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R&S  作者: 竹内緋色
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2/高瀬舟/人間失格/よだかの星

2/高瀬舟/人間失格/よだかの星


 繁は目を覚ます。まだ春先の朝は肌寒い。なので、早々にシャワーに駆け込んだ後、繁は着替えの上から毛布をかぶる。

「今日は少し冷えるな。」

 この環境の変化も繁は嫌いだった。この町は夏は暑すぎ、冬は寒すぎる。小説の中ならそんな極端なことはない。例え雪山で遭難する話を読んでいても凍え死ぬことはない。温かい部屋で読めば、読み手は快適に雪山を堪能できる。

「はあ。高瀬舟か。」

 繁は気が付くと、部活動でやる小説について考えていた。それよりも小説を書こうとパソコンに向かうが、ふと気が付くと高瀬舟について考えてしまう。また気がついて、パソコンに向かうが、ワードは白紙のままだった。休日の間もこんな調子であったので、繁は困ってしまっていた。

俺はどうかしてしまったんだ。

そう繁は危機感を抱くが、本来繁は真面目な性質だった。真剣に学ぼうとする生徒がいるならば、それに答えようとするのが繁である。それは教師であるという自覚ではない。むしろ、繁は教師であるという自覚をこれっぽっちも持ってはいなかった。

「教師を生徒は見ているから、鑑となるように、とは言うが、教師など碌なものでもないからな。」

 思い浮かんだのは緑であった。緑は職員室でもおかしを頬張りながら資料を作っている時がある。

「資料を作るべきか。いや、あんなお遊びに時間を割いている暇はないな。」

 そう言いつつ、繁はワードを閉じ、インターネットに接続する。そして、高瀬川で検索をかける。画像をダウンロードし、コピーする。その後ネットで様々な知識を取り入れているうちに、携帯のアラームが鳴った。

「俺は何やってるんだか。」

 繁自身は気が付いてはいないが、その口元は仄かに緩んでしまっていた。


「教師のくせにおっそいお着きね。」

 校門でばったり出会うなり、浜辺は言った。春風になびく美しい黒髪が繁の心をくすぐる。

「その格好、暑くないか?」

 浜辺は長袖のブレザーを着ていた。朝の寒さが嘘のように、陽が上ると温かくなったので、繁は突き刺す日光に当たり、汗ばんでいた。

「暑いわよ。でも、校則でしょう?というか、あんたら教師が着ろって言ってるのに、なによ、それ。」

 繁は六月に入ってから衣替えであったことに気が付く。

「そうか。それは災難で何よりだ。」

 繁は浜辺を嘲り言った。その顔を見て、浜辺は自分の心の琴線に繁の憎たらしい顔が触れるのを感じる。

「あんた、それでも教師なの?ふざけてるわ。」

「俺は教師である前に一人の人間だ。そもそも、教師が生徒の手本になるようになんて馬鹿々々しいにもほどがあるだろう。」

 繁は少し苛立つ。繁は自分の理解できない慣習に従うのが嫌いだった。

「それが大人ってもんでしょうが。大人なら、しっかりしなさいよ。」

「橋本を見てもそう思うか?」

「うぐっ。」

 浜辺は言葉に詰まる。浜辺は緑のことを綺麗でしっかりした教師だと思い、憧れていたのだ。こんな冷血な男より、緑のきちんとした授業を受けたいと思っていた。だが、先日のだらけぶりを見て、どっちもどっちなのだという結論に至る。

「でも、あんたももうちょっと真面目に授業やらないと、目をつけられるんじゃない?」

 浜辺の良心は少し繁を心配する。

「真面目にやらなければならないときは真面目にやっている。そもそも、現代文にあれほど時間をかけるのは無駄だろう。三時間ぐらいで終わる。それに、誰かがどう思っているなんて気にしたことがない。お前も一緒だろう?」

 ぐっ。浜辺の心に何かが突き刺さる感触がした。それはちょうど浜辺の心の中にぽっかりと空いていた穴にぴったりとはまる鍵を差し込まれたかのような苛立ち。

「あんたに何が分かるっていうの!私はあんたが思っているよりもずっと・・・」

 繁は浜辺に背を向けて歩き出していた。無視されたことが気に食わず、浜辺は執拗に繁の後をついていく。

「こら。待ちなさいよ、このろくでなし教師!」

「ろくでなしであることは認めるが、教師であることは認めん。」

「あったまおかしいんじゃないの。」

 繁は立ち止まり、浜辺の方を振り向く。

「な、何よ。」

 自分より背の高い男に見下ろされたので、浜辺は警戒する。一歩後ろに下がりかけた。

「俺は頭がおかしいさ。それはお前たちも同じだろう?文学に心を惹かれる人間は、どこか欠陥を抱えているんだ。」

「だから、知ったような口を聞くんじゃないわよ。」

 繁は職員室に入って行く。浜辺に対して少しムキになっている自分を顧みて、少し笑う。まるでガキみたいだと思ったのだった。

 今時あれほど典型的なツンデレはアニメでも出てこないな。

 繁はそう思い、席につく。

「青葉先生。最近なんだか楽しそうですね。」

 緑はすねたような口調で繁に言う。ここにもガキがいたことを繁は思いだした。

「そうでもないでしょう。」

 繁はすまして言う。自分は結局なにも変わってなどいない。

「そうですか。そうなんですか。」

 緑は相変わらず不機嫌だった。繁は面倒臭くなり、会話を止める。もともと緑と話すことなど多くはない。

「先生、どうですか?最近。やっぱりこの歳になると、親が結婚しろってうるさくって。でも、お見合いとかって嫌ですよね。教師って結構教師同士で結婚が多いんですよ。産休とかで急に休んじゃうと大変ですけど。」

 繁は無視した。結婚など自分から程遠い物事のように思えたからである。

「黒木城となにを話してたんですか?」

 緑の声は急にトーンが低くなり、繁はゾッとする。だが、それは一瞬だった。

「別に大したことは話していません。互いに悪口を言い合っていただけです。」

 一方的に悪口を言われ続けている気がしたが、生徒に正々堂々と悪口を言われる教師もどうかと思うので、言い合っていたと言うことにする。

「はあ。悪口ですか。うーん、それってどうなんだか。」

 緑は難しそうな顔をして考え込んでいる。しかし、どうせ何も考えていないことは繁には分かり切っていた。

「あれは近年まれに見るツンデレなだけです。」

「ツンデレ!男の人、ツンデレ好きっすよね。」

「でも、リアルにいるとウザいです。どうして俺に関わってくるのか。」

「きっとあれですよ。好きな子にちょっかいをかける的な。」

「はあ。でも、俺のことは嫌いでしょう。というか、好きになる要素がないです。」

 ははあ、という顔を緑はする。にやにやしている姿が繁には気持ち悪いとしか思えなかった。

「先生。童貞ですね。」

「はい、童貞です。」

 簡単に言うので、緑は面白くない。せっかくからかえると思ったのだ。

「そんなはっきりと・・・」

「別に性経験の有無で人間が変わる訳でもないでしょう。それに、俺は人を好きになったことはないです。」

「一度も?」

「ええ。一度も。」

 恋愛など性欲を満たす為のものだと繁は理解していた。それ以外に存在する理由もない。

「そろそろ行かないと間に合いませんよ。」

 繁は席を立って緑に言う。

「私は二限目からです。」

 繁をおちょくるように緑は言ったが、繁は我関せずと言った態度だった。


 代わり映えのしない日々。平和で平凡な日常。その象徴として、繁の目の前には無数の生徒がドリルに向かってシャーペンを走らせている。均一すぎる空間。作家によっては学校を刑務所呼ばわりするが、それは強ち間違っていないように思えた。誰一人としていい顔はしない。みな、何かに追われ疲れている顔だった。それは学生時代の繁も同じだった。

 繁は人間はみな自分と同じだと思っている。多少考え方の違いや持っている知識の違いはある物の、どいつもこいつもどうしようもなく―――――なのだ。

「ねえ、あんた。」

 気が付くと授業は終わっていたようで、ボケっとしていた繁に浜辺が声をかける。

「なんだ?周りの目を気にするなら、先生などと言ってみてはどうだ?」

 繁は皮肉って言う。とはいえ、声は無機質的なので、嫌味な感じには聞こえないのであった。

「別にいいわよ。このクラスは。」

 浜辺にしては元気がない言いようなので、繁はおやっと思う。繁は浜辺のクラスの立ち位置について興味はなかったが、それでも少し察するところはあった。

「あんた、朝言ってたわよね。」

 浜辺はそれ以上口にしない。察しろということなのだろう。しかし、繁は軽口を叩いた覚えしかないので、内容までは詳しく覚えていなかった。

「なんか言ったか?」

 浜辺は深いため息を吐く。どことなく神妙な雰囲気なのが新鮮で、繁は不快感をあらわにする。

「あんた、鈍いのかしら。それともわざとなの?ラノベの主人公なの?」

「本当に覚えていないんだ。碌なこと言わなかっただろう?俺はお前の癇に障ること言ったか?」

「いいまくりじゃない。」

「その実感はある。」

 浜辺は調子を狂わされた、とばかりに唸る。そして、少し顔を赤くして、ぼそぼそと言う。

「文学に興味がある人はどこか欠陥があるって。」

 繁は、そう言えばそんなことも言ったなという感じだった。

「それがどうした。」

「それってつまり・・・」

 ふと気が付くと、教室の前に次の授業の教師が立っている。早く出ろ、と無言で繁に言っていた。

「次の授業が始まるようだ。すまないな。後で話そう。」

 繁は浜辺の顔を見ず教室を後にしていった。


「年頃の子どもは分からんな。」

 繁は職員室にて呟いていた。その呟きを聞き逃さず、緑は繁に話しかける。

「そうですよね。みんな大人しいので何を考えているのか分からなくって。一年生だとまだ友達とか作れてない子も多いみたいで。そのくせ、今から進路のことでしょう?だれも真剣に考えていないのに今から進路を決めておけなんてとっても面倒で。」

