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人生の真理

 あるところに一人の男がいた。彼は極めて裕福な家庭に生まれた。彼は、幼い頃から、他より優れた知性を見せつけ、"神童"と呼ばれた。彼は義務教育の小学校・中学校・高校において極めて優秀な成績を残した。

 

 彼は成績だけではなく、様々な方向に、様々な才能を見せていた。それは両親も、教師も認めるところであった。仮に、彼がその中の一つの道を選択し、"実践"すれば、彼がその道の大物になるのは、誰から見ても確かに思えた。

 

 彼は、高校を出ても進学しなかった。就職もしなかった。高校を卒業すると、実家(それは極めて大きな屋敷だ)の一部屋に引きこもるようになった。その部屋は一人で引きこもるにはあまりにも巨大だったが、彼はそこに、多量の書物を持ち込んだ。彼は、それらの書物を毎日、読み漁った。それが彼が高校を出た後にする仕事の全てだった。

 

 両親はそんな彼の姿を見て、内心やきもきとしていた。しかし、口喧嘩しても勝てるわけがなく、腕力でもかなわないので、どうする事もできなかった。それに彼が才能あふれる人間であり、いつか彼の実力が発揮されるのは確かな事にも思えた。

 

 「放っておこう。あれは"天才"なのだから、自分で決めるさ」

 

 母が我が子を見て、愚痴を漏らすたびに、父はそう言って、彼女を慰めた。実際、息子の才能は札付きであり、書物を読み漁っていのも、未来の栄光への階段を駆け上っている途中だ、と考えられない事もなかった。

 

 一方で"天才"である息子は両親の思惑など、歯牙にもかけていなかった。実際には、彼は焦慮していた。彼は"人生の意味"を突き止めたかったのだ。

 

 彼はある意味で、パスカルと同じ思考過程を進んでいった。彼は高校卒業までに既にある程度の成果を成し遂げていた。彼は、まだ解かれていない数学上の未解決問題の一つを解いた。自然科学の分野においても、ミクロな物質の振る舞いについての予想を立てた。それらは後に別の学者によって証明された。

 

 それらは現実世界では大きな業績と言えたが、彼は、その業績から彼にやってきた栄光や褒賞を全て退けた。彼は徹底して自分の身を隠した。名前も顔写真も、メディアに一切出させないようにした。両親は世界的に非常に大きな影響力を持っていたので、そんな芸当すら可能だった。

 

 彼は他にもいくつかの業績を残したものの、その途上で、自然科学の分野に自分が求めているものは決して見つからないと、忽然と気づいた。彼はそれらの研究を全て途中で放棄した。始め、彼はそれらの分野の奥にこの自然の、あるいは生命の、あるいは自らが生きている"意味"、それらを解く方程式が眠っていると信じていたのである。

 

 彼は科学を捨てた。次に向かったのは文学・哲学だった。高校卒業後に引きこもって読み始めたのはそれらの本だった。そこには"人間"に対する直接的な洞察があった。彼は、これらは科学よりも有望である気がした。

 

 彼が焦慮していたのは、子供の頃から胚胎していた、ある願望のためだった。「僕はこの人生をこれから生きなければならない。しかし、人生とは何か、それを知ってからでないと生きたくはない。知らないゲームをするわけにはいかない。人生というゲームの全貌、その意味を完全に明らかにしてから、このゲームをはじめたい。知るまでは、決してはじめる気はない」

 

 彼はそのような性向から、引きこもって読書を始めたのだった。それ以前の、十代の頃の自然科学研究も同じ理由に基づいていた。ただ、彼はそうした動機を自分以外の誰にも話さなかった。彼はそれが他人に理解されるとは到底思えなかった。

 

 彼はそうして引きこもり生活を続けた。哲学書ははじめは難しく感じたが、徐々に読解できるようになった。彼は哲学を深く理解する為に、ドイツ語やフランス語も学び始めた。原語の方がよく理解できるだろうという目算だった。

 

 彼は文学書もよく読んだ。めくるめく、様々な人間形象の背後に、「人間とは何か」という自らの問いに対する一つの答えが現れてくるのではないか、と期待した。

 

 そうこうしているうちに、十年の月日が経っていた。彼は二十八才になっていた。部屋から出る事もほとんどないので、でっぷりと太っていた。両親は相変わらず心配していたが、息子に小言を言うと恐ろしい剣幕で怒鳴られるので、息子の言いなりになっていた。

