空のお姉さん
その人は、僕が物心ついた頃から空にいた。
ちょうど昼間の月のように、白くぽっかりと空に浮かんでいる。少し寂しそうに見えるのも、昼の月に似ている気がする。
小さい頃から僕はその人を『空のお姉さん』と呼んでいる。シルエットが夏物のワンピースを着ているように見えるし、肩までの髪は、風に吹かれてふわりと広がった形だった。
僕には、高校生くらいのお姉さんに見えたんだ。
『雲でも、見間違っているんじゃない?』
家族や友だちに言うと、大抵そう返された。
ホラーが苦手な妹はこの話をすると、とても怒る。
『嫌だって言ってるのに! 私には全然見えないし、そんなの信じない!』
別に、怖くないんだけどなぁ。
僕にとって月や雲と同じで、いつも空にあって当たりなのが『空のお姉さん』だ。
両親はほんの幼い頃は、笑って聞いてくれたけれど、小学校に上がる頃には心配するようになった。
まずは眼科に連れて行かれた。
『飛蚊症』や『光視症』という、実際にはないものが見える病気があるらしい。
瞳孔が開く目薬をさして検査をした。検査はすぐに終わったけれど、そのあとしばらく視界がぼやけて、なかなか元に戻らなかった。
周りのものが、全てぼんやりと霞む視界の中で『空のお姉さん』だけはいつも通り、はっきりと見えていた。
僕は『空のお姉さん』を、目で見ているのでは、ないのかも知れない。
次に、カウンセラーの先生のところに連れて行かれた。
『妄想癖か、虚言癖があるのかも』
まあ、そう思われても、仕方ないかなって思う。
『不安に思うことはない?』
『さみしいと感じることは?』
『誰かに虐められたり、嫌なことをされたりしたことはある?』
『ひとりが好き?』
『夜は眠れている?』
太った眼鏡の女の人に、色々な質問をされた。僕は特に、不満を抱えて暮らしていたつもりはないけれど、正直に思った通りのことを伝えた。
最後に『空のお姉さん』のことを詳しく聞かれた。
・お姉さんは髪も服も手足も、全て白一色だ
・昇りはじめた月と、同じくらいの大きさだ
・お姉さんは移動はしない
・お姉さんはいつも西の空に見える
・雨の日はいない
・夜もいなくなる
・いなくなる瞬間や出てきた瞬間は、見たことがない
・いつも同じポーズで、手も足も髪の毛も動かない
・どこから見ても、後ろ姿だ
僕は思いついた順番で、思いつく限りのことを全部伝えた。
カウンセラーの先生が、どういう結論を出したのか、僕は教えてもらえなかった。そのあと何度か先生のところに通って、いつの間にか行かなくなった。
次は心療内科へ連れて行かれて、また色々質問され、そして最後には空手の道場に通わされた。
今なら両親の思考の流れが、何となく分かるけれど、当時は『なんで空手道場?』と疑問に思った。
そんな風にはじめた空手だったけれど、心療内科やカウンセリングより楽しかったし、友だちもできた。なんだかんだで、結局今も続けていたりする。
そんな小学生時代を過ごし、僕は『空のお姉さん』ことを、誰かに話すことはなくなっていった。
心配させるのは悪いなと思うし、次はお寺とか宗教関係の場所に連れて行かれる気がして、それはちょっと嫌だったから。
中学生になって、部活や勉強が忙しくなったけれど、僕は相変わらず空を見上げていた。お姉さんは少しも変わらずに、そこにいる。
昼間の月のように少し頼りない風情で、ぽっかりと浮かんでいる。それは僕を安心させた。
それはある日の、良く晴れた午後のことだった。
雨でもないのに、お姉さんが空からいなくなった。
僕はぐるりと、360度回ってお姉さんを探した。こんなことは初めてだったので、自分でも驚くほど動揺してしまった。
意味のわからない不安に、押しつぶされそうで、自転車のペダルを踏みこむ足が、ガクガクと震えて、冷や汗が背中を伝って落ちて、頭がガンガンと痛み出した。
僕は逃げるように……空を見ないようにして自宅に駆け込んだ。実際、怖くて空を見上げることなんて、とてもじゃないけれど、出来なかった。
自宅の鍵を震える手で開けて、後ろ手でドアを閉める。僕は、空から逃げることが出来たのだろうか?
昼間だったけれど、部屋の明かりを全部点けて歩く。テレビも点ける。
両親や妹に電話してみた。LINEも送る。Twitterを開き、仲の良いフォロワーを呼んでみる。僕は誰かと関わり合いになって、早く安心したかった。
誰からも反応がないまま、自分の部屋のドアを開く。
空のお姉さんは、そこにいた。
部屋の隅に、置物のように佇んでいた。
いつも通り後ろ姿で、おおよそ厚みの感じられない、真っ白な身体。僕は声にならない悲鳴を上げて、心の中で繰り返した。
振り返らないで!!!!
でもお姉さんは、ゆっくりと……本当にゆっくりと……振り向いてゆく。
紙細工のようにのっぺらな顔に、スウッと切れ込みが入る。切れ込みはゆっくりと弧を描き、目と、口を形作ってゆく。
『ヒャッヒャッヒャッヒャッ!!!!』
唐突に、何の前触れもなく、お姉さんの口から、狂ったような笑い声が漏れる。
体温の感じられない……一切の抑揚のない、笑い声。
僕は両手で耳を塞いで、その場にうずくまった。
長く、長く続いた笑い声が、ようやく聞こえなくなって、あたりが静まり返る。
目を開けるのも、顔を上げるのも、怖くて仕方なかった。でも、このままうずくまっているのも、怖くて堪らない。
僕は目を開き、次に恐る恐る顔を上げた。
目を開けたすぐ目の前に、お姉さんの顔があった。
「ヒッ!!」
短く声を上げて、座ったまま後ずさった。
お姉さんの、切れ込みのような口元が、ニイッと笑い顔を作る。
『おかえりなさい』
お姉さんは、確かにそう言ったんだ。
ホラー初挑戦です。作者は今、怖くて仕方ないのですが、皆さんはきっとそうでもないことでしょう。
もう二度と書かない!!