「ところで。」

 繁は緑の言葉を途中で遮るようにして切り出す。

「先生は随分と同じ時間に休んでおられますが。」

「私がさぼっているって言いたいんですか?」

 ぶすっとして緑は繁を睨む。

「残念ながら偶然というか、昼前って結構体育の授業が多いんですよね。だから、こうやって暇な生徒が多くて。体育って三クラスぐらい合同だから。」

「そうですか。」

 我ながらどうでもいいことを聞いてしまった、と繁は反省する。

「ほら。今も体育ですよ。あれは二年生かな?あ、あの子生意気な娘がいる。」

 誰のことか、と思い、繁は振り向いて窓を見る。そこには生徒たちがいるが、緑の示した生徒が誰であるのかは判別がつかない。グラウンドでは女子がサッカーをしていた。

「暑い中ご苦労だな。」

 社会人になって繁がもっとも嬉しかったのは、運動をしなくていいという点である。こうやって空調の聞いた部屋でゆっくりとできる。

 授業をよく観察していると、一人の生徒の独壇場といった感じであった。また、同じ生徒がボールを奪い、ゴールに突き進んでいく。黒く長い髪をポニーテールにしているのが特徴的であった。

「あの生徒、頑張りますね。」

 それは皮肉に近かった。他の生徒はその生徒が頑張るので楽をさせてもらっている、とだらけきっているのが傍から見ても分かる。

「黒木城って真面目ですもんね。」

 緑はつまらなさそうに言う。その時初めて、繁はポニーテールの生徒が浜辺であることを知った。

「あれは浜辺か。」

 動きは男子顔負けであった。あれほど動け、顔もいいのだから、男子からの人気は高いように繁は思った。

「名前で呼んでて。なんだか仲が良いですね。」

 緑は指で机をこつこつ叩いていった。不機嫌な様子だった。

「いえ。全く。」

「でも、名前で呼んでるじゃないですか。」

 確かにそうであるが、と繁は弁明に困る。だが、どうしても苗字が覚えにくいのであった。

「苗字が難しいんですよ。コッキジョウでしたっけ。マックロクロスケでしたっけ。」

「嘘が下手ですね。」

 残念ながら嘘ではなかった。繁は自分でも分からないくらいに苗字を覚えられない。

「でも、ああいう子って女子から孤立するんですよね。」

 緑がそう言った瞬間、浜辺はサッカーゴールにシュートを決めていた。

「それはどうして?」

 クラスに漂っていた空気。それは浜辺だけを切り取ったような異質なものだったと繁は思いだす。

「まあ、悔しいですけど、化粧もしてないのに綺麗ですし?身長も私よりありますし?運動もできて、成績もいいみたいですし?そうなると、どんな生徒でも孤立しますよね。私は詳しくは知りませんけど、あまり女子とも話していないみたいなので、そうなると孤立しちゃいますよ。そんなこと、チンポ猿どもは気にしませんから、バンバン告白とかしちゃって?で、それで余計に女子から妬まれるんですよ。」

「女子校のくせに、あ、失礼。女子校なのに詳しいですね。」

「女の子なら、分かりますよ。」

「女の子?」

「先生、最近口が悪くなってません?」

「いいえ。元々ですが。」

「そうですね。もうおばさんですもんね。もう婚期を逃しかけてますものね。アラサーですものね。うええん。」

 緑はあからさまなウソ泣きをするので、繁は興がそがれる。自分に関係のないことを考えるのは馬鹿々々しいので、授業のプリントを作ろうとパソコンに向かう。

「ちなみにそろそろお昼ですよね。私先生の分のお弁当作ってきたんですが。」

「いりません。」

 繁はきっぱりと断った。

「うう・・・クール系のドSと付き合うのって大変ですね。」

 緑が何やら喚いているが、繁は構わずキーボードを叩き続けた。


 いつもと変わらずじめっとしている食堂だった。影では生徒がお化けが出るとかナメクジが湧いているなどと噂しているらしいが、繁の知るところではない。知ったとしても繁にはなんの心情の変化もないだろう。百聞は一見に如かずというが、本を手に取らずに評判だけで作品を知った風に言う輩が多い世の中、繁はそういうにんげんを愚かだ、とか可哀想に、と思うのだった。古い文学作品というだけで生徒たちは嫌厭するのだが、古い作品こそが現代に則していると思う時が繁にはままあった。逆に、現代の作品を繁は嫌悪していた。この現代の流れの中で現代を描くなど、誰にもできようがない。繁が生きている世界とどこか齟齬が生じているようで、繁は孤独な気分になる時があった。

「うどんソバ、ひとつ。」

「あいよ。」

 食堂のおばちゃんは相変わらず不愛想に繁に品物を差し出す。いつも麺類ばかり繁は食べているが、そもそもにこの食堂で麺類以外を出しているのかさえ繁は知らなかった。

 繁はトレイを持ちながら、いつもの定位置へと向かう。そこにはいつもと同じように黒い頭巾を被った謎の生徒、白崎すずめがいた。

 繁はすずめに声をかけることもせずに食事を始める。うどんとソバの入った金色のスープに箸をつけたところで、繁は視界の端に白いものが映っていることに気付く。

『うどんソバ、美味しいですよね。』

 丁寧な字で大きくそう書いてあった。繁はうどんとソバのごちゃ混ぜになった麺を啜る。太くハリのある麺と、細く腰のある麺が繁の口の中で弾ける。ことさらに、微妙な味であった。

「不味い。」

 繁は食堂のおばちゃんが聞いていることを気にせずに、すずめに伝わるように言った。繁の声が静かな食堂に響く。

『そうですか。僕はこの食堂、好きだな。』

 再びスケッチブックに極太の黒いマジックでコメントを書き、すずめは繁に見せる。

「お前は言葉がしゃべれないのか?」

『はい。』

 大きく書かれた。繁は学生の頃全く話さなかったことを思いだした。一日中話さず、家に帰って独り言をつぶやこうとすると、声が出てこず、驚いたことを思い出す。そう思うと、紙に何かを書くというのは楽だな、自分もそうすればよかった、と繁は考えた。

 その後、二人の間に会話のようなものはなかった。二人ともずるずると音を立てながら、奇妙なハーモニーの麺を啜る。

 薄い色にも関わらず、今日のだしは塩っ辛かった。


 繁は七限目の終了を職員室で迎えた。部活動に向かおうと、重い腰を上げる。

「これから部活ですか?」

 緑はそんな様子の繁をニヤニヤした目で見る。

「最近、先生、生き生きしてます。すっぽんでも食べたんですか?それともマムシ?」

「お前は一言多いよな。少なければまだマシなのに。」

「マシってどういうことですか。もっと、言葉少ななら美人なのに、とか、そんな君も可愛いよ、とかあるんじゃないですか!?」

 そういうのが一言余計なのだと繁は思わずにはいられなかった。

「ああ、待ってください。私も行きます。」

 緑は立ち去ろうとする繁を追いかける。

「でも、先生がやる気になるなんて思わなかったです。」

 緑は望んでもいないのに、繁に話しかけ続けている。

「俺は静かでもかまわん。間を持たせようとする必要はない。」

「分かります。大図書館の羊飼いですよね!」

「分からんっての。」

 繁は溜息を吐く。

 排気口から流れ出る空気のようにぞろぞろと生徒たちが出て行く。それぞれの日常へと戻っていく様に繁は嫌悪を覚える。その普遍的な生徒たちとともに見知った顔が出てきた。

「よう。」

 声をかけた繁に振り向き、浜辺は怪訝そうな顔をする。

「なんだ、このスッタコ。」

「機嫌が悪そうだな。」

 いつも以上にピリピリした空気に繁は少し驚く。しかし、怖気づくことはない。それは繁が浜辺を人畜無害であると感じている証拠だった。

「何でもないわよ。」

 目に力を入れていた浜辺は繁の隣に緑がいることに気が付き、表情を変える。

「橋本先生、いらっしゃったんですね。」

 張り付いたような笑みを浮かべる。その笑みは決してぎこちなくはないが、いつもの仏頂面に微々たる柔らかさを取り入れたような代物だった。

「ええ。これから部活に行こうと思って。」

「はい。部活動はイミナの、丹路の教室でやりますので。」

 そう言って浜辺は先に行こうとする。

「そう言えば、お前らはどんな繋がりなんだ?」

 浜辺は繁にきつい視線を送る。しかし、それは一瞬のことで、再び笑顔を取り繕う。

「小学校からずっと友達なんです。」

「学年が違うのにか?」

 突然、浜辺は無表情になる。その冷酷な顔は今までの浜辺の表情で一番怖いように繁は思った。

「ええ。何か悪いですか?別の学年の子と仲良くしたら悪いんですか。なんなんですか、あなたは。私の懐にずかずかと入り込んできて。授業ではバカらしそうにしてるのに、こんな時になって教師面?ふざけんじゃないわよ。慕ってくれる子がいるからって、いい気になって。私、そういうのが大っ嫌いなの。」

