4/痴人の愛/ロリータ
4/痴人の愛/ロリータ
最近の日本の天候はおかしく、梅雨の時期であるというのに、すでに梅雨が過ぎ、髪の根から汁が滴り落ちてくる頃であった。
繁は来たこともないデパートに来ていた。見ることがない屋上の遊園エリアがある。景色は全体的にピントが合っていなかった。開けた空は青空であることが分かるものの、雲が浮かんでいるのかどうかは判別できない。屋上には子供連れの家族ばかりだった。晴天の下、着ぐるみを着て風船を渡しているバニーマンがいた。そんな喧騒の中、繁の手を引く者がいた。繁よりはるかに背が低い。繁はその少女を知っている気がしたが、顔はぼやけて判別できない。女性であることは分かる。背の低さから、小学生高学年だと繁は予測する。服装はミニスカート。全体的に明るい色の服だった。
繁は手を引かれながら、混沌とした概念について考える。今の状況がその混沌とした概念に該当すると考えたからである。その世界は判然としなかった。ただ、概念という張り紙を読んで、それが何であるのかということが分かる程度のものでしかない。少女は少女であるというレッテルを貼られていることで少女であると繁が認識できるのであった。これは根源的な文学の世界であるのだと繁は理解した。文字で描かれた情景をそのまま理解することは難しい。だから、読み手は必ず読み手それぞれの頭の中にある記憶をもとに文字の羅列から導き出される景色を投影する。今の繁はそれができていない。そして、記憶投影というのは現実世界でも起こり得ると繁は考えている。目に見ているものは光の反射により網膜に焼き付けられたものであると繁は決して信じはしなかった。本当の世界はこの混沌概念のように、ただ、概念を与えられたに過ぎない。忠実な映像を目で見せ、五感を映像に合わせると、それは立派な世界認識となる。しかし、それは現実とはかけ離れているはずである。しかし、それを現実であると認識するならば、仮想現実であれど、その本人にとっては紛れもない現実となる。
少女は遊具の一つを指さす。それはパンダ型の遊具で、お金を入れるとその場で乗り物が上下に動くというものだった。正式名称を繁は知らない。そこで、繁はこの世界の正体に気が付く。この世界は名前のない世界なのだ。きっとデパートの屋上の遊園フロアにも正式な名がつけられているはずだ。そして、店の人間が勝手につけた、独特の名も。その曖昧さのおかげで、ここがデパートの屋上であるかも判然としない。
繁は仕方なく、遊具にコインを入れる。そのコインが何円であるのかもわからない。
少女ははしゃぎながら、遊具に乗り戯れる。
パンダは上下に緩やかに動く。その遊具はおかしなことに、手足が回転した。首さえ回転している。こんな遊具は初めてだった。
突如、遊具から激しい音が響く。ごとっ、ごとっ。重いものが落ちるような音であった。そして、パンダは身震いをするように激しく左右に揺れる。少女が遊具から落ちそうになる。繁は落ちかけている少女を救おうと、少女に向かって身を乗り出す。
少女の体が遊具から完全に落ちる。その少女を繁は少女の下敷きになりながら助ける。パンダは俺は何も知らないぜ、と唾を吐くように正常な動きを取り戻した。
繁の鼻腔に少女の匂いが飛び込んでくる。それは春のように甘い香り。それも、黄昏時のような濃厚な香りであった。
その香りで繁は思いだす。
自分はこの少女が好きだったのだと。そして、少女も自分のことが大好きなのだと。
だが、少女には名はない。ならば――
ならば、好きな名をつければいい。両想いになりたい異性の名を――
「――」
繁はその名を少女に浴びせた。途端、少女の纏っていた概念混沌は払しょくされる。手足が、服装がはっきりと分かるようになってきた。そして、顔も明らかになる。
その顔を見た瞬間、繁は驚いた。自分がその名を呼んだことさえ繁は気が付いていなかった。
