王太子の婚約者
アスタマリア王国。豊かな自然に囲まれ、資源にも恵まれたこの国。大陸でも帝国と双璧を為す大国だ。周辺諸国はその様子を常にうかがいご機嫌取りをしている。
そんな国の王家に第1王子として生まれ、今は王太子となったレオナルド・アスタマリア。切れ長の目と銀色の髪が特徴的で滅多に笑わないことから狼王子と呼ばれる彼には一人の婚約者がいる。今はその婚約者と王城の庭園で茶を飲んでいる最中。しかし、レオナルドの顔には何の感情も浮かんでいなかった。
「殿下。この紅茶は大変美味でございますよ。我が領地で採れた一級品でございます。どうぞ、召し上がってくださいませ」
金色の髪を風になびかせながらレオナルドの婚約者であるアナスタシア・ヒルデガンドは笑う。
「……ああ。頂こう」
アナスタシアが横にいる給仕の者に目配せをすると給仕の者はティーポットを手に取り、レオナルドのカップに注ぐ。その様子をレオナルドは興味なさげに見届けた後、一口、茶を口に含んだ。
「いかがでございますか? 美味でございましょう?」
「確かにうまいな。さすがは公爵家の茶だ」
「ふふっ。褒めていただけて嬉しゅうございますわ」
「…そうか」
楽しそうに笑うアナスタシア。その目の前で無表情で茶を飲むレオナルド。その様子は歪なものだった。
「ところで、殿下。お聞きになられましたか?」
「何をだ」
「明日から学院に編入生が入るらしいと言うことをです」
「編入生?」
「ええ。何でも伯爵家の者らしく、領地経営の手腕が素晴らしいと話題だそうですよ。勉学も素晴らしく、編入試験は満点だったとか。素晴らしいですわね」
「そうだな。満点はすごい」
「ま、編入試験は金次第でどうとでもできますが」
アナスタシアがそう口にした途端、これまで無表情を貫いてきたレオナルドの眉が少し上がる。そのほんのわずかな変化に気付く者はおらず、目の前に座るアナスタシアでさえ、気にした様子はない。
「金で満点をやるとは思えんがな」
「いえいえ、満点はなくても少しの増加点はあるでしょう。100点満点のテストだっとして初めから20点の増加点が与えられていれば後はテストで80点以上撮れば100点以上になるので満点になるのですよ」
「…私には学院長がその様なことをするとは思えんな」
「分かりませんよ、殿下。王になればその様な事にも気をつけなければなりません。あまり人を信用しすぎてはなりませんわ」
「…そうだな。気をつけよう」
「ええ、それが良いですわ」
話に一区切りがついたところで王城の鐘がなる。定期的なる時報の事だ。鐘の音を聞いたレオナルドはアナスタシアに目をやる。
「時間だな」
「ええ、今回の茶会も楽しかったですわ。また、お誘いくださいませ」
「ああ、そうしよう。では、私はこれで」
「また明日、お会いいたしましょう。殿下」
別れのやりとりを交わしたレオナルドはアナスタシアに背を向けて歩き始める。それを合図に給仕の者達は一斉に片付けを始めた。
庭園から王城内へと移動したレオナルドはそのまま王宮へと向かった。今日の予定は先ほどの茶会で終わりのため自室に戻ることにしたのだ。
自室に戻る途中、一人の騎士姿の男がレオナルドに近づいて行く。音を立てず、存在感を消してさながら暗殺者の様に徐々に間を詰める。もしここにこの男とレオナルド以外に人がいたならば不審な行動をしているとして男は捕らえられる所だ。しかし、見張りの位置を把握しているこの男には、王城の中を知り尽くしているこの男には、死角をとって、近づくことなど簡単だった。
男は歩くスピードを速める。男が間合いにレオナルドを捉えようとした時、レオナルドが声を発した。
「何の用だ。ハルク」
ハルクと呼ばれた騎士姿の中年男性は先ほどまでの音を消すような動きをやめて自然な動作に戻った。
「どの辺りからお気づきになられましたか?」
「10メートルほどだな」
「ほう。ですがそれではまだ甘いですな。もし、わしが弓を得意としていた場合、殿下は射貫かれてしまいますぞ」
「分かっている。次は30メートル先からでも気付いてやる」
「これは大きく出ましたな。では次はわしもさらに気配を消しましょう」
「…そうしてくれ。で、ハルク。本当に何の用だ」