 

 彼が二十八才の時、恐ろしい事が起こった。母親が病に倒れ、あっさりと亡くなってしまったのだ。そのうえ、父もその後を追うように亡くなった。全ては突然だった。

 

 ところが、彼はその事実にほとんど動揺する事もなかった。彼はただ、彼が務めなければならない葬儀の旗振りを恐ろしく有能にこなした。葬儀の際、周囲の人々は、息子が両親の死を全く悲しんでいないという事実に驚いた。「あれは冷血漢よ」 人々は囁いた。「天才かもしれないけど、頭がおかしいんだ」

 

 両親はいなくなった。それでも彼の生活は変わらなかった。相変わらず引きこもって、本を読み続けた。読書のジャンルは様々に広がっていき、宗教、歴史、社会学、考古学、天文学、心理学など、あらゆる書物を読みふけった。

 

 財産は潤沢であったので生活が壊れる事はなかった。そうした彼についていたのは、一人の召使いだった。彼より五つほど年上で、彼が引きこもり始めた頃に、両親が見つけてきて、彼専属の召使いにしたのだった。召使いはよく気のつく、おとなしい青年だった。召使いは両親がなくなった後も、彼の面倒を見続けた。彼は召使いの存在を気にかけた事は一瞬もなかったが、召使いはあたかもそれが天命であるかのように、忠実に主人の世話をしていた。

 

 彼は本を読み続けた。読んで、読んで、読み続けた。ところがいつまで立っても、世界の意味、世界の真実、自分とは何か、人間とは何か、これらに対する決定的な解は出てこなかった。

 

 彼は先人が自分と同じような道を歩んでいたのを読書によって知った。ウィトゲンシュタインという哲学者は三十才で、哲学の大問題を全て解いたと、彼自身考えた「論理哲学論考」という書を世に出した。形而上的なあらゆる諸問題はこの小著一冊で解かれたのだ! もはや"哲学"は用済みだ! そのような高踏な問題はもう考える必要はない。言語の限界は引かれて、"哲学"は存在しなくて良い! 必要なのは「あらゆる哲学は虚妄に過ぎない」と宣告した「論理哲学論考」一冊あれば十分だ。あとは、生きるだけだ。生きるだけ!

 

 ウィトゲンシュタインはそう考えて、実際に、人生を生き始めた。彼は本当に哲学を捨てたのだった。…ところが、話はそう簡単に収まらなかった。彼は十年後にまた哲学の世界に戻ってきたのだ。全ての謎は決して解かれなかった事を、ウィトゲンシュタイン自身が発見してしまったのだ。彼は自分の哲学の過ちに気づいてしまったのだった。哲学はまだ終わっていない! ウィトゲンシュタインは、結局、死ぬまで哲学を続けた。

 

 彼はウィトゲンシュタインの哲学書も読んだが、ウィトゲンシュタインが人生の諸問題を完全に解かなかったと知るや、急速にその興味を失った。

 

 彼は本を読み、考え続けた。彼の脳裏に時折、真実の断片が閃く事もあった。それは大抵、深夜だった。夜の中で、ベッドに横になりながらふと流星のように思考の一部が瞬く事があった。彼はそれを素早く捉え、速やかに体系化し、あるいは方程式に置き換えたりした。「やれやれ、これでやっと人生の謎を解いたんだ! 明日は、これまでと違って爽やかに起きられるに違いない!」

 

 ところが、翌朝が来ると、前日の夜に思いついた真理は、机上の空論に過ぎない事が明証されてしまうのだった。真理は何故か、太陽の光に弱いようだった。冴えた頭でもう一度、自分の真理を点検してみると、あらゆるところに欠陥が見つかった。彼は自分が書いたメモをゴミ箱に放り投げた。そんな事が、幾度も幾度も繰り返された。

 

 そうして時は経った。世界から隔離されながら、時は過ぎていった。彼は気づけば、老人と言える年になった。彼は七十の齢を越えていた。

 

 彼の体は衰えていた。大きな病気、怪我になった事は一度もなかったが、体の調子が悪い事が増えてきた。医者を呼んで、薬を処方してもらったり、整体師に体を診てもらったりした。

 

 彼は未だ、人生の謎と格闘していた。彼の奥底で微かな懐疑が、闇の中の光のようにきらめく時もあったが、彼はそれを勉学によって乗り切ろうとした。彼は、未だに大きな問いの中にいた。「生の意味がわからなければ生きる意味などない」 彼のテーゼは変わらなかったが、いつの間にか、彼の生の時間はすり減っていた。