その少女とは――
「夢、か。」
目を覚ますと午後に近い時間であった。繁は不思議な夢を見、夢であることを認識した瞬間、眠りから覚醒した。そして、不思議な夢を見たことは覚えているものの、内容までは覚えていなかった。ただ、非常に清々しい目覚めであった。
「長い時間、寝ていたのか。」
今日は休日であった。それ故に目覚ましをかけていない。外からはごとごとと音が響いている。重いものを落とすような音であった。それが自分の眠りを妨げたのだと知って、繁は憤慨する。いい夢を見ていたという自覚があったからである。繁は一言文句でも言ってやろうと、部屋から出た。
外に出た瞬間、快晴で、突き刺すような日差しに繁はたちくらみを覚える。繁は咄嗟に目の前の手すりを掴んで、目を慣らす。騒音は意外と近いなと思い、辺りをゆっくり見渡すと、隣の部屋で引っ越し業者が荷物を運んでいるようだった。
「この時期に引っ越しか。」
珍しい事もあるものだ、と繁は思い、そして、簡単な結論に至ったので、考えるのは止めた。夫婦別居の類なのだろうと繁は考えたのだ。思った以上に部屋の方が音が響いていたので、繁は体の天日干しがてら、しばらく日に当たっていた。
「にゃんにゃんだ?これは?」
フードを被った隣人が眠りを妨げられた怒りをあらわにして繁のそばによる。
「やっぱり仕事を首になったのか。」
「ケツ。お前じゃないんだから。」
「ふん。わたしゃ就活さえやってないさ。それと、ケツじゃない。尾然だ尾然。」
隣人は眠そうに目をこすった。
「あれ?先生じゃないですか。そこの女は一体!?」
聞きなれたテンションであるので、繁は声の主の正体がすぐに分かった。
「緑か。」
「ええ。あなたの緑です。」
隣人は繁の服の袖を引っ張る。隣人は極度の人見知りであった。
「で、先生。そこの刑部姫さんは何者ですか!というか、どこでもあなたはハーレムを築いているんですか。」
時折吹く、夏の風が心地よかった。
「いや、無視しないでくださいよ。」
繁は隣人を一瞥する。自分で自己紹介しろという意味である。隣人は繁の服を執拗に引っ張るが、繁は子猫も泣き止む鋭い眼差しで隣人を睨んだ。隣人は観念し、小さな消え入りそうな声で話す。
「尾然結と申します。」
「結ちゃんですね。私は先生の同僚の橋本緑と言います。緑ちゃんと呼んでください。」
「・・・」
結は俯いたままだった。
「先生は渡しませんよ。いつか先生の恋人にまで上り詰めますからね。」
「・・・」
結はしばらく固まった後、そそくさと自分の部屋に戻っていった。
「先生はよくあんな子と話せてますね。さては、何かありましたか?」
「何もない。それと、自然に俺の部屋に入ろうとするのは止めろ。」
「だって、まだ段ボールばかりですし。そうですね。先生も私の部屋の整理を手伝ってくれませんか?」
「しない。」
「そんなあ。しっかり分かりやすいところに下着の箱を置いていたのに。」
繁は大きくため息をつく。
「で、これはどういうことなんだ。」
「どういうことって、引っ越しですよ。」
「・・・・・・」
繁はしばらく緑を睨んだ。緑は観念して、子どものように拗ねる。
「親と離れて暮らすことにしたんです。もう、あんな奴らの言いなりにはなりたくないので。」
「何故俺の隣に?」
「偶然ですよ。」
「・・・・・・」
「はい。しっかり調べましたよ。」
「で、どこまで知っている?」
「先生のことなら何でも知ってますよ。私は。」
「そうか。」
繁は興味を無くして部屋に戻っていく。隙を見て入り込もうとした緑を押しとどめるのは一苦労であった。
きらきらと朝日が輝いていた。世界を祝福するようで、繁には気に食わない。繁は朝食の準備をする。最近はパソコンに向かうことも無くなり、時間を持て余していた。