「何の用とは失礼な。私は殿下の近衛騎士でございますぞ。おそばには居らねばなりますまい」
「そうか。だが今から私は自室に帰る。もう少しだからお前は自由にしていいぞ」
「おや、もうお休みに?」
「馬鹿者。茶会で疲れたから少しゆっくりするだけだ」
「ははっ。アナスタシア嬢ですか。それは災難でございましたな」
「分かってるなら休ませろ」
「分かりました。扉の前まではご一緒しましょう」
レオナルドはハルクを連れたまま自室の前まで行き、ハルクに、後は適当に見張りを置いておくように言ったあと、自室に籠もり、自室の中で少し仮眠をとった後は学院からの課題を終わらせ、就寝した。
***
翌日、レオナルドは王城から馬車で学院へと向かった。
ハルクはもちろん王城に置いてきている。学院の間は若い近衛騎士が生徒に変装して近くでレオナルドを見守っているのだ。
学院に着いたレオナルドはいつもと同じように午前の講義を終わらせたあと、学院内に用意されている専用の食事部屋へと向かった。その部屋がある建物は学院内でも限られた者しか入れない場所で最低でも公爵家の者しか入れない。個室が用意されており専属の料理人が腕をふるっている。正直、食べる場所などどこでもいいのだが、レオナルドはなんとなくそこに行くようにしていた。
いつもの様に一人で食べ、王族だからと大量の料理を出されるのかと思いながらその建物に向かって歩いてるとそこには普段は見ない少女がいた。いや、少女と言っても着ている制服はこの学院の物で学年章はレオナルドと同じ二学年のもの。レオナルドは年齢に似合わず小柄だなと思いながら横を通り過ぎようとするとその少女から声をかけられた。
「お急ぎの所失礼いたします。少し聞きたい事がございまして。お時間よろしいでしょうか?」
何やら困ったような、申し訳なさそうな顔を浮かべる少女。このまま放っておいてもいいのだがそれでは少し後味が悪い。それに、彼女は見たことがない。レオナルドは同じ学年の者は家柄、性別問わず全て記憶しているのでその記憶にない人物と言うことでわずかな興味も持っていた。
「何かあったのか?」
「はい。実は私、この学院に来るのは今日が初めてでありまして、まだ全体の構造を覚えられていないのです。つまり、何が言いたいかと言うと食堂の位置が分からずに困っているのです。このままでは私は午後の講義を空腹のまま過ごすことになります。ですので、案内していただけないでしょうか」
「…案内? 私にか?」
「はい」
正直、レオナルドは面白そうだと思った。普段の生活では自分に案内を頼むなんて者はいない。案内されることしかないような男だ。そんな自分が同じ学年の見知らぬ少女に案内しろと言われた。非日常的なことに面白みを見つけたレオナルドはその少女を案内することにした。
「いいぞ。こっちだ、ついてこい」
「おお。ありがたい。ではお言葉に甘えて」
そして自分もたまには普通の食堂で食べることに決め、少女を食堂へと誘導した。
食堂に着いて中に入ると視線が一気にレオナルドへと集まった。いつもは専用の部屋で食べている王太子が突然食堂に現われたのだ。しかも少女同伴で。当然である。レオナルドもそれは分かっていたとばかりに視線を気にすることなく歩を進める。だが、隣にいる少女はそうではなかった。
「ちょ、ちょっと、なんでこんなに注目されてるんですか…? 私そんなに珍しいですか?」
「何を言っている。当然のことだ。いいから、使い方を教えてやる。ついてこい」
レオナルドは彼女が自分の事を王太子として認識していないことに気がついていたがあえて告げずにこの状況を楽しむことにした。その様子はその表情からは全く読み取れないが。
そんなレオナルドの隣を歩く少女はと言うと一人でぶつくさと「ひょっとしてこの人のせいか? ちょっと恐そうだし、なんか有名そう。うん、この人のせいだ」などと呟いていた。
「ここで注文をしてあちらで受け取る。メニューは確か10種類くらいだ。好きなのを選ぶといい」
注文口まで来たレオナルドは少女に使い方を説明する。と言っても簡単なことなので一言で説明は終わった。
