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R&S  作者: 竹内緋色
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3/山月記/ドリアングレイの肖像

3/山月記/ドリアングレイの肖像


 それは草花がむさくるしいほどの香気を発するのを止め、日本全体が湿り気に覆われた空になっていく頃のことだった。

「今日の授業はここまでだ。」

「待ちなさい。」

 突如として空き教室が開け放たれ、繁は驚く。驚いた顔はおくびにも出しはしないが。

「なんだ、君は。」

 浜辺のように意志の強そうな顔をした少女だった。いきり立ち、肩を上げている姿を繁は面倒に思う。

「あなたたち、こんなところで何しているの?部活動でもないのに勝手に教室を占拠してもいいと思っているのかしら。」

「まずは自己紹介でもしたらどうだ。」

 繁は突然まくしたてる少女に苛立ちを覚え、強めに声を発する。繁の声に一瞬怯んだようだが、気を取り直して、少女は言った。

「私は生徒会役員の燈堂。あなたたちが勝手な集会を開いているという噂を聞いてね。生徒会に届け出を出さず教室を占拠するのは違反よ。」

「俺はただ、補習をしているだけだが?」

 燈堂はその言葉を待ってました、とばかりに顔をいやらしくゆがめる。

「青葉先生の授業を受けているのはそこの黒木城さんだけじゃないですか。丹路さんは橋本先生の授業を受けてますが、そこの白崎はなんでいるんです?ほんと、問題児ばかりが集まって。」

 繁は燈堂が大分調べ上げているということを知った。つまりはあらかじめ、自分たちを告発する気でいたということである。

「別に補習をすることは悪くないだろう。」

 繁は一歩も引かないが、今回は燈堂が一歩上だった。

「どこが補習なんでしょうか?先ほど、なんの授業をしてました?」

「・・・」

「授業でやらないような小説をやっていたでしょう。それも、小説ばかりやっているようで。そんなのが補習と言えるでしょうか。」

「お前は一体、何が言いたいんだ。」

 繁の苛立ちは募る。明らかな燈堂の敵意に繁は少し驚いていたのだ。

「即刻この集会を止めなさい。止めなければ、生徒会に報告します。そうなれば先生方にも連絡が行くでしょう。特に、橋本先生はバレー部の顧問のはずです。一体何をしているんだ、という話になるんじゃありません?」

 燈堂は鼻で笑う。そんな人を見下した態度に好意を抱くものなど存在しなかった。

「解散すればいいのだろう。」

 繁はそう言って教室から出ていく。燈堂は繁たちのそんな姿を楽しんでいるようで、繁は解せなかった。


「あれは一体なんだったのでしょう。」

 職員室に戻った繁は緑にそう告げた。

「さあ。なんでしょうね。」

「橋本先生はあの生徒を知らないんですか?」

 緑は繁が苗字で呼ぶのが少し残念だった。ほんの少しでも仲が進展していると思いきや、特別授業を受けている各々がそれほど進展しておらず、緑としては不満だった。

「よくは知りませんけど、うちの生徒会は取り締まりが厳しいですからね。もしかしたら、先月の黒木城さんの件でいろいろとあったのかも。」

「つまり、俺たちを目の敵にしていると。」

 繁は職員室の様子をうかがう。繁たちの会話に興味を示していた教師たちは、突然無関係を装う。

「そうですね。みんな浮いてるメンバーですから。」

 どこか普通と違うだけで輪の中から弾き飛ばされる。弾き飛ばされた生徒にも非がないこともない場合もあるが、本当に理由もなく容姿の違いだけで疎外されるものがいる。

「いつの時代も求めるのは敵、か。」

 あらゆる学問を通じて繁が思うのはそれだった。特に、歴史などを勉強しているとそれは顕著である。どの国でもそうだが、なにか特定の敵がいないと、集団はまとまることができない。

「どうするんですか、先生。続けます?」

「そうだな。」

 他の教師がそそのかした可能性は高かった。それらは意図がある訳ではないだろう。だが、繁の立場がより危うくなったことは間違いない。以前の繁であれば、簡単にあきらめていただろう。自分の身が大事。それが繁の信条なのだ。

 繁の目には、車いすの少女が映った。全ての始まり。繁がちょっとだけろくでなしでなくなった契機を作った少女。その少女の姿を思い出した瞬間、繁の答えは出ていた。

「それはあの子たちが決めることでしょう。」

「ふふ。」

 彼女たちの立場も、生徒会と対抗すれば危うくなることは各々気が付いているはずだった。それでも進んでいこうとするなら、繁はその意思に従おうと思った。

「先生、最近、熱血ですね。そういうのもいいと思いますよ。」

「どこが熱血か。」

 ただ、繁は暇なだけだった。その暇を潰せるほどよい暇つぶしが見つかったという程度でしか考えていない。それでも、少しずつ、ほんの少しずつ、繁の望んだ世界ができているような気がして、繁は嬉しかった。


 曇天の空、星は出ない。午前に少し雨が降ったせいで、路面は未だ濡れている。繁は細心の注意を払いながら運転していた。暗い空の中では、歩行者の姿も確認しづらい。そして、ぬれた路面は車のライトを反射して、中央線を見えにくくしていた。

「危うい立場、か。」

 繁は心が沈む。それは自身の身が危ないなどと考えているのではない。かつての自分と今の自分が大分変ってしまって、それがなんだかやるせなくなる時があった。

「俺はもっと非情だったはずだ。なのに、どうして。」

 現実をつまらなく思い、ぶち壊したく願っていた頃の自分が懐かしくなっていた。あの頃の繁は現実に対する不満があったものの、それでも、平和だった。しかし、今の繁は周りに流されている気分がしなくもない。かつての凍った表情の自分が時折後ろから冷笑を浮かべているような幻覚を見る時がある。

「俺はこれでいいのだろうか。」

 このまま走って行くと、もとの自分に戻れないような気がして、繁は恐ろしかった。今の繁はどんなことにも動揺してしまうような気がする。現実の荒波に飲まれぬよう、その荒波を遠くから眺めていたというのに、今の繁は自分から荒波に近づいて行っている。

「考えても仕方がない、か。」

 そう言って割り切るものの、繁の中の不安は渦巻いて行くばかりだった。


 繁はあつあつのご飯の上に買ってきた惣菜のカツを載せる。一瞬、カツが冷めているので、電子レンジで温めようかと思案したが、面倒なのでやめておく。スーパーの総菜は秀逸で、冷めていても脂っこくはならなかった。繁は何か野菜が欲しいと思い、冷蔵庫を覗く。そこにはワンカップもずくしかなかったので、取り出し、もずくをついばむ。

「すっぱいものは嫌いなのだが、どうして買ったのだろう。」

 きっと興味を持ったに違いなかった。繁は退屈な毎日に刺激を取り入れようと、時々おかしなものを購入する時があった。学食の珍メニューを食べるのもその一環である。だが、繁はその自身の性質に微塵も気が付いていない。

 カツを平らげつつ、そろそろ油物もきつくなってくる年頃か、と思うと繁は急に悲しくなった。そんな時にイミナの姿が目に浮かぶのはどうしてなのか、繁には分からない。

「さて、と。」

 繁はパソコンを起動させる。あの日以降、ワードは真っ白なままだった。

「何か、なにかないだろうか。」

 繁は必死になる。現実離れをした世界を作りたい。その中で自身の分身であるキャラクターを活躍させたい。そう思うものの、何も浮かばない。そんな時、繁は最近広告でよく見かけるネット小説の投稿サイトを思い出す。どんなものがあるのか、と繁はそのサイトにアクセスした。そして、繁は驚かされる。小説の投稿数が半端ではなかったのだ。今まで小説など書いているのは自分くらいだと思っていた繁は小説を書いている人間の多さに驚きを隠せなかった。もしかすると、すれ違う人たちも小説を書いているのかもしれない。それを自分のように隠しながら書いているのか。繁はそのサイトに興味を持つ。しかし、評価を受けている作品を目にしたいとは思わなかった。どうもタイトルから自分に合う気がしない。せめて、大人しい文芸作品を目にしたいと繁は一般文芸を探す。

