不条識な狼の理50
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この一年の間に試したことが一度だけあった。
それは満月の日に、有り得ないくらいに満腹だったら人を食う気も起きないのでは?という疑問から起きた実験。
森の中で、猪二頭を目の前に置いて、満月を迎えた。
この満月の日独特の空腹。本当に死ぬ程の空腹。限界まで空腹になると、空腹感なんてとうに越えるのに、それがこないのだ。空腹というより、どちらかといえばあの喉の渇望感。水が無い時の苦しさに近いのかもしれない。
喉が鳴る。口から溢れる唾液が勿体無い。その状況下で、さすがに二頭の猪。絶対あたしの体重を超える量の食物が目の前にあれば、もしかしたらこの呪いを超えられるのだろうと。
食いついた。相変わらず。固くてあんまし美味く無い。いやでもこんな空腹だよ。空腹は最高のスパイスだというじゃないか。
自分に言い聞かせながら、とにかく作業のように、猪にかぶりつく。
しかし、不思議なことだ。空腹感が全く収まらないは愚か。この喉が張り付くような飢餓感も全く収まらない。喉が渇いた。腹が減った。
感情とは真逆に、この目の前の猪は食し続けている。おかしい、なぜこんなにも飢えてる?
自分の腹を見ると、臨月の妊婦のように腹が膨れあがっている。ああ胃袋ってこんなに詰められるんだと感心し、冷静に気持ち悪い見た目だなと思う。
何せ、服を縛っていた帯が外れて、服がはだけるほどに腹が出てるのだ。露出した腹の部分はあたしの中でも数少ない人間の肌の部分だし、刺青が彫ってある部分だ。その彫ったものの柄がわからなくなる程度には腹が出ていて気持ち悪くって。
瞬間。吐き出す。
まだ何も消化が進んでいない。それは赤と茶色だけで、恐ろしい勢いで出る。ろくに呼吸も整えられないままに、どんどん出る。
もうね。この世界来てから何度もこのクダリがあったせいで吐き慣れたってか。なるべく喉に力を入れないで、冷静に、うわーまだ出ると思いながら、どんどん嘔吐していく。
一通り吐き終わって。気持ち悪いことに、小さな山になっている。モザイク。放送NG案件。
そして普通こんなにも吐いたら、消化器官は直ぐにでも休憩したがって直ぐにでも横になりたいって思うだろう。
そう普通ならね。
普通ではない呪いを帯びたあたしの身体は、これじゃないと飢え続ける。
結局あたしはこの日も、スラム入り、一番先に目についた死体を食したのだ。少し腐ってたけど。それでも関係なく、食べたらあの飢餓感が収まったのだ。
だから。仕方ない。もう満月が出てる日はあたしはこの呪いの条理に従うしかないのだ。
これからもずっと。この世界をゴールして元の世界と元の身体に戻らない限り、人を食い続ける。人を食うことに疑問を持たずに人を食う日に苦しみ続ける。
だから、さっきハクスイを無事に歩の仲間に引き渡す事が出来て良かった。私は一刻も早くハクスイと離れたかった。
満月が完全に現れたら、今日のあたしは、躊躇いなくハクスイを食ったことだろう。
『ふう……』
スラムからまた砂漠入り口あたりまで、引っ張ってきた女性の死体。食べるとこあんのか?って思う程度には痩せてる。いやでも女性の死体の場合はこのぐらい痩せてる方が都合が良い。元が脂肪の多い生き物だから、普通体型だと、腿のあたりの脂分が重いんだ。折角命の頂くのであれば、あまり残したりのしたくないし。(ってのも流石に人間一体分って残すこと多いけどさ。)もし食べきれそうな個体を見つけた場合。そっちを優先して持ってくる。これがあたしなりのこの一年間のルールだ。
『頂きます。』
手を合わせて、祈った。これは人間を食うからって事じゃなくて、樫山家のルール。基本的に食べ物には苦しんで生きて来た樫山家は食べ物に感謝できない者を人として認めない。いや、人食ってる時点で人じゃないけど。
ぐちゃっ、ぐちゃ、
相変わらず。慣れない。嫌な音なんだよな。綺麗に血抜きして一度乾燥させたらこんな音でないんだろうか。
痩せ細っていたとはいえ、死んで一日ぐらいしか経っていないまだ新鮮な死体は、まだしっかり血が詰まってるし、歯で食い破って咀嚼する度にあの嫌な音が聞こえる。
さすがに痩せ細った死体だ。足はすぐに食べ終わってしまう。乳は……食うか。
身体を持ち上げ、胸に齧りついた。犬歯が皮膚を破り、口の中に入る脂分を咀嚼する。
「そこってさぁ。美味いの?なんか脂っこそうだけどさ。」
聞き慣れた声だった。
『ヒカミ。いつからいたの?』
「お行儀よく頂きます。言ってたあたりから。」
最初からじゃん。
『あんまし人に見られたくないんだけどなあ。』
あたしはそう言いながらも、食べることを止めれない自分がいた。
「そうか。悪いな。」
悪いと言いつつも、ヒカミはそこから動こうとしなかった。
仕方なく。あたしはヒカミに見られたままの食事となる。
「なあ。その胸の部分って脂っこくねえの?」
そこそんなに気になるとこなの?