二人はそのまま注目を浴びながら注文を済ませ、料理を受け取り、席は勝手にのいてくれた事で空いた風が心地いい一番良いところに座った。視線に対してレオナルドは堂々としていてさすが王太子と言いたくなるような風貌だったが対する少女は正反対で小さくなりながらもそもそと食事を取っていた。
やがて、耐えられなくなったのか少女はレオナルドだけ聞こえる様に声をかけた。
「あの、もしかしてですけどあなた、有名人ですか? ていうかそうですよね? この注目度合いは尋常じゃないです」
「ああ、有名人と言えば有名人だ」
「悪い意味でですか、いい意味でですか?」
「さあ。私にも分からん」
「む。ですがこの状況では私が食べにくい。どうしましょう」
「気にしなければいい。どうせ見てるだけだ」
「甘い、甘いですよ。まるでチョコレートの様に甘い。いいですか、周りの目とはゆくゆくは口になり手になり、足になるのです。噂が噂を作り、噂は知らぬところで恨みや妬みを作り出す。そしてそれは本人に及び、危害が加えられる。このように、周りの目は自分に危害が及ぶ可能性があります。ああ、恐ろしい」
人差し指を顔の前に立て、ちっちっちと舌をならしながら語り始めた少女にレオナルドは困惑する。頭の中には?マークがたくさん浮かんでいた。
「待ってくれ。まずちょこれーととは何だ。そして周りの目が恨み妬みを生む可能性は分かる。口になる理由も分かる。だが足ってなんだ、足って」
「細かいですね。チョコレートは気にしないでください。私独自の例えです。足が何なのかって言われても勢いで言ったので分かりません。気にしたら負けです」
「……」
レオナルドは唖然とする。自分で言っておいてよく分からない、しかもそれを王太子である自分に言う。いや、王太子として認識されていないことは分かっているがそれでもびっくりだ。
レオナルドの表情は珍しく驚きを表していた。そのことに対して群衆はまたも注目する。普段無表情な王太子殿下があんなにも驚いた表情をするのかと。一体何を言ったのだと。
「なんですかその顔は。あんまり気にしていると生きづらいですよ。はい、この味噌スープでも飲みなさい」
「…なんだこれは…」
呆れた様に少女が取り出したのはとても人が飲めるとは思えない色をした液体だった。そしてそれが入っているものも珍しかった。見た感じ木をくりぬいて作っている筒の様だがそれにしてはあまりにもなめらかすぎる。
「これは味噌スープと言って我が領地で最近出来た物です。簡単に言えば豆を潰して煮て、熟成させたものを漉したものです。おいしいですよ」
「…毒ではないのか?」
「失礼な! ほら! 私も飲みますよ!」
少女は同じ筒から液体を器に出してそれを飲み干した。レオナルドはこんな色の物を飲むなんて異常だと思ったが目の前で飲まれては仕方ない。毒だったとしても少しなら慣れさせられている。器を口につけ、少しだけ口に含んだ。
「…うまい。こんな物は初めてだ。何というか落ち着く味だ」
「でしょう。私の領地自慢のものですよ。いや~これでこちらでも広められる事が分かった」
レオナルドの前でガッツポーズをする少女。レオナルドは器に入った味噌スープを全て一気に飲み干し、一息ついた後、少女の方を見て言った。
「そうだな。これはいい物だ。よし、私も協力しよう。気に入った」
「ええ、それは申し訳ないですよ。お手間を取らせるわけには・・」
「うん? 私では不満かな?」
レオナルドは遠慮する少女を見つめる。片手で頬杖をつきながらその碧の目でじっと。
少女は少し恥ずかしくなったのか目をそらしながら「いや~、えっと~」としどろもどろになっていた。
「そうか。王太子と言う地位では不満か。では陛下に頼んでみよう」
レオナルドは表情にはあまり出てないが声だけは楽しそうにそう言った。その言葉を聞いた少女は目をレオナルドにすぐに戻し、徐々に大きく見開いていく。先ほどまでとは違い、「マジかよ!」といった感じでレオナルドの碧の目を見つめた。
「…え、お、おうたいし…。追う大使? 欧大使? ……王太子!? いや! ちょっと待って! え? 私王太子殿下にあんな口を? 終わった…。不敬罪で処刑台送りだ…。お父さん、お母さん、今までありがとう。娘は旅立ちます…」