 

 ある日、彼の部屋に、召使いがやってきた。召使いもまた、彼と同じように老いていた。召使いはずっと彼の世話をし続けてきたのだった。召使いは五つ年上だったので、彼よりも老いに苦しんでいた。

 

 ドアがノックされた。彼は、時計を見た。(まだ、飯の時間じゃないはずだ。何の用だ?) 彼はその時、西洋から取り寄せたラテン語の本を読んでいた。また、最近、彼が取り組んでいたアフリカのある部族の宗教で、その宗教には哲学的意味と呼べるようなものがあり、彼にはそれが興味深いものに見えていた。

 

 「ご主人さま、申し訳ありません。少し、良いですか?」

 

 「なんだ? 何か用か?」

 

 召使いの声だった。彼は意外に感じた。召使いが用事以外で部屋を尋ねてくる事は一度もなかった。あるとすれば、緊急の事態しか考えられなかった。

 

 「いえ、特に用はありません。ただ、少し、お話させてもらえれば、と」

 

 「お話? …俺は忙しいんだけどな。……うん、でも、まあいい。短い時間なら。…開けろ。ドアは開いている」

 

 「失礼します」

 

 召使いは入ってきた。彼は深々とお辞儀をした。彼は真正面から、召使いを見た。彼は、召使いを正面から見る事も絶えてなかった。正面から見ると、召使いはいかにも老いていた。昔の精悍な姿は見る影もなかった。

 

 「なんだ? 珍しいな。話だなんて。なんだ? メニューの変更か? それなら、夕食の時にでも…」

 

 「そうではございません。ご主人さま、少し、いいですか」

 

 「なんだ」

 

 召使いは咳払いした。それから、掛れは話し始めた。

 

 「ご主人さま、ご主人さまが、そうして何十年も書物を読んで、あなた様が「人生の意味」を探しているのを、私は、知っています」

 

 「…なんだ、知っていたのか」

 

 「ご主人さま、私もあなた様に仕えて、もう長いのですよ。あなた様はあたかもリア王がケントに目もくれなかったように、私に眼を注いだ事は一度もありませんでしたが…。ですが、私もご主人さまに仕えて、非常に長いのですから、ご主人さまの事も少しはわかります。ご主人さま、私から、ご主人さまに一言だけ忠告させてください」

 

 「忠告? なんだ?」

 

 「ご主人さま、"外"へ出てください。今ならまだ…間に合います。ご主人さまももうお年ですが、それだけ元気で、それだけ知性が発達していれば、世界に対して今から大きな事を成し遂げるのも可能です。ご主人さまは、あまりにも勉強しすぎたのですよ、長い間。ご主人さま、私は馬鹿ですが、これだけはわかります。ご主人さまが求めているような、"人生の真理"なんていうものはこの世にありません。どんな偉い書物にも書いてありません。そんなものはこの世にないんです!」

 

 「ご主人さまに必要なのは、生きる事について知る事ではなく、現に"生きる"事です! ご主人さま! 最後のお願いです。外に出てくださいませ。外に出て、日の光を、日光を浴びてください! 外の空気を吸ってください。ご主人さまに必要なのは何よりも生きる事、生きる事そのものです。ただ散歩するだけでも構いません」

 

 「ご主人さま、私は愚かで、学問の事はわかりませんが、ご主人さまは、この世界の背後にたった一つの方程式を見出そうとしていらっしゃる。その方程式が見つからなければ、てこでもここを動かないつもりでしょう。しかしそんな方程式なんてものはありはしません。ただ、この世界そのものがひとつの方程式なのです! 世界に裏側なんてありません。「表」が全てです。そうして、私達のような凡人は、そういう世界で四苦八苦して、成功したり挫折したり、喜んだり悲しんだりして生きています。そしてそれこそが生きる事の全てなのです!」

 

 「ご主人さまは、あまりにも賢くていらっしゃるので、世界の裏側をめくって何かないかと、何十年も試行錯誤しているのです。凡人のようにくだらない人生を送る事になりやしないかと恐れていらっしゃる。ですが、そんな魔法のような答えはどこにもありません! 世界のどこにも、どんな立派な書物にもそんな事は書いてありません! どれほど裏をめくっても、そこには何もありません! ご主人さまに必要なのはただ生きる事、生きる事です。なんでもいい、外に出て、今から"生きて"ください! 今ならまだ間に合います! "生きて"ください! …これが私の、たった一つの、そして最後のお願いです!」