一応、忘れ物がないかを確認する。そして、部屋を出た。緑はどうしているのか、と繁は一瞬気にかかったが、いつも繁よりも早く出勤しているので心配ないと車に乗って出勤する。ありきたりな毎日だった。潤いもなにもない。
人は目の前の幸せに気が付かない。青い鳥のように。無くして気付いたときにはもう遅いのだ。そのことを繁は知らなかった。
「おはようございます。」
「おはようさん。」
繁は面倒くさそうに挨拶をする。生徒に目を合わせない。ふと、繁は自分をじっと見つめる視線に気が付く。
「何か用か?」
「・・・・・」
たおやかな黒髪は何も語らない。なので、繁は去ろうとした。
「おはようございます!」
「うわあ。」
突如として黒髪が吼えたので、繁は柄にもなく驚く。
「なんだ?ございますなんてつけて。お前らしくないじゃないか。」
繁は吼えた浜辺に告げる。
「あんたに、らしさ、ってのを言われたくないわよ。でも、そうなのね。」
「何がだ?」
「いいえ。」
浜辺は少し元気が無いように繁には見えた。浜辺も調子が悪いことがあるのだろう、と職員室に向かう。職員室に向かって歩き出そうとした時、浜辺は呟いた。
「誰かが誰かを想う気持ちが愛だなんてよくいうわね。」
繁が振り向いたときには浜辺は黒い風となって繁の手の届かない所まで去っていってしまっていた。
「なんで起こしてくれなかったんですか!一緒に住んでいるというのに!」
「大分語弊があるな。」
職員室になだれ込むように入って来た緑に繁は言った。緑は顔を赤くして、体を冷まそうと団扇を煽いでいる。
「だって真実でしょう?」
「同じアパートに住んでいるだけだ。部屋は違う。」
繁は周りに弁解するように言った。
「ともかく、俺は授業があるから行く。」
「私だってありますよ!」
繁は緑を待つつもりもないので、先に職員室を出た。廊下は終わりのない迷宮に人を誘うような、不思議な魔力を持っていた。行き着く先がないのならそれでいいかと繁は思ったが、もし、この廊下に終わりがないのなら、永遠に廊下を歩き続けるとしたら、と思うと繁は気が気ではなかった。
授業の後、浜辺が繁に話しかけてくる。
「随分気安く話しかけてくるじゃあないか。」
「最低ね。」
浜辺はドブネズミをいつくしむような目で繁を見つめる。
「あんた、今日、痴人の愛をするんだってね。あんたが愛なんて言うとは思わなかったけど。」
「文句があるのか?しっかり読んだのか?」
「ええ。読んだわよ。読んだから、呆れてるのよ。純粋な恋愛小説かと思って蓋を開けてみれば。」
ここ最近、繁と浜辺は特別授業以外でも文学作品について話しあうことが多くなっていた。
「まったくあんたらしいったらありゃしない。」
「次は体育じゃないのか?」
「よく知ってるわね。あんた、本当に変わった。」
「悲しいか?」
「いいえ。むしろ真人間になってきたんじゃない?」
「ふん。俺は元から真人間だがな。」
「ろくでなしのくせに。」
傍から見れば、仲のいい兄妹にも見える二人だった。互いに貶しあっているにもかかわらず、そこに悪意はない。ある意味、久しぶりに会った同級生にも見えないこともなかった。
変わらずの日常。それはつまらないのだろうか。だが、今が幸せの人間にとっては、永遠に変わって欲しくない世界なのではないだろうか。だが、世の中には今の世界では不満を持っている人間も確かにいて、その人間は世界の転覆を望んでいる。それは叶えてもいい願いなのだろうか。
繁は食堂に足を運ぶ。だが、食堂は閉まっていた。
繁は不吉な予感がする。自分の知らないところで何かが起こっているのかもしれないという予感。
『どうもおばちゃんが風邪のようですよ。』
いつの間にか傍まで来ていたすずめが繁にスケッチブックを見せる。
「そのスケッチブックで絵でも書いたりはしないのか?」
『平和ボケですかね。』
「最近思っていたのだが、俺の扱いがいい加減じゃないか?」