 浜辺は感情的に言う。その姿は目前まで迫ってきた現実に対して必死で逃げようとして足掻いているように繁には見えた。

「先生、嫌われた。」

 緑は嬉しそうに繁に言う。

「どうも仲がよさそうですね、先生たち。そのまま結婚したらどうですか。お似合いですよ。」

「まあ!お似合いですって。先生。」

「バカにされてるだけだろ。」

 繁はつまらなさそうに緑に告げる。突然現実に突き落とされた緑は悲しそうに肩を落とす。

「少なくとも、イミナには近づかないで。あの子はアンタみたいなろくでなしが近寄っていい子じゃないの。それともなんなの?あの子が体が不自由だからって可哀想とか思ってるの?そんなの――」

「やめろ!」

 繁は怒って叫んだ。腹の中からぐつぐつと怒りがこみ上げてくる。その怒りは繁の腹を溶かしてしまいそうな勢いだった。

「な、なによ。」

 浜辺は確かに失言してしまった、と申し訳なく思いながらも、引き下がることができない。

「友達であるお前がそんなことを言ってい訳がないだろ。体が不自由だろうがどうだろうが、俺には関係がない。」

 繁は友達というものが分からない。自分がどうして怒っているのかわからない。だから、恐らく正解だろうという答えを口にしただけだった。

「ともかく行くぞ。」

 繁は進みだす。自分自身の不可解な現象の火をもみ消すような歩き方だった。


「さあ!みんな!小説は読んで来たかな?」

「バカにしているのか、お前は。」

 繁はテンションの高い緑をなじる。

「いつもそんなテンションで授業をしているのなら、この場で殺すぞ。」

「うわあ、ドS。ああ、でもドS教師って少女漫画の定番だよね。」

『分かります。』

 何故だかすずめが緑に同意する。

「大丈夫です。先生はもっと大人しく授業してます。」

 小さな声でイミナは言った。

「こら。イミナっち。私は先生じゃなくて緑ちゃん。りぴーたふたみー。」

「緑ちゃん・・・」

 イミナは俯きがちに答える。どうにも恥ずかしいようだった。

「授業妨害をするなら、廊下に出ていろ。」

 繁は緑のことを気にせず授業を始める。

「さて。とある授業ではどこかのバカが、この小説の主題は自殺幇助が罪に当たるかということだったが、みなはどう思う。」

「あんたね・・・」

 浜辺は怒りを堪える。このくらいの挑発には浜辺は慣れてきていた。

「私は、お兄ちゃん・・・喜助さんですか。その方が清々しい顔をしているということが気にかかりました。」

 イミナはあっているのかどうか不安げな顔をしながら答えた。

「よい着眼点だな。」

 繁に褒められ、イミナは嬉しそうな顔をする。

「それが物語の始まりでもある。そのことが気になって役人が話を聞いたのが物語の始まりだ。」

「で、それがどうしたのよ。」

 自分が褒められなかったことが気に食わず、浜辺は不機嫌そうに言った。

「これは物語のまとめとなるところではあるが、兄は弟を殺した。そのことに本当に、兄は罪の意識を感じていたと思うか?」

「弟を殺して罪を感じないなんて壊れてるじゃない。感じたはずよ。」

「これだから凡才は困る。」

 繁は呆れたように言った。

「まあ、まずは前置きとしよう。君たちは高瀬舟の舞台を知っているか?」

「高瀬川でしょう?」

「それはどこにある。」

「ええっと・・・」

 浜辺が言いよどんだことに気をよくした繁は話を進める。

「京都市内を流れる小さな川だ。」

 繁は写真を取り出し、黒板に張り付ける。それは現在の高瀬川の写真であった。

「これは現在の高瀬川だ。この通り、川はちょろちょろとしか流れていない。現在は周りに酒屋が並び、酔いつぶれたバカどものゲロが流れている。」

『本当ですか!?』

 すずめがスケッチブックを掲げる。

「嘘よ。先生も下手な嘘を吐かない。」

 緑が呆れたように言う。

「当時の京都は多くの処刑場が並んでいた。今でも蹴上という地名があるが、その地名の由来は切った処刑人の首を蹴り上げて運んだからだと言われている。」

「でも、お兄さんは島流しなんでしょう?なら、今は関係ないわ。」

 浜辺は残虐な話が苦手なので、話を切り替えようとした。

「そうだな。だが、当時のあれこれを多少知っておくのは重要だろう。あまり知識がなくとも現代に通用するというのは流石だと思うが。さて。他に気が付いたところがあるものはいるか?」

『お兄ちゃんの語り。』

 すずめはスケッチブックを掲げる。

「そうだな。この作品では心情描写を書かれているのは役人だけだ。主人公が兄だと思う人もいるが、それは違う。一番読者に則しているという点で読者に近い立ち位置なのは役人だろう。そして次に心情を垣間見ることができるのは弟だ。兄は意外と淡白に書かれている。」

「それはどうしてですか?」

 興味を持ったらしく、浜辺は親身になって聞く。そこには先ほどまであった反発する態度はない。

「理由として挙げられるのは、語り手であるということだろう。物語の語り手は基本的に淡白であることが求められる。この時代は一部の例外を除けば、基本的に小説は三人称で書かれていた。一人称、つまり、俺はなんだのかんだので描いた作品で思い浮かぶのは『吾輩は猫である』くらいだ。吾輩は猫であるは、今でいうラノベに近かった。読んでいないものには分からないが、かなりギャグが多い。夏目師匠に関しては三時間ほど語り続けたいが、今はドクター森のことに関してだ。ああ、そうだ。森鷗外が軍医だったことは知っているな?」

「かなりのエリートだったとは聞いてます。」

「玉の輿じゃない。」

 緑は変な所で目を輝かせるが、繁は無視する。

「兄が弟の惨状を見て弟を殺す場面。俺はそここそが究極に淡白だと思うのだがみなはどう思う。」

 みなは目を逸らすように俯く。同じ心境に至り、その先の答えをみなが分かっている証拠だった。

「これは鷗外が軍医だったところから来るものだと俺は考える。医者は時に人の死を決断しなければならない。」

「それは医者が冷酷だということですか。」

 浜辺は湧きおこる不快感を我慢できずに言った。心臓が妙な拍動を行っている。

「いいや、違う。それはその逆だ。」

 繁は表情一つ変えずに言い切る。

「医者にとっても人の死はつらいものだった。だから、兄の心情を詳しく書けなかったのだ。それは作者に苦しみを想起させる。きっと、鷗外もそのような気持ちで治療をしていたのかもしれない。無理矢理自分の気持ちを押し殺して。」

 繁の言うべき言葉はそれで終わった。まだ存分に言える事柄は多い。だが、それ以上は自分で答えを出すことだと思ったのだ。繁は人々が目を背けている心の裏側を暴露したにすぎない。

「弟はどうして、どんな気持ちで自殺したんだと思いますか?」

 浜辺はぼんやりとつぶやいていた。その問いに繁は答える。

「そんなの、死にたかったからだろう。結局はそんな理由でしかない。例え、死ぬまでの経緯にどれほどの苦しみがあろうとも、死ねばそれで全て済まされてしまう。鴎外はそこを拾いたかったのかもしれんが、俺は決してそうは思わない。自殺する人間は以下の条件を満たしているものだろう。現実と戦う意思を無くしたものと、死に快楽を覚えるものだ。」

 ひどい言葉であると繁は思っていた。だからと言って言うことを止めはしない。何事も現実を受け止めることから始まる。繁は現実を受け止めた上で逃げようとしている。それが一番性質が悪いことを繁は認識していた。

「他にはなにかあるか?」

 緑が手を挙げて答える。

「私は国語の教師だから、その立場で質問しますけど、どんな文学作品にも作者の伝えたかったことってあると思うんですよ。先生は作者は何を伝えたかったと思いますか?」

 それは繁にとって一番平凡で、憎むべき問いであった。だから、言ってのける。

「そんなもの、ない。思わず学校の授業は作者の意図などを探ろうとするが、そんなものを考えて一々作品を書くものの方が少ない。あるとすれば、人には色々と人生があり、その人生を垣間見た読者は今後どうするかということだ。小説は読者に対する最大の問いかけだ。だから、作者の意図を考えるのは愚かしい。医者は病気を治すために薬を処方するが、そこには病気が治ればいい程度の気持ちしかない。実際に病気を治すのは患者で、薬を飲んで病気を治すのかどうか、病気が治ってからどう生きていくのかは患者が決めなければならないことだ。」

 他に質問はないようなので、繁はこれにて放課後特別補習を終えることにした。


「ちょっと待ちなさいよ。」

 廊下を出た繁を呼び止めようと浜辺は教室から飛び出す。

「なんだ?授業に不満でもあったか?」

 そう問われて、浜辺は問うべき言葉がない事に気が付く。

「あんたは、弟についてどう思うの?」

「自殺した人間についてか。」

 オブラートに包んだ質問の中身をばさりと広げられてしまい、浜辺は妙な危機感を覚えた。

「別になんとも思わないさ。どっちにしろ、俺には関係のないことだ。」

 そうやって、自分には関係ないと小説はばっさりと言い切ることができる。それは現実とは違うので、そこが利点であると繁は考えていた。

「じゃあ、もし身近な人が自殺したいと考えていたらどう?」

 繁は冷ややかな視線を浜辺に投げかける。浜辺はその視線を真っ向から受け止めた。その姿勢を見て、繁は回答することに決めた。

「俺が説得なりなんなりして止めると思うか?」

 例え大切な人が死のうともそれはその人が決めた選択で、繁はそれに介入しようとする意思はなかった。

「そもそもだ。死ぬときに遺書を残したり、はた迷惑に飛び降りようとしたりする輩がいるが、それはナンセンスだ。そいつらは結局生に未練がありまくりだ。情けない。本当に死にたいのなら、人目に付かないところでひとりでに死ねばいい。例えば、そうだな。この辺りには人の立ち入らないような山ばかりだ。そんなところで白骨になるのも一興だろう。」