 そして、おもむろに開いた小説に圧倒された。評価は全くされていない。しかし、読み始めから急に世界が広がり、そして、登場人物も色濃い。だんだん読み進めていくと、世界の残酷さに登場人物は飲み込まれていく。繁はこの作品を書いている人物と自身は同じ世界を見ているのだと確信した。そして、それが評価されていないということは、繁も世界から評価されていないのと同じで心苦しかった。なので、繁は申し分程度にその作品を評価した。それは繁が評価してもよいといえるできであった。文章のきめ細かさ、描写の繊細さ、それらを含みながらも美しい。これほどバランスの取れた文章力なら、出版作品となってもおかしくはないと繁は心からそう思った。

「そして、俺は負けている。」

 何一つ物語を書けなくなった自分。いつから書けなくなったのか、と繁は思いだす。だが、そんなものは明白だった。特別授業を行うようになってからだった。特別授業が自分の創作意欲を消し飛ばしてしまっている。そのことに気付き、繁は背筋から嫌なものがこみ上げてくる感覚を覚える。その時には、車いすの少女のことなど忘れてしまっていた。

 何かを目の敵にしないと人は生きて行けない。それは繁にも言えることであったのだ。繁は普通の人間の普通の生活を目の敵にして、それを小説にぶつけていた。しかし、今の自分はどうか。その普通の人間そのものになっているのではないか。

「どうにかしなければならない。」

 繁の目はかつての冷ややかで残酷な光を宿していた。


「おはようございます。」

「・・・おはよう。」

 繁は挨拶をしてきた生徒に冷たい目を向ける。その表情を見て、生徒は体が凍ってしまい、その場から動けなくなった。繁は構わず歩みを進めた。

「おはようございます、先生。」

 職員室に入り、緑が繁に声をかける。繁は無視をしたい気分だったが、仕方なく挨拶を返す。

「おはよう。」

「どうしたんですか?元気ないですが。」

「これが本来の俺だ。」

 繁は苛立ちを隠さずにそう述べる。

「もとに戻っちゃいましたね。」

 緑が嬉しそうにしているのが繁には苛立ちを隠せない。

「では、授業なので。」

 繁は颯爽と立ち去る。その姿は氷の彫刻のようだった。


 繁は相変わらずの授業であった。しかし、生徒の方は繁の様子がいつもとすこしばかり違うことに気が付いていた。繁はいつも無感動で、無気力なのだが、今日はどこか必要以上にピリピリしていた。

 かつての自分になることを繁は望んだ。しかし、どこか違う。態度こそはかつての繁だ。しかし、ただ、しかし・・・

「ねえ、あんた。授業終わってるわよ。」

 浜辺の声で、繁はすでに授業が終わっていることに気が付いた。

「そうか。各自休め。」

「昼休みでしょう。」

 浜辺は繁に呆れていた。それは繁の様子が上の空といった風ではなく、何かにとりつかれているような、自分の中で必死に考え込んでいるような、そんな態度であったからである。浜辺は少し心配だった。その感覚を浜辺は知っていた。それは妄執である。何かに取り憑かれたようになっている状態である。浜辺が死神に取り憑かれている時と同じ、周りが見えていない状態。

「なにかあるなら相談に乗るわよ。」

「余計なお世話だ。」

 繁は勢いよく教卓に腕を叩きつける。

「なによ。ムキになって。」

 周りの生徒は唖然としていたが、浜辺は繁に怖気づくことはなかった。今の繁は弱っている。そのことを浜辺は分かっていた。それは浜辺が繁に対しムキになっていたときと同じだからである。

「私が言うのもなんだけど、一人で考えたって碌なことなんてありはしないのよ。まあ、好きになさい。」

 浜辺は自分が繁のようになったように思えて奇妙に感じた。それは浜辺がだんだんと分かるようになってきたからである。全ては繁が解決しなければならない問題であることを。当事者でない浜辺にはどうすることもできないことを。


 雨の中の食堂は、より一層じめっとしていた。中に入るだけで冷たい湿気が顔を覆う。繁にとっては呼吸がしにくいと感じるほどだった。食堂にはすずめがいた。繁はすずめとも話したくない気分であった。

「そば一つ。」

 食堂のおばちゃんは相変わらず何も言わずにそばをだした。

「普通のそばを頼んだんだが。」

 おばちゃんは、文句があるなら他を当たれ、と言ったような視線を繁にくれてやったので、繁は仕方なく、トレイをいつもの位置に持っていく。すずめと机を三つ離した相席だった。

『今日も美味しそうですね。』

「お前には味覚がないのか。」

 やや乱暴に言ったにもかかわらず、すずめは怖気づいた様子はない。むしろ、体を左右に揺らし、ご機嫌な様子だった。

 繁は目の前のそばに対峙する。目の前のそばには大量のマヨネーズがかかっていた。それが金色の汁の海にぷかりと浮かんでいる。マヨネーズの油脂が汁と交わり始め、綺麗なマーブル模様を描き始めていた。

「なんだか楽しそうだが。」

 繁は話が合うということで、すずめと仲が良かった。紙にメッセージを書いてくれるので、静かでいいというのもあった。

『そうなんですよ!』

 すずめは大きく書き上げる。その文字の大きさがすずめのテンションの高さを表していた。

『実は僕、小説を書いてるんですけど、それがようやく評価されて。初めてだから有頂天で。』

 繁は暗闇の中から、得体のしれない大きな腕が自分を握りつぶしてしまうほどの衝撃を受けた。すずめほどの文学好きなら、小説を書いていてもおかしくはない。しかし、昨日繁が評価したのとタイミングが合い過ぎている。まさか、彼はまさか――

「お前が伊豆のロドリコか。」

 繁が言葉を発した瞬間、すずめが凍り付く。事態を把握できていないようだった。そして、すずめは筆を走らせる。

『もしかして、先生が?』

「ああ。」

 繁の衝撃たるや、簡単に言い表せるものではない。だが、一言で言い表すなら、それは嫉妬であった。自分ができぬこと、欲しくても手に入らないものをすずめは持っている。それはひどく苛立つことで、繁は沸き立つ不穏な気持ちに戸惑いを隠せなかった。

『どうでした?良かったですか?』

「良かったよ。」

 繁は何か辛らつな酷評をしてやろうと思ったが、口に出た言葉は称賛だった。すずめの作品はそれこそ非がなかった。全てが完成されたものであり、それは真の作家が持ちうる境地であった。

『やった!嬉しいです。』

 繁はそれ以降、すずめの方を見はしなかった。面と向かってすずめと話せる状況ではなかった。繁はそばを口にした。そばと絡まったマヨネーズを同時に口に運ぶ。マヨネーズの独特の香りとそばの風味が相まって、喧嘩しない。バイオリンの三重奏を自らのためだけに弾いてくれているような贅沢感がそこにあった。そして、滴る汁が観客の代わりとなり、大きなホールで壮絶なバイオリンの三重奏が繰り広げられているような、そんな錯覚に至る。

「あり得ないほどマズい。」

 汁はマヨネーズの味しかしなかった。


 午後の二時間の授業。繁は本格的に上の空だった。自分が井の中の蛙であることを知り、自分自身が嫌いになり、そして、何もかも打ちひしがれたような無力感に陥った。どうしてあんなガキが自分より上なのか。それが許せず、理解できず、恥ずかしくて顔を覆ってしまいたくなった。

「先生。せんせーい。」

 生徒が繁に質問するものの、繁には少しも聞こえていなかった。生徒は仕方なく、挙げていた片手を下ろす。

 ああ、死んでしまいたい。繁は本気でそう思った。現実から逃げるように生きてきた繁は、思いのほか、外からの刺激に弱かった。それ故に繁は自分の殻に籠っていたというのに。

 繁は窓の外を見た。雨がしとしと降っている。それは冥界からの手が自分を手招きしているようにさえ繁には思えた。


 職員室は騒がしかった。だが、どんな些細なことでも騒がしくなるのが職員室である。繁は自分には関係ない、と席へと帰っていく。

「先生。ちょっと大変ですよ。」

 緑が焦ったような表情を浮かべ、繁に言った。

「俺には関係ない。」

「いや、それが大ありなんですってば。」

 緑は少し繁の様子が気になりはしたが、それよりも重要なことなので、繁が聞いていようが聞いていまいが、話し始める。

「昨日、燈堂さんっていましたよね。急に教室に入って来た子です。その子が階段から落ちたみたいで。」

「廊下が湿っているから滑りやすいんだろう。」

そのようなことで緑がどうして騒ぎ立てるのか、繁には理解できなかった。

「それが、本人は突き飛ばされたって言っているみたいで。どうも状況もただ転んだだけという感じでもないみたいです。頭から血を流すほどだったので。それで――」

「心当たりはないかと問われて俺たちのことを言ったのか?」

「はい。」

 繁の感情は急に冷めきった。燈堂が階段から落ちたことと自分とは何の関係もない。

「言いがかりじゃないのか?」

「確かに、顔を見たわけじゃないみたいですけど。」

 世の中、被害者が強いことを繁は認識していた。だから、あの謎の集会は大変だろう。だが、それは繁にとって関係のない話だ。特別授業がなくなろうとも、繁はどうとも思わない。