『僕たちの身近な存在になったってことですよ。多分。』
「多分、か。」
繁は食べるものに困る。
「食事はどうしようか。」
『パン、食べます?』
繁はすずめの差し出したパンを受け取る。
「このパンは普通の味だよな。」
『ええ。普通のイチゴジャムパンです。』
「お前はどうするんだ?何か食べるものはあるのか?」
『ええ。ありますよ。』
すずめはチョコパンと書かれたパンを見せた。
「俺、そっちがいいんだが。」
繁は酸っぱいものが得意ではない。
『嫌です。』
そんなすずめの様子を見て、繁はすずめも変わったのだと思った。
「まあ、ありがたくいただこう。」
繁は職員室に戻っていった。
「サザエさん時空についてどう思う?」
「突然どうしたんですか。先生。気でも狂いましたか?」
「ひどい言いようだな。」
繁も変なことを言ったと反省する。
「でも、なんだか先生、自然体になりましたね。」
「俺は変だったのか?」
繁は自分が変わったとは感じてはいないが、前ほど世界を憎んでいないという実感はあった。
「まあ、なんというか、いつも気を張っている感じはありましたよ。」
緑はパソコンに文字を入力しながら繁の話を聞いていた。
「そうだったか。」
「ええ。」
緑が作業をしているので、繁は話すのを止める。文庫本に目を通す。
なだらかな下り坂のような昼下がりが続いていった。
異様な蒸し暑さが空間を支配する中、繁は教室に足を運ぶ。放課後の時間。繁は胸を張って教室に入る。だが、しかし、そこにイミナの姿はなかった。
「イミナはどうした?」
明らかに動揺している自分に気が付き、繁の視界は歪む。どうしてそのような作用が起こるのか、繁には理解できない。
「さあ。」
「さあ、だと?」
浜辺の言葉に繁の疑心が暗鬼する。浜辺がイミナに対し無関心なのはあり得ないことだった。
「俺は夢でも見ているのか。」
「オーバー過ぎよ。」
浜辺は視線を逸らして言う。その仕草が繁は気に食わない。
「病気か何かなのか?」
体の中から得体の知れないものがはいずりだしてくる感覚を繁は味わう。スローモーションでジェンガが崩れて行くときの戦慄に似ている。
「そうなんでしょ。それより、授業してくれない?」
繁は薄情な態度の浜辺に対して一言言おうかと思ったが止めた。繁は浜辺が皆の前で真実を語る性格ではないと分かっていたからである。
「ああ・・・分かった。」
繁の緊張が解ける。そして、今まで繁を支配していたやる気さえもどこかに消え去ろうとしていた。
「さて、以前から告知していた『痴人の愛』だ。エログロを極めたと言っていい谷崎潤一郎の作品だ。」
「オスカー・ワイルドとちょっと似てたわね。」
緑が作品について述べたので繁は驚くが、心が躍らない。
『先生の言いたいことは?』
「あ?ええっと・・・」
繁は頭の中で何が言いたいのかを探す。このようなことは繁には珍しいことだった。まるで眠りから覚めた直後のようなぼんやりとした頭だった。それは今までの出来事が全て夢だったと繁を嘲笑うようだった。ここで一言「イミナって誰」などと冗談でも言われると繁の心は容易く粉々になって消し飛んでしまうだろう。
「つまりは、愛などというのは取るに足らないものということだ。誰かを愛したところで・・・裏切られるのがオチだ。」
「でも、それは一方的な愛だったからじゃないの?」
「浜辺ちゃん、鋭い。」
緑は茶化すように言った。
一方的な愛。
「でも、恋と愛は違うのよ。谷崎さんが痴人の恋じゃなくて痴人の愛にしたのには理由があるはず。愛は恋を超えたものなの。」
「あんたが言うと説得力あるわね。」
繁の耳にはもはや何の会話も入ってきていなかった。遠い山麓の写されたテレビの画面をぼんやりと眺めているような、景色を肌で感じることのできない喪失感で埋め尽くされていた。
繁の丸まった背に浜辺が声をかける。
「明日、『ロリータ』の授業をやりなさい。」