激しく狼狽した少女は今までの事を思い出して絶望した後、諦めてそれに向かって良い笑顔で手を合わせ始めた。
その様子を見たレオナルドは思わず吹き出してしまう。普段、狼王子と呼ばれ、笑わない王子として有名だった彼がだ。
「ふはっ! あっはっはっはっはっはっは!!」
「魔王の笑い声が聞こえるよ。お父さん。さんはい! マイ ファーター マイ ファータ!」
少女はその笑い声を勘違いしてもうどうにでもなれといった感じで何かの曲を歌い始める。食堂はもはや地獄絵図だった。大声で笑う狼王子、それに驚愕してざわめく群衆、一人半泣きで歌う少女。その絵は数分間続いた。
「っはっは~。いや~こんなに笑ったのは久しぶりだ」
「へっ。楽しそうですね。こちらは不敬罪で裁かれることに震えていると言うのに」
笑いが収まったレオナルドは少女にそう言うも、少女は少しふてくされて投げやりになっていた。レオナルドの表情は笑った事による効果か少し柔らかい表情を保っていた。
「そう言うな。黙っていたのは悪かった。そもそもそんな事で不敬罪を適用したりはせん。こちらも身分を明かしていないのだから責任は問えんだろう」
「…本当ですか? 後からやっぱり嘘とかなりません?」
「大丈夫だ。安心してくれ」
伺うような目線を向けていた少女はレオナルドのその言葉を聞いて安堵のため息を吐く。大きく背もたれに身を預け、全身の力を抜いた。
そんな少女を見ながらレオナルドはふとあることを思い出す。
「そういえばそなたの名前を聞いていなかったな」
「あ! そうでした。これはこれは失礼をば」
少女は立ち上がって姿勢を正した後、臣下の礼をとってひざまずく。
それをレオナルドは止めさせようと口を開いた。
「いや、そんなにかしこまるな。先ほどまでの様に接してくれて構わない」
「いえ、しかしですね、殿下の体面と言うものが…」
「ならば命令だ。私に臣下然として接してくれるな」
少しずるいやり方だがレオナルドは目の前の少女には他の貴族とは違う何かを感じたのだ。だから先ほどまでと同じように気楽に話せるようになりたいと思っていた。少女とはそのような関係が一番いいような気がしていた。
少女はレオナルドの言葉を聞いてしぶしぶ臣下の礼を解いて椅子に座り直した。
「では、お言葉に甘えて。私はマリアンヌ・ディストニアと言います。この王都より遙か西方に領地があるディストニア伯爵家の次女です」
「聞いたことがあるぞ。確か最近、栄え初めている領地で…。もしかしてそなたが編入生か」
「そうですね。今日から編入してきました。あの糞親父、私は味噌の研究をしたかったのに…!」
目の前で当主である伯爵を糞親父呼ばわりするマリアンヌに対してレオナルドは少し嬉しくなる。彼女は自分の目の前で本当に素でいてくれているのだと。
「そういうな。私はマリアンヌと出会えて良かったと思っているぞ」
「っ!! な、なんですか、口説いてるんですか! 私イケメンには弱いのでそういうの言われると案外コロッといってしまうから」
「いや、私には婚約者がいるからな」
「なんだよ。期待させやがって。このスケコマシが」
「ひどい言い草だ」
「はんっ!」
鼻を鳴らしながらそっぽを向いた彼女にレオナルドは優しく笑いかける。それと同時に今日の予定に含まれているアナスタシアとの馬車での下校に少し憂鬱になった。きっとどこかで情報を拾い上げてくるのだろう、そしてまた、けなされるのだろう、と。
***
「殿下。聞きましたわ。お昼は随分と楽しそうだったとか」
帰りの馬車の中で外を眺めていたレオナルドにアナスタシアは話しかける。その顔には笑顔が浮かんでいるが対するレオナルドには何の表情も浮かんでいない。
「ああ、随分面白い令嬢を見つけてな。少し話しただけだ」
「あら、殿下。分かっておいででしょうがあなたの婚約者は私。あまり令嬢と仲良くなさるのはよくありませんわ」
「…分かっている。私の婚約者はそなただ。何も懸想している訳ではない。安心しろ」
「ええ、そうでなくては困りますわ。その令嬢は編入してきた子みたいですし。伯爵家も殿下に取り入ろうとしているのかもしれません。お気をつけください」
「分かっている」
