39 家庭教師のサッシュバル夫人
レイモンとそんな会話をした二日後。
公爵の用意した馬車に乗って、(来てほしい薬師じゃなく)家庭教師の先生がいらっしゃった。
はぁー。どうしてもテンションが下がっちゃう。
私が応接室に入ると客人の女性は優雅に立ち上がり、見事なカーテシーを披露した。
実物の家庭教師の先生は、全然、ひっつめ髪でも細メガネでもなかった。
優しそうな雰囲気を纏い、ほわほわとした笑顔を浮かべている。
顔も体も丸っこくて、人を駄目にするクッションみたいなポヨヨンとした感じを漂わせていた。
「モンテンセン伯爵。お初にお目にかかります。ダイアナ・サッシュバルでございます」
「ようこそおいでくださいました、サッシュバル夫人。どうぞ私のことはマルティーヌとお呼びください」
サッシュバル伯爵家は数年前にご子息が継がれており、未亡人になられた夫人は、悠々自適な毎日を送っているのだと、公爵から聞いている。
「かしこまりました。マルティーヌ様」
夫人はそう言って上品に微笑むと、
「早速ですが、フランクール公からマルティーヌ様宛のお手紙を預かっております」
と、いきなり爆弾を落とした。
思わず、「げっ」と声が出そうになったのを、すんでのところで押し殺す。
互いに手を伸ばせばやり取りできる距離だけど、レイモンが間に入って夫人から手紙を受け取り、私の前へ銀トレイを差し出してくれた。
夫人が軽くうなずき、私に読むよう促す。
なんだか、この封蝋を最初に見たのが遠い昔のように感じる。
公爵の手紙は、貴族的な言い回しの挨拶から始まって、徐々に言葉尻が強くなっていく。
中身を要約すると、「一年という限られた時間の中で、夫人の指導のもと、王立学園で優秀な成績を収められるだけの学力を身につけよ」という命令書だった。
……はぁ。
とにかく勉学に励め――と。もうちょっと甘い言葉を含ませてくれてもいいんじゃないかな。
読み進めていくと、恐ろしい表記にぶち当たった。
『まさか感情をそのまま表に出してはいないだろうな? この手紙を読んでいる君の表情を、サッシュバル夫人はつぶさに観察しているはずだ――』
「……は?」
はぁぁぁぁーーっ!?
慌てて顔を上げると、にっこりと微笑んでいる夫人と目が合った。
表情どころか声を出しちゃったよ。何、このありがた迷惑なサプライズは。
公爵も人が悪い。そういうことは出だしに書いておいてよ。
「フランクール公からご事情は伺っております。一年あるのですもの。ご心配には及びませんわ。どうぞ私にお任せください。マルティーヌ様」
夫人は満面の笑みで、そう保証してくれた。
ふっじーん!!
それって、どういう意味ですか? 一年間、私に何をなさるおつもりで……?
――という心の声も漏れてしまったらしく、夫人はニコニコと目を細めて更に不穏なことを言った。
「あら。マルティーヌ様は大人びていて、とてもしっかりした方だと伺いましたのよ? まさかこんなに可愛らしいお嬢様だったとは。ふふふ。あぁ、いえいえ。大丈夫ですわ。お子様扱いなど致しませんわ。ご要望はしかと承っておりますもの」
そう言って、「うふふ」と笑う夫人が怖くて、なんだか直視できない。
それに、「ご要望」って……? 公爵からのオーダーですか?
公爵の望む一年後の私って、私がどんなに頑張っても到達できそうもない遥かな高みにいる「夢の存在」な気がする。
そんな「ご要望」を夫人は真に受けたと……?
――困る。めちゃくちゃ困る!
ここは早めに軌道修正をしておかなくっちゃ。分数でつまずいている子どもに方程式を叩き込むようなことになるからね。
「サッシュバル夫人。最初に申し上げておかなければならないのですが。私――貴族名鑑の内容を十日間で十分の一しか覚えられませんでした」
とうとう言ってしまった。
わかっていただけましたか? あなたがこれから相手にする人間のレベルを。
ずっと笑顔だった夫人の顔に、初めて驚きの表情が浮かんだ。
夫人は自分の胸に手を当てて、「ふぅ」と息を吐くと、「……よくわかりました」と、目を輝かせて何かを決意したように言った。
どうしてだろう……?
目の前にいるのはお淑やかなご婦人のはずなのに、なぜか関節をポキポキ言わせながらほくそ笑んでいるように見える……。
「自分の理想とする姿に実力が追いつくまでは、誰しも自信を失いがちになるものです。それでも強い思いが消えない限り、必ずや目標を達成することができますわ。決意を常に思い返すことが肝要なのです。もちろん私も協力は惜しみません」
……ん? うーん? すみません。ちょっと何をおっしゃりたいのかわかりません。
ここは、適当なセリフで逃げよう。
「ありがとうございます。大変心強く思います」
「荷物の片付けは今日中に終わらせてしまいますので、明日から早速、講義を始めましょう!」
夫人――。見た目と違ってアグレッシブなんですね……。