繁は光を失った目で繁を見つめる。
「みんな読んできてるから。」
繁は何も考えずにただ頷いた。
繁は部屋にたどり着いた瞬間突っ伏す。そして、カーペットに頬をこすりつける。自身の足の裏で踏み潰した不潔なものであるというのは分かってはいるが、今は起き上がる気力すらなかった。
どうして俺はこんなにやる気を失っているのだろうか。
繁は目の先を見る。そこには小説の文庫本ばかりが並んでいる本棚があった。その本棚の中に『ロリータ』があることを確認する。繁は読んだことがあったか、と考え、そして、買ったものの読むことまではしなかったのだと思い出す。本棚にはいくつかまだ読んでいない本も並んでいたのであった。
「明日はきっといい日になる。」
そんな明るい言葉をバカにしながらも声に出すだけで繁は力が湧き出るような錯覚を得た。繁は立ち上がり本を手に取った。
「あの野郎。」
数時間後、小説を読み終わり、繁はこの町のどこかにいるであろう浜辺に向かって忌々し気に呟いた。
『ロリータ』とはロリータコンプレックスすなわちロリコンという言葉の語源となった小説であり、出版当時は大きな反響を得たという。日本の80年代のロリコンブームによって言葉は一気に広がる。小説の内容としては幼女好きの紳士が妖精のような幼女を手に入れるというお話。確かに内容は危ないものであるが、繁は表面だけに騙されてはいけない、と思った。内容としては痴人の愛と似たようなものであるにもかかわらず、この両者には確実な違いがあるように思えた。それは表現の濃さである。確かに、ロリータは痴人の愛よりも淡白に描かれている。一人称であるというのにである。一方の痴人の愛は咽てしまいそうなほど濃厚な描写であった。そして、ロリータはなぜ淡白な筆致で書かれているのか。その理由は最後に明らかになる。
「あいつは一体何を考えているのか。」
浜辺が自分から授業をする小説を指定してくることは非常に珍しかった。それ故に疑問は色濃く残る。
「さて。どのように授業をするか。」
しばらく考えて、繁は何も思いつかなかったので、考えることをやめる。その時になれば何か思いつくだろうと思ったからである。気が付けば日にちをまたいでいたので、繁は急いで床に就いた。
再び朝が訪れる。今日はいい日になるとは限らない。繁は再び世界についての疑心が甦って来ていた。それは死にながらも不遇を訴える亡霊のように繁に常にまとわりついていた。
繁は料理でもしようかと思いつき、そして、止める。今日も食堂が開いていない可能性が高い。なので、繁はコンビニで朝食と昼食を一緒に買おうと考えたのだった。そうすると、時間が余る。こんな時、かつての繁であれば小説を書いていたのだろう。繁はパソコンを見つめる。
俺はどうして小説を書いていたのか。
その理由を思い出せない繁はパソコンのキーボードをたたき壊してしまいたいという衝動に襲われる。その感情は怒りだった。しかし、どうして自分は怒りを感じているのか繁には分からない。
自分が自分でなくなる恐怖。だが、それは以前の繁のものだった。
「本当の俺は何者なんだ。どれが本当の俺なんだ。」
繁は頭を抱える。そのどれもが自分なのだというありきたりな答えを繁は求めていなかった。
繁はいつの日かと同じように、パソコンから逃げるように部屋を後にした。
頭の片隅には緑を起こさなければならないという考えもあった。だが、繁は無視する。繁は繁自身のことでいっぱいなのだ。誰かにかまっている暇などない。
「また遅刻なんですけど?」
「俺が悪いわけじゃないだろう。」
繁はいい加減腹が立つ。自分自身のことが自分で管理できない人間は社会人失格だと繁は考えた故である。
「最近までお父さんとお母さんに起こしてもらってたから、全然起きなれないんですよ。先生のラブコールを待ってましたのに。」