「最低。」

 浜辺はごみを捨てるように言い放つ。その目には怒りの炎が揺らめいていた。

「あんたは目の前に死にたがっている人がいてもそんなことを言うわけ?」

「当たり前だ。」

 生きていることに喜びを感じられない時点で人間は腐り果てている。そして、それは繁にも言えることだった。

「次は人間失格をやる。長い文章だから、それほど焦らなくてもいい。最悪一週間かけて読め。もし碌に授業ができないようなら内容を変えよう。」

 そう言って繁は秋の乾いた風のようにさらりと去っていった。


 繁はスーパーの惣菜をご飯のおかずにしながら、食べていた。今日はコロッケがあったので当りだと少し喜んでいた。滑らかで甘みのあるポテトの中に、深みのある肉片が入っていてなかなかに美味しい。

「人間失格、か。」

 繁はそう呟き、沈む。人間失格をやるつもりは始めはなかった。勢いで言ってしまった節があったのだ。しかし、それでもいいと繁は思った。自殺する人間がどうこう、と浜辺が言っている時、どうしても太宰治の人間失格が頭を過ったのだ。どうしても、浜辺には人間失格を読ませる必要があると感じた。

 繁にとって人間失格は毒であった。彼が高校の時初めて人間失格を読んだ。その時の衝撃たるや、どうあっても言い表せるものではなかった。赤裸々に語る自身の告白。主人公の名前は太宰本人ではないものの、その生々しさたるや、本人の言葉に違いない。そして、浸透圧のようにぐいぐいと心の中に染みついてくる何かに耐え切れず、繁は何度も読書を中断してしまった覚えがある。純粋過ぎる感情は読者を苦しませるのだと知った。

 これは、俺自身だ。

 そう思い、気が付けば人間失格を手に取っていた。未だかつて、ここまで現実から逃げた主人公を繁は知らなかった。どんな物語の主人公も最後には現実と戦う。しかし、人間失格はそうではない。逃げて逃げて、逃げまくっていた。その姿は滑稽で、しかし、あまり笑えない深刻さもあった。逃げているのは繁も同じだからである。繁は逃げていてもいつかは立ち向かわなければならないことを知っていた。そのための準備をしていると言えば聞こえがいい。だが、現実は主人公の葉蔵と一緒で、言い訳をしながら逃げているだけだった。そして、人間失格は逃げ続けてもいいんだ、と言ってくれている気がして、繁は安心した。学生の頃はむやみに現実にもまれてしまう。全ては上から飛来してくる脅威だった。親や教師からの課題に心は大人であっても大人ほど対抗する能力を持たない高校生はあまりにも無力だった。まだ、小学生の頃のように素直に言うことを聞いていればいい。だが、時に絶対に譲れないということもあり、しかし、その意地を通すことは決して敵わない。未だ、人間失格が読まれる理由と言うのはそこにあるのだと繁は思った。悲劇的な死がドラマチックで、それ故にその非業の死を遂げた作家の作品はむやみに評価されてしまうことがあるのを繁は知っている。しかし、そうでなくとも人間失格は恐るべき作品だっただろう。繁は人間失格を素晴らしい作品だとは思わない。恐ろしい作品だと思い、感じ、考え、再び向き合うことを恐れるようになった。きっと人類はこの作品を世に解き放ってはいけなかったのだと繁は当時思った。今となっては、太宰治が人間失格を世に解き放つつもりがあったのかは分からない。だが、繁が太宰治本人なら、絶対に世に解き放つことはなかったのだろう。あの作品には怨念にも近い、作者自身の分身が宿っている。その姿は醜くもどこか美しく、親しみがある。

 だから、毒にもなり、薬にもなるのだった。

 薬というのは毒にもなり得る。麻酔薬などは、昔は阿片を使用していた。阿片は強力な麻酔薬となる。しかし、アヘン戦争からわかるように、国を一つ滅ぼすほどの強力な毒だった。今も一部の麻酔薬には依存性があることが知られている。

 だから、人間失格の取り扱いには注意しなければならない。

 もしかしたら、取り返しのつかないことになるかもしれない。それでも、浜辺のためには、あの死にたがりのためには必要だと繁は思ったのだった。


 繁は起きる。結局、パソコンには全く向き合っていなかった。それは現実から逃げる行為を辞めたことになるかというと、そうではない。ただ、放課後の授業を現実逃避にしているだけであり、そのことを繁も自覚し始めていた。それが小説と同じくらい大切になり始めていることには繁は気づきもしなかった。

「はあ。」

 繁は人間失格を読んでいた。そして、葉蔵の秘密を知っているかもしれない少年の登場のところで、繁は頭を悩ませる。ここ最近、似たようなことがあったからである。自分と似ていて、まるで自分のことを分かっているかのようなことを言った少女。そして、揺す振られた繁の心。自分に心があるなど繁はおかしくて仕方がなかった。今まで現実への反発で生きてきているのだと思った。だが、揺す振られる心の中、繁は自分が反発していたのは自分自身だと知った。かと言って、繁は何も変わらない。でも、どこか変わったような気もする。

「ああ、くそっ。」

 繁はやりきれなくなり、いつもより早く家を出ようとした。そんな時、アラームが鳴る。繁はアラームを止め、部屋から出て行った。


「浜辺はどんな子なんですか?」

「あらまあ、青葉先生が教師みたいなことを。」

 確かに、自分が教師らしくないことを繁は自覚しているが、緑に言われるのは心外であった。

「さあ。私にはなんとも。先生の方が分かっているんじゃないですか?」

 そう言われても、あまり自分以外のことについて考えたことのない繁には理解しがたいことであった。ただ一つ感じ始めていたのが、彼女のあの気丈な態度と内心から齟齬が生じているということだった。だからと言ってどうでもないはずなのだが、繁は浜辺のことを思い出す度、胸がどこかおかしくなるような感覚を覚えていた。その正体について繁には分からない。いいや、よく、分かっていた。

「まあ、なんとなく情緒不安定なのかな、みたいには思うこともありますけど、あの年頃ならあんなものだと思いますよ。二年生だから、進路を決めないといけないみたいですし。」

 そう言われて繁は安心できない。緑は大切なことを軽視しているような気がしてならなかった。それは緑には分からないことで、繁にしか分からないことだと、繁は過信していた。

「そんなことより、今日、私も学食に行ってみようかな、なんて思ってるんですけど。」

 繁はそんなことより、と言った緑に反感を持つ。

「そうですか。」

 繁は緑の言葉を流して捨てた。


「はい。適当に自習をするように。実力テストなどもあるみたいだから、その勉強もしっかりしておけよ。」

 繁は形だけの言葉を告げる。

「すいません。評論文の解き方などを伝授していただけると嬉しいです。」

 そう言ったのは浜辺だった。

「面倒臭いな。」

 繁は思わず心からの言葉を発してしまう。教室がざわざわと揺れる。悪意のない、小さな笑い声たち。本人たちに悪意はなくとも、聞いているものがそこに悪意があると感じれば、それは悪意のある行為となってしまう。繁は別に気にしない。しかし、浜辺はどうであるのか、繁には定かでなかった。

 繁は大きく息を吐き、黒板に文字を書き始める。

「俺にはつまらないことこの上ないが、解き方くらいは伝授してやろう。まあ、一般的方法ではあるがな。その方法で解くか、独自の方法で解くかはお前たち次第だが、少なくとも、反復練習をしない限り身につかないだろう。」

 繁自身、現代文の問題を独自の解き方で解いていた。今にして思えば、その解き方は効率的ではなかったのかもしれないが、繁にはそのような解き方しかできなかったのだ。だからこそ、学生時代、現代文の授業は受けるだけ無駄だと思ったのだ。

「とにかく段落分けをすることだ。そして、その段落を要約しておく。別に文字に書きだす必要はない。例えば、ここはなんとなくこんな感じだな、と把握するだけでいい。重要だと思った個所に傍線を書くのもいいだろう。あと、評論で重要なのは問いかけと結論だ。その段落は重要。その他はその問いかけと結論を保管する段落に過ぎない。それ故に、問いかけと結論との間に多く、答えが眠っている。時折そうでないときもあるので注意が必要だ。だが、生まれてこの方何度もこのような問題をやっている通り、大抵は同じような問題だ。しっかりと読んでいれば、間違うこともあるまい。」

「でも、古文や漢文に時間を取られて、あまり時間を割けないのが現状だと思います。」

 浜辺は優等生面で繁に意見する。反発されないので繁は背中がむずがゆくなる。

「そういう時は勘でやるしかない。問題文や回答の選択肢を読めば何となく何が書いてあるのか読める。これはどうしようもない時の裏技なのでお薦めはしない。評論文の時はまだ精度がいいが、小説となると間違える可能性が高いので気を付けるように。」

「・・・ありがとうございました。」

 浜辺の態度は不服そうではないにも関わらず、繁には何故か不服そうに見えた。

「他に質問はないか?」

 途端、先ほどまで色めき合っていた雰囲気が一変する。誰も質問する者はいないようだった。まるで、浜辺に代弁させているようで繁は不快になるが、浜辺ほどこのクラスで真剣に授業に取り組んでいるものもいないだろう。

