54 絵師の活用法
九時になると日常が戻り、サッシュバル夫人の講義が始まった。
違っている点があるとしたら、部屋の隅に置かれたシェーズロングソファにパトリックが寝そべっていることくらい。
確か、「寝椅子」とも言うんだっけ?
片側に背もたれが、介護ベッドみたいに斜めに付いていて、いい感じにもたれられるデザインだ。
パトリックは私の望む、「甘いものを食べて横になる」生活そのものを実現している。
あんな素敵なソファーがこの屋敷にあったなんて!
もしかしてレイモン……。私から隠していた?
「あぁ、どうか僕のことは気にしないで。僕はいつも描き始める前に、対象の色んな表情をつぶさに観察することにしているんだ。そうしているうちに、「これだ」って、描くべき表情がわかるんだよ」
さようですか。
普通の絵師なら、そんな我が儘は通らないだろうけど高貴な方の我が儘だもんね。
レイモンが私に報告すらせずに応じているくらいだ。
まぁ視界に入らなければ気にならないから、すぐに慣れてしまった。講義中は黙っていてくれたし。
そして三日目になると、パトリックはソファーに座り、何やらスケッチらしきことを始めた。
そうなるとやっぱり気になってしまう。
自分がどんな風に描かれているのか。
パトリックはどんな作風なのか。
そもそもこの世界の姿絵ってどういうものなのか。
小さな雑念がどんどん膨張していき、サッシュバル夫人の声を遠ざける。
そうなると取り留めのない思考は、更なる飛躍を遂げる。
公爵は去り際に、ケチャップを商品化するにあたって、容器となる瓶の見本をいくつか送ってくれると言った。
公爵のところで仕入れている瓶らしい。
ケチャップの販売が見通せて販路が拡大したら、改めて仕入れ先と直接取引をすればよいとのことだった。
どうやらレイモンは知っていたみたいだったから、私の知らないところで話が進んでいたのかもしれない。
「……瓶」
夫人が読んでいた教科書から顔を上げたことに気がつかなかった。
そうだ。レイモンには瓶のことしか話していない。
ラベルのことを相談したのはローラだけだった。
「……? モンテンセン伯爵領をイメージさせるような絵でございますか?」
「そう! あの小麦畑の絵じゃなくて、もっとこう、何て言うか、楽しげでワクワクするような可愛らしい絵を作りたいの」
ロゴデザインの説明をしたかったけど、ローラには通じないので頑張って言葉を探した。
「……はあ」
「うちの領地の特産品には全部同じ絵を付けて、その絵を見ただけでモンテンセン伯爵領の商品だってわかるようにしたいの。だから領民にも好きになってもらいたいし、商品を思わず手に取ってみたくなるような絵にしたいのよ」
これ――領内から広く募集したら面白いんじゃないかな?
そう、コンペだ!
アイデアだけでもいいかも。どういった図案にするかを決めて、プロに任せちゃえばいいんだ。
「ねえ、ローラ。今言ったようなことを領民たちに周知して、広く絵を募集したら集まるかしら?」
「領民に絵を描かせるのですか? …………」
ローラがなんとも言えない表情で言い淀んだ。
「何? 恥ずかしがって誰も出さないって言いたいの?」
「マルティーヌ様。私の知る限りでは、絵を描いたことのある者は、この領地にはほとんどいないと思われます――」
「……へ?」
「絵を描くのに使えるような紙を持つ者自体が少ないですし。働いていれば、絵を描こうなどと思いつくことすらないと思いますので」
ちょっと待って。いや、待つのは私だ。
領民たちの読み書きのことを聞いたとき、仕事で必要な範囲を働きながら覚えるって聞いて驚いたんだった。
小学校のようなカリキュラムがないんだもの。「お絵描き」は金持ち貴族に許された遊び……。
ショック……。
じゃあ自分で描くしかないのか? ――と一瞬思ったけど、私は描けない。
画材がどうとかじゃない。
私が描けないのは、単純に絵心がないからだ。
前世で「画伯」の名をほしいままにしていた私だからね。
そうだった。そこで中断したままだったんだ。
それが今――。
私の視線の先には、プロがいる!
「それだ!」
図案をサラサラッと描いてくれないかな?
「――様。マルティーヌ様」
「はっ、はい!」
ひぃっ。夫人が睨んでいる。
ヤバ……。完全に聞いていなかった。
私、変な独り言とか言ってないよね?
「コホン。マルティーヌ様。ここ数日は立て続けに客人を迎えられてお疲れなのはわかりますが、講義中は集中してくださいませね?」
「――はい」
あー、でも! でも!
思いついちゃったからねー。ケチャップの瓶に貼るラベル!
ぐふふふ。
これは気合を入れてパトリックと交渉をしなくっちゃ。
あー、あとあれだ!
ワッフルも作れるホットサンドメーカーを作ろうと思っていたんだけど、それ用のデザインを――そうだなあ。動物のデザインとかを作ってほしいかなあ。
格子型じゃ味気ないからね。
何なら滞在を延長してもらってもいい。描いてくれるのならば!
ぐふふふふ。
一宿一飯の恩義――なんてものは感じてくれなさそうだから、ギブアンドテイクというやつで交渉だな。
アメに使える手札は、美味しい食事とスイーツか。
――うん。ここら辺で一度、全員集合してミーティングする必要があるな。