「ぼんちり食うみたいな感じ?」
『仕方ないじゃん。食べるとこ少ないんだよ。この個体。』
「ほうそうか。」
ヒカミは何を考えてそんなこと言ってるんだろう。相変わらず、あたしの食事を眺めてくる。
「なあ。おれ美味そうにに見える?」
『え……?』
予想外の質問。あたしは食事を一度止めて、ヒカミの方を見た。
確かに、死体よりかは新鮮な、生きてる個体の方が。そして痩せ細ったものより健康的なものの方が。
しかし。これもまた予想外であった。
『ごめん。ヒカミに対して全く食欲わかない。』
「そうか。おれは人間としてカウントされてないって事か。」
確かに、確かにそうだ。可食部少ないっても、ヒカミは左腕、左胸はちゃんと人間だから、本来なら食べたいと思うはずだ。なのに、本当に湧かない。なんていうか食べ物として認識できないって感じかな。
「じゃあ。おれ。この姿で生まれて良かったわ。」
どういう事?
ヒカミはあたしの隣に座った。
「ごめんな。いや。ごめんなさい。おれサクに隠してた事がある。
おれずっと。ずっとサクの事が怖かった。ごめん。もう怖くない!」
その意味をを察した時。
残りの可食部。腕の肉を咀嚼しながらあたしは自然に涙が溢れてきた。
「おおっと。ごめん。そんな泣かせる気じゃなくて。んと。おれさ。サクと違って弱いからさ。結局水はいつまで経っても怖いし。あの滝だってサクが一緒にいなかったら怖くてくぐれなかったし。そんくらい駄目なんだよ。一度怖くなったものがいつまで経っても怖くって。
だからさ。最初さ。あの迷路でサクに食われそうになってからずっと怖くて。一年も寝てる間も、何度も何度も、サクに食われる夢も見てさ。
こんなにも大好きな、守りたい大事な友人なのにさ。ふとした時に、また食われるんじゃないかって恐怖がすぐ湧いてきてさ。ね。情けねーよな。おれ本当に弱虫だよな。
んでも。もうおれは晴れて人間の因果を外れました。もう食われることはないぜラッキーもう怖くねえぜ。
本当はおれが自分自身と向き合って克服しなきゃって思ってたんだけどさ。まあ今回はラッキーって事で。」
ヒカミは笑顔で言ってのけた。
おかしいよ。それが本当なら、あたしは寝てる間に殺しといた方が良かったじゃん。
それってずっと、ヒカミを我慢させてきたって事じゃん。
あの絶望的な恐怖からずっと。あの恐怖から我慢させてきたってことじゃん。
それなのにそんなに怖いのにずっと一緒にいてくれて。
『ありがとう。』
ずっと言えなかった言葉。
何年も何年も。ヒカミは言えるのに。ハクスイは言えるのにあたしは言えなかった言葉。
『怖いのにずっと一緒にいてくれてありがとう。』
「へへ。おれこそ。ずっと黙ってごめんな。こんなこと言っても嫌わないでくれてありがとな。」
普段あたしが言わないような事を言ったせいか、ヒカミからバサバサと布が擦れる音がした。多分嬉しくて尻尾が動き回ってるからだろう。
食事が終わって。ヒカミと並んで座ってあたしはぼうっと満月を見上げた。あたしを呪いで縛る満月。これがある限りあたしは人を食う呪いに苦しめられ続ける。しかし。皮肉にも綺麗な満月だった。
『今日は月が綺麗だね。』
何だか思ったことをそのまま口にしてしまった。こんなにも皮肉な月がこんなにも美しいからつい。
「……ほうぇ?」
しかし、ヒカミは予想外の態度なのだ。なんだか凄く驚いた感じであたしを見てくる。
「え?さっきも柄にもなく、ありがとうとか初めて言ってくるし。なっ、なんだ?それはあれか?イートじゃない方の意味でおれを食べたいとかそういうことか?」
え?なにそれ?折角あたしが勇気を出して、ありがとうって言葉にしたのに、なにそれ。
『え?何言ってんの?あたしが折角勇気を出して言ったのに。』
「ちょchcおhcオチョchcお!!!待って待って!なんだ!一昨日のあの一件であれか、ハクスイのとのあれで嫉妬的なあれで、君は正攻法であれなのか?」
何言ってるのか?全然わからない。《あれ》って使いすぎだし。
『いや、あれって、、』
「わかった!!もうあれだ。せめて一つだけ確認したい。」
ヒカミはあたしを遮って続ける。
「おっ、おれはサクから見て、右なのか?左なのか?」
何を言ってるのか全然わからないけど、今ヒカミはあたしの右に座っている。
『へ?右だけど。何言ってるの?』
「はっ……」
ハッと息を飲むとはこのこと。そしてヒカミは月よりも遠くを見つめる。
「そうか。おれは当たり前に右なのか。いや。ハクスイ相手ならわかるんだよ。あのキャラは無理だよ。女は全員右に行く。しかし。おれ単体は違うと思うんだ。左右どっちでもイケるキャラだと思うんだ。なのに……ははは。そうか。おれ。右固定か。」
この時はヒカミが何を言ってるのか全然わからなかったけど、後日この会話がトンデモナイ下ネタであったことをハクスイに教えてもらった。