「成績評価については、平均点から算出する。よって、友人を騙し、平均点を下げると効果的でしょう。あと、授業中に質問したかも含まれる。出席は当然だな。」

 その後、繁に意見する者はなく、繁は黙って読書を始めた。


 繁は特に何も考えずに職員室に入って行った。職員室に入ってきた繁に緑は声をかける。

「さあ、青葉先生。学食に行きましょう。」

 心構えができていなかったので、繁は後悔した。それならば、直接食堂に行った方がよかったと繁は思ったのだった。

「本当に行くんですか?」

「ええ!」

 繁は嫌そうな顔をして言うが、緑は気が付かないらしく、キラキラした大きな瞳を輝かせている。思わず繁は目を背ける。繁は綺麗な女性が苦手だった。

 繁は無言で職員室を後にする。緑は嬉しそうに体を左右に揺らしながら、繁の後をついていった。


「ここが学食ですか!」

 緑は遊園地に来た子どものようにはしゃいだ笑顔で言った。それほど楽しいものではないのに、と繁は緑に呆れてしまう。繁は緑を置いて、先にカウンターに向かう。

「待ってくださいよ。」

 緑は急いで繁の後を追う。

「ポテトソバ、一つ。」

「ああ、私もお願いします。」

「ちょっと待ってな。」

 予想外の客が来て、用意していた数が足りないのだろう。しばらくして、トレイに乗せたソバが二つ置かれる。

「なんだかすごいですね。」

 緑はトレイの上に置かれたソバを苦笑いしながら見つめる。普通のソバの上にファストフード店で出されるようなフライドポテトが置かれていたのだ。繁は表情一つ変えずにトレイを持って席へと進んでいくので、緑はすごいな、と変に感心してしまった。

「あれ?すっちー?」

 緑は食堂にいる頭巾姿の生徒を見て、言った。そこには緑のよく知る生徒がいたのだ。

「先生。すっちーのいる席に行きましょうよ。」

 緑が無理矢理繁のスーツの袖を引っ張るので、繁は汁がこぼれる、と怒りながら、仕方なく、緑の誘導する方へと向かう。

『お二人とは珍しいですね。』

 すずめはスケッチブックを掲げた。

「どう?お似合い?」

 すずめは首を傾げる。

『そう・・・ですね。』

「なに?その間は!」

 繁は喧しいな、と思っていた。食事はいつも静かで、家族との食事でも会話などなかったのだ。静かな食卓にテレビの音が喧しく騒ぎ立てていたことを繁は思いだす。

「やかましい。麺が伸びるぞ。」

 何故自分が教師を指導しなければならないのか、と繁は呆れる。緑とともにいると、いつもの数倍は呆れてしまう。

「そうですね。しかし、ポテトソバとは・・・」

 緑は目の前の奇妙な未確認物質を眺める。それは今まで緑が見てきた中でも最大級の謎であった。

「駅の立ち食いソバではメジャーなメニューだ。」

「そうなんですか!?」

 何事もなく食べている二人を見て、田舎者なのは自分だけか、と落ち込む。この町が地元である緑は、駅の中の立ち食いソバなど食べたことがなかった。町の中で有人駅など一つか二つしかないのだ。

 緑はわりばしを汁の中に突っ込む。ポテトは汁に浸した方がいいのかどうか迷い、どうせなら、と箸でフライドポテトを沈める。そして、明るい色のだしを絡めたポテトとソバを一緒に抓み、口の中に入れる。

 初め、口の中に広がったのは、かつおだしの風味だった。しっかりととられたダシの香りが口の中一杯に広がり、緑の食欲をそそる。そして、次に訪れるのは、ポテトの大地の香りと汁のしっかりとした味であった。まろやかな舌触りとアクセントの効いただしが緑に驚きを与える。そして、極めつけはソバの香り。思わず風になびく信州のそば畑が緑の頭に思い浮かぶ。口の中に、今までのだしの香りとポテトの香りを包み込むようなソバの香りが見事なハーモニーを響かせていた。緑は春の心地良い風に吹かれたような気持ちのよさに包まれる。

「不味いな。」

「もう、雰囲気ぶち壊さないでくださいよ。」

 ポテトソバはマズかった。緑はソバのかき揚げもあまり好きではない。あっさりとしたそばにあれほどこってりとしたフライを入れる意味が分からなかった。

『僕は好きですよ。』

「そう・・・なんだ・・・」

 緑は苦笑いをしながら乾いた笑みを繰り出す。食べられないほどマズいものではないが、美味しいと表現するにはちと酷過ぎた。

「そう言えばさ、みんな人間失格読んできた?」

 緑は主にすずめに言ったようだった。繁は飯を食っている時ははしたないから話すのを止めればいいのに、と思った。

『僕は昔読んでましたので。昨日からもう一回読み始めてます。』

「いやあ、実は私、今回が初めてで。実はあまり読めてないのよ。あんまり小説を読まないから。」

『どんな本を読んでるんですか?』

「うーん、難しいかな?別に特定の作家さんが好きとかじゃないからなー。そうだなあ、話題になってる携帯小説とか、ドラマ化した小説なら読むかな。」

 その言葉を聞き、繁は死ねばいいのに、と思った。こんなヤツが国語の教師であることを繁は認めたくなかった。

「ちっ。」

「え?先生、さっき舌打ちしなかった?」

 繁は意識せずに舌打ちをしてしまっていたが、緑に対する殺意を弁解するつもりはない。なので、何も知らぬ風を装う。

「すっちーはどんなの読んでるの?」

 すずめは迷いなく筆を進める。

『好きな作家は貴志祐介です。ラノベも結構読みます。』

「へえ。どんな作家さんなんだろ。ラノベってあのアニメとかになってるやつ?」

『そうですね。オタクっぽいと思って嫌厭する人もいますが、意外と奥が深かったりします。ちょっと一シリーズが長いので、お財布に苦しいんですけど。』

「へえ。ラノベはどんなの?」

『色々ありますね。『キノの旅』とか、『ブギーポップは笑わない』とか。『涼宮ハルヒの憂鬱』なども時折読みますね。』

「ああ、結構知ってる。ハルヒは大学の頃、ちょっと読んだな。あれってアニメで見るより文体が真面目で、ちょっと驚いちゃったな。」

『『キノの旅』は中学校の図書館にあって、それでラノベに興味を持ったんです。結構ひと昔前のラノベばかりが好きですけど。』

「セカイ系ばかりだな。」

 食事を終えた繁は口を挟む。

「そう言えば、昔セカイ系とかって言葉があったけど、あれってなんなんですか?」

 緑は繁の方を見る。やはり、緑のクルリとした目は苦手だった。

「ラノベのワンジャンルだろう。文学的な言葉で表すなら、SFや伝奇が近いだろう。つまりは世界が崩壊したり世界を救ったりするほど大袈裟な小説という意味だが。」

「でも、映画ってそんな感じですよね。」

「アメリカ限定だろう。」

 意外と文学トークが弾むものだと繁は驚いていた。文学について話しあう友もいなかった繁にとっては少し奇妙な感覚ではあった。

「そう言えば、先生は何を読んでるんですか?いつも難しそうな本ばかりですけど。」

「色々だ。あまり最近の小説は読まない。少し旬を過ぎた辺りが丁度いい。」

「なんですか、その乙みたいな言い方は。へえ。でも少し意外です。最近の小説とかは読まないんですか?」

「現代で言うなら読むが、十年前くらいのものが多いな。ここ最近の小説は質が悪いように感じる。物語性やギミックには富んでいるようには思えるが、独自の文体や、奇妙なファンタジー性、そして、メッセージ性がないような気がして気に入らない。」

「うう。難しいですね。どんなジャンルですか?恋愛小説は読みます?」

「お前は俺をバカにしているのか。」

 緑は繁が本気で怒りだしているように見えて、謝りかけた。だが、繁はさっさと会話を続けた。

「SFが現代では多いな。ミステリーも読んだりするが、推理小説はあまり好きではない。あとは文芸作品か。これは現代では読むに値する作家が少ない。きっと素晴らしい作品を残している作家はいるのだろうが、本屋に並ぶ作品でそのようなものはあまり多くない。やはり、明治から昭和にかけての作品が優秀だろう。」

「はあ、そうなんですか。」

 緑は呆気にとられる。少しでも趣味が合えばいいと思ったのだが、何一つ合いそうにない。

「先生はもっと恋愛小説を読んだ方がいいですよ。」

「余計なお世話だ。」

 繁はトレイを返しに席を立つ。

「ああ。待ってくださいよ。」

 しゃべるのに夢中になっていて、緑のソバは伸びきっていた。汁の上のポテトはぐしゃぐしゃになり、跡形もない。

 緑が必死でソバを食べている間に繁は食堂から去っていってしまっていた。

『先生も大変ですね。』

 すずめは緑に文字を見せる。

「本当にね。ああ、もう。本気で天然にぶちんなんだもん。ああ!」

 緑は汁を飲み干す。かつおだしの香りがきつく、むせてしまいそうだった。舌には魚粉のざらざらした舌触りが残った。


午後からの二時間の授業が終わり、繁は一息つく。まだベテランの教師より授業数は少ないものの、体力的につらいところもある。若者の方が体力が有り余っているというのは老人の身勝手な想像である。老人の方が体の効率の良い使い方を知っていて、効率が良い。そして、知識があり、あまり考えることをしなくてもよい。よく文学作品で老人から学ぶことが多いのはそのためである。