「まあ、私がその令嬢に劣るところなどありませんので日々私から指導を受けている殿下は大丈夫でしょう」
レオナルドの眉が上がる。
「指導…だと?」
「ええ、常日頃から殿下の行動に難があればご指摘し、諫言を述べる。これは指導と言ってもよろしいのでは?」
「……そうか、指導か。そなたがそう思っているならばそれで構わん」
「ふふっ。これからも殿下のご様子を見ていますのでそのおつもりで生活をお送りなさいませ」
「…分かった。気をつけよう」
この日の会話はこれが最後だった。その後は馬車でアナスタシアの王都の家まで向かったあとレオナルドは王城へと戻り、政務を少ししたあと自室に戻った。
自室に思ったレオナルドは椅子に深く腰を下ろし、アナスタシアの事に考えを巡らせた。アナスタシアとは公爵と王が旧友だったために結ばれた婚約。だが、アナスタシアには悪癖がある。それは人を見下し、自分が一番だと思い込むことだ。故に彼女の会話には必ずと言って良いほど誰かを下に下げるような内容が含まれる。もちろん、何度もそれを注意したが彼女は下に見ているレオナルドから注意されることに苛ついたのか全てを無視した。やがてレオナルドは注意しなくなり、彼女との会話に花を咲かせることもなくなった。
いつからこうなったのかと、頭を巡らせる。
なぜそんな事を考えているのか。その理由は分からないがもしかしたら今日のマリアンヌとの会話のせいかもしれないと思い始めた。レオナルドはあの少女との会話は楽しかったと不思議と穏やかな気持ちを抱く。
そのままベッドに入り、安らかな気持ちと共に夢の中へと落ちていった。
***
それからと言うもの、レオナルドはマリアンヌに興味を抱くようになっていった。専用の食事部屋に行くことは無くなり、通常の貴族達が使う食堂で昼食をするようになった。もちろん、アナスタシアからご指導は頂いていたがレオナルドはそのたびに下々の味を知るのも王となるための教育としてアナスタシアを落ち着かるようにしていた。レオナルドとしてはそんな意識は全くなく、いつもやってくるマリアンヌとの会話を楽しむことだけが目的だった。
レオナルドにとってマリアンヌが話す事柄は非常に興味深かったのだ。例えば、カレーと呼ばれる食べ物を作りたいと言う話、濾過装置を作ってそこら辺の水を飲めるようにしたいと言う話、挙げ句の果てには空を飛ぶ乗り物を作りたいとまで言い始めた。その珍しさや奇っ怪さにレオナルドは笑い、レオナルドにとってその時間は幸せな時間となっていた。
だが、レオナルドの行動を監視し、その様子を聞いているものは面白くない。そう、アナスタシアだ。レオナルドがそのような行動を取り始めてから、彼女はレオナルドに何度も注意した。それではレオナルドがマリアンヌ嬢に懸想していると思われる。私がマリアンヌ嬢に負けるような魅力の無い女性だと思われる。だから止めろと。
だがレオナルドその言葉にこう返した。「婚約者はそなたで未来の王妃もそなただ。それは変わらないし変えようとも思わない。周りの皆に聞こえるように私には婚約者がいるとマリアンヌ嬢にも言ってある。それにそなたと帰ったり茶を飲んでいることも皆に見せているし変な噂が立つことはないだろう。心配はいらない」と。
本来ならば噂など所詮は信用に値しない。勢力の大きい貴族ならば噂の一つや二つあって当たり前だからだ。だが、アナスタシアにとってはそうでは無かった。レオナルドの配慮によって自分が捨てられたなどという噂は立たないだろう。だが、皆の心の中までは分からない。アナスタシアは例え心の中であっても自分が誰かより劣っていると思われることに耐えられなかった。しかもその相手が伯爵家という自分より身分の低い者。
アナスタシアは自分のプライドが傷つけられ、マリアンヌに対して怒りを抱く様になった。レオナルドの前ではそれを一切見せず、気にしていないフリを続けた。もう手遅れにも思えるが気にしていると思われることも彼女にとっては屈辱だったのだ。
***
レオナルドが食堂で食べるようになり、アナスタシアがマリアンヌに怒りを覚えるようになってから数週間が過ぎた頃、事は動きはじめる事となる。。
