不条識な狼の理15
♗15
人間の極限の空腹は目眩ののち意識を失う。これは一般的な知識だけなく、極貧民、樫山家では一度は経験する。つまりは経験論なのだ。ふらーっと倒れる。
何故そうなるかというと当たり前、人間には理性がある。お腹が空いても食べ物を盗んではいけません。そうしているうちに身体は活動限界となり、機能を停止させる。
では。理性を持ち合わせない生き物だったら?
爪先についた血痕を舐めて、如何に新鮮なものか理解する。
首を折っても良かったが、生きてたところでそんなに食い辛そうでもなかったし。何せその人間の躯体は小さいんだ。簡単に抑えられる。
腹部から喰いちぎると、犬歯越しにしっかりと肉を噛み切る食感が伝わり、噴水のように血が吹き出た。
そいつの叫び声とともに、抑えていた躯体は予想を超えて暴れ出す。
暴れる躯体をさらに強い力で押さえつけ、もう一度、犬歯を奥へ奥へ。暴れる力が急に弱くなった気がしたがそんなのはどうでも良かった。その肉塊を貪り食った。
◆
驚くほどの悲鳴だった。
あたし自身の。
すかさず、側にいたハクスイがあたしを抱きしめてくれた。
「落ち着いて。今、サクが狂ったら、本当にサクを殺さないといけなくなるから。」
全身から吹き出る汗と、荒い呼吸と震え。怖くてたまらない。あたしは抱きしめてくれたハクスイの心音に意識を集中させる。
最悪の夢だった。それももう二回目だ。さっき一度起きた時の夢はまだ追いかけているだけの夢だった。でも今のは違った。確実に食ってた。夢だから内蔵とかその辺は全然曖昧だったけど、腹の肉を引き裂いて食うという。夢とはいえ最悪だ。しかし今の夢は半分は現実にあった事だというから最悪なのは変わりない。
あの蝋燭の部屋で、ハクスイの怖がった顔も。ヒカミの聞いたことのない叫び声も。縋るようにあたしを見る顔が絶望に染まるあの瞬間も。
何してんだろう。一番怖いのはヒカミだったはずだ。あたしがこんなに震えてるのはお門違いだ。
「ごめん。サク。さすがに痛いから、もう少し優しく。」
ハクスイに言われて、あたしはハッと我に返った。包帯に巻かれた腕を見る。この腕は今までのあたしとは比にならないほどの力を所有してる。何事も力を入れない事を意識しながらでないと、この腕は何もかも破壊してしまう。
『ごご、ごっ、ごごめん。』
震えがそのまま声帯にも伝わって。どもった発音になる。
何であんな事したんだ。
ずっとある疑問。後悔じゃなくて疑問。どうしてああなってしまったのが自分でも分からないのだ。夢うつつという表現が一番近いのか。現実世界であれば絶対にあり得ない事も夢の中ではあり得ない事象にさほど指摘も入らずストーリーは展開していく。空を飛んでいる夢なんて良い例だと思う。人間は自力で宙に浮く事は出来ない。しかし、空を飛んでいる夢で本来なら飛べないという思考に至った事はあるだろうか。
人間は人間を食べない。まして親友を。そして人間は狼にならない。これが現実なら。
しかし。やっぱりあたしの身体は人狼だし、あたしがヒカミ襲った事実は変わらないから、ヒカミは怪我をしているわけだ。あり得ない事があり得る事とされている。まるで夢のよう。でも現実。堂々巡り。
【この世界において常識は通用しない。
通用するのは条理のみ】
あたしが人狼となって人を食うのは条理なのか?
「私が起きる程度の大声だったけど。隣の子。まだ起きないわね。」
意味深に、ハクスイが隣のベッドに目配せする。
確かに、隣のその子はまだ起きる気配が無かった。規則的な寝息が聞こえるので、もう快方に向かっているとは思うけど。
「流石に二日近く経ってるから、あとでゆすってみても良いかもね。私が寝る前の時点では顔色も良くなってたし。」
「おーいシラミズ。ヒカミ起きたみたいだぜ。」
向こうの部屋から、歩の声が聞こえてきた。
「今行く。」
ハクスイは、ベッドから降りると、かけてあった着物を羽織りながら日本刀を持って、隣の部屋へと消えていった。
念のために書いておくけど、あの人。平気で下着だけで寝る。なので、寝起きしょっぱなから、同じベッドで寝起きのハクスイに抱きしめられていた構図を、今の情報を元にもう一度想像して貰えば幸いである。
ヒカミに会いたい。無事な顔を見たい。そしてまたいつも通り馬鹿な会話して、ヒカミならではの頼れるリーダーシップで早くここから出ようぜって引っ張ってもらいたい。
いつも通り。なんだか凄く儚い言葉だ。いつもって何?これがいつもならもう卒業式は終わっている。
これがいつもなら、あたしはこんな姿じゃない。ヒカミは怪我をしていない。あたしとヒカミにこんな距離は無い。
「サク。おいで。ヒカミが会いたいだってよ。」
向こうの部屋からハクスイに呼ばれた。
いつもを失ったあたしはヒカミにどんな顔して会えば良い?ハクスイはああやって接してくれた。殺すかもと宣言までしておきながら、あたしが正常である限り本当にいつものハクスイだ。どうしょうもない下ネタとボケをかますのも平常運転だ。今のあたしの見た目はどう見ても人間じゃないのに。
歩は肝が据わりすぎているから、初対面の誰もがあたしの姿を見て冷静でいられるかと言ったら、歩を凡例に入れるのはナンセンスだ。
多分無理だよ。普通の人間がこのあたしの見た目を受け入れるのは。ましてそのあたしに最悪の記憶を植え付けられた人なら。
あたしはベッドから降りて右足を引きずりながら、ヒカミの待つ部屋に向かった。部屋に入る直前で、顔が殆ど隠れるようにフードを被りなおしたのは言うまでもない。