「とりあえず、休息だろう。」

 繁は回転いすに重い腰を下ろす。

「青葉先生、いいですか?」

 緑の声ではない。では、誰か、と繁はだらしのない恰好で声の主の方を見る。

「ええっと・・・」

「柴崎です。」

「ああ。テバサキ先生。」

 テバサキは繁たちよりほんの少し年上の教師だった。三十になってなお、結婚できていない。

「柴崎です。あと、結婚できないんじゃなくて、しないんです。」

「いや、そんなこと言ってませんが。」

「絶対に思ったでしょう!私の薬指に指輪がないなって。」

「めんどくさい。さっさと要件を話せ。」

「はい。」

 柴崎は繁の気迫に圧されて返事をしてしまう。これではどちらが先輩であるのか分からない、と柴崎は悲しくなった。

「前の時間に橋本先生とお話してて、青葉先生が黒木城と仲が良いと伺ったものですから。」

 橋本と黒木城とは誰だったか、としばらく考え、それが緑と浜辺のことを指しているのだと繁は分かった。

「別に仲が良いわけではありませんが。」

 二人の関係は誰がどう見ても仲が良いようには見えない。

「それでも、まだ話すだけましだと思います。私はあの子の担任をしていて、それでもあの子が言葉を発しているところを未だ見たことがありません。」

「人違いではないですか?」

 繁は自分の抱いていた浜辺のイメージと大分に違うことを思い、柴崎に問いかけた。

「私も先日青葉先生と黒木城が言い争っているのを聞いて、耳と目を疑いました。あの死にたがりがあんなに元気だなんて。」

「さきほどなんとおっしゃいました?」

 繁は聞き間違いだと思いたかった。しかし、それが聞き間違いでないこともよく分かっていた。そのことは繁がこの世の誰よりも知っている。

「その・・・先日なのですが、進路について考えてもらおうと進路希望調査を出したんです。それほどしっかりとしたものではなくて、今のうちに少しくらいは考えておいて欲しい程度だったんですが、その進路希望調査の紙に黒木城が『死にたい』と書いたんです。で、一体何があったのか、いじめられているのかって問い直しても何も返ってこなくって。それで困ってしまっているんです。何か心当たりなどありますか。」

「いいえ。全く。」

 これは繁が即答できる問いだった。明確な死にたがりの兆候を繁は浜辺から見出すことができなかった。

「そうですか。実は親御さんから、何度も自殺未遂をしたことがあると伺っていまして。複雑な家庭環境というのも聞いています。」

「はあ。」

 繁は柴崎が何故そのような話を繁にするのか分からなかった。浜辺が繁に話しかけることがあるからといって、それは浜辺が繁に心を開いているというわけではなく、そもそもに繁が浜辺に心を開くつもりなどないのだった。

「なので、どうか浜辺と話して見てくれませんか。あの子が自殺などすると、私は・・・」

「遠くに左遷されるかもしれない、ですか?」

 繁は嘲笑うように言った。繁に嗜虐心などない。嘲るように見えているのは怒りを嘲りに転換しているからであった。

「何を言っているんですか!私はただ、あの子が心配なだけです!」

 そんなはずのないことを繁は知っていた。人は自分が一番大事なのだ。だから、自分を守った上で人の心配をする。他人のことを思いやれるのは、それだけの余裕を持った、鼻持ちならない人間なのである。

「そうですか。でもどうして俺が?」

「私ではダメだからです。あの子は何も話してくれなくて。」

「そうですか。あなたは本当にしかるべき努力をしましたか?」

「何を偉そうに。あなたは何か努力したんですか。何かして黒木城と仲良くなったんですか。」

「いいえ、違いますが。」

「見知った生徒が自殺未遂を仄めかしているんですよ。心配じゃないんですか。」

「いいえ。全く。」

「あなたはそれでも教師なのですか。」

「違います。ろくでなしです。」

 きつい言葉に対し動じない繁を見て、藤崎は自分のしていることがだんだんとバカらしくなっていた。この男は相手が熱くなればなるほど冷静になっていく気がして、自分のやっていることが無意味だと思ったのだ。

「人でなし。」

「少しそれはイラッとしますね。ろくでなしである自信はありますが、人格否定をされると誰でもイラッとします。」

「もう、いいです。」

 藤崎は繁との不毛な争いを打ち切るようにさっと背を向け繁の席から離れていった。


 死にたがりの心境など分からないと繁は切り捨てたかったが、そうはいかない。それは繁の中のどうしようもない一部なのだ。繁は物心ついたときから、残酷な世界に飽き飽きしていた。童話のようにみんな仲良くの世界など存在しなかった。人の残虐な心は子どもの時から芽生えている。それをまだ子どもなのだから、無邪気なのだから、無垢なのだから、と切り捨てるには残酷すぎるものだった。人は子どもであれど、他人を虐げることに快楽を得る。常に虐げられる者の側だった繁は子どもながら、何度も死にたいと思った。しかし世界は死ぬことさえ許しはしない。だから繁は物語の世界に閉じこもることにした。

「さて。特別授業を始める。みんなはどこまで読んできた?」

「全部読んだわ。」

 浜辺は鼻を鳴らして言った。今の繁には教室の中で浜辺だけが切り取られたような感覚に取り憑かれていた。

「私も読みました。」

 イミナが小さく言う。繁はイミナが常に声が小さい女の子であることが分かり始めていた。もしくは、周りがうるさいだけなのかもしれない。だが、今後、声が小さいことはあまりメリットにはならない。繁は少しイミナのことが心配になった。

「すずめはかつて読んだことがあると聞いている。橋本は、とにかく黙っていろ。」

「ええー。ひどいなあ。」

 緑はぶーたれるが、いつものことなので、気にも留めない。

「では授業を始める。今回は文学に多少興味のある者なら一度は読むであろう作品、人間失格だ。解説まで読んだかは定かでないが、どんな解説者もこの小説についてはこう説明するだろう。これは太宰治の遺書であると。」

「でも、実際には違うんですよね。」

 緑はいいところを見せようとフォローに入る。

「その通り。」

 繁に褒められ、緑は気をよくする。繁には緑を褒めようとする意思はない。

「太宰は何度も自殺を繰り返したが、そのどれもが未遂に終わっているのを知っているな。」

 繁は浜辺を見る。浜辺は繁から目を逸らした。

「これは最後の入水自殺にて太宰が命を絶った後に発表された作品である。この作品がきちんと終わっていることから、太宰が本気で自殺しようと考えていたことが裏付けられる、と言われてもいるが。」

 浜辺はずっと俯いたままだった。繁はその様子が気にかかって仕方がない。

「坂口安吾はそれを否定している。一部の文学者も、本気で死ぬ気はなかったとの意見が多い。」

『どうして、太宰さんは死のうと思ったんですか?』

 すずめは首を傾げながら、スケッチブックを掲げる。

「どうしてだと思う?」

 その問いに誰も答えはしなかった。繁は浜辺に答えを期待したが、それを言わせるのは酷なことだと思った。なので、自ら声に出す。

「それは、自殺未遂をすることで、同情して欲しかったからだ。それは人間失格を読んで分かっただろう。誰も、太宰の心に寄り添おうとしてはいなかったのだ。」

「でも、それは小説ではないですか?実際には太宰さんには多くのお友達がいたみたいですけど。」

 イミナが言った。

「だがな、その友達が太宰の心に寄り添えたのかというと、それは定かでない。現に太宰は何度も自殺未遂を行い、その経験をもとにこの小説を書いている。それどころか、太宰は自身の内面に触れられることを必死で恐れていた。」

 複雑な内面を少しに時間で語ることは不可能だと繁は思った。それ故に、この小説は長いのだ。太宰の人生そのものを圧縮したのだから。

「あんたは、何がしたいの?」

 音もなく浜辺は立ち上がる。その姿は、怪談に出てくる女性の怨霊の様だった。

「あんたは私を責めてるの?こんなところで、自殺、自殺、自殺、自殺って。なんなの?自殺することがそんなに悪い事なの?どいつもこいつも私が悪いように言って!」

「待て。」

 浜辺はカバンを持ちだし、そのまま廊下へと飛び出ていった。

「先生。」

 飛び出そうとした繁をイミナが呼び止める。

「今は一人にしてあげてください。きっと、大丈夫だから。」

 繁は心の底から不安に襲われる。自殺でもされれば、自分はどうすればいいのか。

 しかし、自分が出ていったところで、浜辺はまた拒絶するだけだということもよく分かっていた。

「すまない。今日は解散だ。それと、イミナ。ちょっと話をしたい。」

「いいですよ。帰りながら少し話しましょう。」

 イミナは不安げな表情のまま、繁に笑顔を見せる。この中で一番浜辺が心配なのはイミナなのだと思い、繁は自分の愚かさを知った。


 見たくもない現実のように、橙色の空を夕闇が染めていく。教室の廊下はだんだんと足元が見えにくくなっていた。

「すいません。車いすを押してもらって。」

「いや、別に。」

 繁はゆっくりと車いすを押していた。そのことにイミナは不満のある様子ではない。

「いつもは浜辺ちゃんが押してくれてて。先生と会った日はちょっと浜辺ちゃん、用事があって、先に帰っててって。」

「そうか。」

 繁は話を切り出せずにいた。イミナの前だと繁は急に臆病になる。それはイミナに自分を知られるのが怖いからであろう。そう、繁は結論付けた。

「先生は悪くないと思います。」

 イミナは話し出した。

「私では、浜辺ちゃんと向き合うことはできませんでした。浜辺ちゃんがその、死にたがりだっていうことを知ってて、それをどうにかしたいと思ってたんですけど、どうにもできなくって。浜辺ちゃんが先生の悪口を言っていた時、とっても珍しいなって思ったんです。浜辺ちゃん、あんまり人のことを悪く言わないから。だから、特別授業をする部活をしたいって、そう浜辺ちゃんにお願いしたんです。浜辺ちゃんは嫌な顔してましたけど。でも、浜辺ちゃんを変えるには、何かきっかけが必要だって思ったから。