その日、レオナルドはいつもの様に馬車で学院へと向かった。そしていつもの様に玄関から校舎へと入る。そこでレオナルドは珍しく、マリアンヌと遭遇した。
だがマリアンヌはいつもと様子が違っていた。マリアンヌの顔は少し元気がなさげでつかれているように見えたのだ。
昨日、食堂で話したときはあんな顔はしていなかったはずだ。と思ったレオナルドは心配な気持ちからマリアンヌに声をかけた。
「マリアンヌ、顔色が悪いぞ。何かあったのか?」
後ろから声をかけられたマリアンヌはゆっくりと振り返った。
「ああ、殿下。おはようございます」
「ああ、おはよう。それより大丈夫か?」
マリアンヌはその顔に一瞬の驚きを表したあと、すぐに笑みを作る。
「大丈夫ですよ。少し調子が悪いだけですので」
「本当か?」
「ええ、大丈夫です。寝不足もありますから不調に見えると言うのもあるでしょう。心配なさらないでください」
「…そうか? 無理はするなよ」
「ええ。では殿下、また昼に食堂で」
「あ、ああ」
マリアンヌはらしくも無く弱ったような笑みを見せた後、ぺこりと会釈をしてレオナルドに背を向けた。寝不足に、おそらくは風邪。そうあたりをつけたレオナルドは自分も講義へと向かった。
昼。レオナルドが食堂に着くとマリアンヌはもう席に着いていた。だが、うつ伏せでしんどうそうだ。注文する前にレオナルドは席へと向かい、マリアンヌに声をかける。
「マリアンヌ。何かいるいるものはあるか? いや、無理はするなそこで楽にしていろ」
顔を上げて立ち上がろうとしたマリアンヌをレオナルドは手で制した。予想以上にうなだれているマリアンヌに無理はさせまいとレオナルドはマリアンヌの分も買ってくるつもりでいる。
「あ、いえ、大丈夫ですよ…。このくらいは平気…」
それでもマリアンヌがレオナルドの手をどかして立ち上がろうとしたときだった。
「マリアンヌッ!!!!」
マリアンヌはその場に倒れ込んだのだ。
レオナルドは咄嗟に地面とマリアンヌの間に手を入れて抱きかかえる。レオナルドの高い運動神経が為せたこと。他の者だったならば彼女を受け止めることなど出来なかっただろう。
「道を空けよ!」
レオナルドは声に反応した周りの学生達を押しのけながら医務室へと走り始めた。マリアンヌの体から伝わってくるのは尋常ではない熱。一刻も早く専門の者に見せるために他人の目を気にせずに学内を全力で走り抜ける。
医務室につくとすぐにベッドに寝かせるように言われ、後の処置はこちらでやるため気にせずに昼からの講義には出席するように言われる。普段元気なマリアンヌが今は顔を蒼くさせて苦しそうにうめいているのを見て、今朝の段階で気づけなかった自分を恨めしく思いながらレオナルドは医務室を後にした。
午後の講義も無事に終わり、レオナルドは医務室に直行した。ちょうど今日はアナスタシアとの下校の予定も入っていない。講義室を飛び出て、医務室に駆け込む。
そこで見たものはマリアンヌを見つめる見慣れない医師と医務室に常勤で詰めている医師。そして少し汗ばんだ顔だが苦しそうな顔では無く静かに寝息を立てているマリアンヌだった。
「マリアンヌは無事なのか」
マリアンヌを見つめる二人にレオナルドは問いかけた。二人はレオナルドが入ってきていた事に今気づいたようですぐに頭を下げた。
「殿下。この方は今は安定しているものと思われます。この先時間の経過とともに回復していくでしょう」
「そうか。良かった…」
大事には至らなかったことに安堵のため息をもらす。医師はそんなレオナルドを見ながら言う。
「ですが殿下。お伺いしたいことが」
「なんだ」
医師は廊下や部屋の中に他の生徒や人物がいないことを確認した後、開きっぱなしだった扉を閉め、小さな声で問う。
「この方は殿下の何ですか?」
「ただの友人だ。…なぜそれを聞く」
「なるほど。では、殿下が要因では無いかもしれませんが」
「なんだ」
「この方が先ほどまで苦しんでいたのは風邪や突発的な発熱などではありません。毒です。おそらくは夢折り花の」
夢折り花。それは西方の地域に生息する毒花だ。茎の部分に毒が含まれ、致死量までいかなくとも高熱や倦怠感、めまいなどを引き起こし、気を失う。気を失ってからの対処が遅ければ死に至ってしまう毒。
「……そうか。毒か。分かった」