 

 召使いは息を切らせて言った。彼ももう老齢だったので、それだけ言うだでも精一杯だった。召使いはなんとか立っているという風だった。

 

 "彼"は、召使いの言葉に軽いショックを受けていた。召使いがまさかそんな反抗的な言葉を投げかけてくるとは思わなかったという事、それがショックの原因の一つであり、もう一つは言葉の内容だった。

 

 彼はにやりと笑った。召使いの目を見た。

 

 「いつの間にやら、君は"哲学者"になっていたようだな」

 

 召使いの方でもじっと彼を見ていた。

 

 「…わかったよ、君の言いたい事は。だが、君の言っているのは世に溢れている通俗的道徳に過ぎん。「書を捨て、街に出よ」というありふれた広告文句さ。…君は私が思っていたよりも、遥かに賢かったようだな。…それでも、それが私よりも賢いという事を意味するわけではない。…さあ、もう用事は済んだだろう。去りたまえ。もう十分だ。去ってくれ、私は忙しいのだ」

 

 「ですが…」

 

 「去れ! もう十分だ!」

 

 彼は拳を振り上げる動作をした。召使いは、躊躇したが、すぐに切り替えて、深々とお辞儀をした。

 

 「失礼な事を言って、申し訳ありませんでした」

 

 召使いは部屋を出て行った。彼は召使いがドアを閉める動作をじっと見ていた。ドアが閉まっても、閉められたドアをじっとにらみ続けた。まるでドアの表面に何か特殊な紋様が施されているとでもいったように。

 

 ※

 その後の彼と召使いの生活は別段変わらなかった。二人は、口論の件に関しては口をつぐみ、召使いもそれ以上、忠告を与えるというわけではなかった。彼の方はすぐにそんな事を忘れた。彼の方は相変わらずの研究に戻った。

 

 それから半年ほどして、召使いが「休息」を申し出た。「一ヶ月ほど、休ませてくれませんか」 召使いは老齢だったし、至極当然の願いと言えた。むしろ、それが引退願いではない事に驚かなければならないほどだった。

 

 「わかった。代わりはこちらで頼んでおくから」

 

 彼は相変わらず、召使いの存在を意に介さなかった。彼は頭の中の、様々な観念のやり取りで一杯になっていた。彼は、召使いの健康が密かに蝕まれていた事実も、気づこうと思えば、気づく事ができただろう。料理を運んでくるのがいつもより五分ほど遅れたり、今まで一度もしなかった遅刻を週に二度もしたり。あるいは召使いが、廊下でうつむいている様子を見て、「大丈夫か」と一言声をかける事だってできたはずだ。しかし彼は、召使いのそんな姿に気づかなかった。いや、気づこうとしなかった。相変わらず、彼は自分自身にかかりきりだった。

 

 一ヶ月の休みの間、代わりの人間がやってきた。若い女のアルバイトだった。彼はいつもとは勝手が違い、細かい事も教えなければならないのを面倒に感じた。彼女が作った料理は辛すぎて、彼が苦言を呈すると「そうですかね」ととぼけた声を出した。彼ははじめて、自分にとってあの召使いが身体の一部のようにしっくりと自分自身に馴染んでいたのだと自覚した。あまりにも自然だったので、彼はその存在に目を留める事すらしなかったのだ。

 

 一ヶ月の休みが終わっても、老いた召使いは戻ってこなかった。戻ってくるべきはずの日に、やってこない。さすがに彼もやきもきとして電話をかけた。召使いの家へ。電話番号を探すのにひどく手間取った。

 

 召使いは電話に出なかった。「すっぽかしやがって」 彼は噛みつくように言った。だが、言ってみてから、召使いが約束をすっぽかすような人間ではなかったと思い返した。召使いの電話番号の下には、「関係者電話番号」と書いてあり、そこに召使いの妹の電話番号が載っていた。彼はそこに電話をかけた。

 

 長いコールのあとにやっと電話に出た。「はい」 乾いた、しゃがれた声だった。かろうじて女の声だとわかった。

 

 彼は要件を伝えた。戻ってくるはずの召使いが戻ってこない、召使いは一体、何をしているのか?と。

 

 回答は単純なものだった。

 

 「あの人はもう死にましたよ」

 