「でも、もし浜辺が、自殺でもしたら・・・」

「大丈夫です。きっと・・・多分ですけど。」

「どうしてそう思うんだ?」

 繁はイミナほど浜辺と接した時間は短い。だから分からないところも多い。しかし、イミナは楽観視し過ぎているような気がした。

「それは、先生の方が分かっているような気がします。だって、先生と浜辺ちゃんは一緒だから。とっても似ている風に思うから。」

 あっという間に下駄箱についていた。繁は記憶していたイミナの下駄箱から靴を取り出す。

「俺には分からんが、イミナがそう言うなら、そうなのだろう。」

 繁はイミナの靴を脱がせる。靴を脱がせるとき、イミナはこそばゆそうに体を揺らした。

「先生はどうして人は死にたがるんだと思いますか?」

 繁はイミナに靴を履かせながら答える。

「それは、誰も自分を認めてくれないのが辛いからだろう。」

「そうですね。だから、先生は浜辺ちゃんのことを分かってあげられるんだと思います。」

 なんだか、自分の心が見透かされているような感覚を覚えて、繁の心臓の鼓動は早くなる。だが、それが不快ではない、と繁はだんだん思い始めていた。

「行くぞ。」

「はい。ありがとうございます。」

 繁はイミナも少しずつ変わり始めているような気がしていた。初めて会った時のイミナはまるで何もかもに怯えている小鳥の雛のような印象を受けた。しかし、今のイミナは繁になにもかもを委ねているような、そんな気がした。まだ、自分から助けを求めることはできないかもしれないが、他人の力を借りることに抵抗感がなくなっていることはいいことだ、と繁は思った。

 子どもはいつの間にか大人になっていく。

 そんな当たり前のことが繁には悲しく思えた。自分がまだできていないことを先に、歳が十も離れた子どもがしているということが悲しい。

 しばらく車いすを押して行くと、先日見た、イミナの母親が現れる。

「あら、先生。」

 イミナの母親は取り繕った笑みを見せる。

「すいません。今日もまた。」

「いえ。構いませんが。」

「ほら、イミナも先生にお礼を言いなさい。」

「ありがとうございました。」

 繁はちら、とイミナの表情を窺う。その表情は、先ほどまでと違い、浮かない表情だった。

「お気をつけて。」

 繁は車いすの運転をイミナの母親に交代した後、去っていく。その際、自分の背中が気になり、何とも言えない気分になった。


「先生、お疲れ様です。」

 職員室に戻った繁を緑が迎えた。

「どうでした?」

「いや、どうも何もないが。」

 繁の中の不安は消えることはない。そんな繁を見越して、緑は言葉を紡ぐ。

「今日、飲みに行きませんか?」

「俺、下戸なんで。」

 むしろ、繁は平均より飲める方であった。だが、かつて羽目を外し過ぎて高瀬川を汚してしまった経験がある。

「それでも構いませんよ。こういう時はパッと悲しいことを忘れた方がいいんです。それに、私もちょっと黒木城さんが気がかりで。なので、一緒に話しあえたらな、と。」

「本音は?」

「酔った勢いで先生の中に上がり込もうと。」

「馬鹿垂れ。」

 だが、繁は断ることはしなかった。この胸の奥の悩みをずっと抱えていくのは辛かった。

「じゃあ、先生の車で行きましょう。」

「上がり込む気、満々だな。車で来ているんだろう?なら、一回自宅まで帰ってから、俺が家に迎えに行く。それでいいだろ。」

「ええっ。それだと計画が・・・」

「いいな?そうしろ。」

 繁は荷物をまとめて、職員室を出た。


「カップル席だなんて。やっぱり私たち、カップルに見えるんでしょうか。」

「居酒屋にそんな席はない。」

 繁と緑は居酒屋のカウンター席へと案内される。

「よーし、一杯食べちゃうぞ。先生、いっぱい食べる女の子、嫌いですか?」

「勝手に食って、勝手に豚になれ。」

「ひどいですよね。私はこれでも乙女なんですよ。」

「それは結構。」

 繁も空腹ではあるので、腹の足しになるような品物を注文する。客は少ないので、品物は早く来た。

「はあ。仕事終わりの一杯は最高ですよね。」

 緑はビールをぐいぐい飲みながらそう言った。繁は烏龍茶にちょいと口をつける。

「それで、浜辺のことなんですが。」

「黒木城さんですね。」

 どうも緑は酒に弱いらしく、目がとろりと下がっていた。

「先生はどのくらい黒木城さんについて知ってます?」

「全く知りません。」

 繁が知っているのは、繁と浜辺の仲が良いということだけだった。それ以上のことを繁はしらない。

「そうですよね。先生はあまり他の先生とお話しませんし。黒木城さんは大分前から職員室で話題になっていたんですよ。なかなかの問題児だって。」

「自殺のことですか。」

 どろりとした血が自分の視界を覆うような、不安と不快感と恐怖をないまぜにした何かが繁を襲う。

「それもありますけど、黒木城さんのお父さんについてご存じですか?」

「いいえ。」

 緑が知っているということは、職員室のほとんどの教師が浜辺について知っているのではないか、と繁は思った。他人と関わろうとしなかったことを、少し後悔し始めていた。

「ほんの少し前、有名になった作家さんだったんですけど。」

 その言葉を聞いた瞬間、繁の脳内は刺激される。そう。繁はその作家を知っていた。

「まさか、黒木城実篤ですか!?」

「ええ。ご存じでしたか。」

 黒木城という珍しい苗字が覚えられなかった理由を繁は知った。

「彼女の父親が自殺しているっていうのも知ってますね。」

「ええ。」

 黒木城実篤はある問題作を引き連れて突如として文壇デビューした人物だった。しかし、その問題作以降、作品はなく、次の作品を出す前に自殺した。

「実篤は実の娘とタブーを犯すという作品を書いていた記憶があります。」

 その小説の生々しさ、残酷さから、繁はその小説と黒木城という名前を記憶から消したのであった。一行一行、読むたびに心臓を抉られるような不快感。それ故に、繁は黒木城という名前を認識したくなくなった。

「ええ。だから、小説みたいなことが実際にあったんじゃないかって噂になってたんです。だから自殺をするんじゃないかって。」

「どうしてもう少し早く言ってくれなかった。」

「知ってると思ってたんです。だって、随分前から言われてたことだったから。」

 でも、だからと言って、繁にはどうすることもできない。その情報をもし事前に知っていたら、繁はイミナの願う通りに浜辺を刺激することができなかっただろう。

「俺は、やはり間違っていたと思いますか?」

 繁は緑を見つめながら言う。緑は頭をゆらゆら揺らしていた。

「そんなことはないと思います。むしろ、誰も触れないような、こういうの、なんていうんですっけ?穴のむしろ?みたいな感じでみんな接してて。だから、居心地が悪かったんじゃないかなって、私はそう思います。それに、私が何を言ったって、無駄だったでしょうし。黒木城さんは先生だからあれほど感情をあらわにできたんだと思います。」

「どうして俺が・・・」

 浜辺も繁が自分と似ていると思ったのだろうか。となると、浜辺は誰かに自分を知って欲しかったのだと推測できる。

「そんなの、簡単じゃないですか。それはですね――」

 途端、緑は糸が切れたように机に突っ伏した。緑からは穏やかな吐息が漏れている。

「まさか、寝た、のか?」

 咄嗟のことに驚き、すぐさま繁は呆れる。

 会計を済ませて、緑の肩を担ぎ、家まで送っていった。


 繁は家に帰り、文章をコピーする。過去の文学作品をコピーして配布するのはあまり好きではないが、著作権が切れているので、犯罪にはならない。

 今の繁には伝えたいことがあった。しかし、それは繁には言葉にできない。自分のことなど、詳細に書き表すのは困難だ。だから、文学作品を利用する。

 国語教師はその伝えたいことを伝えるために授業をするのだと繁は思った。


 繁は起きた。そして、パソコンに向かう。やはり、ワードは白紙だった。今はそれでもいい、と繁は思った。自分にはまだ作品を書き上げるには早すぎると思ったのだ。ようやく一歩踏み出した。そんなまだまだガキな自分に小説など書けるはずがない。伝えたいことはいっぱいある。繁は初めて誰かに大切なことを教えたいと思った。特別授業を始めて一歩踏み出せたと思ったのは、間違いだった。ただ、スタートラインに立っただけだった。そして、ようやく一歩、人生を歩みだせた気がする。

 今までの繁は小説を読むだけだった。そして、自分の人生はおざなりのままで、その数多の人生を小説で学んだ経験を生かせぬままだった。だが、今、ようやく、やっとのことで、現実から逃げ出すばかりだった殻に籠った自分を開放できる、そんな予感がしていた。


 代わり映えしない日常。日常など代わり映えするはずもない。だから、日常を生きる個人の意識のみが日常を変える。

「ううう。頭痛いです。」

 朝から緑が唸る。バカらしい光景だと繁は少し笑ってしまう。

「さっき、笑いました?」

 苦しそうな顔ながら、緑は嬉しそうに言う。

「気のせいだろう。」

 繁の顔は誰がどう見ても笑っていた。

「ふふ。そんな笑顔をみんなができるといいですね。」

 その時、繁は緑の笑顔に青空を見た。誰もがその青空の中、笑っている。それを繁は気持ち悪く思う。しかし、それほど嫌悪感を抱かない。繁は以前ほど笑顔について嫌悪感を抱かなくなっていた。

「なんですか?その顔。」

「お前の両親ほどおかしな顔をしてはいない。」

「え?もしかして、もう挨拶を!」

 昨日、緑を送っていった時、繁は緑の両親に出会った。このバカ娘が、と困ったような顔をしていた。それは怒っていると言う風ではなく、呆れて仕方がないといった顔だった。

「お前が考えているようなもんじゃないさ。」

 繁は回転いすに腰を落ち着ける。以前ほどに腰は重くない。

「先生、頑張ってくださいね。」

「その顔で言われてもな。」

 また、緑は笑顔になる。その時、繁は気が付いた。自分は笑顔が嫌いなのではない。取り繕ったような笑顔が嫌いなのだと。今の緑の笑顔は誰かの機嫌をとるようなものではない。その笑顔を繁はもっと前に見ているような気がした。初めて自分に向けられた、純粋な笑顔。繁の頭の中にはイミナの笑顔が浮かんでいた。