繁は話を遮るように持っていた教科書を机の上でとんとんと叩き、整える。そして、職員室を後にしようとした。
「何かありました?」
繁は緑の問いに答えずに職員室を出て行った。
繁はすこぶる青空を見つめながら午前を過ごした。テストが簡単だった生徒は油断して気楽に自習をしている。勉強以外のことを生徒がしていれば繁は叱るのだが、この学校の生徒は真面目なので、そのようなことはない。本を読むことだけは繁も認めていた。
繁は教室を見渡す。そこには一人見知った顔がいる。燈堂だった。燈堂のケガは思ったよりも早く治り、もう学校に来ていた。頭部に多少傷跡が残ったようだが、本人は気にしていないようなので繁は安心する。そんな燈堂は必死に自習をしている。燈堂は国立大学を目指しているという。なので、頑張っているのだろう。それぞれがそれぞれの道を歩み始めている。
きっと俺たちもそんな風に別れていくのか。
特別授業の生徒たちの顔が浮かび、繁は急に寂しい気分になる。このまま時間が止まればいい。繁は本気でそう願ったりした。だが、前に進もうとしている若者を引き留めることはできない。もし繁が彼女らを引き留めれば、永遠に大人になれないまま、可能性という曖昧模糊な存在のまま生き続けてしまうだろう。
繁は我慢を覚えた。
「今日は食堂に行かないんですね。」
「そうだな。お前の自慢の弁当はどうした?」
昼休み、緑の机と繁の机には同じコンビニのパンが並べられていた。
「だって、あれ、パパが作ったものですし。」
「なるほどな。それを自分の成果のように見せつけていたと。ろくでなしが。」
「ああ、こうやって罵倒されてるとくせになっちゃいそうですね。」
「気持ち悪い。」
繁はチョコパンを口に運ぶ。チョコパンはチョコパンだった。
「そう言えばですね、うちの高校で昔大きな抗争があって。生徒が二組に分かれてしまったんです。どうしてだと思いますか?」
「知らん。」
「きのこの山かたけのこの里か、どちらが美味しいかで争いになったんです。」
「知らん。」
「それで、血で血を洗う抗争の結果、勝ったのはきのこの山だったわけです。」
「知らん。」
あり得そうもない話を語る緑を繁は訝し気に見つめる。
「なんですか、その目は。疑ってますね。当時はニュースにもなったんですよ?」
「知らん。」
繁の想像できない学校であることだけは繁には分かった。
「ところで、小説読みました?」
「読んだが。」
緑はニヤニヤとしているので、繁は気味が悪かった。
「そうですか。それは楽しみですね。」
その言葉で、繁はこれが皆が仕組んだ事態なのだと理解した。
「何を企んでいるのかは知らんが、これ以上迷惑をかけることをするなよ。」
繁は大きくため息をつく。土の焼けるような匂いがグラウンドから職員室まで流れ込んでいた。
早送りの映像を見ているように、繁の一日はあっという間に終わりを告げる。
「さて、と。俺は何を授業すればいいんだ?」
教室にはまたもイミナがいなかった。たった二日であるというのに、繁は異常なまでに胸騒ぎがして仕方がない。
「そうね。今日は私たちからあんたに授業をした方がいいかもね?きちんと目を逸らさずに読んできた?」
浜辺は昼休みの緑のような笑顔で言う。
「当たり前だ。」
『読んでみてどう思いました?』
「質問が漠然としているな。」
そう答えて、これがいつも自分がしていた質問であると気が付く。
「素晴らしい作品だった。」
「どこが?」
緑が机に突っ伏しながら繁に尋ねる。
「これはサスペンスであり、ミステリーでもある。異様な愛を描いた作品ではない。初めの方はその異質さに怖気づいたが、だんだんとそういうものはなくなってきたな。」
「はあ。」
一同は溜息をつく。
「どうした?」
「何でもないですよ。」
緑はつまらなそうにつぶやく。
『じゃあ、この作品が言いたかったことはなんだと思います?』
