敦
敦
まだ夏の熱気が残る九月、敦が剛道館に越して来た。
九州は暑い暑いと繰り言を言いながら、母屋の二階の部屋にベッドと机と本棚を置く。
福も講義をサボって引越しを手伝った。
「済まんな、お陰で早く片付いた」敦がタオルで汗を拭いながら礼を言った。
「ああ、気にするな。だけど本当にこんなに早く来るとは思わなかった」
「善は急げだ。明日予備校の手続きに行く」
「どこの大学を受けるんだ?」
「九南大だ。お前の後輩にはなりたくないからな」敦はニッと笑った。
「ちえっ、どこまでも負けず嫌いな奴だ!」
「本当はそれだけじゃないのさ。九南大は英語に力を入れている。俺はいずれ外国へ行く、爺ちゃんみたいにな」
「よっぽど源龍先生を尊敬しているんだな」
「そうさ、爺ちゃんは世界一だ」
「だったら、お爺さんに空手を教えてもらえばいいじゃないか?」
「そうなんだが・・・爺ちゃんは俺に甘い」敦は顔を顰めた。
「本当か?」
「ああ、甘々だ。だから俺は自分で強くなるしかない」
「ふ〜ん・・・」
「お前も一緒に来ないか?」唐突に敦が言った。
「えっ、どこに?」福が驚いて問い返す。
「外国だよ。世界中を転戦して回るんだ!」
「俺は嫌だよ」福はきっぱりと断った。
「そうか、残念だな。気が変わったらいつでもそう言ってくれ」敦もあっさり引き退る。
「ああ、気が変わったらな」
一段落ついて一息入れると空腹であった事に気がついた。
「ところで、飯でも食いに行かないか?引越し祝いに俺が奢る」福が話題を転じる。
「いいのか?実は俺、もう腹がペコペコなんだ!」
「バイト代が入ったからな。博多の味を教えてやるよ」ちょっと優越感を感じながら福が鼻を膨らませる。
「俺、一度博多の屋台に行ってみたかったんだ!」敦が目を輝かせた。
「なら、いい店があるんだがそこで良いか?」
「任せるよ!」
*******
福は、松岡とよく行く済々会病院近くの屋台に敦を連れて行った。
「ここのおでんは絶品だよ」
暖簾を分けてイスに座ると福が言った。
「福ちゃん、今日は松岡先生と一緒じゃないのかい?」最近すっかり顔なじみになった屋台の親父が訊いた。
「はい、今日は友達の引越し祝いです」福は敦を指して言った。
「そうかい。で、飲み物は何にするね?」
「敦、ビールでいいか?」福が訊く。
「ああ、喉もカラカラだ!」
「親父さん、ビールとおでんを見繕ってください。俺たち腹が減っているんです」
「了解!たくさん食べていきな。サービスするよ」
「ありがとうございます!」
「福、松岡先生って誰だ?」注文が済むと敦が訊いた。
「すぐそこの病院の先生だよ」福は簡単に説明した。
「ふ〜ん」敦も深くは聞かなかった。
「はい、お待ち!」待つほどもなく福と敦の眼の前に、ビールと山盛りのおでんが置かれた。
「うまそ〜!」
「美味さ!先ずは乾杯だ!」
カチン!とグラスを合わせた。
「美味い!」おでんを一口食べて敦が目を丸くした。
「天ぷらも美味いぞ、あとで頼もう!」
それから二人は、腹一杯になるまで食べて飲んだ。
「もう食えん!」敦が腹をさすった。
「腹ごなしに、散歩でもするか?」福が訊いた。
「いいけど、どこを?」
「中洲の街を案内してやるよ」
近頃少しは分かってきた中洲の街を、福は敦と連れ立って歩いた。何だか少し大人になった気分である。
「賑やかだな。だが東京にはこれくらいの場所いくらもであるぞ」敦が負け惜しみを言った。
「なにぃ!ここは西日本一の歓楽街だ、東京にだってそうそうあってたまるか!」
ブラブラと橋を渡って暫く行くと、歓楽街には不似合いな情景が見えてきた。
「福、見てみろ。この暑いのに衛兵のように突っ立っている奴がいるぞ。やっぱり九州は野暮だな」敦が福に囁いた。
高級クラブの前に、黒い長ランが二人、直立不動で立っている。
「何処かの大学の応援団だな。OB会でもやってるんだろう」
「クラブを貸し切ってか?豪勢なもんだな!」敦が呆れて眺めている。
