43 ボロが出た
ジュリアンさんが王都へ帰って行ってしまった。
悲しい。寂しい。――――だけじゃない。これで一緒に過ごす相手が、必然的に一人に絞られてしまうのだ。
もう、「ジュリアンさんが」という言い訳ができなくなってしまった。
とうとうサッシュバル夫人と本格的に向き合うときがきたのだ。もう私に癒しはない。あるのは苦しみだけ……。
「マルティーヌ様。何やら馬鹿げたことをお考えですね? サッシュバル夫人を避けることなどできませんよ。不可能です。もうお覚悟を決められた方がよろしいのでは?」
うぅぅ。ローラは最近じゃ本当に私の考えを正確に読むよね。
「随分と気落ちされているようで心配しておりましたが、そのご様子ならば大丈夫そうですね。今朝も朝食はしっかりとお代わりまでされて完食されていましたし」
しかも遠慮までなくなっている。
今朝の胡椒をきかせた厚切りベーコンは、めっちゃくちゃ美味しかったんだもの。
それに私のリクエストで、ケイトがパンの表面に胡麻を「これでもかっ」ていうくらいまぶして焼いてくれたからね。
そりゃ食べるに決まっている。
「昨夜、サッシュバル夫人から、『明日からは丸一日学習にあてられますね。九時の鐘から三時の鐘までは各科目の講義を、三時のお茶を挟んで夕食の支度をする前までは、マナーとダンスのレッスンをいたしましょう』と言われていましたよね? そろそろ準備をいたしませんと」
なんということでしょう……。
前世と同じ九時六時のお勤め再開ですよ。そして予習復習という残業までも同じ……。
人類にとって十二という数字は普遍的に特別なものなのか、この世界も午前と午後を十二で分割した時間を使っている。
前世のような時計も魔道具として存在する。よくて三十分の目盛りしかないけど。
高価な魔道具を買えない平民向けに、午前六時から午後九時まで、三時間おきに鐘が鳴る。
十時と三時のお茶の時間も、昼食と夕食も、休憩ではなくマナー実践の場だ。くぅぅ。
ジュリアンさんが滞在していた間は夫人も遠慮してくれたのか、和やかな雰囲気で楽しくおしゃべりしながら食事もお茶もできたのに……。
サッシュバル夫人は食べることが好きらしく、三度の食事も午前と午後のお茶も、本当に美味しそうに食べていた。
そして、口に入れたものは、ちゃんと「美味しい」と感想を言ってくれるので、そこは好感度(大)で嬉しかった。
休憩中の会話は和やかで、ただのお茶の相手なら言うことないのになぁ――というくらいには気に入っていたんだけど。
いざ講義が始まると、夫人は変身してしまう。
「あら、マルティーヌ様。歴史の理解度テストが八十五点ですわ。常に満点を取れなどとは申しません。むしろこの点数であれば普通は合格ですわ。ですが――。マルティーヌ様にとっては満足のいく結果ではないのですよね?」
……え? どういう意味……? まさか、この怠け者の私が、常に満点をとることを自分に課しているとでも?
いや違う。きっと、「常に満点を取ることを自分に課すくらいでなくて、どうするのです?」と言いたいんだ。
ぐぬぅぅぅ。
だいたい徳川将軍ですら、せいぜい四、五人しか言えない私に、急にカタカナの人名とか国の名前は無理だって!
マルティーヌも全然覚えてくれていなかったし……。
……はぁ。
それにしても、こういう嫌味なセリフは、いっそのこと、どんよりとした眼差しで目の周囲に縦線が入っているような人に言われたい。そっちの方がまだマシ。
「あら! 今日は空が晴れわたっていて、暖かくて気持ちのいい日だわ!」とでも言っているような顔でそのセリフを吐かれると、逆にダメージが大きい……。
はぁぁ。
見た目はキツくて怖そうなのに、中身は意外と優しい――という方が私的にはよかった。
見た目はほわんほわんしているのに、中身がエグいという方が地味に刺さる。
「私は受験生じゃないのに」
部屋でローラと二人きりのときしか愚痴を言えなくなったのも辛い。
ジュリアンさんは一泊したけど、滞在時間で言えば二十四時間くらいだった。
それでも私は何かにかこつけて彼と行動を共にして、勉強時間が長すぎると不満をこぼしていた。
だってジュリアンさんは、「大変ですね」とか「ものすごく努力されていると思います」とか、否定せずに、とにかく慰めて励ましてくれたから。
「受験? 王立学園の入学に試験はなかったはずですが?」
ごめん、ローラ。いいから放っておいて。ただの独り言だから。
ローラは小さくため息をついて部屋から出て行った。
でもほんと、私は今や受験生の夏期講習のような状態に置かれている。どうして……?
それは私が驚くほど無知だということが、最初の講義でサッシュバル夫人に露呈したから。
夫人は学園で使用するという教科書を使って教えてくれているけど、私がそれを読んでいるときは、私の視線が今どの文字を追っているかまで見ている気がする。ほんと怖すぎ。
――――なんてね。
わかってる。夫人が優秀な家庭教師だということは。
教え方はもちろん上手い。説明はとてもわかりやすい。
全ての科目を偏りなく教えられるってすごいことだと思う。きっと学生時代は全科目一位とかだったんだろうなぁ。
おまけに使用人たちにも丁寧に接してくれるし、社交も得意らしい。初対面のジュリアンさんとも会話が弾んでいた。
うん。自分でもわかっている。この夫人に対する感情は、とっても理不尽で八つ当たりのようなもの。
マルティーヌが幼い頃から夫人に教えてもらっていたなら、きっと良好な関係を築けていて、既に必要な教養がちゃんと身に付いていたと思う。
「あー。もー。公爵の理想が高過ぎるせいだと思うー。学園に入学したらそりゃあ、ちゃんと勉強を頑張るけどさー。私は学年一位を目指したい訳じゃないのにー! それって後見人になった公爵のメンツだよね? 知らないよ、そんなのー! ソフィアだってそんなに勉強している感じじゃないのにー。領地のことに口を出すとお小言くらうしさー。もぅぉぉぉ!!」
部屋に一人きりだったから、ついつい令嬢言葉を忘れていた。
ただの独り言で、九時に夫人と会う前に、ほんの少し愚痴をこぼしただけのつもりだったし。
殴りつけたクッションも、後でちゃんと形を整えるつもりだったのに。
それなのに――。
ト、トン、ト――と、何かの合図のようなヘンテコなノックが聞こえた。
これって――ノックした人が動揺しているんだよね……?
それってつまり、廊下に人がいたっていうことだよね……?
今の、絶対に聞かれたと思う……。
「ど、どうぞ」
どもってしまった。
あ。しまった!
反射的に「どうぞ」なんて言ったけど、今の私、人に会える状態じゃなかった。
ストレス発散のために――絶対にそのせいだと思う――ソファーにうつ伏せに寝っ転がって、足をばたつかせていたんだった。
膝を引き寄せて座位に戻る途中で、ドアが開いてしまった。
間に合わなかった……。
立っていたのはローラだったけど、その後ろにサッシュバル夫人がいた。
はぁぁぁぁ!!
ドア越しに夫人に聞かれてしまったよ。絶対、絶対に聞こえていたはず!
屍と化す私……。
 




