第十七話~勝負の行方~
残心を取るのは、発田だけでなく竜太もであった。
そしてその二人の姿こそ、僅か数秒の中で繰り広げられた勝負が終わったと見て取れた。
武道場で固唾を飲んで見守っていた者たちは、この静寂を遮る審判達の着擦れの音が、この勝負の結果を告げると信じて疑わなかった。
ところが審判たちが下した判断は、その場にいる者を困惑に陥れた。審判たちは右手で紅白旗を持ち、頭上に上げていたからである。
「合議!」
主審はこう宣告したとたん、武道場内は、いぶかしがる空気が漂いはじめた。その間、竜太と発田は開始線に戻り、主審の声を待つ。やがて、試合場の横で現役剣道部員とおぼしき者一人が黄色の三角形の旗を上げている事に気がついた。
「合議だと?」
「おい、計時係が旗を揚げているぞ?」
「今は無効? 時間切れか?」
「いや、有効だろう!」
武道場内は、いたるところで大きなどよめきに包まれた。
「北条くん、合議って? 竜太は? どうなったの?」
「今のは、時間切れやったんかいな……」
「でも、薙刀でも時間切れと同時なら審判優先って」
かえでは不安気に剣二に聞く。
「試合の流れから見てそうやけど……かなり時間が過ぎとったら、無効かもしれへん」
審判たちは、合議のために中央付近集まる。途中、計時係を交えてかなり念入り話し合いが続き、審判たちの輪がなかなか解けない。その間、竜太と発田は微動だにせず対峙を続ける。竜太にはその僅かな時間でさえも永く感じていた。
やがて、合議の輪が解け、審判たちは再び定位置に戻った。武道場内はまたも水を打ったかのように静まりかえった。
「中村くんの最後の技が時間切れ無効と判定されれば、勝負は発田の勝利。有効であれば、ポイント同点で延長戦となるわね」
しのぶがゆっくりとつぶやく。かえでは両手を胸の前に合わせ祈るような仕草で試合場を見つめる。剣二も竜太を見つめる。すると、主審の発田の咳払いの声が聞こえ、武道場内全ての視線が嶂南に集まった。
「それでは、先ほどの判定を行います」
嶂南はそう言って他の二人に目配せをした。審判全員が白旗を上げれば竜太の一本、旗を上げず紅白旗を左右に振れば、竜太の技が無効となる。果たして、審判達は一斉に手を動かした。
「し、白が上がった!」
審判全員が頭上に白旗を揚げたとき、かえでは思わず躍り上がらんばかりに立ち、大きな声を上げた。と同時に武道場がどよめきと驚愕の息に包まれた。
「やりはった! 竜太はん!」
剣二も思わず声を上げる。そのとなりで身を固くし見守っていたしのぶは少し口元を緩め大きくため息をついた。
「小手あり!」
主審である顧問の嶂南が、竜太が小手で発田から一本を取ったことを告げると、武道場の興奮は最高潮に達した。
「おい! あの発田先輩から一本を取ったぞ!」
「玉竜旗無敗の先輩からだぞ」
「何が起きたか俺には早すぎて解らなかったけど……」
「おまえ何見ていたんだよ? 小さい奴が先輩の攻撃を寸前でかわしたぞ」
周りのものは興奮しながら戦評をはじめ、竜太が発田から奪った技を口にする。そんな中、剣二としのぶは
「ほんま竜太はんって凄いお人や……立っているのがやっとやと思うのに、発田先輩から小手一本を取りはった。それも発田先輩の面打ちをギリギリまで堪えて、体を左半身にして切先をかわしはってから、小手を入れはった」
剣二が竜太の姿を目で追いながらつぶやいた。
「そうね、あそこで発田先輩が冷静なら、あんなに力任せに面打ちに行かなかったわ」
しのぶもゆっくりと剣二の話に入る。
「さすが、竜太はん。勝負に出はったんやわ。必ず発田先輩が正面から面打ちを取りに来るように仕掛けた」
「でも、中村くんはそこまで考える余裕はなかったと思うけど?」
「つまり、自然に身体が反応しはったってことですか? 東堂先輩」
「そうね、巻き上げまでは考えていたでしょうけど、最後はもう攻める事ができなかった」
「ああやって、立つしかなかったってことやったんかな……」
武道場内のどよめきはつづく。そこへ試合時間終了の笛が響いた。
「北条くん!」
「ああ、……延長戦や」
かえでは嬉々とし、剣二は胸をなで下ろした。
試合は、延長戦に入る。竜太と発田は己の開始線に戻りその時を待つ。
「これより、延長戦を行う。どちらかが有効打突となった時点で終了とする」
嶂南は延長戦のルールを告げ、対峙する竜太、発田を見る。竜太は息づかいが荒いのか身体が上下に揺れ、心なしか真っ直ぐに立ちことすらおぼつかなく見える。かたや発田の方を見て、嶂南は目を見張った。
発田も竜太と同様に肩で息をしているように見えるのである。
(あの発田の息が上がっているだと?)
