しのぶれど
「先生、好きです」
その言葉を、言ったのは誰だったか。いや、わたしだった。
彼――岩下先生は、二つほど瞬きをして、それから細い笑みを浮かべた。
「……その言葉、詩にするなら、もっと遠回しに言わないとね」
まるで冗談のように。いや、冗談にしてくれたのだ。わたしの気持ちに気づかぬふりをして。
けれど、わたしにはわかっていた。
先生の目が、一瞬、わたしを真っ直ぐに射抜いていたことを。
『春のはじめ、風の柔らかき頃』
春の風が、昇降口のガラス戸を静かに揺らしていた。
新学期が始まって間もない四月の午後。空はうっすらと霞がかり、柔らかな陽射しが校庭の桜を淡く染めていた。
岩下先生が黒板にチョークを滑らせる音だけが、静かな教室に響いていた。
「……“しのぶれど 色にいでにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで”――これは、平兼盛の恋の和歌だ」
そのとき、先生の声が、ほんの僅かにかすれた。たぶん、誰も気づかなかったと思う。でも、わたしには分かった。
その一瞬に、先生の心がどこか遠くへ跳ねたことを。
授業のあと、わたしは鞄の中から、一枚の便箋をそっと取り出した。朝、昇降口の隅にある先生の靴箱に、誰にも見られぬように差し込んだ手紙だった。
「貴方に、想いを寄せています。
ただ知っていてほしかったのです。
叶えたいわけではありません。けれど、この気持ちは、隠せるものではないのです。」
名前は書かなかった。けれど、わたしだとわかってしまう気がしていた。
『五月雨に、心濡るる日々』
五月雨のように、ゆるやかに、心が濡れていった。
図書室の奥の、古い辞書と全集の並ぶ棚のそば。放課後、そこに彼はいた。細い指先でページをめくりながら、机に肘をついて静かに読書をしていた。
「先生、ここいいですか」
わたしは彼の隣に腰を下ろす。窓の外では、新芽の葉が風に揺れていた。
先生は視線だけこちらに向けて、笑った。
「めずらしいね」
「しのぶれどって、誰に詠んだ歌なんですか」
「……人に知られたくない恋をしていた男が、気づかれてしまった。その苦しみと、あきらめと、ほんの少しの希望の歌だよ」
「わかる気がします」
先生は、ふっと目を細めた。優しい、でも哀しい目だった。
「恋をするのは、悪いことじゃない。ただ……」
言葉が、そこで止まる。
ただ、なんだろう。
ただ、相手が教師だから?
ただ、同性だから?
分かっている。けれどやっぱり堪えきれず零れてしまった。
「僕、ずっと先生のことが……好きでした」
息を呑むような静寂が落ちた。
その直後、廊下の向こうから足音がして、それが遠ざかるまでのあいだ、何も言えなかった。
『世にふるながめせしまに』
数日後、学年主任に呼び出された。
曇った日の午後だった。重く垂れた空は、まるでわたしの心のようだった。
「……岩下先生から、なにかされたか?」
「いいえ。ぼくが、勝手に想っていただけです」
うそはつかなかった。
先生がそんな人でないことを、誰よりも信じていたから。
けれど、翌週、岩下先生は辞職した。
「体調不良による退職」という張り紙の文字は、どこか空虚に浮いていた。
教室から、先生の席だけがぽっかりと空いていた。
わたしは、ただ、ひとりで泣いた。図書室の片隅、誰にも気づかれない場所で。
『君をこそ しのばれけれど 世の中を
恨みはせじな 身のほどを知る』
それから、三年が経った。
わたしは大学を出て、小さな書店で働いていた。木の匂いがする棚と、古い詩集の並ぶ一角が気に入っていた。
その日も、閉店のアナウンスが店内に流れ、空気がすこしだけ冷たくなっていた。外では春一番が吹いたと、朝の天気予報が言っていた。
ふと顔を上げると、レジ前に見覚えのある横顔があった。
「……岩下、先生……?」
彼は少しだけ年を重ねていた。けれど、眼差しは昔と変わらなかった。
「久しぶり。……ふと思い出して、来てみたんだ」
「どうしてここが――」
「君がどこかで、本と一緒に生きてる気がしてた。調べれば、すぐにわかった」
先生は静かに笑った。あのとき、図書室で浮かべたような、少し震える笑みではなかった。
「今なら……言えると思って」
「何を?」
「君のことを、好きだった。一人の人間として。……でも、それを言えば、君を壊してしまうと思った。だから、逃げたんだ。僕が」
言葉が出なかった。胸が、軋んでいた。
「ごめんね。あのとき、ちゃんと受け止めてあげられなくて」
「先生が去ったあの日、ぼくは、自分を責めました。言わなきゃよかったって。でも、今は……」
声が震えた。
「今は、伝えてよかったと思ってる」
先生はわたしの手をとった。その手のぬくもりに、胸がひどく痛んだ。
「もし、別の世界があったなら、君と一緒に生きていたと思う」
わたしは笑えた。
「……その世界が、どこかにあるといいですね」
「あるよ。心のどこかに、いつまでも」
袋を受け取った彼は、軽く手を振って、店を出た。
振り返ることはなかった。
それが、わたしたちの最後だった。
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春の風が通り抜けるたびに、わたしは思い出す。
“しのぶれど 色にいでにけり わが恋は――”
この恋は、誰にも言えないまま、でも確かに存在して、誰かを傷つけ、それでも誰かを救ったのかもしれない。
わたしは今も、本に囲まれたこの静かな場所で、詩を読みながら、彼の声を思い出す。
「この世で叶わなくても。しのびて、想って、詩にする。それだけでも、美しいじゃないか」
そんなふうに詠む彼の声を。