前を通り過ぎようとして、一人の男と目が合った。
「おい、何を見ている!」
「いえ、どこの大学の人かと思って・・・」福が答えた。
「お前たちみたいに、チャラチャラした奴等が知る必要はない!」横柄な態度で胸を張る。
「そうですか、それは失礼しました」そう言って福が通り過ぎようとすると敦が福の袖を引いた。
「おい福、言わせておいていいのか?」
「ん?」
「俺は嫌だよ」そう言って敦はその男を睨みつけた。
「なんだ!」男が敦を睨みつけた。
あっという間もなく敦の回し蹴りが男の頚にヒットした。男は唸ってどうと倒れた。
あっ!と叫んで、もう一人が店に駆け込んで行った。
途端に大勢の黒い男達がわらわらと店から飛び出して来た。
「ヤバイ!逃げるぞ!」福が叫ぶ。
「その方が良さそうだな。二手に分かれよう」
「分かった。中洲第一ビル三階、C &Cで落ち合おう!」
「了解!」敦は右方向に駆け出した。
福が反対方向に走り出すと、黒の一団も二手に分かれて追って来た。
「待てぇっ!」
そう言われて待つ奴はいない。福は何度か方向を変え裏路地に入り込んで、なんとか追っ手を振り切った。松岡がいろんなところへ連れて行ってくれたお陰である。
周りに気を配り、黒い男達がいないのを確かめてから中洲第一ビルに入って行った。
エレベーターを避け階段で三階に上がりC &Cのドアを開けた。
カウベルが鳴り、いつものようにママの声が聞こえる。
「いらっしゃいませ、あら、福ちゃん一人?」
「あ、あとで友達が来ます・・・多分」息を整えながら福が言った。
「いらっしゃい」ケイがカウンターの中から声をかけて来た。
いつもの奥の席に座ると、ようやく人心地がついた。
「どうしたの、汗びっしょりじゃない?」ケイが冷たいおしぼりを差し出した。
「実は・・・」かくかくしかじかと、経緯を説明する。
「まあ、大変。そのお友達、大丈夫かしら?」ケイが綺麗な眉を寄せて言う。
「多分・・・分からないけど・・・」
ケイは、こめかみに人差し指を当てて目を瞑る。何かを計算しているようだ。
ゆっくりと瞳を開いて福を見詰めた。
「お友達が無事な確率は・・・ゼロね」
「ええっ!」
「いろんな境界条件を加味して計算してみたの。間違いないわ」
「じゃあ、奴は捕まった?」
「そうね・・・でも現実には必ずカオスが入り込んでくるわ、例外と誤差はつきものよ」
「例外と誤差?」福は首を傾げた。
「ある意味、それが人生だわ。でなければ、世の中はつまらないでしょう?」
「分かりません、ケイさんの話は難し過ぎる」福が溜息をつく。
その時、カウベルの音が大きく響いて敦が飛び込んで来た。ママが驚いて振り向いた。
「ほらね、これが例外よ・・・」ケイが片目を瞑った。
「さ、探したぞ・・・」息を切らして敦が言った。
「よく無事だったな!」
「ああ、たまたま逃げ込んだストリップ小屋にヤクザがいて、追って来た奴等と口論になったのさ。それでその隙に逃げて来た。全く助かったよ」敦が袖口で汗を拭きながら言った。
「取り敢えず、お座りなさい」おしぼりを出してケイが敦を促す。
「・・・」おしぼりを受け取ろうとした敦の手が止まる。
「どうした敦、どこか痛い所でもあるのか!怪我したのか!」
「き、綺麗だ・・・」敦が放心したように言った。
「まぁ、ありがと。お世辞でも嬉しいわ」ケイが微笑んだ。
「あなたが、福ちゃんのお友達ね?」ママが訊いた。
「はい、武本敦といいます。お騒がせしてすみません!」敦がぺこりと頭を下げた。
「いいのよ、でも無事で良かったわね」ママが言った。
「はい、ありがとうございます!」
「とにかくお座りなさい。あなたも水割りでいい?」
ケイが敦に聞きながら真顔になった。
「今夜は、閉店まで居なさいね。まだ外は危ないわ」
『はい、そうさせてもらいます!』福と敦は同時にそう答えた。
福と敦、波乱万丈の幕開けとなった。