嶂南は、全国制覇を涼しい顔で成し遂げたものと同一人物とは思えなかった。そして、その発田をここまで追い詰めている小さな剣士の大きさにも気がついた。
(中村竜太か。さすが中村先輩の一粒種だけはあるのか……)
そして、おもむろに二人にこう告げた。
「二人とも、着衣、面、たれをもう一度確認し、締め直すところは直しなさい。」
そう言って一旦開始線から下がらせた。
「助かった。良かった……」
竜太は、嶂南からの指示を聞き少し安堵した。もはや、立っているのが精一杯と感じていたからである。そして、開始線から下がり、ゆっくりと正座し、大きく息をついた。全ての動きがぎこちなく感じながら、竜太は面を外した。すると今まで面で塞がっていた視覚や聴覚が一気に眩しくそして騒がしく押し寄せ、竜太を眩らませた。
「………やっぱり面打ちが効いているな。頭が重い」
竜太は、押し寄せて来る感覚と戦いながら、稽古着を直し、再び面を着けようとした。その時、目前から来る異様な雰囲気に気がついた。そこには、面を外し、先の勝負で吹き出たのであろう汗を拭おうともせず、鬼の形相で紅顔させ、竜太を睨み付けている発田の姿があった。
「よくも、このボクに恥をかかせてくれましたね。中村クン、どうやら計時係にも嫌われていたようだし、あのまま時間切れならキミもこんな不幸にはならなかったはずでしょう
「…………」
「大人しく私の言うことを聞いていれば良かったのに。キミ本当にボクに勝とうとしているのかな?」
竜太は発田の問いには答えず、発田から視線を外さなかった。
「そうですか、それが答えですね。浅はかしいにも程があります。ボクに勝とう思ったことを一生後悔させてあげましょう。本気にさせた代償にね」
そう言って発田はゆっくりと面を着けはじめた。竜太もそれに合わせて面をかぶり、面紐を結んだ。だが、竜太は発田の言葉を聞いて変化に気がついた。挑発的な言葉の中に、自身の決意にも取れる節があることを。
そして、面越しに見える発田の眼が悪しき瞳ではなく、武道の厳しさを醸し出す瞳であることを。
この二人の僅かなやりとりを剣二は聞いていた。
「なんか、発田先輩から身の毛もよだつような気が消えたような感じがしませんか?」
「そうね、私もそう感じるわ」
剣二の言葉にしのぶは答え、
「昔、まだ私が先輩に憧れていた頃の発田先輩みたいな感じ……いいえ、もっと純粋に剣道に取り組んでいた頃の先輩のような感じ……」
「それって、発田先輩が本気にならはったってことやろうか? 今まで無敗敵なしやったし、そこまで思う相手が出てこうへんかった。でも竜太はんが先輩から一本取らはったし先輩は竜太はんを勝負に値する者と思わはったからやろか」
「……多分そうだといいけど。中村くんと勝負の駆引きをする中で」
しのぶは顔を上げ、凛とした眼差しを発田に向けた。
(発田先輩、さっき私が言ったこと覚えていますか? 本気で中村くんと相対すれば、先輩も新たな道が開けると思います。だから……本気で中村くんと戦って下さい。中村くんの道を開いて、あなたも……)
少しばかりの時間ではあったが、両者が気を回復するには十分であった。嶂南は相対する両者の立ち姿を見て、自身の判断が的確であったと感じた。そして、大きく息を吸い高らかに宣した。
「延長 はじめ!」
竜太と発田は蹲踞の姿勢から中段の姿勢を取り、切先を合わせ軽く捌いた後にお互いの構えとなった。発田は長身を更に大きく見せるが如く上段の構えをとり、竜太は切先をゆっくり降ろし、右足を半歩退いて半身となり脇構えの姿勢となった。
「いやああぁぁぁ!」
発田の気合いが入ると、武道場にいる者は驚愕した。その気合いは先ほどまでいた発田とは別人ではないかと思うほど明らかに違っていたからである。そして、声量や存在感は、奇声に近かった以前の気合いを遙かにしのぐ程の発声量と、気合いの先が身体に突き刺さるのではないかと錯覚させる程の圧倒的な迫力があった。
「あああああぁぁぁぁぁ!」
竜太も負けじと渾身の力を振り絞り気の応戦をする。お互い気をだしつつも勝負の点を探る。再び勝負の駆引きがはじまった。間合いをゆっくりと詰めつつ、互いの出方を思い巡らす。
「いやああぁぁぁ!」
「あああああぁぁぁぁぁ!」
発田が先に仕掛けた。一足一刀の間合いから飛び込み、竜太の頭上に振り下ろす。竜太は下段から発田の竹刀を受け、擦り上げ、そのまま二合ほど相対し、お互い間合いを取った。そして、間合いを探る。竜太は脇構え、発田は上段。竜太の方が明らかに攻撃では不利な構えに見える。
「でも、竜太はんはここからなんや」
剣二がつぶやく。竜太と何度も相まみえてきた者だけが解る台詞だった。
「勝負は一瞬かしら……」
今まで試合を冷静に見つめていたしのぶは、勝負を決するときが迫ったことを肌で感じているのか、両手を合わせ、祈るような仕草をした。
竜太は発田と何合か打ち合う毎に疲労困憊であることが見て取れる。しかし、発田はそれまでのような反則まがいの打ち方をせず、無理に攻めず、純粋に勝負を楽しんでいるかのようにも見られる。
(もう、何合も打ち合う余裕はない。行くぞ!)
