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不条識な狼の理62

♗62


「ごめん。サク。本当ごめん。落ち着いた。」


 しばらく経って、いつもの冷静なヒカミに戻った。


『うん。あたしは全然大丈夫だよ。というか。ごめん。まだやっぱり怖いよね。あたしの事。』

「いや大丈夫だ。怖くない。ただ、怖かった時の事を思い出した。

 今日の歩の件だって一生思い出す。

 人間って不思議な生き物でさ。どんなに楽しかった思い出より、怖かった苦しかった思い出の方が、より鮮明にはっきり覚えてるし、ほんの些細な切っ掛けから、すぐその怖い思い出が顔を出しちまう。

 だからさ、その怖い思い出に勝る楽しい思い出をいっぱい作る為に。生きないと。」


 そして、ヒカミが立ちあがる。


「そう。生きないと。」


 良かった。ヒカミは諦めてない。


「歩のことがあって、本当にあいつは悔しいんだろうけど、あいつの悲しみに寄り添ってる時間はない。おれは歩ともまた楽しい思い出を作る為に、なんとしてもこのシステムを終わらせて、元の世界でみんなと再会したい。

 なあサク。約束してくれ。おれは今から絶対君に迷惑をかける。多分。普通に通るよりかなりシンドイと思う。

 そんな中で申し訳ないが、絶対に兄ちゃんみたいに。おれの代わりに死ぬってのだけは辞めてくれ。どちらか一つって状況下に陥ったら絶対におれを捨てるって約束して欲しい。もし必死におれが生きてここを通れたとしても、そこに君がいなかったら、おれはもうこれ以上辛い思い出を増やしてまでまともに生きいける自信がない。あの悲しみは兄ちゃんだけで十分だ。」


『わかった。あたしは絶対死なない。約束するよ。ほらタフさと運だけは強いからさ。そう簡単には死なないよ。』

「それと。おれが冷静さを失って、また暴れだしたりとか、もし、君の命まで脅かすような行動に出たら……躊躇うな。その時は本当に殺してくれ。窒息は嫌だ。喉か心臓の手が届く方を掻っ切ってくれ。」


 ヒカミは冷静に考えて言ってくれてるんだろうけど、常に自分が死ぬことを第一に考えるのが、あたしは少し嫌だった。


『ねえ。ヒカミ。あたしの為を思って、自分が死ぬ事ばかり考えてるんだろうけど、少しはあたしを信じてよ。』


 真っ暗闇の中、あたしは手探りで、ヒカミの肩を取り、そっと抱きしめた。


『大丈夫。護らせて。こんな姿になったあたしには体力馬鹿な事ぐらいしか取り柄がないんだから。』


 改めて、思ったけど。本当に小さいなこの人。ハクスイだったら、視界に入らない時があるぐらいだし。平均ぐらいのあたしの身体で、まるで男女カップルかのようにすっぽりと腕に収まる。

 ぐっとヒカミはあたしを強く抱き締め返してきた。


「おれはどうすれば、なるべく生きてここを出れる?」


 生きる希望。声に芯があった。




 現実論として、まず、あたしとヒカミ。二人とも靴を捨てた。岩場とかで足を切る危険もあったけど、それはあたし達が生身の人間であったらの話だ。この身体、便利なところは便利な機能として割り切って使うなら、まずこの丈夫な足は活用すべきだ。

 あとヒカミには下の履物は捨ててもらった。もともと、尻尾を隠す為にサルエルみたいなダボダボしていたものを履いていたので、この履物だと、絶対水の中で邪魔になる判断。下半身の露出は……まあ今更気にするような人でもないでしょ。むしろ、下は全部獅子の身体だし。ぱっと見だったら、問題ない。カメラのズームさえなければ問題ない。