繁はすずめの問いに頭を悩ませる。繁には今一この小説が何を語りたかったのかよく分からなかったのである。
「所詮は人々を楽しませるだけの小説ということだ。」
「つまんないわね。もっと考えなさいよ。」
「じゃあ、お前は何を言いたいと思っているんだ?」
繁は苛立って言った。
「そんなもの、簡単じゃない。愛、よ。例え最初は歪んだ感情であってもね。でも、きっとロリコンにも愛が芽生えたんだわ。」
「言ってて恥ずかしくないのか?」
「十分恥ずかしい。」
緑は顔色変えず言ってのける。
「これで終わりか?」
「後はあんたの宿題。あんたでも馴染みやすいようにこんなちんけな小説を選んでやったのよ。このロリコン。」
「俺はロリコンじゃない。」
夏に近づいてきた空はまだ明るかった。夕暮れにはまだ早い。だが、時間は同じように時を刻んでいるのだった。
皆が教室を去った後、繁と浜辺だけが教室に残る。
「早く帰らなくていいのか?」
浜辺はじっと繁を見つめている。
「あんたたちって、ほんと難儀よね。」
いつもの呆れた表情ではなく、真剣な顔つきのままなので、繁は妙な汗をかく。
「ともだちってなんだと思う?」
「俺に聞くなよ。いないんだから。」
「そうよね。」
繁はこの時、浜辺のしていた表情は決意の表情だと悟る。そのような表情を繁は体験したことがなかったので分からなかったのだ。決意の表情をする人間に出会ったこともなければ、繁自身、決意をしたこともない。繁はただ、浜辺の出す濃厚な雰囲気に気圧されていた。
「仕方ないのよね。ほんと。その人にとって最優だと思っている答えも、他の人から見たら全然ナンセンスってことばかりだもの。だから、私は私のために、友だちのためにするべきことをするの。」
繁の喉は干上がっていた。それをどうにかしようと唾を飲み込むが、繁の口の中には唾さえなく、その行為は繁に苦痛を与えるだけだった。
「イミナはね。入院してるの。大きな手術をするためにね。あの子があんたに何も言わなかったってことはあんたに知られたくなかったってことなんでしょうけど。まあ、いいわ。あんたたち、傍から見てても不器用なんだから。」
「なんだって?」
繁の声は透明の吐息のように教室に吸収されていってしまう。
「あの子はもともと体が弱かったのよ。だから、車いすだった。私とあの子は同い年だけど、病気のせいで一年遅れちゃってるの。」
「その手術は大丈夫なのか?」
繁は衝撃の事実に胸が苦しくなる。心臓が体から飛び出してしまいそうな衝動に襲われてしまった。
「失敗すれば命に関わるみたいよ。あの子はそのことをずっと怖がってて、学校に来るって言ったとき、ああ、生きることを諦めたんだなって、そう思った。でも、手術を受ける決心をした。それはなんでだと思う?」
浜辺は繁をじっと見つめている。人形のような教師。人の心が分からない不良品。
「あんたがイミナを変えたのよ。だから、一大決心をさせた。」
そんな教師が自分でもできなかったことを成し遂げた。それが浜辺にはいじらしくって仕方がない。
「俺が、イミナを死地に追いやったのか・・・」
浜辺は繁を思いっきりはたいた。
「なにすんだ!」
繁は反射的に浜辺に向かって吼えた。教室が揺れる。だが、浜辺は繁の咆哮に負けないくらいの声で叫んだ。
「ぐだぐだ考えてんじゃないわよ!私はあんたを悩ませるためにこんなことを言ったんじゃないの。私だって、言ってしまったらイミナに嫌われるんじゃないかって不安で仕方なかった。でもね、そんな不安を押し殺してまであんたに言ったのよ。私の苦労を無駄にしないで。」
「イミナはどこにいる。」
「今は市民病院よ。」
「ありがとうな。浜辺。」
そう言って繁はわき目も振らず駆けだした。繁が見えなくなった後、浜辺はその場で崩れ、泣き出した。そんな浜辺の肩をそっと抱く人物があった。
「橋本先生・・・」
