手紙
手紙
武本源龍から一通の手紙が届いたのは七月に入ってからだった。剛三はそれを持って平助の下を訪ねた。
観音寺剛三は槇草の妻美紀の父であり、大道場剛道館の主である。
槇草は去年、剛三の推薦で武本源龍主催の大会に出場し優秀な成績を修めている。
「無門先生、武本源龍先生をご存知ですか?」
「うむ、去年槇草の出た大会の主催者じゃな?戦後すぐにヨーロッパに渡り、向こうの格闘家と試合を重ね無敗だったという伝説の空手家じゃ」
「そうです、その源龍先生からこのような手紙が届きました」
剛三は平助に手紙を差し出した。
「源龍先生はその手紙で殊の他婿殿を褒めておられます。是非、彼の師である無門平助先生にお会いしたいとご希望です」
平助は徐に手紙を開くと書面に目を落とした。
拝啓、観音寺剛三殿
昨年の大会で、貴殿の推薦された槇草選手が見事に優勝されました事をお喜び申し上げます。
私は、二十年前に西洋に渡ったのをきっかけに、数々の格闘技と技を競って参りました。
中でも、前田光世、現地ではコンデコマと呼ばれておりますが、彼の伝えた柔道がブラジルの柔術として姿を変え、大変栄えており強敵でもありました事は驚きに耐えません。
日本の武術が、日本よりも異国の地で生き残っているのを見るにつけ、喜んで良いのか悲しんで良いのか複雑な思いで帰国致しました。
昨年の大会は、日本の武術の実力を知るべく私が仕掛けたものです。
大会での槇草君の戦いは素晴らしく、日本にもまだこのような武術家が存在することを知り、嬉しく思った次第であります。
槇草くんに師の名前を伺った時、ああ、やはりその人か、と思いました。
私が渡欧する前に、ぜひ戦ってみたいと思った武術家が無門先生だったのです。
残念ながら、その思いは遂げられなかったのですが・・・。
誤解なさらないでください。今更無門先生とお手合わせ願おうと言うのではありません。
一度お会いして、親しくお話願えればそれで良いのです。
つきましては、貴殿にその労をお願い致したく筆を取りました。
この心情をお察し頂ければ幸いです。
観音寺剛三 殿
某月某日
武本源龍 拝
追伸
もしこの話が実現するならば、不肖の孫を同行することをお許し下さい。
机下
「ふむ、面白い。会って見ても良いな」
読み終えて、平助は手紙を剛三に返した。文面から窺える源龍の印象は決して悪いものではなかった。
「では、この話進めても良いのですな」剛三が念を押した。
「お任せする」
「その際、師範代の吉田を同席させても宜しいか?」
「稀有な機会じゃ、是非そうして下され」
「婿殿は?」
「おお、そうじゃ、槇草とそれから福も同席させよう」
「福君というと先生のお弟子の大学生ですな。源龍先生のお孫さんも同じ年頃だと伺っております」
「良い話し相手になるやも知れぬな」
*******
一ヶ月後
黒塗りのハイヤーが剛道館の玄関に停車すると、助手席から若者が降りて、素早く後部ドアを開けた。
紋付に袴姿の巨漢が、のっそりと後部座席から降りて来て門を見上げた。
「ここが剛道館か、立派な道場だ」
「お爺ちゃんの道場の方が立派だ!」若者が嘯いた。
「これ敦、口を慎め!」
門の脇で源龍の到着を待っていた師範代の吉田が、二人に駆け寄った。
「お待ちしておりました、さ、どうぞ奥へお通り下さい」
「造作をかけます」源龍が鷹揚に頷いた。
*******
源龍を迎え剛道館の母屋は賑やかになった。
一通りの挨拶が済むと、源龍が若者を紹介した。
「孫の敦です、一応の空手は仕込んでおりますが、まだまだ未熟者です。どうぞお見知り置き下さい」
「武本敦です。今日は祖父のお供で参りました。どうぞよろしくお願い致します」
敦と呼ばれた若者が慇懃に挨拶をして頭を下げた。
宴が始まると、剛三の心尽くしの料理と酒に一同は舌鼓を打った。
源龍が平助に酒を注ぎながら口を開く。
「私はヨーロッパに渡る前に、是非先生とお手合わせを願いたかったのです」
「儂もあなたのお噂は耳にしておりましたのじゃ。出来得るならば太刀合いたいと思っておったが、その頃の儂は、訳あってあまり自慢出来る生活をしておらなんだ。返す返すも残念な事と後悔しております」
「お二人の戦いはさぞかし見ものだったでしょうな」
そう言って剛三が源龍に酒を勧める。
「今日、こうしてお会いして、戦わなくてよかったと思っております」源龍が盃に酒を受けながら答えた。
「嘘だ!」
突然の大声に座が静まった。
「俺は、爺ちゃんが世界で一番強いと思っている。その爺ちゃんより強い武術家がいるなんて信じられない!」
敦がもう我慢できないと言った顔で怒鳴った。驚いたのは源龍である。
「敦っ!なんという無礼な事を・・・!」
「いや敦君のいう通りじゃ。戦っておりもせんのに優劣など付けられん」
平助が源龍を宥めた。