 ヒカミはあたしにコアラのように抱き着き、尻尾をあたしの足に絡めた。


『大丈夫?行けそう。』

「おう。頑張る。」


 とは言っても、修学旅行の大浴場ですら、一番端っこにいる人だ。本当に大丈夫だろうか……

 あたしはヒカミを抱いたまま。一歩二歩と、水に浸かる。


「うっ、うああ、ひゃああああ。」


 胸のあたりまで、水が浸かった所で、ヒカミは男でも女でもない声変わり前の少年のような声で悲鳴を上げる。


『大丈夫。あたしがいるから。』


 ぎゅっと、小さな手で、あたしを掴む。人間の方の片手で握ってくるあたり、まだ冷静さは失ってないと思う。

 顔のあたりまで水が近くなる。ここからは潜るしかない。

 さっきまでのまだ松明が着いてた時の記憶を頼りに。多分あと数歩圏内に、ハクスイが通るのギリギリの天井も低く、道が狭ばまるエリアに入る。


 よく思い出してみたら、ハクスイは潜って、すぐ水中から波打ちも見えなくなったので、もしかしたら、ハクスイの体でも簡単に通れるぐらいに水中は深いのかもしれない。


『ヒカミ、今から潜るけど、絶対に冷静でいてね。大丈夫。構造的に、ここからずっと水中ってわけじゃなくて、ところどころ狭くなってるとこだけ、潜水で、あとはちゃんと酸素もあると思う。ただ、真っ暗だから、少しでも冷静さを失ったらアウトだから、絶対に冷静でいて、あたしを信じて。』


 せめて、ライトがあれば、まだ楽なんだろうけど、暗闇の中、ところどころ潜水で水の流れだけを頼りに進む。しかもカナヅチを一人抱えてって、本来ならとても冷静でいられる状況じゃないね。冷静だからこんな事考えられるんだろうけど。

 でも、まあね。決めたから。


 絶対に護るって。



『一旦潜るよ。息吸って、止めて。』


 ぼちゃんという水音と、耳の穴に酸素がなくなるあの圧迫感。暗闇の中の水中。

 飲み込まれてしまうような。怖さ。もしかしたら、あたしは独りだったら、この怖さに飲まれて駄目だったかもしれない。

 ヒカミを左手に抱えたまま、不安定に、ギリギリ床につく足を這わせて、右手で掻き分けるように、漕いで進む。

 とにかく、波を感じながら、進行方向を見失ないように。

 頭上に、空気を感じで、次の一歩で、しっかり地面に足を着き、一度上がる。


「ップは……はあ。はぁ。」


 波の流れだけじゃなくて、ヒカミの呼吸にも気を配る。多分。あたしの人生の中で最も難しい事をしている。

 一歩一歩と進むと、一度肩まで身体が上がる。ここは浅いエリアだ。

 ヒカミがぎゅうとあたしに強く抱きつき尻尾もあたしの腿にぎゅっと巻きついてくる。

 なんか、本当に小猿を抱いてるみたいだ。一応はライオンらしいけど……はてライオンとは何だ。少なくともこんな小さな生き物ではないはずだ。




 ありがたい事に、暫くこの水位で進めた。

 途中二回ほど潜水する箇所を挟み、また進む。ほぼ水中ウォーキングで行けたのは、この暗闇の中せめてもの救い。




 しかし、こんなイージーモードで許されるはずがなかった。

 明らかに、道は狭くなるし、明らかに流れは強くなった。

 潜水から、また顔出せるエリアまで来れたが、水の反響音からわかる。天井はかなり低い。そんな状況下でも、流れはどんどん強くなる。

 進行方向、手が岩壁に当たる。次も潜水だ。


 ここでしっかり呼吸を整えておきたい。が、今にも流されそうな強い流れが、あたしたちの身体を押し流そうとする。正直言って怖い。暗闇の中で、水の轟音だけが響く。両手が使えれば、もう少し情報が取れるけど、残念ながら、あたしの左はヒカミを抱えることに使い、右手は流されないように、岩壁につくのに使っている。


