信頼。
信頼が重い。><
ブクマ、評価、ありがとうございます。
子育ては大変だ。
だが乳母がいるおかげで、わたしはそのイイトコロだけを堪能している。午後の空いた時間、子供部屋に通ってジェイスと遊ぶのが日課になった。
「いないないば~」
わたし的に定番のコミュニケーション方法は異世界でも通用するようだ。ジェイスはきゃっきゃっと笑い声を上げる。
(くうぅぅぅ。可愛い)
わたしは心の中で身悶えた。
ジェイスは控え目に言っても天使だ。顔立ちも可愛いが、性格も可愛い。いいとこ取りのわたしはジェイスと過ごす時間はただ楽しい。
ジェイスのことで子供部屋に通ううちに、乳母のケイトとも仲良くなった。いろいろと彼女の話を聞く。侍女たちより気安く話せて、市井のことにも詳しかった。将来に役立ちそうだと、わたしは積極的にケイトと話すようになる。
ケイトは年子の男の子3人のママだ。
男の子を3人育てるのはとても大変だという話を、ケイトは楽しそうに語る。子供が好きなのがよくわかった。
わたしは微笑ましい気持ちになる。だが同時に、引っかかりを覚えた。
小さな子供がいるのに、ケイトは住み込みだ。家に帰っている気配はない。
(週末とか、月末とか、そういうタイミングで休みを取るのだろうか?)
気になった。
「素朴な疑問なんだけど、ケイトはいつ、家に帰るの?」
その質問に、ケイトはぽかんとする。質問の意図がわからないようだ。
「どういうタイミングで休みを取るのか聞いているのよ」
わたしは言い換える。
「休みはありません」
ケイトは答えた。
「えっ?」
わたしは驚く。とんでもないブラックな発言を耳にした気がした。
「じゃあ、家には帰れないの?」
わたしの質問に、ケイトは頷く。
「帰りません」
はっきり答えた。
「わたしがジェイス様の乳母を務めるのは1歳までの約束です。その間、つきっきりで世話をするのがわたしの仕事なので、家に帰る暇はないんです」
その説明に、わたしは目を丸くする。
(なんというブラック企業)
胃がきりきりと痛くなった。
「乳母とはそういう仕事なの?」
戸惑う。
庶民のわたしは乳母のいる生活を知らない。乳母に育てられるようなお金持ちの知り合いもいなかった。何が普通なのかはわからない。だが我が子を1年も放って、他人の子供を育てるのはなんともスッキリしなかった。放っておかれる子供のことを考えると、胸が痛む。
一番下の子は2歳にまだなっていないと聞いた。子供達はみんな幼い。母親が必要な時期だろう。
「わたしが求められているのはそうです。乳母にもいろいろありますが」
ケイトは説明してくれた。乳母といっても、その仕事はいろいろあるらしい。ケイトのような授乳のために雇われる乳母は24時間勤務で無休、そのかわり1年だけという契約形態が一般的なようだ。カッシーニ家だけがブラックという訳ではないらしい。ちなみにそういう場合、ジェイスが一歳になると別の乳母が雇われるのが普通らしい。その乳母は貴族の未亡人である場合が多く、子供に貴族としての常識を教えるのも仕事に入るらしい。
つまり、母乳を与えるのは誰でもいいが、貴族の子供の教育は貴族にしか任せられないという考え方のようだ。この場合はさすがに年中無休24時間のコンビニみたいな形態にはならないらしい。
「ケイトはそれでいいの? 家に帰れなくても……」
わたしはなんとももやもやした気持ちになる。ケイトの家族に申し訳ない気持ちで一杯だ。
「ええ、そういう契約ですから。それに、過分なお給金を頂いています」
ケイトは微笑む。無理をしている感じはなかった。それが普通だから、当然だと思っている。
わたし的には労働基準法が……とか思ってしまうが、こちらの世界にそんな法律はもちろんない。
「月に一度とか、週に一度とか、せめて家族に会う面談の日を作らない?」
わたしは提案した。
正直に言えば、休みをあげたい。だが、自分の勝手でそんな約束は出来ないし、勤務形態を変えるのも躊躇われた。この世界にはこの世界のやり方がある。虎穴に入らずんば……という諺が頭を過ぎった。わたしの方が合わせるべきだろう。
「それは……、ありがたいですが。ジェイス様の世話はどうするのですか?」
当然の質問をされた。
「わたしでは心許ないと思うけど、数時間ならわたしでもなんとか……」
少し自信なさげに、わたしは答える。赤ちゃんの世話は全くの初めてではない。ただし、この世界の方が現代日本よりいろいろ大変だ。
「心許なくなんてないです。アヤ様は立派に母親をやっていらっしゃいます。アインス様もアヤ様と一緒の時はとても穏やかで優しい顔をしていらっしゃいますよ。3人でいらっしゃる姿はどこからどう見てもご家族です」
ケイトは力説した。
「アヤ様がジェイス様のお母様になってくださり、心から良かったとわたしは思っているんです」
熱く語られる。
「大げさよ」
わたしは苦く笑った。そんな風に言われると、少し困る。わたしがここにいる時間はそう長くない予定だ。わたしはジェイスの母親にはなれない。
(それに、本当の母親になるのは簡単なことではない)
わたしは子育てを甘く見てはいなかった。今は数時間、遊ぶだけだから上手くやれている。何の責任も持っていないから、気も楽だ。だが本当の親になろうと思ったら、大変な事は沢山出てくるだろう。
(わたしには母親なんて、務まらない)
期待してくれているケイトにごめんと心の中で謝った。
「そんなことないです。わたし、本当にほっとしたんです」
ケイトはとても不安だったことを話してくれる。
レティアの出産前、10日間ほどケイトはカッシーニ家に通っていたそうだ。その後はキャピタル家にレティアと共に移ったそうだが、その間、アインスとは何度か顔を合わせたらしい。
その時の印象が端的に言ってしまうと、悪い。アインスとレティアの態度はよそよそしく、アインスには妊婦であるレティアを気遣ってはいたが、それはどこか事務的に感じたそうだ。
夫妻の関係やジェイスの出生の秘密をざっくりと知っているわたしには二人が気まずいのはよくわかるが、何も知らなければ違和感を覚えるだろう。
「初めての出産で、レティア様だけでなくアインス様も緊張していたんですよ」
わたしはちょっと苦しいと思いながらフォローした。
「そうでしょうか? でも、この家に迎えてくれた時もアインス様はジェイス様の顔をちゃんと見ようとしていないように感じました」
ケイトは首を傾げる。わたしに気を許しているのか、普通なら口に出すのは控えそうなことも口にした。このあたりが平民と貴族の違いなのかもしれない。
(意外と鋭い)
母親の勘みたいなものなのかもしれないが、当たっているのでどきりとした。わたしにもそう見えた。ジェイスの顔を見るのをアインスは恐れていたのかもしれない。
「でもアヤ様がアインス様を連れてきてくれました。アヤ様と一緒の時のアインス様はとても優しい顔をしていらっしゃいます。ジェイス様のことも受け入れてくれました。アヤ様がいるなら、わたしは安心です」
ケイトににこやかにそう言われると、わたしの心は少し痛んだ。
信頼に応えられないのは苦しいです。