「殿下…?」
最近はよく笑うようになり、普段の表情も幾分か柔らかくなったと話されていたレオナルド。その彼は今、無表情だがその切れ長の目には怒りの炎が上がっていた。
「よくやってくれた。この者は私の大切な友人だからな」
「は。有り難きお言葉」
「あとで父上にも優秀な者がいると進言しておこう」
「ありがとうございます」
「マリアンヌには後ほど迎えを来させる。目が覚めたらその者達に伝えてくれ。私は用事が出来たのでこれで失礼する」
「は。了解いたしました」
レオナルドは目に炎を宿したまま医務室を後にし、王城へと急ぎで戻った。その足で執務室には向かわず、王宮へと向かい自室に入る。そしてある者を呼び出した。その者はすぐに現われる。レオナルドはその者にいくつか指示を飛ばしたあと、近衛騎士団の副隊長でもあるハルクを呼び出し指示を出した。
***
それから一ヶ月が経ったある日の夜。その者達はある人物の屋敷の前に立っていた。全身を黒の衣装に包み、夜の闇と同化している。顔も目以外は布で覆い隠し人相は分からない。その屋敷がある区域一帯に光は無く皆が寝静まっているのが分かる。
その一段のリーダーと思わしき人物は屋敷に向かって振り上げた手を降ろした。それを合図に黒づくめの集団は見張りの者を数人残して一斉に建物の中に入り込む。玄関を音も無く開け、最奥の部屋へと歩を進めていく。屋敷の中は完全に静まり返り、物音一つしなかった。そして黒づくめの集団が部屋の前まで来たところで一人の女性が歩いてくる。金色の髪を窓から差し込む月明かりに照らしながら歩く。
普段、ドレスを着ているが今日はズボンをはき、動きやすい服装で着ていた彼女は先ほど集団の指揮をとった人物に確認をとる。
「ここが、あいつの寝室ね?」
「はい。アナスタシア様。間違いありません」
それを確認すると彼女はにんまりと口を三日月状に裂いた。この扉の向こうにいる人物を消せることに笑いが抑えられないのだろう。しかし、彼女の横にいるリーダーはそうでは無かった。この屋敷の奇妙な点に気がついていたからだ。
「アナスタシア様。この屋敷は妙でございます」
「あら、なにが?」
「見張りがいないことや住み込みの使用人も一人もおりません」
「見張りは置かない主義なのよ。そういう貴族も少なからずいるわ。使用人は住み込みの者は元々いないんじゃないの? 田舎の方の伯爵家だもの」
「…ですが、一週間前までは確かに見張りがいました」
「くどい。ここまで来れているのだからいいでしょう。あとはあいつを亡き者にするだけよ。手はず通りにやりなさい」
「…分かりました」
リーダーはここまですんなり来れていることがおかしいのだと言おうとしたがすぐに止めた。あまり言っているとこのお嬢様は癇癪をおこすからだ。ここでそんな事をされては騒ぎは大きくなってしまう。
リーダーは手はず通りに事を進め始める。扉をゆっくりと開けさせ、中に入る。目標の人物はベットの上で布団に体をすっぽりと収めて寝ているようだ。リーダーはそのベッドを取り囲む様に皆を移動させる。次いで歩いてくるアナスタシアに道を空け、ベッドの近くに立つ。
「さあ、やりなさい」
「はっ」
リーダーは腰の辺りにある小刀を抜き、ちょうど首の辺りに突き刺す様に振り下ろした。ズブッという音が静かな部屋の中に響いた。
「ふふふっ。うふふふふふふ! やったわ! これでやっと安らかな日々を送れる。さあ、こいつの死に顔を見せなさい」
歓喜に打ち震えるアナスタシアとは対照的にリーダーは焦ったように刀を体の前で半身に構える。
「総員! 警戒態勢に入れ!」
それを合図に黒づくめの集団は小刀を抜き、腰を少し落として構える。
「アナスタシア様。やられました」
一気に空気が緊張したものに変わり驚きを隠せないアナスタシアに対し、リーダーは告げる。
「このベッドには誰も寝ておりません。この中はおそらく布を重ねたものか何か。我々ははめられたのです」
「はめられたですって!? そんな訳ないでしょう! ほら! 布団の下には!」
アナスタシアはベッドに近寄って布団を勢いよく剥いだ。その下にあったのは布団を丸く筒状にしたもの。それに丸い花瓶などを添え、人の体に似た膨らみになるように設置されたものだった。
