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福 物語 〜大学生編  作者: 真桑瓜
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K

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一度、昼間にこの街を通った事がある、とても目の前の街と同じものだとは思えなかった。

中洲にかかる橋を渡る時、福はいつも異次元の世界に入っていくような感覚に囚われる。


済々会病院空手部は順調に船出を果たした。

松岡一家の半数以上が部員として登録されている。そのほかの職員からもポツポツと入部希望があった。

福は病院の講義室や屋上で部員達を指導した。

部員の職種は様々で、医師、看護師、技師、事務方、売店のお兄さんまで幅広い。

福は人に教えることの難しさを痛感した。

部員の入部動機は様々である。昔空手をやったことのある者、ストレス発散目的の者、運動不足を解消するために入った者、人間関係のしがらみで入部せざるを得なくなった者。

理解度も様々で、飲み込みの早い者、遅い者。福の教える武術の術理に首をかしげる者、等々。

その人たちを一様に指導することは困難を極めた。

福は日々頭を悩ませる。未だかつてこれほど脳を酷使した事があるであろうか。


その日、福は一人で中洲の橋を渡った。

誰にも連れられず、ただ一人で初めて中洲に足を向けた。

考える事に疲れ果て、誰かに愚痴を聞いて欲しくて・・・そしたら、ケイの理知的な瞳を思い出したのである。

C &Cの扉の前で立ち止まり、一度大きく深呼吸をした。


カラン・・・扉を開けるとカウベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」ママの声が聞こえた。

「まあ、福ちゃん一人、先生は?」

福は店の中を見回した、店にはママの他に誰もいなかった。福は少しガッカリする。

「僕一人です・・・」

「あら、そう、とにかく座って」ママがカウンターを指した。

福は一番奥の席に座る。

「ケイちゃんに会いに来たのね?」

「い、いえ・・・」福は図星を指されて顔を赤らめる。

「隠さなくたって良いわよ。水割りでいい?」

「はい、でも・・・」

「松岡先生のキープ飲んじゃいなさい」

「いえ、それでは・・・」

「この前、松岡先生言ってたわよ、福が来たら飲ませてくれって」

「えっ!」福は驚いた。松岡には福の行動はお見通しだったのだ。

ママは、松岡のウイスキーで水割りを作る。

「はい、どうぞ」

「あ、ありがとうございます」

「ケイちゃんはもうすぐ来るわ」

福は思わずママの顔を見てしまった。

「彼女まだ学生なのよ、国立西九大の物理学科博士課程の二年生」

思いがけないママの言葉に、さっきから福は再三驚かされている。

「博士課程・・・」大学院修士課程のそのまた上。福には想像もつかないアカデミックな世界だ。

「勉強だけじゃ世間知らずになるからって。それでここでバイトをしてるって訳」

「そうなんですか・・・」福はケイの知的な瞳を思い出していた。


その時、ドアのカウベルが鳴った。

「ママ、お早うございます」業界用語で挨拶をしてケイが入って来た。

「あら、福ちゃん早いのね」ケイは福に向かって微笑んだ。

「あ、お邪魔してます・・・」

ケイはジーンズにトレーナーという軽い出で立ちだ。この前と違ってとても親しみ易い。

「ちょっと待っててね。すぐに着替えて来るから」そう言って化粧室に入って行く。

しばらく水割りを飲みながら、ママと話をしていると化粧室のドアが開いた。

「あっ!」化粧室から出て来たケイを見て、福は思わず絶句した。

まるでルノワールの絵から抜け出た少女みたいに綺麗だった。


八時を過ぎて店は賑わいを増してきた。ママもケイちゃんも忙しく立ち働いている。

ケイを目当ての客も多いが、ケイはそんな客を軽くあしらった。

福は、水割りを飲みながら、時々目の前に来るケイと話をしたが、愚痴を聞いてもらうという最初の目的は果たせずにいた。店が静かになったのは、十二時を回った頃だった。