「俺には関係ない。」

「今、私たちのことで先生たちが話し合ってるんですよ。どうも疑っているらしくって。」

「こんなバレバレなことをするだろうかな。俺にはわからん。」

 そう言って繁は文庫本を取り出し、読み始める。ここ最近と違い、どっぷりと小説の世界にはまることができた。やはり自分は間違っていなかった、と繁は自分に言い聞かせた。


「特別授業どうするんですか?というか、なんか言いにくくありません?」

 緑が何か言ったが、繁は無視しておいた。

「いやあ、しげちー授業とかそういうキャッチ―なものの方がいいと思うんですよね。」

「文字数が増える。」

「でもお。」

 繁は立ち上がる。

「どこに行くんですか?」

「授業に決まっているだろう。」

 緑は嬉しそうな顔をする。

「それでこそ先生ですよ。」

 お前に何が分かる、と繁は思った。結局人は外面しか見ない。中身などどうでもいい。こんな腐った世界で生きていたくはないと繁は思った。


 繁は授業を終わらせる気でいた。だから、開口一番、こう言い放った。

「昨日教室に乱入してきたなんとかいう生徒がケガをした。本人は誰かに突き飛ばされたと言っている。」

『先生は誰かを疑っているんですか?』

 すずめがスケッチブックを掲げる。

「左様。俺はこの中に犯人がいると思っている。」

 教室は静まった。誰一人として何も言わない。もう少し動揺が走るかと思った繁は拍子抜けだった。

「なるほど。それでなんなわけ?」

 浜辺は面倒くさそうに言った。

「そんなのひどいです、先生、とか言って欲しかったの?バカみたい。」

「俺はお前らを疑っているんだぞ。いつものようにろくでなし、とか言ってはどうだ?」

「どうでもいいから、早く授業を始めなさい。」

 繁はどうしてみんな冷静でいられるのかが分からなかった。そこから導き出される答えは一つ。

「お前ら全員でやったのか。」

「ごめん。先生。流石の私も本気で怒るわよ。」

 浜辺は繁を睨む。その眼光に繁は思わずたじろいでしまった。

「あんた、不器用にも程があるんじゃないの?そういうのはね、本気で疑ってから言いなさいよ。」

 まるで自分が本気で疑っていないかのような言葉なので、繁は苛立つ。

「お前に何が分かる!」

 出てきた言葉はそれだった。

「分かる訳ないでしょ。今のアンタはね、ろくでなしどころか人でなしなのよ。」

「俺は人でなしなんかじゃ――」

「人でなしよ。自分の気持ちを隠そうとして、バカみたいな、心にもないことを言って。そんなのバレバレなのよ。本気で疑っているヤツが真正面から疑ってる、なんて言葉に出さないの。」

「じゃあ、疑ってない。」

 浜辺は溜息をついた。

「じゃあ、今日の授業を始めなさい。」

 繁は自分の中の何かに苛立っていた。それは浜辺の言葉に対し、ろくな返答ができなかったということもあるだろう。しかし、自身の中の、駆けだす何かが気持ちが悪くて仕方がなかった。

「仕方がない。今日の授業を始める。」

 そう言って繁は黒板に向き直り、みなに背中を向けた。その裏で、見られないように頬が緩んでしまったので、繁は自分の頬を叩いて何とかしようとする。

「さて、みなさんご存じの『山月記』だ。しっかりと読んできたな。」

「はい。」

『はい。』

 一同頷く。繁はその様子を見て頷いた。

「これは中国の故事に基づいた小説であり、ぶっちゃけ、パクリだ。配ったプリントにその原文があるだろう。それと比較してどう思った。」

『李徴さん、つまり、とらさんの心境に補足が付いているような。』

「然り。なのだが――」

「でも、なんだか文章全体はドライな感じです。どうしてそんな印象を受けるんでしょう。」

 イミナの問いに繁は答える。

「それは中島敦の文章全般に言えることだ。この前やった人間失格とはまさに真逆の作品とも言えるだろうな。」

「つまり、アンタみたいなやつってことね。」

「失敬な。」

 繁は淡々とした口調で浜辺に抗議する。

「とらさんはある意味、中島敦の分身とも言えるだろう。ここまで敦が感情的になるのは珍しい。傲慢と恥辱によってとらになったと言っているが、そこはどう思う?」

「どう思うったって・・・」

 その心は人間だれしも持っている感情であった。自分はこんな境遇に陥って不遇だ、不満だ。だが、それは悪い感情ではない、と繁は思う。今の繁とばっちりマッチする小説であった。

「どうすれば李徴はとらにならずに済んだだろう。」

 その問いに答えられるものはいなかった。それは誰でもとらになり得るからである。

「お友達に相談する、とか?」

 そう言ったのはイミナだった。繁はイミナらしい答えだと思った。

「そうだな。そうすればとらにならずに、平凡な人間になれていただろう。だが、李徴はとらになって不幸だったと思うか?」

「そりゃあ、家族に会えないわけだし、命は狙われるし。人を食い殺すし。」

「だが、俺はこれはこれでハッピーエンドではないか、と思う。李徴は本当の姿になった。誰にも何にも縛られずにな。だが、敦が言いたかったのはそう言うことではないのだろう。とらになるのもいい。だが、気を付けるべきだと言いたいのだ。むしろ、今までとらにならなかった李徴の方が素晴らしい。そして、人間の心を取り戻したというのもな。人間、生まれながらとらのようなやつがいる。そいつらは悪を悪だと思わずに所業を成す。」

「結局何が言いたいのよ。」

 浜辺は繁の含みを持たせる言い方が好きではなかった。

「それは読み手が各々考えることだ。ずっと自分の中のとらを飼い続けるのもいい。とらとなって世の中を蹂躙するのもいい。だがな、俺はずっと心の中でとらを飼い続けるのは苦しい事だと思う。しかし、世の中は自己を殺すことを要求する。ま、ある意味とらはテロリストなのだな。目的が破壊でないだけのな。」

「いや、訳が分からないのだけど。」

 とは言いつつも、浜辺は何となく繁の言いたいことが何であるのか理解し始めていた。とらになれ、とも我慢し続けろ、とも繁は言えないことを。

「俺は他の作品から見ても中島敦が心の中にとらを飼っていたようには思えない。むしろ、袁の心境の方が敦にあっているような気もする。だが、それも二面性なのだろう。ただ、この作品はこう言いたいのかもしれない。自分の中のとらから逃げることこそが、もっともとらとなりやすいということを。」

 繁はそう言って、溜息をついた。この作品を今の自分がやることは力不足だと思ったのだ。今の自分は自分の中のとらから目を背けていることに気が付いた。

「以上だ。次回は『ドリアングレイの肖像』をやる。大分前から告知しておいたので読んでいるだろう。読んでいないのならば、授業を受ける意味はないな。」

 そう言って繁は空き教室を後にした。


 雨がぽつりぽつりと降り出した。その雨の中、繁は駐車場に向かって歩いていく。傘は差さない。今の繁には傘をささない方が心地良かった。

 社会人となり、教師となり、それからの人生は繁にとって楽なものだった。他人と関わらなくていい。一々惑わされなくてもいい。しかし、寂しさがあったことは否めない。

 繁はゆっくりとした動きで車の中に入って行った。今はほんの少しでも雨に浴びていたい状況だった。渦巻く現実が憂鬱だった。自身の心情と世界の信条の齟齬がはなはだしく、耐え切れそうになかった。暗闇の中で死ぬのは嫌だった。せめて、死に場所だけは見定めたい。死に場所として海が思い浮かんだが、繁は頭を振る。海は死体が上がってくる。その死体の惨めさを繁はよく知っていた。

 繁は車を走らせた。このままずっとどこかへ行けるような気がして、自分は学校から賃貸までの道のりの他は何も知らないことをおもぃだす。何てつまらない人間なんだろう。繁はそう思い、より、憂鬱になった。

 繁は無言で部屋に帰ってきた。部屋は暗い。電気をつけて、真っ先にパソコンに向かう。

 白崎すずめ。

 繁はすずめを妬んでいた。自分が喉から手が出るほど望んだ才能を彼は持っている。それが妬ましくなくてなんであろう。

 繁はワードを立ち上げる。真っ白な世界。そんな世界で孤独な繁はひとりぼっちだった。ああ、誰か、誰か来てくれ。繁の中のとらはそう叫んでいる。嫌だ、何も、もう、何も言うな。

 繁は頭を抱える。

 その時、真っ白な世界から何かが生まれた。

 愛と勇気だけが友達の世界。そんな世界に独りぼっちで生まれた少年。孤独な少年は世界を支配している悪の元凶を見る。そして、悪の元凶を倒すために伝説の人物を探すことにした――

 それが、現実か?