「っ! 誰がこんな事を!!」
狼狽するアナスタシア。彼女はうまくいかなかったことに腹を立てて花瓶を床に叩きつける。花瓶の割れる高い音が鳴ったとき、廊下から声が響いた。
「私だよ。アナスタシア」
廊下から歩いて部屋に入ってくる人物は銀髪の髪を照らしながらその切れ長の目でアナスタシアを睨みつけた。
「レオナルド…殿下…」
そしてその後ろからは。
「マリアンヌ・ディストニア…!!」
「アナスタシア。そなたはやり過ぎたのだ。皆の者、殺人容疑および邸宅侵入でこの者たちを捕らえよ」
レオナルドの言葉を合図にして廊下や部屋のクローゼットの中で待機していた近衛兵達が飛び出す。その中にはハルクも居り、生き生きとした様子で飛び出していた。
黒ずくめの者達も応戦するが一貴族が抱える者達と洗練された近衛兵達では圧倒的に実力が違う。ましてや暗殺者と正規兵。すぐに黒づくめの者達は取り押さえられた。近衛兵達はその高い技術で誰1人殺すこと無く無力化している。
アナスタシアは犯罪者であっても貴族の令嬢。軽く手を後ろで捕まれているだけだった。
「殿下…! なぜ分かったのですか…」
「お前の所にこちらの手の者を紛れ込ませておいたからだ。一ヶ月前の毒の事件の直後からな」
「それも…気付いて」
「そこは勘だ。マリアンヌに毒を盛りそうな相手。それはそなたしか思い浮かばなかった。…他人を見下し、私がそんな事に気付くはずが無いと思っていた事がこうなった原因だろう」
「……」
「私は何度も注意したはずだ。その高いところから物を考える癖はいずれ自分を破滅に追い込む事になると」
「……」
アナスタシアは何も言わない。レオナルドから目をそらし、地面を見つめるだけだ。
「そなたとの関係もこれまでだ。連れて行け」
レオナルドはそんなアナスタシアに対して冷たい声でそう告げた。
近衛兵たちはレオナルドの言葉に従い、アナスタシアとその手下達を屋敷から連れだした。
誰もいなくなった部屋でレオナルドはマリアンヌの方へ振り返る。
「これでもう大丈夫だろう。奴は殺人容疑やその他の罪で投獄されるだろう。出てこられても修道院行きだ」
「ありがとうございます。…ところで殿下、この後はどうなさるのですか?」
「この後か? 王城に帰り後処理だ」
「なるほど。少しお時間は?」
「時間はあるぞ。どうした?」
「ふふふ。実はですね、近衛兵さん達用に味噌スープを作りすぎてしまいまして、思いのほか多く残ったのですよ」
「…どうしろと?」
「私も飲むので一緒に飲んでください。なんなら先ほどの近衛兵さん達を呼び戻しても構いません」
「……ハルクを呼び戻そう。少し待っていろ」
そう言ってレオナルドも近衛兵の後を追って屋敷を出て行った。
この日、レオナルドとハルクは大量に作られた味噌スープを吐くまで飲み続けたのだという。
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後日、レオナルド立ち会いの元、アナスタシアの裁判が執り行われた。その裁判の判決にあたり、アナスタシアの王都邸宅の捜索、領主館の捜索が行われ、夢折り花を入手していたことが分かった。また、それがマリアンヌが倒れた時期と一致したこと、手下の一人がマリアンヌの味噌スープに仕込んだ事を吐いたことで毒の件の罪も加算された。結果、二度に及ぶ殺害未遂、邸宅侵入などの罪より投獄された。
これにより、レオナルドとの婚約も解消されることとなった。新しい婚約者捜しが始まったわけだが、レオナルドは全く興味を示さず、王の言うとおりの人物との結婚をすると告げた。そしてその結果選ばれたのは仲が良いという話が王に耳に入ったディスタニア伯爵家次女のマリアンヌだった。公爵家ではなく伯爵家。それも次女ということで周囲には不満を持つ者もいたが王の決定ということで正面から反対を告げる者はいなかった。
二人は初めは互いに驚き、距離感を図りかねている時期があったが次第に元の様に戻り、仲睦まじく生活を送っているのだという。
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