2 忠実な使用人
「お嬢様。失礼いたします」
レイモンと入れ替わるように部屋に入ってきた少女は、マルティーヌよりも少し背の高い赤毛の女の子だった。この子のことは知らない。
「お嬢様。お初にお目にかかります。ローラと申します。ゆくゆくはお嬢様の専任侍女になるべく、レイモンさんの下で学んでおりました。お嬢様のご婚約が整いましたらお仕えする予定でしたが、このようなことになり、なんと申し上げてよいのやら」
……レイモン。出来る家令だわ。あの父親がマルティーヌのことを何も考えていなかったことを知っていたんだ。
「そうだったの。よろしくね、ローラ」
「はい。誠心誠意お仕えいたしますので、こちらこそよろしくお願いします」
ローラはそう言って腰から四十五度、綺麗に曲げてお辞儀をした。
「わっ。あ。あのローラ。そんなに畏まらなくてもいいのよ」
「いえっ。そんな訳には。あ、あのそれよりも。レイモンさんがお嬢様とお話しされたいとのことです。ご気分がよろしいようであれば、湯浴みの後、お着替えをさせていただきたいのですが」
湯浴み! あー湯浴みしたかったんだよねー、マルティーヌは。
「じゃあお願いしようかしら」
本当は飛び上がらんばかりに感激しているくせに、なぜかマルティーヌの記憶が、貴族風な鷹揚な言い方をさせる。
体と髪をローラに丁寧に洗われて湯船に体をつけていると、ホッと一息つけた。まだこの状況に理解が追いついた訳じゃないけど。
「何がどうなってんのよ」と、誰かを問い詰めたい――そう思う私と、そんな無作法なことはできないと首を振る私もいる訳で……。
お湯に浸かっていると、私の中のマルティーヌの緊張の糸が切れたみたい。これまでずっと息を潜めて生きてきたんだもんね。大人に面倒を見てもらえず、ずっと我慢してきたマルティーヌ。
あー。もしかしたら壊れる寸前だったのかも……。私が来たからには、いや私になったからには、もう二度と、絶対に、我慢なんてしないからね!
――とまあ、一人で勝手に興奮しても仕方がない。
マルティーヌのこれまでの記憶はあるけれど、今現在の、この体の持ち主はどうやら私みたい。私が「主」で、マルティーヌが「従」? うわっ。何それ? やっぱ落ち着ける訳がない。
うーん。あー。ちょっと思考を放棄したいわ。ポテチを一袋完食して、アイスとチョコを食べて横になりたい。
――なんてことを考えると、マルティーヌだった私がギョッとする。
はいはい。わかりましたよ。
といっても、今や私は十二歳の子ども。しかも文字通りの箱入り娘。なーんにも知らない。
この世界で子どもが、いや、特に女性ができることなどほとんどないことだけは確か。
しばらくは、面倒なことは全部大人に丸投げして、責任やら義務やらとはおさらばしよう。
とりあえずは目の前のことだけを考える。聞かれたことにだけ、「はい」か「いいえ」で答えよう。
「お腹が空いたか」と聞かれたら、「はい」。「疲れたか」と聞かれたら、「はい」。
ゴールなんか見ないで、ボードゲームのマス目を地道に一マスずつ進む。サイコロなんて振らないで、目の前の一マスだけを見ていくつもりでね。
よしっ。体を拭いてもらって清潔なドレスを着せてもらったら、気分も一新、リフレッシュできた。
さっ。まずはレイモンの話を聞くとしよう。
レイモンは、あのゲス親父の執務室にいた。
部屋に入った私にソファーに座るよう勧め、私が座ると、レイモンは向かいのソファーの端に立った。
マルティーヌは、レイモンとは挨拶をした程度の記憶しかない。いつも厳しい表情をしていたので、彼のことは、「怖いおじいさん」としか認識していなかった。
まあ子どもから見ればそうだろう。
でも目の前の落ち着いた男性は、まだ五十代そこそこにしか見えない。ほとんど白髪だけど、髪の毛はふっさふさ。これぞ、イケおじって感じ。
「お久しぶりでございます。お加減は良くなられましたか?」
久しぶり――になるのかな。半年とちょっとだよね。最後に会ったのは、去年の母親の葬儀だったはず。
マルティーヌの母親は、三年ほど闘病した後、去年亡くなった。
思えば母親が伏せってから、使用人たちが働かなくなったんだよね。父親はあんなだし。主人の目が届かなくなるとサボるって酷いよね。
それにしても「お加減」とは?