 繁は自身の書いた小説を嘲笑い、床に転げた。現実離れして、どこが面白い。なにがいいのか。俺は現実から逃げているだけだ。情けない。どうして俺は強くなれないんだ。

 繁の目から一筋の涙がこぼれて消えた。


 ずっと雨が降っていた。繁はその雨を何の心境も得られずに、ただ、見つめているだけだった。繁は午前の授業を全てそのような態度で過ごした。生徒たちは、また変わった人だな、というような感覚で眺めているだけだった。

「先生、授業、終わりましたけど。」

 その声で、繁はすでに終わっていたことに気が付く。

「授業は終わりだ。次は何限目だっけな。」

 初めは楽観していた生徒も、繁の様子がいつも以上におかしいので、不安になった。

「次はお昼休みなんですけど。」

「そうだったな。」

 繁には昼休みであるという実感はなかった。まだ夢の中にいるようで、本当の自分は眠っているようにさえ思えてしまう。

 繁は春には珍しい肌寒さの廊下を歩いていく。自分が今どこにいるのかも判然としていなかった。


 繁は食堂に入った。食堂はここ最近と同じく、湿っぽい。床が湿っており、滑りそうになる。どうも何回も拭いた形跡があるので、おばちゃんは仕事をしていたのだ、と繁は初めて気が付いた。

「うどん。」

 おばちゃんは何も言わずにうどんを出してくる。うどんのダシは何故だか赤かった。

「今日はあの気味の悪い子来てないねえ。休みかい?」

 そう言われて、繁はすずめがまだ食堂に来ていないことに気が付いた。

「知りませんよ。」

 繁はそうとだけ言って、いつもの定位置についた。

 うどんは麻婆豆腐の中に沈められていた。残り物で作ったのではないかと繁は思うが、おばちゃんの作るものはほとんどそうであろうと納得する。

 すずめのいない食堂は普通だった。何もかも変わらない。それが当たり前でないのに、当たり前であるように思ってしまう。そんな現象が繫を不安にさせた。

 繁は不安を誤魔化すようにうどんを啜った。押し寄せてくる波は麻婆、麻婆、麻婆、麻婆。案外と普通の、想像通りの味であるので、繁はがっかりしてしまう。学食にしては美味しい方なので、余計に残念だった。

「俺はどうすればいいんだ。」

 その問いに答えてくれる人物はこの場にはいない。繁はすずめならなんと答えるだろうか、と考える。答えなど出ない。

『やりたいようにやればいいんですよ。』

 繁の頭にはそんな文字が浮かび上がった。いつもの、丁寧な手書きの文字だった。

 繁は今さらになってすずめのことをよく知らないと思った。いいや、それは繁自体がよく知ろうとも思わなかったのだろう。どうしていつも黒い頭巾をかぶっているのか。どうして言葉を話さないのか。どうして、すずめは小説を書いているのか。書き続けられるのか。

「ああ、マズい、マズい。」

 繁はどうして神なる存在はこうやって前へと進む道を示すのかと憤慨してしまった。道があるのなら進むほかない。繁は道の先に何があるのかなど考えずに進んでいこうと考えた。


「ああ、面倒臭い。」

 繁は授業が始まり開口一番そう言った。生徒たちはいつものことなので慣れていた。

「適当に勉強しておけ。勉強から得られるものは非常に少ないが、勉強以外にすることがないのならしておいた方がマシだろう。」

 だらけきった口調で言うが、繁は自分の口からこれほどの正論が出るのが驚きだった。俺はつまらない人間になり始めている、と思うこともなかった。それが変化なら受け入れるべきであると思ったのだ。変わってしまったことを嘆いても致し方ない。ならば、変わってしまったままでどうやって生きて生きて行くのかを考えた方が容易い。時にはそれに抗い、過去の自分を求めてみるのも一興である。

「そこは欠席か。一体誰だ?」

 一応、出席に関してはきちんとしなければならないので、繁は座席表から欠席者を洗い出す。

 燈堂暁美と書いてあった。

 繁の頭の中に浮かんだのは一昨日教室に現れた少女である。恐らくは同一人物であろう。一気に現実に戻された気がして、繁は吐き気を催す。特別授業事態が存亡の危機であった。

 教室の生徒は一言も声を発していない。にも関わらず、繁の耳には数多の、繁やイミナたちの特別授業に関係のある人物に対する嫌味や疑念が聞こえてきていた。あいつがやったんだ、いいえ、あの子よ。そんな聞こえるはずのない声が聞こえてやまない。繁は耳を塞ぐ。俺じゃない。俺じゃない。じゃあ、誰だ?本当に俺がやっていないと証明できるのか?

「なんてな。」

 繁は馬鹿々々しくなる。自分が犯人だろうと違おうと繁にとってはどうでもいいことなのだ。教室の生徒は急に笑い出した繁を無視し続けていた。


「最近、先生、不安定ですよね。」

「そうか?」

 話しかけてきた緑に繁は尋ねる。

「キャラが定まっていない感じがします。」

 そのようなことを言われて、繁はムッとする。今までの自分がキャラクターを演じてきたかのように言われた気がしたのだ。

「俺は俺である限り俺だ。勝手に決めつけるな。」

「ははっ。流石は先生です。」

 緑はそう言うと、真面目な口調になった。

「特別授業、どうなるのでしょう。」

 昨日に比べてがやがやとした不穏な雰囲気は消え去っていた。しかし、それが逆に嵐の前の静けさといった印象を与える。

「なんとかなるでしょう。きっと。」

 繁は確証を持てなかった。しかし、それは当たり前なのである。未来に起こることなど誰も予測できはしない。どれほど確実にそうなると確信した出来事でも、用意周到な計画でも、この世に百パーセントなどあり得ないのだった。確実性のない世界を繁は恐れた。

「雨、やみませんね。」

 繁は柄にもない話をした。

「そうですね。もし、雨が止まなければどうしますか?」

 緑が唐突にそんなことを聞いた。繁は少し考えて言う。

「きっといつかは晴れますよ。」

 それは現実的にそうであるし、繁がそうあってほしいと願った結果の回答であった。

「私はいつも、このまま雨は止まないんじゃないか、って思ってしまうんです。そうなったら大変ですよね。」

 降りやまぬ雨。それが続けば自ずと水害になる。ノアの大洪水である。それが現代に起こると思うと気が気ではない。

「そうなったらそうなったではないでしょうか。」

 頭の中で繰り広げられる惨劇の中、希望を見出すように繁は言った。

「先生には夢とか希望とかってありますか?」

 繁はその緑の問いに眉をしかめる。何故ならば、その問いは、夢や希望を持っていない者がいうセリフであり、繁の知る緑からは遠く離れた常葉だったからである。

「特にはなかったな。夢を持つというのは現実を見ながら現実を見ないことだからな。いつか心が壊れるのは目に見えている。でも、もしあるとしたら、そうだな。現実を理想で塗りつぶしたいというところか。」

「テロリストみたいですね。」

 冗談のつもりで言っているのだろうと繁は半ば恐れながら緑を見た。緑はどちらでもいいような興味のない顔をしていた。

「私は夢や希望なんて持ったことがないんです。小学校の時、将来の夢についての作文を書けって言われたとき、何にも書けなかった。なんだか、それじゃ壊れているみたいに思えたんで、勝手に思ってもない夢をでっち上げたんです。そうして、ずっと進んで教師になりました。」