 それだけだった。もう葬儀も済んだらしい。召使いは、二週間前に亡くなっていた。召使いは独身で一人暮らしだった。召使いは家に一人で寝ていたが、体調が悪く、食料の調達を妹に頼んでいた。妹は高齢だったが、まだ体は元気で、足腰も悪くなく、おまけに家が近かったのでそれが可能だった。妹の夫も手伝ってくれた。妹夫婦が召使いの面倒を見ていたのだ。

 

 ある日、妹が召使いの家を訪ねたら、ベルを押しても反応がない。扉を押してみると、鍵が開いている。中に入って部屋を覗くと、召使いはベッドに横たわって眠っている。寝ているのかと思ったが、どうも様子がおかしい。そっと顔に触れてみると、もう冷たくなっていた。

 

 それが、妹の語る召使いの死だった。実にあっさりとした話だった。

 

 「うちのものが亡くなったのを伝えるのが遅くなって、申し訳ありません」

 

 妹はごく形式的に言った。彼は、さすがにショックを受けたが、その動揺を自分でどう取り扱えばいいのかわからなかった。彼は、形だけのお悔やみの言葉を述べた後、電話を切った。

 

 「死んだか」

 

 電話を切ると、彼は呟いた。寂寥が胸の内から湧いてくるようだった。何十年も前に、両親が亡くなった時の事を急に思い出した。あの時は全く悲しくなかった。彼はその時、何十年も前から一歩も成長していない自分自身というものを急に見出した。自分の心の眼にありありと見えるようだった、受話器を握っている自分自身が。彼は、自分の中から悲しみが溢れてくるのをどうにもできなかった。無力感をひどく感じ、膨大な書物を読みながらも、全くと言っていいほど"成長"していない自分自身を強く感じた。

 

 

 ※

 さて、ここまでこの文章を読んできた読者は、次のように考えるかもしれない。

 

 (この物語の主人公はどうしようもないクズだが、召使いの死を契機に、外界へ出て、少しはマシな事をするのだろう。そうじゃなきゃ、この話は救い難い)

 

 実際、そんな物語を私は知っている。これまでぼんやりと流されて生きてきた男が、自らが死病にかかっていると知って、最後の力を振り絞り、他人の為になる事をした、そんな作品だ。私はその作品が大好きだ。

 

 …ところが、この物語の主人公は全くそんな事をしなかった。彼は相変わらず、部屋に籠もりきりで、読書三昧だった。彼は相変わらず、世界の真理を見出そうと必死だった。

 

 確かに、彼は召使いの死に、はじめてと言っていいほどの痛切な悲しみを覚えたが、とはいっても、これまでの慣習を一時に変えるのは難しい。外の世界に出る事もなく、真に人生を生きるでもなく(それがどういう事かわからないとしても)、他人の為になる事をするでもなく、相変わらず同じ事をし続けていた。

 

 彼はそんな暮らしを続けていた。彼はずっと同じ事を続けていた。そうしてある日、彼は死んだ。彼が八十五才の時で、死因は老衰だった。彼は召使いが亡くなった後、十五年も生きたわけだ。その十五年は、それまでの彼の暮らしと大差なかった。七十五を越えたあたりから歩行が困難になり、読書も難しくなり、ベッドに横になる事が増えたが、彼は得た知識を組み合わせて、頭の中で真理を見つけようとした。

 

 彼はそうしてただ死に、その死は、その生と同様にほとんど意味がないようなものだった。彼が一度も顔を合わせた事がない親戚に彼の遺産は相続され、その遺産のほんのわずかの部分を使って彼の葬式が営まれた。葬式に来たのは、遺産を相続した親戚一同だけだった。

 

 実に寂しい生涯だった。何の意味も、価値も見いだせなかった生涯だったと言っていいだろう。…もっとも、ここには、そう断言するのが難しい、ある小さな事実があった。その事実は私にとっては"謎"だが、その謎について最後に記して、この些細な男の物語は終わりにするとしよう。

 

 ※

 さて、彼は死んだ。ある日、ベッドに横になって、あくる朝、召使いが様子を見に来た時にはもう死んでいた。

 

 召使いは、中年の女性が新しく担当していた。よく働く、気のつく人物で、彼もそれほど不満はなかった。召使いは、いつものように、午前十一時過ぎに、鍵を開けて家にはいった。彼女は簡単な掃除と、昨日の分の汚れた皿を掃除すると、いつもの遅い朝食(彼は夜更かしだったので、昼食の時間が朝食だった)を部屋に届けようと、ドアをノックした。ところが、いつもは反応があるのに、中から何も聞こえなかった。

