第75話 閉ざされた教会
まだ日も昇っていないパヴァンの街。
「はっ、はっ、はっ、はッ!! ごほっ」
その街の中を、一人の母親が必死の形相で走っている。顔はやつれ、服装はお世辞にも綺麗とは言えず、着の身着のままといった様相だ。時折咳を出しながら、走るのも辛そうにしている。
母親が走る理由はただ一つ、可愛い我が子のため。娘の容態が突然悪くなり、呼びかければ最低限の反応を見せていたにも関わらず、今は何の反応も示さない。まるで死んでいるかのようだったが、幸いにもかすかに呼吸しているのを確認した。
それでも、娘の命が風前の灯火なのは誰の目にも明らかだった。
母が目指すのはセレニタ教の教会。パヴァンの街が疫病に侵されてから、その戸を固く閉じているのは周知の事実だが、今はあそこ以外に頼れる人も場所も無い。それに、細々とだが数名のシスターが司祭に隠れて治療を行ってくれている。母も娘も、そのシスターの治療を受けたこともある。
やがて教会に辿り着いた母は、勢いのあまり扉へぶつかるようにして縋り付く。
「誰か、誰かいませんか! 娘が!娘が!」
教会の中にいる誰かに届けという思いで、ガンガンと扉を叩きながら声を張り上げる。 だが、一向に扉が開く様子も、声が返ってくる様子も無い。それでも、母は声を張り上げ続ける、娘のために。
「お願いです! いるんでしょう!? お願い…!」
ガコン。
扉を施錠していた閂を外す音が中から聞こえ、母親は邪魔にならないように扉から後ずさる。
(よかった…! 誰か起きてくれたのね)
ズズ…と重苦しい大きな木製の扉がわずかに開いたことを確認した母は、開けてくれた人物へ懇願する。
「お願いします! 娘の体調が突然…」
「こんな時間に迷惑だ。司祭様はお休みになられている。また昼頃に出直してくるんだな」
母が言葉を言い終わる前に、扉の向こう側にいる男は一方的にそう吐き捨て、わずかに開いていた扉さえも閉じてしまった。閉じられる扉の隙間から一瞬、男が迷惑そうな顔でこちらを見下していた気さえした。
ガコン。
思いも寄らない言葉に唖然としていた母は、再び閂が嵌められた音で正気に戻る。
「待って! 待ってください! 開けて!娘が大変なの!」
あんな突き放され方をしても、母には諦められない理由がある。娘の命が懸かっているのだ。再びドンドンとより強い力で扉を叩く。いっそのことこの扉を壊せたら、そう思うほどに。
「どうした!? そこで何をしてる!?」
後ろから突然怒鳴られ、ビクリとしながらも咄嗟に後ろを振り向いた先には、衛兵が立っていた。いつも南側の門を見張っている門番、キーンだ。声をかけてきたのが見知った人物でホッとするものの、事態が変わった訳ではない。
「ウイラさんか!? こんなところでどうしたんだ」
キーンも、教会前で叫んでいる不審者が見知った人物だと言うことに気づいたのか、慌ててウイラと呼ばれた母に駆け寄り、事情を聞く。
「娘が、娘が…、ごほっごほっ…」
絶え間なく声を張り上げていたせいなのか、酷く咳をしながらもなんとか娘の病状が悪化したことを伝えたウイラ。だが、話し終わると力尽きたようにぐったりとしゃがみ込んでしまった。咄嗟に体を支えたキーンが、試しに額に手を当てる。
「すごい熱じゃないか、これじゃウイラさんも」
「でも、でも娘が…このままじゃ…」
ガコ…。
再び閂が外される音に、2人は扉に目を向けた。
ギィ…。
重苦しい木製の扉が開く音、だが今度はしっかりと扉が開け放たれ、中から1人のシスターが出てきた。
「どうしまし…、!」
シスターの目に飛び込んで来たのは、しゃがみ込む顔色を悪くした1人の女性。シスターは慌てて駆け寄り、神聖魔法をウイラに施す。
「“ヒール”」
ウイラに両手をかざし呪文を唱えると、手のひらの先が淡く光り、ポワリと小さな光球を生み出す。まだ暗さの残る周囲を明るく照らし出したそれは、次第にその光を失い、周囲には再び影に覆われた。
神聖魔法をかけられたウイラの顔色は幾分か良くなってはいるが、完全に治すまではいかなかったようだ。それでも、少し元気を取り戻したウイラを見て納得したシスターは、改めて事情を聞くことにした。疫病がこの街で流行ってからというもの、隠れて何人も治療してきたが、今回ばかりは深刻な事態に違いない。ついに恐れていたことが起きたか、そう感じていた。
「どうしたんですか? こんな朝早くに。お子さんに何かありましたか」
「そうなんです。娘が、もう何も返さなくなって…」
「わかりました。今すぐ向かいましょう。家の場所は以前お伺いしたところと一緒ですね? 私は先に行きますから、あなたはゆっくり来てください」
「いえ、グレイスさんの治療で十分治りました。私も出来るだけ娘の側にいたいですから」
しゃがみ込んでいたウイラはすくと立ち上がって、しっかりと立ってみせる。神聖魔法により治療を施したものの、その顔色はまだ優れない。だが、シスター――グレイスはその姿に何も言えなかった。
「ならば急ぎましょう。完治とはいかないかもしれませんが、やれる手は尽くします」
その言葉にしかと頷いたウイラを見て、グレイスは走り出す。後を追うようにウイラも走り出し、その場にはキーンだけが残された。
(心配だ。治療してくれているシスター達のおかげで何とか死者は出ていないが、この街でもついにその時が来てしまったか)
シスターも手に負えないほど病状が進んでしまえば、教会の閉ざされたこの街では死ぬしかない。中央では薬が出回っていると聞いたが、国の最南端に位置するこの街に薬が回ってくるのはいつになるか。仮に回ってきたとして、平民が気軽に買えるほど安いわけでも無いだろう。
(救いは…救いはないのか)そう考え始めた時だった。
『この人が治してくれたんだよ! ほら、俺もすっかり治っちゃってさ!』
『村中の病人を治して回ってくれたんだ。もちろんリューもすっかり元気になった』
昨夜来たヤラがそんなことを言って連れてきた3人組がいた。最南端の街からさらに南にある村に、帝国からやってきたとかいう怪しさ満点の3人組。
あの時は信じられなかったが、確かに昨夜のヤラは随分と顔色が良かった。咳もせず、元気そうに喋っていた。ヤラの言っていたことが本当なら? もし、今すぐにでも消えてしまいそうな命を、救えるとしたら?
泊まっている宿なら知っている。誰であろう俺が教えたから。
キーンは居ても立っても居られず、その場から駆け出した。