「後悔しているのか?」

 繁は少し心もとなくなって緑に聞いた。

「いいえ。先生に会えましたから。だから、後悔はしてないです。もともと、後悔するほどの夢もなかったですし。」

 繁は職員室から立ち去ることにした。誰かの重い思いを背負い込むのは御免だと繁は思ったからである。

「俺は行くぞ。」

「特別授業、頑張りましょう。」

 緑はどこか悲し気な笑顔で繁を見つめた。


 代わり映えしない日常を憎みながらも繁は変わらないということに安堵していた。自分が動かなければ何も変わり映えしない世界のままだ。では、一歩踏み出した今、繁は後悔しているのだろうか。それは少し違った。繁はなんだかんだで今の生活が好ましかったのだ。少しだけ変わった世界を維持したいと考えていたのだ。だが、物事はそんなにうまくはいかず、また、その望みを繁は認識することはない。

 繁はいつもの空き教室にたどり着く。逢魔が時の密会にも慣れ始めてはいたが、どこか心臓の鼓動が早くなるような気分を繁は抱く。教室にはイミナの他には誰もいなかった。

「他の奴らは?」

「分からないです。」

細い声だった。それがイミナのいつもの声であるにも関わらず、繁はイミナの声を聞くたびに危うさを感じるところがあった。それは自身の内面を見られているということへの恐怖や不信感もあったが、なにより、触れただけで壊れてしまいそうな積み木のような危うさを繁は常に感じていた。それは自殺をほのめかす浜辺などよりも危ういと感じるものだった。

「珍しいこともあるものだ。」

 まだ、授業開始には時間があり、なにより、それほど時間を決めて授業をしているわけでもなかった。授業の終わりも、きりがいいところであったり、外が暗くなったと感じたら終わるというような加減であった。

 二人きりというのは珍しく、また、久々であるので、繁は妙に緊張していた。イミナもせわしそうにあたりをきょろきょろ見渡すので、同じであるのだろうと繁は感じた。もしかしたら、自分は恐れられているのか、と繁は不安になるが、それが自分と何の関係がある、と不安を振り切る。とはいえ、二人に会話する話題もないのは事実であった。

「最近、どうだ?」

 繁はこの妙な沈黙が癪であり、イミナに声をかける。

「最近とは?」

 そう問われて、答えにくい質問であったと繁は失念する。

「学校生活とか、授業とか。」

「授業はきちんとついてこられてます。」

 この回答に繁は覚えがあった。繁も教師に対し、そのような一言で済ませられる回答ばかりしていた。それは繁が教師に対し心を開いていないからであり、イミナも繁に心を開いていないということでもあった。その事実が繁を苦しめる。

「友達とか、どうだ?」

「・・・それは・・・」

 このような回答になることも繁は分かっていた。繁も同じ様な質問をされて答えられなかったというのに。

「なんとかやってます。」

「友達などいなくてもなんとかやっていけるさ。」

 繁は慰め程度に言っておいた。だが、その言葉は嘘に近いことを繁は知っていた。友達がいないということは大きなデメリットである。だが、先に進めないということではない。生きて行くのがとても辛くなるだけのことだった。

「友達を作りなさい、とかは言わないんですね。先生とか親はいつもそう言うのに。」

 本当は繁もイミナにそう言いたかった。繁はイミナに幸せになってもらいたかった。だが、自分にそんな資格がないことを繁はよく分かっていた。

「イミナは友達を作らないのか?」

 何気ないように繁は聞いた。

「そうですね。先生はどうでした?」

「俺は作らない。面倒だからな。」

 それは半分本当で、半分は嘘だった。繁は他人との価値観の違いのようなものを常に感じていた。多少話すことはあっても、それはどうも表面的な会話だけで、自分の欲求を満たせないのであった。

「先生はどんな学校生活を送っていたんですか?」

 イミナは興味津々といった風に繁に問いかける。繁は困った顔をする。話すべき内容はほとんどなかった。それは一言で言い表せるほどにみすぼらしいものだったからである。

「一人で本を読んでいた。それしか覚えていない。」

 繁は自分が人間失格であることを暴露した気分になり、羞恥心がこみ上げてくる。きっと自分のことを大したことのない人間だとイミナが思ったかと思うと、繁は叫びだしたい気分になる。

「そうなんですね。後悔してますか?」

 イミナは真剣な顔をしていた。繁は後悔していない、と答えようと思った。だが、口から出たのは全く逆の言葉だった。

「後悔している。俺の人生はひどくつまらないものだった。お前らと接してそう思うようになった。俺はもっと早くお前たちに会いたかったよ。」

 それは繁の心からの言葉だった。これほどまでに自分が素直になっていることに繁は驚きを隠せない。

「だから、お前たちには後悔するような人生を送ってもらいたくないんだ。だから――」

「あんた、こんなところで何してるのよ!」

 突然嵐のような声が教室に舞い上がる。息を切らして教室に飛び込んできたのは浜辺だった。

「なんだ、息を切らして。」

「呑気なあんたが羨ましいわよ。」

浜辺は続ける。

「白崎くんが捕まったの。」

「はい?」

「風紀委員に自首したのよ。燈堂の件で。」

「白崎はどこにいる。」

 繁が吼えるように言ったので、浜辺はきょとんとしてしまった。

「ええっと・・・生徒指導室みたいだけど。」

 その言葉を聞いた瞬間、繁は飛び出した。なにかを考えていたわけではない。ただ、条件反射のように教室から飛び出した。

「今日の授業は取りやめだ。各自、気をつけて帰れ。」

「ちょっと!」

 繁はわき目も振らず、生徒指導室へと走り出した。


 狭苦しく、テレビの中でしか見たことのない取調室のような形相を見せる教室に繁の放った轟音が響き渡る。一同は扉を開け、息を切らしている肌は若々しいが雰囲気は老人のような教師を凝視する。

「なんですか、あなたは。」

 三人いるうちの一人の発した声に耳を傾け、繁はその女生徒を睨んだ。

「これはどういうことだ。」

「それはこちらが聞きたいのですが。」

 箱のような教室にはその女生徒と黒い頭巾の男子、そして、傍観するように眺めている背の低い生徒が佇んでいた。

「すずめ。自首したというのはどういうことだ。」

『言葉通りの意味です。』

 すずめはいつもと同じように紙に文字を書く。それが繁には解せなかった。すずめの様子は長年罪に苦しんできた老人が悔い改め解放されたような落ち着きを払っていたからである。

「なぜお前はそのようなことを言うんだ。」

 繁はすずめが燈堂を突き飛ばしたということを信じてはいなかった。確証などどこにもないが、繁はすずめが罪を犯したと信じることができなかったのだ。

「捜査の方はどうなっているんだ。」

「目撃者がいない以上、自白したという事実が採用されますが。」

 女生徒は意地の悪い顔で繁を見る。繁は首筋を長い舌で嘗められているような不快感を得た。

「お前は風紀委員だな。」

 繁はその女生徒を睨む。女生徒の腕には、前時代的な、繁が学生時代も拝むことのなかったタスキが装着されている。

「警察沙汰にはしたくはないでしょうから、どうにもできませんが、燈堂への入院費や慰謝料などは払っていただかないと。向こうもその方向で納得なされていますし。まあ、内申には大きく響きますね。推薦は受けられないものと――」

