第十六話~無念無想の理(ことわり)~
開始の合図が発せられると同時に竜太は発田との間合いを大きくとった。竹刀の切先に気合いを込めて声を発しようとするが、立っているのがやっとという今の竜太に周りを揺るがすだけの声量力は残っていないことは武道場にいる誰もが見て取れた。
「目に見えることがすべてじゃない。目に見えることが……」
竜太は、うわごとのようにつぶやきながら自らの出方を探る。しかし、時間が刻々と過ぎていく。
「もはや、キミもここまでのようですね」
竜太と相対している発田は、嘲笑に似たつぶやきを発し、竹刀の切先を前に出し、竜太との間合いをゆっくりと詰め始めた。
発田の動きを見た武道場にいる誰しもが、これで竜太にはもはや勝機が無くなったと考え、発田の鋭い打突の餌食になるか、間合いを嫌い下がったために場外反則で、あわせて一本負けとなるだろうと思った。
ところが、竜太は周囲が思っていた行動に出なかった。
発田が前進したことにより、竜太は半歩後ろに下がったことは周囲の期待通りであったが、その後、竜太は自ら持つ竹刀の切先をゆっくりと床に向かって下ろして下段の構えをとり、相対する発田の切先の方向に振らついている上半身をゆっくりと傾けた。
まるで、発田に『どうぞ面を打ってください』と言わんばかりに。
当然周囲からはどよめきが起こる。
「あいつ、何のつもりだ?」
「勝負捨てたな」
「もう立っているのがやっとで、ああするしかないんだろ」
「そろそろ終わりだな」
ひそひそとつぶやきがどよめきの後に起こり、また静寂に戻る。
そのつぶやきが、発田の耳に入ったのか、面越しから小さい笑い声が聞こえてきた。
「ククク、そろそろ楽にしてあげましょう。一思いにね」
発田は自らの竹刀の切先を竜太に向けながらゆっくりと竜太との間合いを詰めはじめた。
しかし、竜太は下段の姿勢のまま、自らの間合いを守ろうとせず動かない。その竜太の動きが発田に勝負をほぼ手中に収めたと確信させるには十分であった。
発田は竜太との間合いが一足一刀に入ろうとした時、それまで他の者を寄せ付けない圧倒的な強さを鼓舞し続け、勝負へのこだわりに執着した者とは思えないほど不用意にそして軽々しく竜太との間合いの中に入った。それだけ竜太の覇気が既に失われたように発田には見えたからである。
刹那……。
竜太の気が一瞬だけ息を吹き返した。
武道場の床に竹刀がつきそうな程の前屈みの体勢だった竜太は、跳ね馬の如く上体を持ち上げ、発田の竹刀に向けて円を描くように素早く自らの竹刀を振り回してみせた。僅かに油断していた発田は、思わず身を固め、切先で竜太の竹刀に対応するが、竜太の動きは発田より一瞬速く、自らの竹刀を発田のそれに絡ませた。
最後の力を振り絞ったであろう竜太の動きは、それまでの彼の振るまいとは大きく異なり、一瞬かつ静かであり、武道場で固唾を飲んで見守っていた者の思わず息を飲む声が聞こえるほどであった。
再び静寂。
直後、そこにいた者は対峙する二人の間に違和感を覚えた。その答えは静寂を破る音が全てを語ってくれた。
武道場床に何かが落ちてきた乾いた音と転がる音が聞こえ、武道場の視線を一点に集めた。
音を発したものの正体は……。
「竹刀?」
竹刀と理解した者はすぐ視線を今戦っている二人に戻し、それが何を意味しているのか理解した。
そこには、竹刀の切先を眼前に突きつけられ呆然と立ち尽くす発田の姿と、肩で息をしながらも、隙あらば攻撃に転じようと目付する竜太の姿があった。
「待て! 反則!」
審判が試合を止め、発田に対して反則を告げた。直後、武道場が大きくどよめいた。
「おい、何だよ今の技?」
「反則?」
「おまえ知らないのか? 竹刀落としたんだぞ」
口々に思い思いの言葉を発する者たちとは対照的に、剣二は静かにその技を言った。
「巻き上げや……」
「まきあげ?」
剣二の横に座っていたかえでが剣二に問い返す。
「相手の剣、いや竹刀を手から奪い、落としてしまう技なんや。でもかなり難しい技や。そう簡単に出来へん。必殺技といってもおかしいないわ。真剣勝負やったら、そこで勝負ありや」
「つまり、反則を誘う技ってこと? なぎなたでも手から落とすと反則だし」
「そうや、試合中に竹刀を落としはったら反則や。もう一回したら一本や」
「それって剣二くん、竜太が発田先輩からポイント取ったってこと? これであと一本差?」
「そうや、竜太はんにも望みが出てきたで」
「やったぁ! 竜太凄いじゃない! あの発田先輩からだよ!」
「あ……」
発田の反則を誘った竜太の動きを喜ぶかえでの横で剣二の表情が曇った。
「そや、発田先輩ってここまで無敗、いや一度もポイント取られはった事はないはずや、それを油断してはったとは言え、竜太はんから不本意な反則を貰うてしもうたら……」
「発田先輩は、多分心中穏やかじゃ無いでしょうね」
「東堂先輩……」
剣二の脇にいたしのぶが剣二の言葉に呼応して答えた。
「でも、それが中村くんの最後の戦術としたら?」
「そりゃ、これほどまで上手くいけば、あのプライドが高い発田先輩のことやし、頭に血が上らはると思いますわ、ただ竜太はんを無茶苦茶しはるんじゃ無いやろうか……」
「でも、そこに中村くんの付け入る隙が出来るはずよね」
しのぶの答えを聞いても剣二の面は晴れない。
「そうやと良いんやけど、ただ……発田先輩の攻撃ってほんま熾烈やし、竜太はんの身体が試合中持たはるやろうか?」