帰るタイミングを逃して、ついに席を立てなかったのだ。

「ケイちゃん、今日はもうお客さん来ないわ。福ちゃんとラーメンでも食べて帰ったら?」

「そうですね・・・福ちゃん、どうする?」

「あ、あの・・つい帰りそびれちゃって。俺、帰ります」

「何かケイちゃんに話があったんじゃない?顔にそう書いてあるわよ」ママが笑ってそう言った。

福は黙って俯いていたが、だんだんと煮えきらない自分の態度に腹が立ってきた。

「はい、聞いて欲しいことがあります!」

「わかった、待っててね」ケイはそう言って化粧室へ入って行った。


*******


居酒屋に入って奥のテーブルに向かい合って座った。

ビールと軽いつまみを注文してから、ケイが徐ろに口を開く。

「聞いて欲しいことって、なに?」

福は、どう切り出そうかと迷っていたが率直に話すことにした。

「俺、自信がないんです・・・」

ケイが首をかしげた。

「人に空手を教える事に自信が持てないんです」

「ふ〜ん、何だそんな事か。もっと深刻な悩みかと思った」

「俺にとっては深刻です!」

「あら、ごめんなさい」ケイはちょっと笑った。

「人は、自信なんか持たない方が健全よ」さも当然のように言う。


「えっ、なぜ!」

「自信を持つと人は傲慢になるわ」

「でも、何かをしようとする時には、自信が必要なんじゃ・・・」

「なら、『自信』の定義を言ってごらんなさい」ケイが福を睨む。

「定義って?」

「なにをもって自信というのか?」

「う〜ん、読んで字の如く、自分を信じるということではないんですか?」

「信じなければならない事は、嘘よ」

福は狐につままれたような顔をした。

「わざわざ信じなければならないのは嘘だからでしょ」ケイはさらに言った。

「地球が丸いっていう事は、信じなくても真実だわ。でも、神様は信じなければ居ないのよ。神が人間を創ったんじゃ無い、人間が神を創ったの」

そう畳み掛けられて福は答える言葉を失った。

「そもそも自分って何なの、本当にいるのかしら?」

「だって、ここに居るじゃないですか」それは自信を持って言える。福は自分の顔を指差した。

「じゃ、今自分を指しているその指は自分かしら?」

福は自分を指した指を見つめた。

「いえ・・・これだけでは自分とは言えません」

「眼は?鼻は?口は?」ケイは矢継ぎ早に質問した。

「いえ、それも違います」

「じゃ、心は自分かしら?」

「いえ、心だけでも自分じゃない」

「そう、なかなか物分かりがいいわね」ケイはわずかに口元を緩めた。

「それら全てを寄せ集めた時に、自分という幻想が立ち上がるの」

「幻想?」

福はまた分からなくなった。

「質問を変えるわ。時計の針は、時計かしら?」

「いいえ・・・」

「歯車は?文字盤は?竜頭は?・・・どれも時計そのものではないでしょう?」

「はい・・・」

「それぞれは全然時間を計ると言う働きはしていない。全てを適切に組み合わせた時、時計という働きが現れるの。時計という実態はないのよ」

「そ、そんな・・・」

「私、宗教は嫌いだけど、仏教はもっとシビアだわ」

「シビア・・・って?」

「だって、仏教は『無我』だもの。自分は無いってことを発見するのが悟りなのよ」

「・・・」

「そんな自分を信じるなんて、馬鹿げてると思わない?」

福はすっかり考え込んでしまった。

「じゃあ、どうすれば?」

「そんなことは自分で考えなさい。でも一つだけ言えることは、感情じゃなく、もっと理性的に物事を捉えて淡々とやる事ね。無理だと思ったら止めればいいのよ」


福は、ケイの理知的な瞳に見据えられると、何も言えなくなってしまった。


*******


「どっちへ帰るの、送ろっか?」店を出たところでケイが言った。

「いえ、大丈夫です。歩きながらケイさんの言ったこと、よく考えてみます」

「そう、何かあったらまたいらっしゃい」

「はい、今日はありがとうございました」福はケイに向かって頭を下げた。

大通りに出たところで、ケイはタクシーを拾って帰って行った。

福は酔客に紛れながら中洲の橋を渡った。




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