『ヒカミ、次はちょっとシンドイだろうから、ここで呼吸整えて。』


 あたしの言葉にヒカミの返答はなかった。


「ヒカミ、聞こえてる?」


 水音であたしの声が届かないだけかと思えば。違う。水の轟音の中にヒューと空気の擦れる音がする。

 聞いたことのあるこの独特の呼吸の擦れる音は、喘息の発作だ。でも、ヒカミは喘息なんて患ってない筈で……そう、過呼吸だ。


『ヒカミ、聞いて、冷静になって。』


 あたしの呼びかけが聞こえてるか、聞こえてないか分からないけど、ヒカミの過呼吸は増す。そう、過呼吸って進行すると、自分の意思じゃ止めれないって。

 あたしは、この状況下をクリアするために、頭をフル回転させる。冷静に思い出す、思い出す。考える。思い出す。確か、ヒント……そもそも、なんで、あたしは過呼吸は自分の力で止めれないって知ってるのか、なぜ知識があるのか、思い出せば……


 ハクスイが、過呼吸になった時、ヒカミはハクスイの口に袋を当てていた。そうだ。それはどうして、


〈酸素吸いすぎるとこうなるんだ。だから、こうやって、袋を当てて、自分の呼気に含まれる、二酸化炭素を吸わせてやると、嘘みたいに落ち着く。〉


 そう。それ。私はあの時、へえと一生使うか使わないか分からない知識を得て、落ち着きを取り戻すハクスイを見つめていた。本当に落ち着くんだ、なんて呑気に思ってた。



 袋は持っていない。というか、両手は塞がってる。

 どうすれば?こんな時、逆の立場だったら、ヒカミだったらどうする?理屈はわかってるんだ。あとは手段。今使えるものは……

 あたしは狼だ。狼は両手両足は基本的には歩行にしか、使えない。むしろ手と云う表現もおかしい、前足後ろ足だ。じゃあ、手の代わりに、人間が本来手を使う用途で、狼が使ってるものは。口だ。



 あたしは頰で、ヒカミの顔の位置を把握し、ヒカミの口をあたしの口で覆った。


『んっ……』


 誇張表現なしで、本当にそんな声が出た。

 自分以外の呼吸をこんな風に受け止めるという経験はあるだろうか。一気に噎せそうにになったけど、耐えた。

 心なしか、唇が触れた瞬間にヒカミの呼吸が少し落ち着いた感じがする。ビックリして冷静になったという感じに。

 そして、冷静になって、あたしの口を咥えてくる。口を綺麗に合わせて、あたしから空気を吸うように。あたしが何をしようとしたのか察したみたいで、待って待って!ちょっとドキドキする。暗闇で何やってんのあたしたち!




「ありがとう。落ち着いた。」


 水音に負けないように、大きな声でヒカミは言ってくれた。こんなに大声でまるで、ヒカミは落ち着いてないように見えるけど、真逆。落ち着いてないのはあたしの方だ。ドキドキする。いくら緊急事態をはいえ、人の呼吸を口で受け止めるって、どんな上級プレイ?あたしが過呼吸になるかと思ったわ。


 今言うべきじゃないから、今はあたしの心の声に止めておくけど。

 小さい頃から不思議ちゃん扱いで友達のいなかったあたしは、遊びですらキスをしたことがなかったので、正真正銘の初めてのキスです。ヒカミさんおめでとうございます!ハクスイに取られなくて良かった(やけくそ)




『大丈夫?行けそう?』

「うん。頑張る。」


 子供のように、ヒカミの身体が、さらに強くしがみついてくる。子供というか。小猿のように。



 肺に酸素を入れ、暗闇の狭い濁流の中に身を捩じ込んだ。

 濁流が耳の横をゴゴゴゴゴと音を立てて通り抜けていく。身体が傾き、しっかり、鼻に水が入る。ああまずい。鼻がツンと痛んだと思えば、もう次の瞬間には脳天まで、衝撃がギシッと走る。まるで、鼻から脳みそに向かって撃たれたのでは?と思うような。うわ。痛いと理解した時にはもうあたしの意識はなかった。

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