「何故初めから犯人であると決めつけている。」

 繁は扉を勢いよく叩く。拳が痛む。その痛みが少しだけ繁を冷静にした。

「すずめと話をさせてくれないか?」

 すると、女生徒は目を吊り上げてヒステリックに言い放つ。

「あなたたちは共謀しようというのですか!そんなこと、許される訳が――」

「満田。」

 傍らの女生徒が口を挟む。

「認めてやろうではないか。私たちは外で待っている。」

「待ってください、黒江さん。」

 黒江と呼ばれた女生徒は銀髪をなびかせ、教室から出て行こうとする。

「お前が黒江銀、か。」

「ほう。ろくでなしでも私の名は覚えていると見える。」

 黒江銀はふん、と笑い、繁のわきを通りぬける。満田は戸惑っていたようだが、繁とすずめを一瞥した後、悔しそうな顔をして、教室を後にした。

 繁は椅子に座っているすずめと対峙する。

「どうしてあんなことを言った。お前はやっていないのだろう。」

 すずめはしばらく何も言わなかった。繁は気長に待つことにした。すずめは繁を見ていない。まるで遠い過去でも見ているように虚空を睨んでいた。

『先生は僕なんかを信じているんですね。』

 すずめは紙をめくり、さらに書き始めるので、繁はすずめの言葉を待った。

『先生には僕の正体を明かしてもいいと思っていました。』

 そして、すずめは黒い頭巾をとった。

 そこに現れたのはただひたすらに真っ白な景色であった。足跡一つない、新雪の一面降り積もった景色。

「アルビノ・・・か・・・」

 すずめの顔は冗談のように真っ白だった。ほんのりと桃色を帯びた肌が、もとは日本人であったことを示している。

『色々と長くなるので端折って書くことになりますが。』

 白い妖精は自身の髪と同じ色の紙をめくる。

『この忌々しい体質のせいで、僕は陽を浴びることができず、顔も隠さないといけません。アルビノというのは珍しいので、多くの人から狙われるんです。だから――』

 紙が足りず、すずめはページを改める。その姿は幻想的で、繁は思わず見とれてしまっていた。

『親とも離れて暮らしています。そんな僕に居場所をくれたのが、先生たちでした。』

 すずめは辛そうな表情で紙を改める。その姿も美しく思い、繁はいけない、と頭を振るう。

『だから、僕は先生たちを守りたかった。あの素晴らしい時間を奪おうとするあの人が許せなかったんです。』

 繁はその言葉に納得せざるをえなかった。すずめの姿は人の心に言葉を浸透させる特殊な魔術を持っていた。

「だが、俺はお前がやったとは信じていない。」

『僕のこの姿を見てもそう言えるなんて。先生は変わり者ですね。』

 すずめは頭巾を再び被る。幻想的な現実が終わりを告げる。

『でも、真実なんです。だから、僕のことは放っておいてください。それが僕の望みですから。』

 繁はなにか言おうとした。しかし、頭巾に覆われたすずめの表情が今にも泣き出しそうであるような気がして、繁は何も言えなかった。

「そろそろいいかしら?」

 生徒指導室の外から満田の声が聞こえる。繁はなにか言おうと試みるが、今の繁には言うべき言葉が見つからなかった。

 満田は教室に入って来た。繁は致し方なく、退場するほかなかった。

 生徒指導室の外には銀がいた。

「黒江。」

 打ちひしがれた表情で繁は銀髪の少女に言う。

「私はそちらで呼ばれるのが好きではない。銀と呼んではもらえないだろうか。」

 幼い声とは相反して、古風な言い回しであった。

「銀。」

 繁は廊下で銀に向かって土下座をした。

「なんとかすずめを救ってはもらえないだろうか。あいつはやっていないはずなんだ。」

「その確証はどこにある?」

 刃のような冷たい言葉だった。体が切り刻まれるような痛みが繁の心に走り、繁は悲鳴を上げたくなる。だが、繁はその感情を押し殺し、銀に向かう。

「ないが、しかし――」

 今さらになって、繁の胸中に疑念が渦巻く。

本当にすずめがやったのではないのか。

だが、繁はそんな疑念を吹き飛ばす。

「俺は許せないんだ。俺の思い通りにならない世界が。」

 それは究極の自己中心だった。傲慢だった。強欲だった。それが繁が世界に対し抱いていた不満であった。

 銀は鼻で笑い言った。

「ならば、やるべきことは分かっているだろう?今すぐ動け!」

 勢いのある声にせかされて、繁は廊下を駆けだした。


 繁は自宅に帰ってきた。遅くなったかと思いきや、いつもと同じ時刻なので、今日は特別授業を行わなかったということに気が付いた。家までに何か買ってくる余裕はなかった。部屋に帰って来てから、おかずのないことに気が付く。

「なにかないかな。」

 繁は冷蔵庫を覗く。そこには賞味期限ぎりぎりのキムチしかなかった。

「これで食うほかないか。」

 賞味期限ぎりぎりというところが気にかかったが、キムチは一回腐っているので大丈夫、と不安を払しょくして白米の上に乗せた。繁の冷蔵庫には、繁の買ったものではないものが入っていた。それは隣人が繁に押し付けたものである。隣人は実家から送られてきて処理しきれないと判断したものを繁に押し付ける習性があった。繁は断ると面倒な隣人なので、仕方がなく引き取っている。

 あつあつのご飯の上に載せられた、冷蔵庫から出たばかりのキムチが繁の口の中にひんやりとした快感を与える。キムチはだしの効いた和風のものだった。その甘い味がご飯を進ませる。そして、時折刺激するトウガラシの辛さと漬物独特の塩辛さがたまらない。

「不味いな。」

 繁は甘いキムチが嫌いだった。それでも仕方がなく食べる。熟成させればマシになると思い、冷蔵庫に入れていたが、味は変わることはなかった。しかし、食べないわけにはいかない。かつて、賞味期限を超えてずっと冷蔵庫にキムチを入れていると、冷蔵庫の中でパックが破れ、阿鼻叫喚な地獄絵図へとなっていた。

「自分の居場所、か。」

 繁はすずめの気持ちがよく分かった。かつて、自分もそのような場所がなかったからである。遠い世界の片隅で一人細々と生きて行くものとばかり考えていた。

「俺は変わってしまったのだな。」

 そのことを繁はもはや悔いない。そのまま生きて行くと決めたのだから。

「どこまでも落ちて行くや苔石や行き着く先は地獄と知りつ。」

 やはり、自分には才能がない、と繁は思った。とはいえ、諦めることはない。繁は自分の夢を考える。それはきっと教師ではなかった。自分はきっと小説家になりたかったのだろう。どうしてなのかは分からない。だが、繁は小説を書いている時が幸せだった。

「だが、今も悪くはないのではないか?」

 幸せが何であるのかは繁には分からない。だが、快楽だけではないとそう心得ている。仲間とともに何かをすること。互いに認め合えること。繁の学校生活に足りないものはそれであったに違いない。

「だからこそ。」

 だからこそ、教室にはすずめがいなければならない。すずめのことだから、これ以降特別授業には顔を出さないことは分かっていた。それは繁の望むところではない。例え嫌がってでも連れて帰ろう。繁はそんな自己欺瞞を自分でせせら笑いつつ、眼差しだけは真剣そのものだった。

 繁は食器を下げ、パソコンに向かう。立ち上げるのはワードではなく、インターネットだった。そこで小説投稿サイトにつなげる。繁はすずめの小説を探す。数多ある小説の中で、すずめの小説は妙に際立っていた。キャッチ―なタイトルの並ぶ中、売れ残ったひよこのように、誰にもなびかない野良猫のように寂しげに素っ気ないタイトルがすずめの小説だった。そこには誰も寄せ付けない雰囲気さえ出ている。繁はすずめの小説を読んだ。

 言葉を話せない小鳥がいた。その小鳥は鳥たちの仲間に入れてもらおうと、いろんな鳥に会いに行く。しかし、そのどの鳥も小鳥を受け入れない。小鳥は毎晩悲し気な詩を歌った。そして、最後に小鳥は――

 その先は何も書かれていなかった。まだ続くのだろう。だが、その先はまだない。

 繁はどことなくよだかの星と似ていると感じた。もしかしたら、よだかの星に影響されて書いたのかもしれないし、よだかの星を読んで、先を決めあぐねたのかもしれない。繁はよだかの星がすずめにどんな影響を与えたのか考えてみた。最後に星となったよだか。それは自殺ともいえる行為だった。しかし、気に食わないことに、どうしようもなくハッピーエンド。

 繁はすずめの行為は間違っていると思った。すずめのした行為は自殺に等しい。だが、自殺は自分のためにする、究極の自己満足であり、周りの迷惑をも顧みない行為である。それはろくでなしでしかすることはできない。誰かのために自殺をするなどそれ以下である。自分も幸せにならず、周りの人間も幸せにならない。残された人間は、一生かけても背負いきれない十字架に押しつぶされるのだ。

