視線を彷徨わせた。
しかし涙で潤んだヴィクトリアの瞳に見つめられ、言いづらそうにしながらも口を開く。
言うまでもないが、ヴィクトリアの涙は演技である。
「それは、ヴィクトリアが嫉妬したと言うから……」
「嫉妬?」
「ヴィクトリアがポレット男爵令嬢に嫉妬したと聞いて、嬉しくて……」
ヴィクトリアの目が、これでもかと大きく開かれる。
いつだったかニナが言っていた『ユリウス様と仲良くしてる私に、ヴィクトリア様は嫉妬してるんだと思います』という発言。
それにユリウスは喜び、あえてニナの発言を調べようとはしなかったのだ。
それどころか、もっと嫉妬して欲しいなんてことを思っていた。
ニナの話を楽しそうに聞いていたのも、ヴィクトリアが嫉妬していると思うと嬉しかったからだ。
ニナを名前呼びしていたのも、ヴィクトリアが嫉妬してくれると思ったからだ。
愛しそうに見つめていたというのは、ニナの主観であり、そんな事実は一切なかった。
(……なんだ、別に女の涙に弱いわけでも、彼女に惚れたわけでもなかったのね)
そうしたユリウスの考えを余すことなく理解したヴィクトリアは、ほっと安堵すると同時に、即座に完璧令嬢の顔を取り戻した。
一瞬ではあるけれど、呆けた顔を晒してしまったことを誤魔化すよう、一つ咳払いをする。
そして辺りを見回し、自分達を取り囲むようにして集まっていた生徒達に向けて一礼する。
「皆様、お騒がせして申し訳ございません。先ほど心配して声を掛けてくださった方々、ありがとうございました。もう大丈夫ですわ」
ここで言うもう大丈夫は、解散を意味していた。
その意味を正しく受け取った生徒達は、サッと一斉に散り散りとなる。
残ったのはヴィクトリアとユリウス、そして途中から除け者となっていたニナの三人のみだ。
ニナは先ほどのユリウスの発言にショックを受け、何も言えずにいた。
ヴィクトリアを嫉妬させるために利用されたのだと気付き、これまでの自分の言動が途端に馬鹿らしく、恥ずかしく感じていた。
そんなニナのもとへヴィクトリアが歩み寄り、困ったように笑ってみせる。
「ごめんなさいね、あなたの夢は叶えられないみたい」
「ゆめ……?」
「お姫様になりたかったのでしょう? ……そうね、男爵領でなら、その夢も叶えられるんじゃないかしら」
暗に男爵領へ戻った方が良いと言っているのだ。
もっと言えば、お前に王子妃は務まらない、分不相応な夢は持つなよ、とも仄めかしているのだが、そこまでニナに伝わったかは分からない。
何せ頭が弱いので。
ニナはお姫様になりたいという夢を本物のお姫様から否定され、その惨めさに頬を赤く染めた。
つい先ほどまで、自分はお姫様になれるのだと本気で信じていた。
けれどその夢は、子供の幻想でしかなかったのだ。
ちらりとユリウスを見るも、彼はもうニナのことなど視界にすら入れていなかった。
一体自分は今まで何を見て、何を勘違いしていたのだろうか。
思い返せばユリウスから好きだと言われたこともなければ、遊びに誘われたこともなく、彼が自分に構うのはいつもヴィクトリアが側にいる時だけだった。
「……実家に、帰ります」
「えぇ、それが良いわ。このまま学園にいても、面白可笑しく噂されて、遠巻きにされるだけだもの。王都にも当分来ない方が良いわ」
当分とはどれほどの期間を指すのか、ニナには分からなかった。
ただ漠然と、自分は間違いを犯したのだと、ユリウスに手を出してはいけなかったのだと、そう思った。
こうして『第六王子殿下が男爵令嬢に夢中』という噂は、いつしか『身の程知らずな男爵令嬢が王族に手を出した』というものに塗り替えられた。
少し経てば塗り替えられた噂すら、もう誰も口にすることはなくなっていた。
噂なんて、そんなものである。
身の程知らずな男爵令嬢は、領地で慎ましく過ごそうとするも、王都での噂は遠く離れた男爵領にまで及んでおり、彼女の相手をしようとする者は男女問わず現れなかった。
本物のお姫様とまではいかないまでも、誰かのお姫様になりたいという彼女の夢は、男爵領においても叶えることは難しいものとなってしまったのだ。
そして第六王子殿下はと言うと……
「ヴィ、ヴィクトリア、お前との婚約が保留になったと聞いたんだが」
「えぇ、間違いありませんわ。婚約者を嫉妬させて喜ぶような方と、良い関係が築けるとは思えなくて。陛下に相談したところ、二つ返事で了承してくださいました」
「そんな……」
「ニナ様がどうなったかご存知ですか? ユリウス様の愚かな行為のせいで、あの方は人生を狂わされたのですよ。下手したら命を失う可能性だってあったのです」
ニナの現状も、ニナの命を脅かしたのも、全てヴィクトリアが裏で手を引いているのだけれど、それをわざわざ伝える必要はないだろう。
「しっかり反省なさってください。全てはユリウス様の浅慮な行動が招いた結果。自業自得ですわ」
「うっ……それは、すまなかった。反省する。いや、してる。だから他の男と婚約するのだけは……」
ちらりと様子を窺ってくるユリウスに、ヴィクトリアは返事をせず、微笑みを返すだけに留めた。
実のところ、二人の婚約が保留になったと言うのは、ユリウスを反省させるための嘘である。
このことは国王陛下や王妃殿下、ヴィクトリアの両親など一部の人間のみが知っている。
しかし、例え二人の婚約が本当に保留になったとしても、保留止まりで解消することはないだろうと世の大人達は分かっていた。
王家と公爵家の婚姻がそう簡単に覆ることはないし、何よりヴィクトリアとユリウス、二人が想い合っていることを大人達は知っているのだ。
いくら完璧令嬢と謳われようと、ヴィクトリアもまだ十六歳。
嫉妬もするし、恋に悩むこともあれば、大人に敵わないことだってある。
嫉妬した結果、まさか男爵令嬢の真似をするとは思わなかったけれど……と言うのは、ヴィクトリアの付き人の言葉である。
ヴィクトリアよりも十年上の彼もまた、彼女の抱いている恋心や嫉妬心なんてものは、全てお見通しなのであった。
つまり今回の騒動は、痴話喧嘩のようなもの。
巻き込まれてしまったニナには同情するが、ことの発端は彼女である。
ユリウスに手を出すとどうなるのか、良い見せしめになったと、ヴィクトリアは一人うっそりと笑う。
ヴィクトリアとしては、今後ニナに反省の色が見られれば、縁談を斡旋してやることもやぶさかではなかった。
たった一度の失敗で十六歳の少女が夢を断たれるなんて、可哀想ではないか。
ユリウスに関しては、どう矯正してやろうかと頭を悩ませる。
今後同じようなことが起こらないよう、彼の手綱はより強く握らなければならない。
そこでヴィクトリアは思いつく。
「彼の真似をしてみようかしら」
男爵領でのニナの様子を報告していた付き人が、またも目を丸くした。
と言いつつ、ヴィクトリアがこの後、ユリウスの真似をすることはありません。
嫉妬した時の苦しみや悲しさを知っているので。
またユリウスは、ヴィクトリアが付き人にあれこれお願いしている姿を見て「俺には頼ってくれないのに!!」と嫉妬していた背景があります。
でも嫉妬させようとするのは駄目だよなぁと思いつつ、
いやまだ十六歳だし大目に見てもらいたいとも思いつつ……
ここまで読んでいただきありがとうございました!