溝口
溝口
講義室や病院の屋上で稽古を続けて半年、やっと済々会空手部に安住の地が与えられた。
地下一階にある倉庫として使っていた部屋を、病院から借りられる事になったのだ。
「決して広いとは言えんが、今の人数なら十分だろう。部員が増えたらまた考えるさ」
「十人程度なら大丈夫でしょう。サンドバックも吊ってあることだし立派なものです」
初めて福がその部屋に入ると、既にサンドバッグが吊るしてあったのだ。
「ははは、俺は形から入る方だからな」そう言って松岡が笑った。
「ただし一つ困った事がある」
「何ですか?」
「この部屋の前が霊安室なんだよ。仏さんが入っている時には大きな声は出せない」
「霊安室・・・」福は絶句した。
「心配するな。お化けは出ないよ」
「はあ・・・」
「時々病室には出るそうだがな」
「えっ、本当に!」
「嘘だ、お化けは人の頭の中に居るんだよ。怖いと思うから見えるんだ、お化けに主体性はないんだよ、うはははははは」
それ以上、福は何も言わなかった。
また月に一万円ではあるが、病院から活動費が支給される。
「雀の涙だがな」松岡は自嘲気味に笑った。
それでも、病院の部活動として認めさせたことに意味があるらしい。病院としては異例のことだと言う。
福は院外の唯一のメンバーであるが、空手部立ち上げの功労者として自由に地下の施設にも出入りさせて貰っている。
松岡はそれまでにも増して福を中洲に連れ出した。その夜も稽古が終わって松岡が切り出した。
「福、今から中洲へ行く、付き合え」
否も応も無い、ほとんど命令だ。
「はい、でもどこへ?」
「丸山だ。昼間マスターから電話があってな、俺に会いたいという人がいるらしいんだ」
「僕が行ってもいいのですか?」
「ああ、一緒に話を聞いてくれると助かる」
福は、意味が飲み込めないまま松岡に付き合う事になった。
*******
丸山には一人の男が待っていた。歳は四十くらいだろうか。どこにでもいる普通の男に見えた。
男が椅子から立ち上がる。
「溝口酒店のオーナーです」マスターが紹介した。
「溝口です。お初にお目にかかります」
膝に手を置いて頭を下げた溝口の、左の小指が欠けている。
「立ち話も何だ。座ろうか」松岡が促した。
三人が椅子に腰を落ち着けた時、ドアが開いてママが入って来た。
「溝口さん、看板の灯りは消しました。どうぞごゆっくりお話しください」そう言ってママが微笑んだ。
「すみません・・・」溝口が言った。
「いいえ、親分の為ならいつだって・・・」
「恩に着ます」
「いいんですよ、さ、こちらの事は気にせずお始め下さい。お口に合うかどうかわかりませんが、簡単な肴をご用意いたしますので」
ママがカウンターに入り、マスターが三人の前にグラスを置いた。
「私は今でこそ酒屋の店主をやっておりますが、恥ずかしながら、以前はヤクザな世界に首まで浸かっていた男でございます」
グラスに手も付けず、溝口は語り出した。
「それがなぜ、こうして酒屋の店主に収まっていられるかと申しますと、鶴丸組の親分が私の我儘を許して下さったお陰なのです」
「鶴丸組といえば・・・」松岡が言葉を濁した。
「はい、そうでございます」
「それで、私に話しとは?」
「実は親分が胃がんの手術をする事になったのですが、かかりつけの病院が渋っているのです」
「ほう、それはどういう理由で?」松岡が問うた。
「まず第一は、警備の問題です。その病院は大きすぎて警備が難しい」
「対抗組織の問題ですな?」
「そうです。第二に地域住民の反対が予想される、あの辺は住宅街ですから」
「なるほど」松岡が頷く。
「第三は、世間体です。病院の評判を落としたくないのでしょう」
「確かに、黒塗りの車がたくさん止まっていれば、世間体は悪くなる」
「そこで、なんとか先生の病院で手術をしていただけないかと・・・」
「なかなか難しい問題ですな。成る程うちの病院はそれほど大きくはないから警備は楽だ。街の真ん中だから住宅は少ない。病院の性格上患者を断れない・・・しかし」
しかし、なぜ私なのだ、と松岡は問うた。
「松尾組の親分が先生にお頼みせよ、と」
「なに、松尾さんが?」
「はい、自分が頼んでもいいが、それでは外聞が悪かろうと・・・」
「う〜む・・・」松岡は腕を組んで目を瞑り、石像になったように動かなくなった。
重苦しい空気が流れ、福は息苦しくなって死にかけの金魚のように口で息をした。
いったいどのくらいの時間そうしていただろう、漸く松岡が腕組を解く。
「普通なら断るところでしょうが、しかし松尾さんの頼みなら断れない。では、こうしましょう、入院から退院までの警備は警察に任せる。幸い隣は中央署だ、長谷川刑事の後輩、なんて名だったかな・・・」
「石原さん」マスターが答える。
「そう、石原刑事に頼んでみましょう。それから組の車は半径二百メートル以内には近付かない。組員の病院への立ち入りは禁止。この条件呑めるなら、なんとか院長を説得してみましょう」松岡はそう言って溝口を見た。
「有り難い!きっとお約束します。松岡先生どうぞよろしくお願いいたします」溝口は深々と頭を下げた。
*******
「では、今日はこれで失礼致します。ご連絡をお待ちしております」
そう言って溝口は帰って行った。
「先生、ありがとうございました」マスターが頭を下げる。
「礼はまだ早い、院長を説得するという大仕事が残っている」
マスターが頷くと、松岡が福の方を向いた。
「福、どうだった?」松岡が訊いた。
「ど、どうって・・・?」
「世の中は、建前だけでは廻っていかないと言う事だ」そう言って松岡は笑った。
「さあ福、飲み直そう」
「はい」
福は、また一つ大人の世界を知る事になった。