44 休日が増えた
部屋に入ってきたサッシュバル夫人に、私は精一杯取り繕って、「どうぞお掛けください」と言うことしかできなかった。
ローラは何か言いたそうだけど、今は言えないという感じで、唇を引き結んでいる。
夫人が一度も見せたことのない硬い表情で切り出した。
向かい合う私は、自然と背筋が伸びる。
「マルティーヌ様――」
「はい――」
「私は反省しなければならないようですわ」
「は――い?」
え? 何で? 反省すべきなのは私の方なのでは?
「私、大切なことを忘れておりましたわ。久しぶりに若い方のお役に立てると思い、年甲斐もなくはしゃいでしまっていたようですの」
夫人は右手の人差し指でこめかみの辺りをトントンと叩くと、「はぁー」と深いため息をついて続けた。
「マルティーヌ様から直接お考えを伺うべきでしたのに。リュドビク様からお聞きした内容で、全て理解したつもりになっておりましたの……。もうすぐ講義が始まる時間ですが、今日はこのままお話を続けさせていただいてもよろしいでしょうか?」
あっ、夫人も公爵のことを「リュドビク様」呼びするんだ。
で……? 話の進む方向が見えないけど……。
「ええ。どうぞ」
そう言うしかないよね。
ローラはいつの間にか、お茶を用意するために部屋を出ていったみたい。
「……マルティーヌ様。私とマルティーヌ様との間には、どうやら学習の進め方について齟齬が生じているようです。私たちは話し合うべきだと思いますわ」
……え? お、おう――。
オッケー。ひとまず落ち着こう。顔を直して――と。よしっ。
「あの――。それはどういう意味でしょうか?」
「私は、マルティーヌ様は、王立学園に入学してからは常にトップで居続けられるよう、この一年間は、これまでの学習の遅れを取り戻すため、死に物狂いで勉学に励むおつもりだと理解しておりましたの」
……は? な、な、何を――何で……? 私がいつそんなことを言った?
「マルティーヌ様には驚かされましたわ。マルティーヌ様は学習すること自体が初めてと伺っておりましたから、学ぶ姿勢が身に付くまでは短時間で休憩を挟みながら進めていくつもりでしたのよ? それがどうでしょう! いざ講義を始めてみれば、一時間経ってもマルティーヌ様の集中は途切れることがございませんでした。最初の家庭教師の方のご指導の賜物なのでしょう」
「最初の家庭教師……?」
「ええ。私のような学科を教える家庭教師につくのは初めてかもしれませんが、読み書きや基本的なマナーを教わったのは、ナニーではなく家庭教師の方ですわよね?」
そう言われてみれば、そんな人がいたような……。その頃の記憶はあやふやで思い出せない。
それに、学ぶ姿勢に関しては、前世で、六、三、三、四と合計十六年間、徹底的に「じっと座って黙って話を聞く」態度を叩き込まれているので!
「初日から受講態度は申し分なく、非常に真面目に取り組まれておりましたけれど、時折納得がいかないというようなお顔をされていたので、そのことがずっと気に掛かっておりました。先程の――オホン」
うへっ。私、顔に出てたんだ……。ものすごく失礼ですよね。
「とりあえず――。まずは、マルティーヌ様のお考えをお聞かせいただけますか? この一年間に何をどれだけ学ばれたいのかを」
サッシュバル夫人の表情からも態度からも、「あなたの味方ですよ」という感じが溢れている。
包み込むような眼差しで見つめられると、背中を優しくさすられているみたいに感じる。
あぁなんだか、ずっと秘密にしていたことまで喋ってしまいそう。
いや、別に――。サボりたいとかそういうことを打ち明けたい訳じゃなくて――。
「サッシュバル夫人。お気を遣わせてしまったようで恐縮です。こんな田舎にまでお越しいただきましたのに、不甲斐ない教え子で申し訳ございません。私といたしましては、もちろん王立学園で優秀な成績を収められるよう、この一年間はしっかりと学びたいと思っております。ですが、その――。当主となったからには、やはり領地のことを考える時間も欲しいのです」
「うんうん」とうなずいてくれる夫人は、公爵とは違う考えなのかな?
「そうだったのですね。よかれと思い、目一杯詰め込んだのですが、それはマルティーヌ様のお考えに沿ったものではなかったのですね。学ばれる当人の意思が最も尊重されるべきものですから、学習時間に関しては修正する必要がございますね」
え? 修正してくれるの? それって、減らす方向で――ってことですよね?
「リュドビク様は、得てして言葉足らずのところがありますからねぇ……。こと、女性に関しては、その傾向が強目に出ることはわかっておりましたのに……。私、うっかりしておりましたわ。マルティーヌ様は自由な時間を増やしたいとお考えなのですね?」
「はい。そうなのです。領地経営に関しては、後見人であるフランクール公爵と家令のレイモンに任せることになっているのですが、やはり気になりますので。フランクール公爵には、当主として恥ずかしくないだけの学力は身につけるとお約束いたしましたが、まさかここまで学習一色になるとは思っておりませんでした」
「そうだったのですね」
夫人は、「はぁー」と長いため息をついた。
そう。確かに「頑張る」とは言ったけど。普通は、どれほど熱く語ろうと、人の気持ちや想いなんて半分伝わればいい方なのに。
まさか、公爵がそのまま額面通り、いや額面を通り越して受け止めてくれていたとは――恐るべし!
夫人が、ふと思い出したようにつぶやいた。
「ですがマルティーヌ様は、あの貴族名鑑を一週間で覚えようとなさっておられましたよね? それなのに十分の一しか覚えられなかったと恥じていらっしゃって……。随分と厳しい目標を設定されていらっしゃったのだなと驚きましたのよ?」
えぇぇぇぇ! どーいうことー?!
「それにつきましては、サッシュバル夫人のご指示だとばかり思っておりました。このくらいは出来て当然だとおっしゃりたいのかと――。フランクール公爵も同じようにお考えだったのではないですか?」
「まあ! 私はマルティーヌ様がご自身でそのような目標を立てられたのだと思っておりましたわ。そして達成できなかったことを悔しがっているのだと……。普通は、社交に必要な範囲を学園入学までに覚えるものですから」
はぁぁんっ!? 一年かけて覚えればよかったの!? しかも丸暗記とかじゃなくて?
もー!! 公爵め!!
「一週間で覚えろ」って何だったの?
――とにかく。夫人とちゃんと話し合えてよかった。
サッシュバル夫人と二人でお茶を楽しんだ後、私は数学の理解度テストをまとめて受けさせてもらった。もちろん、全てのテストが満点だった。
この世界の数学って、小学校の算数レベルだもん。分数の掛け算とか図形の体積とかね。
私の回答を見て、夫人は、「まあ! もう何もお教えすることがございませんわ」と、ものすごく驚いていた。
こうして、私は数学の講義の「卒業」を勝ち取った。ふふふ!
夫人が組んだ一週間の時間割は、やけに数学の時間が多かった。一日に午前と午後と二回入っている日もあったのだ。
基本は、午前に歴史と数学、午後に経済と裁縫(公爵からは聞いていなかったのに何故か入れられていた)なんだけど、裁縫は週に二回で残りの四回は数学になっていた。
この世界では、特に女性は数字と関わることが少ないから、苦手に感じる人が多いのかもしれない。
時間割から数学のコマがなくなったため、夫人に組み直してもらった結果、週に一日だけだったお休みが三日に増えることになった!
ふっふー!
次回、公爵がやらかす予定です。




