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マスター候補1

 一晩経っても、ぼくはポメラニアンのままだった。


 お父さんも、お母さんもぼくが人間に戻れなくて大慌て。


 土曜日だけど、ぼくを病院に連れて行って城之内先生に見せたのだ。


「渉くん、この間話をしたばかりなのに、どうしたんだい?」


「……」


 しかしぼくも、ポメラニアンも何も話すつもりはなかった。もう何もかもどうでもいい気分だったからだ。


 キャリーバッグの端っこに身を潜め、眉を八の字にした城之内先生や看護師さんが点滴を打つために手をのばしてくる。そのたびに、「ぼくに触らないで!」と低い唸り声をあげて噛む動作を繰り返した。


「渉、いい加減にしなさい!」


 朝になってもぼくが、ご飯も、水もとらないことを心配してくれたお母さんだって、犬の姿で他人を攻撃しようとすれば怒るに決まっている。


 それでも、もういやだったんだ。


 ぼくが犬伏渉である限り、隼人とは友だちにも、仲のいい幼なじみにもなれない。それこそ記憶喪失になって今までのできごとを忘れたり、ぼくが女の子に性転換したり、異世界にでも行って隼人と同じ魂を持つ人間と一から関係を構築しない限り無理だ。


 一番できそうなことといったら、このまま犬になって人間のときの記憶をなくし、隼人のところにポメラニアンとして顔を出して、死ぬまでよしよしされること。


「いいんですよ、気にしないでください、お母さん。いくら言葉では理解できても好きな人を忘れたり、恋心を封印するなんて大人でもなかなかできないことですから」


「本当に申し訳ありません、先生。昨晩、好きな子とどうもトラブルがあったみたいで……よかれと思って仲を取り持つどころか、息子が犬になるきっかけを与えてしまいました。私の監督不行き届きのせいです。家に帰ってくるなり、犬になって、私や主人が抱きしめたり、撫でたりしても『さびしいよ』、『悲しいよ』、『つらいよ』って、そればっかり言って詳しい話は一切してくれません」と、お母さんが、この世の終わりみたいな声を出して、ため息をつく。


「ねえ、渉。本当にこのままじゃ、ただのワンちゃんになっちゃうんだよ。お父さんは、自分より早く息子を亡くすなんて、やだよ〜!」


 子どもみたいに素直に思っていることを表現して涙を流せるお父さんが、ちょっとだけ羨ましい。


 ぼくがこんなふうに泣いたら隼人を困らせるだけだもん。


「……では、やってみますか」


「何をでしょう?」と、ハンカチで目元を拭ったお母さんが困惑顔をする。


 城之内先生がデスクの上にあった封筒を犬のぼくに嗅がせてくれた。


 ご飯のにおいや、大好きな花の香りじゃないのに、なんだか、すごくいいにおいがして安心する。


 犬のぼくは、お気に入りのタオルやぬいぐるみを手に入れたときみたいに封筒を両手で抱きしめ、口に含んだ。


 あらかじめ手紙のほうを抜き取っていた城之内先生が、A4サイズの紙を、お父さんとお母さんに見せるのを横目で確認した。


「速達で早朝届いたんです。渉くんのマスター候補の方が、『ぜひ会わせてほしい』と連絡を入れてきてくれました」


「本当ですか!」


「じゃあ、うちの息子は……」


「少なくとも犬になって一生涯を過ごす不安はなくなるかと思います」


「でも、これって……」


 目を細めて、お母さんが書類を読み返している。


「いいんだよ、鈴音ちゃん。まずは渉が人間に戻れない状態にならないことが先決なんだから!」


「だけど雄大さん……」


「何もしなければ渉は、そのうち犬から戻れなくなる。でもマスター候補に会って、本当に相性がよければ、渉はところ構わず犬に変態することだってなくなるし、たとえ犬になってもすぐにマスターの力で人間に戻してもらえるんだ!」


 涙を拭ったお父さんが、いつもと違って凛々しい顔をする。


「では決まりですね。では、こちらの資料を持って先方の方のおうちまで行ってみてください。できればアポイントがあるほうがマスター候補の方との顔合わせもしやすいかと思います」


「ありがとうございます!」と両親は何度も頭を下げた。


 そうして、ふたりがマスター候補の方の連絡先に電話をし、見事につながった。


 ぼくは車に揺られて、自宅ではなくマスター候補の人のおうちへと連れて行かれたのだ。


「すごいわね、いかにもお金持ちって感じのおうち……」


「だよねー。僕たち、場違いな感じがするんだけど」


 キャリーの中でふて寝をしていれば、お母さんと、お父さんが小声で話す声が聞こえる。


 それからパタパタとスリッパを履いた足音が近づいてくる。扉がガチャッと音を立てて開いた。


「お待たせしました、犬伏さん。マスター候補に立候補している()(かみ)(しゅう)()と申します」


 ん? この声って……ぼくは起き上がり、目を見開いた。


「職業は声優。最近は小さな声優プロダクションの代表取締役社長も務めており、若手声優の育成をしております」


 声優の三上修二!?


 ぼくはお母さんと、お父さんが自己紹介をしている最中なのに、大きな声で元気よくワンワン鳴いた。子どもの頃から憧れているキャラクターの大御所声優兼大先輩で雲の上の人に会えて興奮したからだ。

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