「ええ。いつの間にか眠っていたみたいだけれど。レイモンはお父様の結婚式には間に合わなかったのね?」
「……!」
ええと。その反応は? てっきり領地で何かあって、結婚式に間に合わなかったのかと思ったんだけど。違うの?
「お嬢様。これから辛いお話をいたします。もし途中でご気分が悪くなられましたら、すぐにそうおっしゃってくださいね?」
「は――い?」
辛い話?
「実は――。旦那様ですが。三日前にお亡くなりになりました」
……え? ええっ!?
いやいや、どういうこと?
「三日前? あら? 結婚式は? ええと。新しいお義母様は……?」
「お嬢様。結婚式は――三日前のことになります。旦那様は結婚式の最中に倒れられ、そのまま亡くなられたのです。従いまして、婚姻は成立しておりません。旦那様と再婚予定だったお相手は、そのままご実家に帰られました」
あー、嘘だねー。あの状況だよ? 私、ナイフ見てるもん。きっとあの男にバチが当たったんだよ。
まあ十二歳の娘には病死としか言えないか。
それにしてもマジか。ゲスな男に相応しい壮絶な最後というか、派手に散ったねー。
いや逆か? 逆に、ある意味、「あっぱれ」と言えるかもね。女遊びを極めた結果の最期だもんね。きっと悔いはないよね。
……………………!!!!
じゃあレイモンって、訃報を聞いて領地から駆けつけてくれたの?
国の南西に位置するモンテンセン伯爵領のカントリーハウスから、ここ王都のタウンハウスまでは、馬車で休憩しながらだと確か、二、三日はかかる距離だよ?
いやいや。訃報ったって、早馬でも一日はかかるよね? 結婚式は午前中だったけど、領地に知らせが届いたのって次の日じゃない?
「ご気分は大丈夫ですか?」
レイモンに訝しげな表情で尋ねられた。
あ、そっか。私がギャンギャン泣き喚かないのが不思議なのかな?
あのゲスな父親とは、もう何年もろくに顔を合わせていないし、もとより親子の絆を感じたこともなかったんだけど。
それに今の私は、ギリギリ二十代のアラサー女だし。取り乱したりはしないよ?
さすがに殺人現場に居合わせたのは初めてだけどね。
「え? ええ。大丈夫よ。驚いただけだから。その――。レイモンは、ずっと領地にいたのに――」
「早朝に早馬の知らせを受け取り、急ぎ馬で参りました。昨日こちらに着きましてございます」
……すごっ!
「他にも二名、執事と侍女の見習いですが、この者たちもまた、急ぎ荷造りをして馬車を飛ばし、つい先ほど到着したところでございます。侍女の方は先ほどご挨拶させていただきましたが」
「え? ええ。ローラよね」
「はい。それではもう一人ご紹介いたします。ドニ。入ってきなさい」
丁寧にノックをして入ってきたのは、二十歳前後の青年だった。黒色の髪の毛を見ただけで安心してしまう。
ドニはレイモンのすぐ横に立ち、一礼した。
「お初にお目にかかります、お嬢様。ドニと申します。以後よろしくお願いいたします。領地では執事見習いとして働いておりました」
「こちらこそよろしくね、ドニ」
やだ、何? その涼しげな目元は。
久しぶりにイケメンを見たせいか、うっかり微笑んでしまった。私、父親を亡くしたばかりで傷心のはずなのにね。
レイモンはそんな私の態度にいちいち反応することなく、報告を始めた。
「まずは、お嬢様に断りもなく使用人を解雇したことをお詫び申し上げます」
「え?」
「私がこの屋敷の門をくぐったとき、大きな荷物を抱えた執事と出くわしたのです。不審に思い問い詰めましたら、屋敷の中の調度品をくすねて持ち出そうとしていたことがわかりました」
あぁ、執事って、確かお母様が亡くなった後で新しく雇った人だわ。うん。あの男、働いていなかったもの。彼ならやりかねない。
「それはありがとう。当主が不在なんですもの。仕方がないわ。家令としての業務の範囲内だと思うわ。だから謝る必要はなくてよ」
「……あの、お嬢様」
「なあに?」
「当主はお嬢様でございます」
うへっ!
もうちょっとで変な声を出すところだった。
「まだ正式な手続きは済んでおりませんが、今や、お嬢様がモンテンセン伯爵なのです」
……ええっと。あの、ちょっと。
「面倒な困り事は大人に丸投げ生活」が、早くも暗礁に乗り上げてない?