何合か攻め合いが続いた後で竜太はゆっくりと脇構えのまま発田との間合いを詰め始めた。発田は竜太との間合いを保ちつつも詰める。そして、意を決した竜太が発田の懐に飛び込んだ
「あああぁぁぁぁぁ!」
竜太は発田の胴に目がけて竹刀を振り上げた。発田は竜太の竹刀を寸前のところで右に身体を引き半身でかわし、そのまま竜太の頭上に竹刀を叩き込む。竜太は辛うじて自らの竹刀で受け、すぐ間合いを戻す。
武道場の者は、その激しいせめぎ合いに思わず息を飲む。一合ごとに両者の間合いは、少しずつ詰められていく。この間合いが一足一刀の限界点を越えたとき、勝負がつくであろうとそこにいる者は感じていた。
そして――その時が来た。
竜太は渾身の力を振り絞り発田の間合いに飛び込んだ。
「あああぁぁぁぁぁぁ!」
しかし、ここで不測の事態が起こる、疲れからか竜太の身体が僅かに前乗りに先に出てしまい、足がぐらつき、体を崩してしまう
(しまった!)
発田はこれを見逃さず、竜太の頭上目がけて大きく竹刀を振り下ろした。
「いやああぁぁぁ! めぇーーーん!」
かえでは思わず目をそらした。
「あかん! 竜太はん、危ない!」
剣二も思わず声が出る。
「!」
竜太はとっさに自らの竹刀を振り上げた。しかし、発田は、予想外の行動に出た。竜太の頭上めがけて振り下ろした竹刀を竜太の頭上で止めてしまったのである。
「こんな偶然に起こった好機でキミに勝ちたくはありませんね。もっと、もっと完膚なまでに叩きのめしてあげましょう」
そういって、発田はゆっくりと竜太との間合いを一足一刀にまで戻したところで、審判から『待て』の合図がなされた。
「おい、あの先輩どうしたんだ?」
「まるで人が変わったみたいだ」
武道場内にひそひそ声が重なって聞こえだした。
しかし、かえで、剣二、しのぶは、お互いに何も言葉を交わさず、じっと戦っている二人を見つめていた。すると剣二が、
「ほんまもんの、勝負や」
と小さくつぶやいた。その言葉を聞き、かえでとしのぶは小さくうなずいた。
「はじめ!」
審判の開始の合図の後、武道場内から誰からともなく拍手が起き出した。それまで固唾を飲んで見ていた者たちからである。拍手は大きなうねりとなり武道場内を包み込んだ。
この勝負に対し、心から応援すると意思表示であると思えた。
「いやああぁぁぁ!」
「あああぁぁぁぁぁぁ!」
竜太、発田ともに気合いを発声し、お互いの間合いを詰め始めた。ゆっくり、ゆっくりと。そして、確実に自らの間合いに引き込むように。竜太が押せば、発田が引き、発田が押し返せば今度は竜太が引いた。
そして、お互いの切っ先の競り合いが何合か続き、一瞬お互いの切っ先が重なったところで両者の竹刀が止まった。
武道場内も静まる。
竜太は、切っ先を外し、脇に竹刀を構え直した。発田はすぐさま上段に構えを取った。
次の一太刀で、全てが決まる……。
何も言われなくても、そこにいる者は理解した。
「いやああぁぁぁ!」
「あああぁぁぁぁぁぁ!」
武道場内に二人の気合いがこだまする。
そして、両者どちらからともなく、お互いの獲物に向かって斬り込んでいった。
竜太は脇構えから竹刀を水平に向け、発田の胴に目がけ、かたや発田は上段から竜太の面に向かって大きく振り下ろした。
これまで以上の気合いの発声、踏み込んだ足底音、竹刀、面金、胴への打突音。全てが一瞬ではじまり、そして、気合いの発声が落ちると同時に終わった。
今、武道場内には残心を取る剣士二人の姿しか見えなかった。
勝負の行方は――。
武道場内の視線は、すぐさま審判に向けられた。皆の視線を一手に受ける審判たちは、お互いの位置を確かめ、旗を持つ腕を上げた。白が上がれば,竜太。赤が上がれば、発田……。
主審、副審全員の旗が発田の『赤』であった。
「いやっ!」
かえでは、思わず顔を両手で覆う。剣二は一つため息をつき、上を見上げた。しのぶは、静かに両目を閉じた。
そして――竜太は、発田に向かって小さく会釈をした。
「赤の一本勝ち。勝負あり!」
主審の嶂南が宣告し、竜太と発田の試合の決着がついた。
ここで、竜太の桜ヶ丘高校剣道部入部試験は終わった。
(挿話五に続く)




