47 【閑話】保護者たち①
夕食後、リュドビクの要請に応じて、サッシュバル夫人とレイモンは応接室へ移動することになった。
リュドビクとサッシュバル夫人は部屋に入ると向かい合って座り、レイモンは赤ワインのグラスを二人分サーブしてからリュドビクの側――ギヨームのやや後ろ――に控えめに立った。
リュドビクがモンテンセン伯爵領にやって来たのは、被後見人であるマルティーヌの様子を見るためと、彼女の教育について話し合うためだった。
後見人としての威厳を保ちつつ、たるんでいるマルティーヌに釘を刺しておきたかったのだが、昼間の失態のせいで、彼女にはいまだに強く言えずにいる。
――――――――やってしまった。
とんでもない失態を晒してしまった。失態どころか醜態だ。いくら空腹だったとはいえ、あれはない。
食に対する欲求は完璧に抑え込むことができるようになり、これまではきちんと制御できていたはずなのに。
あのとき――。
目の前に置かれた赤いものがケチャップであることは瞬時にわかった。
――と同時に、それを食したときの記憶が蘇ったのだ。
マルティーヌ嬢からケチャップが送られてきたときに同封されていた手紙には、「卵料理にとてもよく合います」と書かれていたのに、彼女が得意げに掲げた細長いものは卵料理ではなかった。
だがとても美味しそうな匂いがしていた。
そして気がついたときには、カリカリホクホクしたものが口の中に入っていた。
どうやら無意識に食べてしまったらしい。他人のフォークに刺さっていたものを――!
なんと恐ろしい食べ物なのだろうか。
どんなに食い意地が張っていようと、私はよく知らない食べ物を易々と口にするようなことはしない。命に関わる行為だからだ。
それなのに――。
あのケチャップを付けられたソレに、私の理性は吹き飛んでしまったらしい。
あまりの恐ろしさに、私はあの後、アレを見ることができなかった。
そんな私を気遣ってか、私が心置きなく食べられるようにと夕食にも同じものが出された。
『ジャガイモを素揚げしただけなので、フライドポテトと呼んでおります』
そうマルティーヌ嬢が誇らしげに紹介していた。
悪気はないのだろうが、やめてほしかった。
『ほら。リュドビク様。これは食べておくべきですわよ! きっと虜になること請け合いですわ』
夕食の席で隣に座ったサッシュバル夫人が、しきりにそう勧めたことを思い出すと、ずるずると昔の記憶までもが這い出てきた。
幼い頃の私とギヨームは、よく母に連れられて、彼女の学友だったサッシュバル夫人のところへ遊びに行っていた。
サッシュバル伯爵家の子どもたちは私たちと近い年齢だったので、子ども同士でよく遊んだものだ。
あの頃のサッシュバル夫人は、「さあ、お腹がすいたでしょう? みんなでお腹いっぱい食べましょうね」などと貴族らしからぬことを言っていた。
おそらく、母の「命の危険や倫理的な問題が生じない限り、子どものうちは、なるべく我慢をさせたくない」という思いを知っていたからだろう。
他の家の子どもたちには一般的な貴族対応をしていたに違いない。
私もギヨームもよく食べた。家でも外でも変わらずに。
私が美味しそうに食べると、母だけでなく周りの大人たちが皆嬉しそうに笑った。だから良いことをしていると思ったのだ。美味しいものを、食べたいだけ喜んで食べた。
まさかそれが弊害をもたらすなど、子どもの私にどうして想像することができようか?
私の体は徐々に横に膨らんでいった。不思議とギヨームの体型は変わらなかったが。
同じだけ食べていたはずなのに、私の体だけがみるみるうちに丸くなっていったのだ……。
「それにしても、あの丸々としていた男の子が、こんなにも精悍な男性に成長するとはねぇ……」
心ここに在らずといったリュドビクに、サッシュバル夫人が感慨深げに切り出した。
「あの頃のリュドビク様の周りには、なんというか、あまり利口でない方もいらっしゃいましたからね。私はずっと心配しておりましたのよ?」
彼女もワイングラスを傾けながら昔に思いを馳せているようだ。
子ども時代など、もう随分と昔のことだ。
「成人されてからは別の意味で、あのときのご令嬢たちに囲まれていらっしゃいますものね。まあ私には、苦虫を噛み潰したような顔に見えますけれど、周囲には気取られていないようですから、上手に隠せる大人になられたのですね」
……ああ、そうだとも。何が、『子どもじみたいたずらですわ』だ。
そんな言い訳をする時点で彼女らの品性を疑う。
昔は、私のような醜い人間が一人いるだけで、『貴族社会全体の品位が下がる』などと言っていたくせに。
「リュドビク様は、それはもう、学園入学前に狂ったように体を動かされていましたからねー。いや、あれは痛めつけていると言った方が正しいかもしれません。今のマルティーヌ様とは逆で、座学はほとんどされませんでしたよね? それが今じゃ、書斎にこもって書類仕事で座りっぱなし。そりゃあ美味しいもの――特に甘いものを求めるのは仕方がないですよ!」
ギヨームが許可を求めず勝手に口を挟むのは今に始まったことではない。
ちゃっかりワイングラスを手にしていることにも驚きはしない。
「パウンドケーキは日持ちすると聞いていたので、マルティーヌ様が領地に戻られてからも定期的に届くんじゃないかって、それはそれは首を長くして待っていたんですけどねー? いやあ待てど暮らせど来ないもんで、どうしちゃったのかなーって」
ギヨームがあまりに赤裸々に語るので、リュドビクは口に含んだワインを吹き出しそうになった。
たとえ事実であっても、そんな言い方では催促しているように聞こえてしまう。
リュドビクが否定しようとした気配を感じ取り、レイモンの方が先に口を開いた。
「…………。後見人をお引き受けいただきましたお礼につきましては、私どもも考えているところでして」
ギヨームは、「待ってました!」と言わんばかりに大袈裟に喜び、リュドビクに断る隙を与えずに勝手に話を決めた。
「じゃあ週に一度、パウンドケーキなどの焼き菓子とケチャップを送ってください。ああ、こちらから取りに行かせるのでご心配はいりません。詳細は後ほど詰めましょう」
「承知しました。それでは私の方で手配いたします。…………フランクール公爵閣下」
「何だ?」
レイモンから急に名前を呼ばれたリュドビクは、ジロリと視線だけを彼に向けた。
「私からも一つよろしいでしょうか?」
「聞こう」
「はい。時々でよいので、マルティーヌ様にお褒めの言葉をかけていただけないでしょうか」
「……褒める? サッシュバル夫人ではなく私が褒めるのか? 何故だ?」
リュドビクは意外な申し出に戸惑った。
「マルティーヌ様は、後見人であられるフランクール公爵閣下の評価を気にされておいでですので。美味しいお菓子でおもてなしをしようと頑張っておられるのも、閣下に喜んでいただきたいという純粋な思いからです。努力していることを閣下に認めていただけるだけで、学習を継続させる原動力になると思われます」
マルティーヌが美味しいものでリュドビクを懐柔しようと目論んでいることなどあずかり知らぬレイモンは、贔屓目に見た彼女の幻を語った。
「……そうか。善処する」