「中村くんを信じましょう」
しのぶの言葉を聞いて剣二とかえでは小さくうなずいた。祈るような瞳をしながら。
一方、試合が竜太と発田は、一度身を整え、開始線に立つところであった。審判の嶂南は計時係に残り時間を聞く。その時間が聞こえた武道場の者は、あと一太刀ないし二太刀でこの勝負が終わることである事を理解した。また、対峙する二人の間にこれまでとは違う空気が流れていることにも気がついた。
「中村クン、油断してしまったとはいえ、ボクを怒らせてしまったようですね」
「………………」
怒気を含んだ発田の問いかけに竜太は答えない。
「いいでしょう、少し遊びが過ぎました。次の一太刀でキミがさっきボクにしたことを後悔させてあげます。あんなマネをしてタダではおきませんから」
「…………あんなマネ? 反則のことですか?」
竜太が発田の問いに答える。
「ほう、まだ口がきけるじゃないですか? ならば、もう二度と口がきけなくなるようにするだけです」
「そんなに悔しいですか? 俺からポイント取られたことに対して」
「何です!」
「じゃあ早く、俺を倒したらどうですか? 先輩にそれが出来るなら」
「くっ! お望みどおり、ボロ雑巾、いやそれ以下になるまで叩きのめしてあげます。泣いて詫びを請うても許しません!」
「望むところです」
武道場にいる者たちは、二人の小声の会話から、形勢が少しずつ竜太に移りつつある事が解った。
それほどまでに冷静さを失って来ている発田の態度、気合い。そして、その原因が竜太の捨て身の巻き上げの技にあることも。
発田との一頻りの会話が終わり、竜太は肩で息をしながらも蹲踞の姿勢で開始を待つ。
(お父さん、見ていて下さい……。僕は次の一太刀に賭けます)
竜太は決意を胸に抱き、半眼となり、気を保つ。
「始め!」
何度となく告げられていた開始の合図。そしてこの合図が相対する二人にとって最後の開始の合図となった。
竜太は立ち上がりすぐに発田との間に間合いをとり、先の巻き上げの時と同じように竹刀の切先を下段に取る。
「また、巻き上げでもするのですか? もう時間は十数秒しかないはずです。もう一回反則でもポイントは足りませんよ。ククク、同じ技をボクが喰らうとでも思っているのなら笑止モノですね。でもボクは足腰立てなくなるまでキミを叩きつぶしますから」
怒気を醸しだしながら邪な笑みを続ける発田は竜太との間合いを詰め始めた。
しかし、半歩進んだところでその足が止まった。
「何ですか? その構えは!」
発田の声が発せられると同時に武道場にどよめきが起こった。
「何だ? あの格好、いや構え」
「見たことが無いぞ」
竜太が発田と対峙した構えは、おおよそ剣道では見られないような構えだったからである。
竜太は、発田が間合いを詰めてくるのと同時に下段の構えを解き、右手を正面から左側に倒して竹刀を自らの方向に引き寄せ、右足を引き左足と並べ、左手を竹刀から外してからそっと切先を床に突きそうになるまで下げた。
立ち姿は構えを解いた状態でほぼ棒立ちとなり、竹刀は右手で軽く握られているだけで、左手は体側にあった。
その構えは師範代や指導者が肖像画や写真として飾られている時に堂々と立っている姿と重なって見えた。
ただ、右手一本で持つ竹刀が、対峙する者と己の場所とを区別するかのように重厚な存在感があった。
「無念無想や……」
剣二がつぶやく。
「竜太はん、あんたってお人は……どこまで底が知れんのや。ついさっきまで止心で苦しんではったのに、その自然体の立ち姿や。もうボクの手の届かん所まで行ってしもうたんかいな……」
剣二は竜太の構えを見て心の中で舌を巻いた。そして、その思いは発田の心の中にも去来していた。
「中村クン。キミがよく解りませんね。何のマネですか?」
「…………」
毒づく発田は、竜太との構えに相対し、あまりに自然体に立つ竜太の懐に易く入られない何かを感じていた。
発田の心の中に初めてざわめきに似たものがふつふつと沸き上がり、自分が有利に試合を進めているにもかかわらず、焦りに似た感情が支配されつつあった。
(中村竜太――。彼の才能は間違いなくあなたより上です)
発田は、突然試合前に東堂しのぶから突きつけられた言葉を思いだし、反芻し始めた。
先の反則で冷静さを奪われつつあった発田の心の中に、しのぶの言葉を打ち消そうとする感情が支配し、冷静にこのまま相対するだけで試合時間が進み、己の勝利が手に入るという選択肢を選ぶ事はもはや出来無かった。
「そんなはずは無い。このボクがキミに圧倒されている? そんなはずは! これがボクが求めた樹神なのか!」
発田はそう吐き捨て、これまで以上に気合いを放った。
「きぃいいいいいいい! いやぁああああ!」
武道場内は声が音波となって共鳴し壁、床が軋みだした。
そして、発田の声が途切れたと同時に一気に竜太の間合いに飛び込み、己の竹刀を竜太の面に向かって渾身の力を込め叩き込んだ。
「きぃいいい! めぇえええええん!」
武道場の床を踏み込む音、風を切る竹刀音と乾いた打撃音、そして、残心と呼吸の音の全てが共鳴し、武道場を駆け抜け、再び静寂が訪れた。
武道場にいる全ての者が、今有る静寂が、この勝負が終わった事を告げる準備をしているかのように思えた。
そして、一時の間の後、審判全員が旗を上げる衣服の擦れる音が聞こえ、上げられた手の先の色を確かめようと目を見張った。
果たして……。
(第十七話に続く)