 せめて、この小説の終わりはハッピーエンドであってほしい。繁はそう心から願った。


 何があろうが変わっていくことがないという点では世界というのは残酷でしかなかった。

「おはようございます。」

 職員室に入って来た繁に緑は挨拶する。

「おはよう。」

 繁は普通に挨拶をする。

「昨日、どうでした?すっちーが自首したって聞きましたけど。」

「そのようだな。」

 繁は平然を装った。昨日の自分は少し常軌を逸していたという反省がそこにはあった。

「心配じゃないんですか?」

「処刑されるわけじゃあるまいし。」

 繁は緑以上に心配していると自負している。いつも以上にすましている緑をちらと繁は見た後、落ち着いて座席に座る。

「ああ、今日も空気が清々しい。」

「何を言ってるんですか。」

 校内の問題は校内で処理されることが多い。それは隠匿体質ともいえるものだった。学校は外部からの介入をよくは思はない。それが問題化してきていたりするのではあるが。とはいえ、繁は心配していないわけではなかった。刑事事件にならずとも、民事となるとやはり生徒の顔に傷が付く。示談で終わればいいのだが――

「ともかく、今日も張り切って頑張りましょう。空気も清々しいですしね。」

「空調のおかげだがな。」

 緑の揚げ足を取ったことで元の調子に戻った繁は机に向かって、本を読み始めた。


 一限目に繁は授業はなく、緑はふかいためいきをついた後、教室へと向かって行った。そんな平穏な休み時間である。

「先生。特別な授業をなさっている生徒が問題を起こしたそうで。」

 顔をピクリとさせ、声の主を繁は見る。柴崎であった。

「なんですか?テバサキ先生。」

「わざとですよね、それ。」

 柴崎も怒りを抑え込んだような表情をして、繁を睨む。

「すずめはやってませんよ。」

 繁は相手にするだけ時間の無駄だと判断し、そう告げる。柴崎は鼻で笑い、言った。

「自信がありそうですね。証拠でもあるんですか?あまり騒動を起こしてほしくないんですよ。ただでさえ、問題児の集まりなんですから。」

 ことことと煮込んだポタージュから泡が浮かんでくる。ことこと、ことこと。繁は怒るまい、と我慢する。だが、その我慢が良くなかった。

「問題児、ですか。自分の担任の生徒を問題児呼ばわりするんですか?」

 高校生にもなると小学生とは違い、距離をとった大人な対応が求められることを繁は百も承知であった。しかし、それだけは許せないという繁の謎の正義感は繁にそのような言葉を言うことを促した。

「あら。言葉が悪かったかしら。でも、今回の責任は先生にもあるんですよ。いくらご両親が――」

「親のことは口にするな。」

 繁は思わず柴崎の胸倉をつかんでいた。そして、瞬時に離す。ここで両親の話をされると、繁は我慢ならなかったのだった。

「なんですか。訴えますよ。そもそも、黒木城の件だって――」

「お前は何が言いたい。」

 柴崎は繁の表情を見て、一歩後ずさる。柴崎は今すぐにでも逃げ出したい気分だったが、意地がそうさせなかった。繁の表情は怒った猛犬のような禍々しい表情であった。

「べ、別に・・・その・・・」

 とうとう我慢できずに柴崎は逃げ出す。繁は周りの教師たちを見た。職員室に味方は誰一人としていない。皆が繁を鋭い眼光で睨んでいる。

 この世界は腐っている、と繁は断言できる。たった一人の生徒を信じることはおろか、責任のなすりつけをし始めている。それはすずめがやったと確定させなければできないことであった。繁以外、誰も白い少年の無実を信じているものはいないのだった。


 空は曇天だった。暗くじめじめした空気に繁は辟易する。湿気が繁の頬を少しばかり湿らせる。繁は空をぼうっと見ていた。空は黒い雲に覆われ、景色もいささか黒い。空と地面との境界が混ざり合い混沌としていた。否、それは混沌ではない。混沌とは矛盾する螺旋の行き着く先。境界を無くそうとして近づくも、決して相なれず、ただただ延々と螺旋を描いていく。曇天はまさに調和する一つであった。物と物の境界のなくなった世界。それは個という違いはなく、幸せそのもののように思えた。そこには悲しみがある。しかし、喜びもある。矛盾する二つは互いに矛盾する限り、その存在性を互いに高め合って行く。矛盾螺旋の行き着く先はどこなのか。それは誰にも分かりはしない。

「教師ってのは楽な職業よね。ぼうっとしているだけでいいんだから。」

「なんだ、浜辺か。」

「なんだ、じゃないわよ。」

 浜辺は呆れたように言った。浜辺は蒸し暑そうに制服を引っ張り、風を取り入れようとしている。

「衣替えなのに何故チョッキを着ているんだ?」

「これはベストって言うのよ。」

 浜辺はまたもや溜息を漏らす。

「長袖のシャツにチョッキなど、正気の沙汰ではないな。」

 浜辺は繁の間違えを正すことを諦めた。浜辺はふと、真剣に繁の間違いをどうやって正すことができるのか、と考える。だが、それは不可能だと浜辺は考えた。繁の意固地具合は半端ではない。最近はマシになったのかと浜辺は思ったが、繁の根は変わっていないらしい。いっそ、チョッキとベストを間違えて死に至るシチュエーションでもないものか、と浜辺は頭を悩ませた。

「女の子は肌を見せないの。ケダモノが多いからね。」

 繁はケダモノ扱いされる男子生徒たちを哀れんだ。少し観察してみると、女子は皆が同じ恰好をしているようだった。

「で、昨日はどうだった?すずめと話してきたんでしょう?」

「そうだな。心奪われるひと時だった。」

 繁はすずめの幻想的な姿を思い出す。人には人生を変える瞬間があると言われるが、それはあのひと時なのだろうと繁は考えた。

「あんた、一体何を・・・二人で・・・」

 浜辺は明らかに青ざめていた。

「どうした。具合でも悪いのか?」

「い、いいえ。別に人の趣味にどうこう言う筋合いはないけれど。でも、少しは社会からの目を気にした方が・・・」

「お前が言うか。」

 繁は変わった浜辺を面白く思い、くすくすと笑う。

「あんたが笑うなんてね。」

 浜辺は喜びと驚きのないまぜになった心境で繁を見ていた。

「そんなにおかしいか?」

「いいえ。その限りじゃあ、大丈夫かなって。」

「どういうことだ?」

 繁は自分が子どものようにあしらわれている気がしてムッとする。そんな繁を見て、今度は浜辺がくすくすと笑う。

「あんた、最近おかしかったから。でも、大丈夫そうね。ええ。大丈夫。」

 繁は笑っている浜辺を見てキョトンとする。繁は浜辺の笑う姿を初めて見た、というわけではなかった。しかし、珍しいことには違いない。繁は気が付いていなかったが、浜辺が繁に対して笑みを見せるのは初めてだった。

「早く次の授業に行かなくていいの?」

 その言葉に、繁は我に返る。繁が次の教室に向かう準備をしている最中、浜辺はぼそっと口にした。

「早く晴れるといいな。」

 そうだな、と浜辺の独り言に繁は心の中で返答する。きっといつか雨は止む。止まない雨はない。そうあってもらわなければ困る、と繁は思い、教室を後にした。


 食堂にすずめは姿を現さなかった。今日、登校しているのかさえ定かではない。繁はじめじめした空気が癪だった。食堂の外にカタツムリが這っているのを見つけた。

「おばちゃん。なんでもいいからくれ。」

 どうして食事などしなければならないのか、と繁は食事にさえ苛立っていた。

「ほれ。食いな。」

 おばちゃんは食事を出し、トレイに載せる。

「今日は苛立っているじゃないか。」

「そうだな。」

 だが、それは怒りではなく焦りなのであった。迫りくる時が近づいていることに不安を覚えているのであった。

「今日もあの子、いないんだね。」

 寂しそうにおばちゃんが呟くので、繁はおばちゃんを見る。

「なんだい?」

「いや。これ、外のカタツムリを使ったんじゃないよな。」

 繁は皿に乗っている調理された渦巻きを見て、質問した。おばちゃんは何も言わなかった。

「なあ、おばちゃん。悪者って一体なんだろうな。」

「そんなの、悪いことを悪いと思ってやってるろくでなしのことだよ。悪いことを悪いとも思わずやってる人間は救いようがないさ。そんなのは世界の敵になって、世界に滅ぼされるに決まってる。残るのは人の形をした抜け殻さ。」