 

 彼女は三度ノックすると「入りますよ」と一声かけて、中に入った。彼はベッドに横たわっていた。彼女は、寝ているのかと考えたが、あまりにも動きがない。不自然に思い近づくと、どうも奇妙な表情をしている。彼女はそっと頬に手を触れてみた。するともう冷たかった。彼女は驚き、部屋を出て、救急車を呼んだ。

 

 …それが彼の死体の発見状況だが、そこには、語り手の私から見て、不思議な事実があった。それが私が"謎"と呼んでいる事態である。

 

 それは何かと言うと、死んだ彼の顔が笑っていたという事だ。彼は、笑っていた。それは死後硬直のせいであるとか、何らかの生理的要因で笑っているように見えただけ、という可能性もあったが、はっきり、ニンマリと笑っているようにしか見えなかった。後に、召使いはその表情について次のように証言した。

 

 「あれは"笑顔"でした。間違いなく、笑顔でした! ご主人さまは本当に笑っていたんです! 私はあの人の笑顔をあの人が死んで、はじめて見たんです!」

 

 事実、彼は笑う事のない人間だった。交代した召使いも、その前の召使いも、彼が笑ったのを一度も目撃しなかった。にもかかわらず、彼の死に顔ははっきりと笑っていた。彼は笑みを浮かべながら死んでいったのである。

 

 更にもう一つ、不思議な事実があった。それは彼が寝ているベッドの横に置いてあった机の上のある物だった。それは「ノート」であり、ごく普通の、学生が使うようなノートだったが、そこには次のように走り書きがされていた。

 

 「これまで私のしてきた事は無意味だった! 人生の真理なんてありはしない! やつの言う通りだった! 私は間違っていた! ああ、私は間違っていたんだ! ただ、それだけだ!」

 

 それが彼が死ぬ前に記した最後の言葉だった。そのほとんど意味のない文章は、彼の人生が無意味である事を自ら物語っていた。少なくとも、そう絶望した事を意味しているはずだ。

 

 もっとも、この走り書きが本当に彼の書いたものだとしたら(それ以外の可能性は考えられないのだが)、それは、彼が死ぬ前に笑顔だったという事実と、整合性が取れない。

 

 ノートの走り書きが正しいのであれば、彼は絶望して死んだはずであり、苦悶の表情を浮かべていなければならないはずだ。あるいは死に顔にそんな整合性を求めても仕方ないというのなら、別に無表情でも構わないが、しかし"笑顔"というのはどうしても私には納得できない。

 

 彼があのような走り書きをしながら、なおかつ、その事態に希望を持ってみたり、歓喜を感じたりするという、そういう可能性がどうしても私には理解できない事柄として残る。

 

 …さて、私は、ここまでだらだらと書いてきたが、実はここからの解決はこの文章を読んでいる読者に委ねたいと思う。この事実は私の理解力の手に余る。私は、この人物に興味を持ち、あるいはこの人物の内面にまで入り込んで、このような文章を綴ってきたのだが、最後に現れるこの事実、矛盾だけはどうしても解く事ができない。そこで、慧眼の読者に、お願いしたい。問いは次のようなものだ。

 

 「絶望したはずの彼はどうして死ぬ前に笑っていたのか?」

 

 これが問いである。彼は自らの人生の無意味をノートに書き記しながらも、同時に、笑いながら死んでいったのだ。これらの事は、私には矛盾としてしか思えない。

 

 明敏なる読者はきっとこの問題を解いてくれるだろう。私としては、"彼"の人となりに興味を持ってここまで文章を綴ってきたが、この先の解答は読者の手に委ねたい。私にはどうしても…どうしても、彼が死ぬ間際に笑っていた"意味"、それがどうしても、わからないのである。

 

 

 

 ※※※

 蛇足ですが、ヒントと後記を。

 

 この物語の答え合わせをする気は作者にはありません。その答えはまさに読者自身の"心"で持たれなければならぬものであり、また、読者自身が"それ"を生きなければならない性質のものだからです。


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― 新着の感想 ―
[一言]  いつも興味深く拝読させていただいております。     この作品は、意味というものの意味に意味があるのかどうかを果たして語り得るのだろうかという大変興味深い思考実験のように思えました。  …
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