「いえ、孫の無礼は私の不徳の致すところ」
源龍の言葉は火に油をそそぐ結果となった。
「俺は、無門先生の技がどれ程のものかを確かめに来たんだ!」
源龍が敦の頭を殴ろうとした時、末席から声がした。
「許せない!」
福が立ち上がっていた。
「福、そういきり立つでない」平助が福を制した。
「でも・・・」福が口を尖らせる。
「周りを見てみよ。誰も怒ってなどおらん」
福が見回すと、皆、ニヤニヤ笑っている。福には、誰も怒らないのが不思議だった。
「これは、面白い余興が見られそうですな」剛三が言った。
*******
福と敦は剛道館の板張りで向き合った。
あれから座は白けるどころか、大いに盛り上がり、二人に勝負をさせようという事になった。
二人はこの展開に戸惑った。普通なら厳しく咎められる所だろう。
ところが、周りの大人達は逆に面白がっている。福と敦の闘気は風船のように萎んでしまった。
しかし、今度は大人達が許さなかった。決着を着けよと二人に迫る。
二人は仕方なく、道場で戦う羽目になったのである。
「一本勝負だ、文句は無いな?」槇草が二人に念を押した。
「はあ・・・」敦が気の無い返事をする。
「福は?」
「い、いえ、なんとも・・・」
「なんだお前達、さっきの元気はどこへ行った?」
「そ、そう言われても、何だか俺たち馬鹿みたいで・・・」
「馬鹿だろう。だったら最後まで馬鹿を貫け!」
槇草の大喝に二人は縮み上がった。
「ふふふ、お主達は儂らの代理じゃ」平助が意地悪く言った。
「良いですなぁ。敦、負けるんじゃないぞ」源龍も乗り気だ。
ここに来て、二人は後には引けない事を知った。
「やるか!」敦が福を見据えて言った。
「望むところだ!」
構えた途端、二人の頭からは周りの景色が消えた。
目の前の敵に全神経を集中する。
敦が素早く一歩踏み込む。
反射的に福が身を沈めると、途端に敦の蹴りが髪の毛を薙いで頭上を通過した。
福は飛び退がって間合いを切った。
『速い!迂闊に飛び込むとやられるぞ』
福は慎重に間合いを詰めて行く。
ギリギリまで詰めたところで構えを変える。
右半身を引きながら腰を落とすと、敦が怪訝な顔をした。
『奴は、表裏突きを見たことが無い、次の一撃に賭ける!』
敦は福の構えに警戒した。
『見たこともない構えだ、何をする気だ』
間合いに入りかけた足をすんでのところで踏み止まり様子を見た。
敵は石になったように動かない。
『このままでは埒が開かん、俺が待つなんて論外だ!』
敦は攻撃を躊躇したのを恥じるように前に出た。
途端に目の前から敵の姿が消える。
地の底から何かがせり上がってくるのを、視界の端で捉えた。
アッと思った時には顎に衝撃が来て、意識が遠のいて行った。
*******
「敦、大丈夫か?」
爺ちゃんの声が聞こえる。
敦は朦朧とした意識の中で、何が起こったのか理解しようとした。
『奴の姿が消えた途端、下から拳が突き上げて来た』
しかし、敵がどう動いたのか、さっぱり分からなかった。
「敦君、大丈夫か?」剛三が敦を抱き上げて頬を軽く叩いた。
「は、はい、大丈夫です・・・」
敦は軽く頭を左右に振って目を強く瞑った。その途端意識が鮮明になり思わず跳ね起きた。
敦を抱き上げていた剛三が目を丸くした。
「俺、福岡の大学を受ける!」
「突然何を言う!」源龍が驚いて敦を見た。
「こいつと決着をつけねば、腹の虫がおさまらない!」敦が福を指差した。
「それだけなら、なにも福岡の大学に入る必要はあるまい」
「それだけじゃない。無門先生に教えを乞いたいんだ。こいつにこれだけの技量があるという事は無門先生の技量は計り知れない!」
「なんだと!」福が気色ばんだ。
「許してくれ。敦の精一杯の強がりなのだよ」
剛三が腕組みをして考えていたが、ゆっくりと腕を解いて言った。
「敦君、そういう事ならここに下宿するというのはどうだ?ここからならどこにでも自由に稽古にゆけるぞ」
「本当ですか?」敦が目を輝かせる。
「ああ、本当だ」
「だったら、もう一つわがままを言っても良いですか?」
「なんだね?」
「今すぐ越して来てはいけませんか?」
「な、なんと性急な」これには剛三も驚いた。
「俺は今浪人中なのです。目標が決まった方が勉強に集中できる。な、爺ちゃん、良いだろ?」
「う〜む、しかし両親はお前が説得するのだぞ」源龍も諦め顔だ。
「みなさんよろしくお願い致します」敦は深々と頭を下げた。
「呆れたやつだなぁ」福が言った。
「それ程でもないさ」敦は福を見て笑った。
翌日、再会を約して二人は東京へと帰って行った。福は、平助と一緒に二人を博多駅まで見送った。
「福、良い拳友が出来たのぅ」ホームで列車を見送りながら、平助が言った。
「はい、生意気な奴ですが」
「ははは、そうか・・・お前達は、きっと気が合うぞ」