32 領地への引越し
無事に後見人問題が片付いてホッとしたのも束の間、ここタウンハウスでは領地への引越し作業に追われている――――使用人たちが。
一方、私はといえば――。
ハグハグ、パクパク、モニュモニュと、甘い物を食べては横になるという生活を送っている。
素晴らしい。これぞ初志貫徹!
私の考案した(この世界ではそういうことになっている)パウンドケーキやショートブレッド、レーズンバター(サンド)は、アルマが完璧に作り方をマスターしてくれたので、好きなときにいつでも食べられるようになった。
記憶を取り戻したときから公爵との面談が終わるまでの異常な興奮状態が終わった今、ドックドックと流れ出ていたアドレナリンは、ようやく正常な状態に戻ったらしい。
その反動か、私は甘いものを食べては、ベッドの上かソファの上でぐでぇと横になることが増えた。
公爵との面談が終わった後、レイモンが早々に領地に戻ってタウンハウスにいないからできることだけど。
ローラはそんな私のぐうたらした姿を見て、最初こそ、「やっと子どもらしいお姿を見れました」と、微笑んでくれていたのに、さすがにそれがしょっちゅう続くようになると、ドニと二人して、「これこそがマルティーヌ様の地だったのかもしれない」と解釈したらしく、じとーっとした視線を向けてくるようになった。
まぁ、「お菓子でお腹を膨らませずに、ちゃんとご飯を食べてください」とか、「少しはシャキッと背筋を伸ばしてお座りください」とか、本当は色々と注意したいんだよね?
言ってこないのは、それは侍女の仕事じゃないから――というよりも、単純に忙しくて私に構う余裕がないからだよね。
私はいいんだよ、別に。放っておいてくれて全然構わない。
それより、横になって動かない私の護衛を真面目にやっているリエーフのことを思うと、ちょっとばかり胸が痛む。こんな私のために一日中立たせて申し訳ない。
公爵との面談の後、事務的な手続きやら社交上のあれこれやらは、彼が全て行ってくれた。ほんと素敵! よっ、後見人!
まぁいくらレイモンが優秀だといっても長年領地に押し込められていて、貴族社会の最新の情報を持ち得ていないのだから仕方がない。
モンテンセン伯爵家の代替わりと後見人が設定された旨の挨拶状を、どの家に送るべきかなんか、私たちにわかる訳がない。
それに、伯爵としての私のお披露目も、私が未成年であることを理由に時期を見て――ということでバッサリ切ってくれた。ほんと助かる。
それでも厚かましくも訪問依頼をしてくる輩はいる。それらの手紙は、定期的に我が家にいらっしゃる公爵が持ち帰り対応してくれている。マジ、神!
――そう。あの面談の日以降、週に一度は公爵と会っている。ここタウンハウスで。
そのときばかりはさすがに私もやる気を見せて、立派な当主ぶって相手をしているのだ。
その姿はローラたちには嘘くさく映るらしく、感情を隠しもしないで呆れたような表情を浮かべている。
もぉ――。私の真の姿が公爵にバレるんじゃないかと、ヒヤヒヤさせられる。
ただ、訪問日時と共に当日出して欲しいお菓子の指定をされるのって、どう考えてもマナー違反だよね?
でもお世話になっている手前、そんなことは公爵には言えない。というか、なんだか聞いてはいけないような気がする。
あのチャラい従者に尋ねたところで、ヘラヘラとかわされるのがおちだろうし……。
そして当然のようにお土産を受け取って帰っていくんだけど。
最初の日、従者がお土産を片手に乗せて、「軽いなー」と言わんばかりに上下に振って見せたので、それ以降は両手でしっかりと持てるくらいの量を用意するようになった。
もしや、たかられている……?
公爵は意外にも思いやりのある人で、公爵邸への訪問は私が緊張するだろうからと、公爵の方がうちのタウンハウスまで出向いてくれているんだと思っていた。
……違ったのかな? まさかまさか、我が家のお菓子目当てじゃないよね?
――とにかく。
具体的な話を詰めていく中わかったこと――それは、どうやら公爵が一番心配しているのは、私の勉強の遅れを取り戻すことだということ。
領地経営とかじゃなくて!
なんでも、普通、貴族の子息令嬢たちは、学園の入学前に三年間の教養課程で習う内容は、ざっと一通り学習するものらしい。
……吐くかと思った。
嘘だと言って! じゃあ何のために学園に通うの?
「もちろん入学した後で慌てないためだ。あと、社交に時間を費やすためでもある」
と、公爵は侮蔑の表情を浮かべて言い放った。
さらっと予習をした上で入学し、勉強はそつなくこなしつつ、将来の当主同士としての社交を、いや、伴侶を探せっていうことでしょうか?
私が卒倒しそうになったのを見て、公爵も私の出来なさ加減に思い至ったらしい。一瞬だけ遠い目をした――ように思う。
「まさかとは思っていたが。本当に、母君が亡くなってからではなく、これまで一度も家庭教師をつけて勉強をしたことがなかったのか?」
イエス!
私がブンブンと首を縦に振れば、公爵は文字通り固まった。
マルティーヌ! 言われているよ! あなたの十二年間を全否定されているよ――と他人のフリをしたかったけど、今じゃマルティーヌはすっかり私に融合されている。
「なんてことだ……」
やだ、怖い。そんな絶望的な感じを出さないでほしい。そして私を睨みつけないでほしい。
子どもの教育は親の義務でしょ? それを放棄した親の責任だと思います。
「入学まで、あと一年と数週間しかないのだぞ。すでに優秀な人材は高位貴族に囲われてしまっているだろう……」
いや、そんなこと知りません。
「リュドビク様が暇なら、手取り足取り教えてあげられたのに残念ですね!」
明るい調子で、「ですね!」の部分を上げて笑っている従者を――あ、名前はギヨームというらしい――、公爵がギロリと睨んだ。
「王都を離れて住み込みで働ける家庭教師を探さねばならぬな。はあ……。君が領地でも毎日勉強を欠かさないと約束したから引っ越しを許可したのだが。もし領地で予定通りに学習が進まない場合は王都に呼び戻し、徹底的に鍛え上げるからそのつもりで」
え? えぇぇ……。
入学までの一年の間に、入学後の三年間分を勉強するっていうのは――ちょっと無理な気がするんですけど。
「その様子だと、王立学園については何も知らないようだな」
はい。全く以て知りません。そんな話題、出たことすらありません。
「最初の三年間は全員共通の教養課程だ。主に領主、領主夫人に求められる役割やマナー、歴史、経済、数学、ダンスに基礎魔法。まあこんなところか。その後の専門コースについては――君は領主コースになると思うが――まあ入学してから検討しても遅くはない」
何そのカリキュラム? なんか高校と大学と専門学校が混ざってない?
「詳細は家庭教師に任せるが――いやいい。こちらで選定した家庭教師とは、よくよく話し合ってから領地入りしてもらうので、君は領地で待っていればいい」
いや、ちょっと。できれば私にも事前に情報をください。心の準備が必要なので。
公爵はそのまま黙り込んだけど、なぜかお菓子を口に運ぶことだけは止めない。えぇぇ?
――結局。
「入学準備は二ヶ月前から始めるので、それまでには王都に戻ってくるように」
公爵にそう言われて、来年の秋の入学の二ヶ月前、つまり夏が始まる前にタウンハウスに戻ることが決まった。
そうして引越しには向かない真夏の今、私はお菓子を頬張りながら、住み慣れた屋敷に別れを告げようとしている。