 繁はいつもの席についた。そこにはすずめの姿はない。繁は皿の上で渦巻きを散々突っつきまわした後、意を決して、中身をほじくり出し、口に運んだ。


 午後、天気は一層悪くなった。雷がごろごろと言い出し、女子生徒たちは煌めく雷光に恐れをなして悲鳴を上げる。

 お前は一体誰の心を代弁しているのか。

 繁はバケツをひっくり返したように降り注ぐ雨に問うが、答えなど帰っては来ない。世界など頼りにならないものだと繁は嘲笑った。

「先生。テストに関してなんですけど。」

「なんだ?」

 繁は質問してきた生徒に視線を向ける。

「ええっと、ろくに授業をしてないんですが、大丈夫なんでしょうか?」

 窓を叩く風が不安を訴えていた。

「どんな試験も初見で解かなければならない。だから、あまりやっても意味はない。それほど難しい問題は出さないから安心しろ。」

 繁は生徒の心が分かり、億劫だった。ずっと分かりたくないと思って目を背けてきたからである。しかし、受け入れることにした。真人間になりつつある自分を驚きつつ、人の心が分からなかった自分を懐かしんだ。

 雨は降り止まない。


 曇天のもとでは時間さえ分かりはしない。繁にとって、今日の放課後までの時間ほど長い時間はなかった。ずっとずっと、一秒が寝られた小麦粉のように伸びて伸びてどこまでも行くように感じられるのであった。

 繁は空き教室を見渡す。そこにはすずめの姿はない。

「では、授業を始める。」

 そう言って繁は歯を噛みしめた。すずめのいない授業など授業だと認めたくはなかった。

「ドリアングレイの肖像だ。さて。まずは感想を聞こうか。」

「えっと、ホモ小説?」

 繁は思わず耳を塞ぎたくなる。イミナが下品なことを言うのを繁は聞きたくなかったのであった。

「そうだな。最初はそのような描写があり、最初に目を通すだけで本を投げ捨てる者もいるだろう。」

 繁は取り繕うように言葉を発した。

「でも、私が一番魅力的に感じたのはヘンリー卿ですね。」

「まずは話を大雑把に振り返るか。」

 繁自身も話を整理したかったので、あらすじを述べる。

「純朴な少年、ドリアン・グレイがヘンリー卿と関わることで堕落していくという物語だな。その堕落していきドリアンの顔が醜くなる代わりに画家のバジルから送られたドリアン・グレイの肖像が醜く変わっていくというものだ。では、まずはヘンリー卿の人物像に迫ろう。」

 繁は黒板に文字を書いていく。

「ある意味、一番無責任で、美味しいところをかっさらったのがこのヘンリー卿だと言える。彼はドリアンの純朴が大人の世界を知ることによってどのようになるのか、ということを実験として楽しんでいる。これは俺が得た感想だが、ヘンリー卿とドリアンは十年ほどしか歳が離れていない。にも拘らず、俺はヘンリー卿の人物像を白髪の老人だと思ってしまった。彼には世界から隔離した視点から物事を見て、世界と関わろうとせず、イヴに知恵の実を薦めるような、穢れた蛇の性質があると言えるだろう。」

 そして、その立ち位置は俺と非常に似ている。

 繁はチョークを強く握る。

「でも、画家のバジルくんは可哀想よね。」

 緑は世間話をするような口調で発言した。

「そうだな。バジルに至ってはある意味でドリアンに対する母親のような立ち位置にいるとも言える。一番ドリアンのことを真摯に思っていたのはバジルだろう。だが、恋というのは追いかけっこだ。両想いとなった瞬間、恋は冷める。」

 繁には恋のことなどよくは分からなかった。なので、普通なら恥ずかしがるようなことを平気で言ってのける。

「ドリアンの豹変ぶりには驚いたけど。」

 浜辺は顔を逸らしていた。

「後半から悪行を重ねることに罪悪感を感じていたドリアンが真っ黒に染まってしまっている。だが、その片鱗はその前からあった。自身の肖像画を、罪の現れを見られたくないという感情だ。そういう人間の弱さを作者のオスカー・ワイルドはうまく描写しているといえよう。」

 繁はドリアンと人間失格の葉蔵が似ていると感じていた。それ故に、ドリアン・グレイの肖像を選んだのである。

「先生のいつもの作者が何が言いたかったのか的なのはありますか?」

 緑はあまり興味がなさそうに言った。

「この作品に至っては本当にそれがない。これはオスカー・ワイルドの作品の特徴と言えよう。全てがニヒルで、そして、結論がない。それはオスカーが文学を芸術化したということでもある。絵を見ただけでは、結論に至れず、画家の経歴やその時の状況によって意味は補完される。だが、それは絵画を楽しむうえでは障害でしかない。それぞれがそれぞれの結論を持てばいい。あえて言うならば、オスカーは作品を通して、読者にこう告げているのだろう。君は登場人物の誰になって人生を送るのか、と。」

 文学の意義とは作品を通して人生を体験させるということである。オスカーはそれを極限にまで昇華させた作家と言えるだろう。

「なるほど。」

「だが、俺が山月記とドリアン・グレイの肖像を通して考えて欲しかったのは人間の二面性だ。いや、それは二面性などと言えるものではない。虎であり、闇ドリアンであり、その二人はもとよりその性質を内包していたのだ。その表に隠された裏とどうやって生きて行くのかを俺は考えて欲しかった。」

 繁の口の中はカラカラに乾いていた。それは砂漠のようにさらさらとした砂丘ではない。風さえ吹かず、中途半端に乾いた、岩のような土塊だった。

「緑。何か言うことはないのか?」

「あら、先生。下の名前で呼んでくれるんですか?キスはちゃんと舌をいれてくださいね。」

「・・・」


 「真実を話してはくれないだろうか。」

 「何を馬鹿正直に土下座してるの?」

 「俺よりも馬鹿でろくでなしのしにたがりが罪を被ろうとしているんだ。このくらいは当たり前だろう。」

 「嫌よ、そんなの。」

 「頼む。」

  ゴツン。

 「馬鹿じゃないの?血が流れてる。」

 「俺はいつも自分のために生きている。だから、これは俺のわがままなんだ。俺の、居場所を奪わないでくれ。」

 「はあ。仕方ないわね。いいでしょう。私がばらしたって言わないでね。そう。あれは私の自作自演。でも、思った以上に大怪我になっちゃって。ここまではあの人も望んでなかったでしょう。」

 「お前に指示をしたのは誰だ。」

 「橋本先生よ。」


「なんだ。やっぱり先生、分かってたんだ。」

 緑は笑みを浮かべる。それはコバルトブルーの海によく映えるような笑顔だった。

「先生はどこまで知ってる?」

「お前の両親のことまで。」

「そっか。ネットに載っているものね。それをずっと隠しながら接してきたんですか?」

「今日一日が限界だな。」

 繁は安堵の表情を浮かべた。

「そうです。私が犯人。どう?どうしてこんなことしたかも聞きたい?」

「当り前です!」

 浜辺が立ち上がり、目を赤くして緑を睨む。

「うーん、どうしようかな。」

「いいや、言わなくてもいい。」

「でも――」

「いいんだ。」


緑の両親はとある宗教に肩入れしていた。その団体はすずめのことを狙っていた。ただ、それだけのことだった。


「でもね。それだけじゃないの。それだけじゃ。」

 いつの間にか雨はやみ、静かな暗さだけが取り残された。

「私は先生が変わってしまったのが嫌だった。いいえ。違います。先生を好きなのに、私になびかないから。だから、許せなかったの。」

 緑の心は晴れ渡っていた。

「でも、それも間違っていたって私は思います。先生はとっても悲しそうだったから。この授業をしている時の先生はとても楽しそうで、私はなんだか取り残された気分だった。だから、ぶち壊してやろうって、そう思った。でも、でも、でも。何もかもが崩れてしまいそうになって、やっと、私もみんなが大好きだって気が付いた。だから、ごめんね。」

 緑は涙を見せなかった。それが緑の精一杯だと繁は思った。

「とまあ、そういうことだ。明日は刺青か芋虫でもやろう。俺は勝手に俺の前から消えることを許さん。二度とな。緑。お前はすずめに明日の授業の内容を伝えておけ。」

「え?出禁じゃないんですか?」

「いっそ豚箱に放り込みたい気分でもあるが、ここがお前の豚箱だ。一生苦しみながら授業を受け続けるがいい。俺は二度と俺の前から誰かが消えるのを許さないと言った。病欠も許さん。以上だ。」

「ガッテン!」

 緑は心からの笑顔で了承の意を示した。


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