「緑ちゃんでいいってば。浜辺ちゃん。」
浜辺は緑の胸の中で泣き崩れた。本当に罪作りな男よね、と緑は自分の頬に流れた涙をそっと拭った。
繁はイミナの病室に入った。面会時間はとうに終わっていたが、繁の気迫に圧されて、職員はしぶしぶ了承した。イミナに会うまで梃でも動かないつもりだったので、大事にならなくてよかったと繁は胸をなでおろした。
「浜辺ちゃん、言ってしまったんですね。」
イミナは幼い笑顔を見せる。イミナの顔は幼いからそう見えるが、パジャマからは人生の終わりを悟った老人のような、死の匂いがプンプンしていた。
「どうして何も言ってくれなかったんだ。」
「どうして先生に言わなくちゃいけないんですか?」
その言葉に繁は傷付く。だが、イミナの顔は繁以上の苦痛がにじみ出ていた。
「教師が生徒の心配をするのは当たり前だろう。」
繁はそんな言葉が言いたいわけではなかった。しかし、繁の脳が導き出した類似した答えはそのようなものでしかなかった。
「そうでしたね。先生は先生でした。」
寂しげな、そして、どこか決意じみたものを感じさせる語調だった。
「私は自分に自信がなかった。だから、一人で頑張った。だから死にたかった。でも、先生を見た時、ああ、この人は私以上に可哀想な人なんだって。こんな人が生きていられるなら、私も生きていていいんだって。とんだろくでなしですよね。」
「俺たちは・・・みんなしにたがりのろくでなしだった。」
それが全ての始まりなのだと繁は気が付く。みんなどこか同じだった。そして、どこか違う。繁はその違いを知らぬ間に愛していたのだった。
「私のこと、嫌いになりましたよね。なら、もう関わらないでください。」
繁はイミナがどこか矛盾しているような気がした。そう。彼らはどこか矛盾している。その矛盾と折り合いがつかなくて、生きるのが苦しくなっているだけのことなのだった。
「お前は生きたいんじゃないのか?逝きたくはないんだろう?俺たちと一緒に行きてゆきたいんだろう?だから、手術を受けるんじゃないのか?」
「生きたいです。」
イミナは嗚咽を漏らしながらそう言った。それはイミナが見せる初めての本心だった。だから、繁も自分の本心をさらけ出さなければならないと感じた。
「俺はお前が好きだ。だから、絶対に帰ってきてほしい。またみんなで授業を受けよう。今度は小説にちなんだ場所や博物館に行ったりしよう。だから・・・」
「先生はほんと、ろくでなしですね。」
イミナは涙にぬれた笑顔を繁に見せた。それはこの世に二つはないほどの財宝のように繁には思えた。
「死ぬかもしれないから、その時のために未練を断ち切ろうと思っていたのに、もう、生きて帰ってくるしかないですよ。」
「ああ。帰ってこなかったら許さないからな。地獄の果てまでもついていって、お前を連れ戻しに行ってやる。俺はろくでなしだからな。」
空はあの日のように夕焼けが広がっている。逢魔が時。マジックアワー。どんな奇跡も起こる瞬間に繁は世界を敵に回しても一人の少女を守ることを決意した。繁にできることは今はただ、手術の成功を願うことしかない。だが、どんな手を使ってでもイミナを助けたかったのだった。
繁は自分の無力さを呪った。自分は何もできない。だが、そんなちっぽけなことで立ち止まってはいられない。繁にできることをする。繁にできることはイミナの帰ってくる場所を守るくらいだ。だが、せめて、イミナが寂しがらないように何かしてあげたかった。だから、繁はパソコンに向かう。イミナのために小説を書こうと思った。繁たちの歪な矛盾した、それでいて愛すべき物語を。
繁は小説の題名をつけた。
『ろくでなしとしにたがりのダンス』
メスで体を切るように、静かに彼と彼女たちの物語を紡ぎ始めた。
Rokudenashi and Shinitagari are danced by the Paradox.
Fine.