「俺なんかでは誰も救えはしない。勝手に救われるんだ。救われたところで、現実は変わらない。」

「先生はもっと自分に自信を持ってもいいと思いますよ。へっ。意外と女子人気も高いようですし?」

 いつものいじけたような顔になる。

「気のせいだ。」

 悪い気はしないが、それは緑の買いかぶり過ぎに繁は思えた。緑はおべっかを言う人間ではないことは繁には分かっていた。皮肉を言うところは自分と似ている。

「色々言いましたけど、先生はいつも通りでいいと思いますよ。ああ、そろそろ授業か。怠いなあ。」

「頑張って、仮面を被れよ。」

 繁は立ち上がり、緑の肩に手を置く。

「とうとう先生が私のものに・・・」

「言ってろ。」

 繁は肩をすくめながら、職員室を後にした。


「いつもと同じように自習だ。」

 繁は面倒くさそうに言った。浜辺は今日は何も言って気はしなかった。ずっと明後日の方向を向いていて、自習をする様子もない。繁も声をかけたりなどをすることはなかった。

 春の空は退屈の極みだった。繁にとってはどのような空も退屈に違いない。チカチカと時計の音だけは響く。この学校の生徒は基本的に私語などはしない。それだけ真面目なのだと繁は思った。繁が学生の頃通っていた学校もそんな感じであった。無意味に繰り返す膨大な時間。それがどれほど大切なものだったのかを繁は知らなかった。そして、繁にとって、その日々は大切なものでもなかった。今さらになって、繁は少し後悔し始めていた。

 俺もほんの少し一歩を踏み出せば・・・

 だが、それはそれで面倒なのだと繁は思った。クラスに溶け込めば、会話をしなければならない。繁の趣味が誰かと合致する訳がない。本を読む習慣がどうの、と教師が言うが、その教師が学生の頃、本を読んでいたかというと、それは定かではない。繁にとって読書はよい装置だった。一人本を読んでいるだけで、誰とも関わらずに済む。それは学生の頃の繁が望んでいたことだった。しかし、今になって思えば、後悔が残る。自らの人生を顧みても、味気ない、つまらないものでしかない。それは白紙の小説と同じだった。白紙の小説と同じだから、簡単に捨てることができる。自らの人生を絶つことができる。

「先生。」

 繁は期待して、声のする方を向く。だが、それは浜辺ではなかった。

「なんだ?」

「ここのところがよく分からなくて。」

 繁はつまらなさそうに生徒に教えてやる。それはいつも以上につまらない仕事だった。どうして自分はこんなにつまらなく思っているのだろう。確かに、現実はつまらないが、それはいつも以上につまらない日常と化してしまっていた。

「今日の授業は終わりだ。」

 チャイムが鳴り、繁は教室を後にする。繁は浜辺が声をかけるのではないか、と思ったが、そのようなことはなかった。それはひどくつまらないことだった。

 結局俺は一歩踏み出すことができていない。

 自分は変わることはできなかったのだと、繁は自分自身を皮肉り、笑った。


「どうしたんですか?そんなに落ち込んで。」

「そんな姿で言われても。」

 緑は頭を抱えている。頭痛がするのだろう。

「いやあ、羽目を外しずぎちゃったみたいでえ。」

「コップ一杯も飲んでなかったよな。」

 緑の能天気な姿を見ると、繁は少し落ち着いてきた。役立たずも時には役に立つのだと繁は妙に感心してしまう。

「お昼、どうしましょう。」

「休んどけ。」

 傍から見ると高熱でうなされているように見えるので、教師たちは大丈夫かという顔で見ている。

「なんなら、保健室に連れて行こうか?」

「嫌ですよ。あの先生、絶対にドSですし。」

 教師だからうんぬんというかと思えば、大したことのない理由なので、その内回復するだろうと繁は思った。

「さっき、黒木城さんの授業だったんでしょう?どうですか?」

「まあ、少しも目を合わせませんでしたね。」

「生きててよかったじゃないですか。」

 確かにそうである。しかし、いつ何が起こるか分からない繁は気が気でない。

「どうして浜辺は死にたがるんでしょう?」

 繁は死にたがりの心境がよく分かる。とはいえ、具体的な心情までは把握できないのだった。

「それは本人に聞くことです。」

きっぱりとした口調で緑は言った。

「そうですね・・・」

とはいえ、浜辺が簡単に話すとは思えなかった。それに、繁はそういうことを深く聞くべきでないと思っていた。それは自己保身のためであった。死のうと思っている人間の闇を人一人が抱えるのは重い事だった。

「先生風に言うなら、なんでも分かってやれるのは大間違いってことです。それは傲慢ですよ。自分自身の問題は自分自身で解決しないと、きっと同じことを繰り返します。私たちにできるのは手助けだけです。いや、親でも友達でもない私たちは、結局何もしてあげられなくて、ただ、見守ることしかできないんです。」

「でも。」

「そう。でも、ですよね。」

 緑の言うことは正しいと繁は思った。そして、正しすぎて気に食わない。しかし、繁は緑に反感を持つことはなかった。緑はただ、世界の摂理のような正しすぎることを述べたまでである。だから、繁が反感を持つべきものは、もっと大きな、それこそ一個人では太刀打ちできない類のものなのであった。

「誰だって、頑張ってるんですもん。だから、頑張れって、苦しいけれども言ってあげなくちゃ。ああ、こんなの、私のキャラじゃないですね。」

 そう言って緑は黙りこくった。その後、寝息が聞こえたので、眠ったのだと繁は思った。


 食堂はいつもの静寂さを取り戻していた。食堂にいるのはすずめだけである。じめっとした、キノコでも生えてきそうな食堂を繁は懐かしく思う。

「コロッケ丼一つ。」

 おばちゃんはひょいとどんぶりを出す。

「今日はあの女は来てないんだね。」

 おばちゃんが会話をするところを見て、繁は驚く。人なのだから会話するのは当たり前である。しかし、いつも話さない人に話しかけられると繁は困ってしまった。

「ええ。商売上がったりですか?」

「そうじゃないけど。」

 おばちゃんは繁の耳に口を近づけ、耳打ちをする。

「あの頭巾の子にも、あの女にも気を付けた方がいい。」

 どうしてかと問う前に、おばちゃんはそそくさと厨房へ帰っていってしまった。おかしな人だ、と繁は首を傾げながら、いつもの定位置へと向かう。

『今日は橋本先生はいらっしゃらないんですね。』

「ああ。」

 繁とすずめは普通に会話をしていた。しかし、スケッチブックで言葉を表し、その言葉に対して普通に返している姿は、はた目から見ると滑稽であった。

『黒木城さん、大丈夫でしょうか。』

 すずめも心配していたんだな、と繁は申し訳なく思う。黒い頭巾に隠されて、どの様な人間か繁には分からなかったが、存外いいやつなのかもしれない、と繁は感じた。

「きちんと五体満足で登校してきていた。」

『なら、安心です。』

 だが、安心するにはまだ、早すぎるのだ。

 繁は眉を顰める。

「なあ、すずめ。もし浜辺が自殺しようとしていたら、お前ならどうする。」

 すずめは迷いなく文字を書いていく。

『止めません。僕はそれほど黒木城さんと親しくはありませんので。それに、人には死ぬ権利もあると思います。』

 辛らつな言葉だった。しかし、それはかつての繁の考えそのものである。

『でも、太宰治のように簡単に死ねない人は、わざと自殺未遂をしているんじゃないと思います。』

 すずめは一生懸命紙をめくり、文字を書いていく。

『死にたくないけれど、死ななければならなかったんだと僕は思います。生きていたいけれど、生きているのが辛いということもあると思うので。』

 すずめの言葉は終わりであった。

 繁はコロッケ丼に手をつける。ホカホカのコロッケと、あつあつのご飯との二重奏。甘みのあるポテトを白ご飯が引き立てる。

「史上最大級のまずさだな。」

 風味を味わうのが辛くなり、繁は口の中のものを一気に飲み込む。

『そうですか?僕は好きですけど。』

「定番になったな。」

 繁はコロッケ丼を掻き込む。しっかりと噛みしめ、間食した。

「甘すぎだろ。」

 おばちゃんに聞こえているだろうが繁は気にしない。最近はむしろ繁がまずいと言うのが楽しみでメニューを考えているのではないかとさえ繁は考え始めていた。


 七限目の授業が終わった時だった。

「先生!」

 繁の教室に突如として柴崎が飛び込んできた。

「先生、早く、早く来てください。」

「どうして。」

 面倒くさそうに言う繁に柴崎は唖然としてしまう。

「その、あの、えっと、ここではちょっと・・・」

 ひどく焦っていた柴崎は急に冷静になってしまった。それはそれでいい事なのだが、なんだか腑に落ちない気分であった。

 頭を掻き、面倒くさそうにしている繁に柴崎は言った。

「黒木城が屋上に出てきて、それで、飛び降りそうで!」

「だから?」

 落ち着きを払っている繁に柴崎は怒鳴る。

「何を無関係みたいに言っているんですか!人が一人死にそうなんですよ!?」

「だから、なんなんです。俺には関係ないでしょう。」

「てめえ!この人でなしが!」

「うるさい!」

 普段大きな声を出さない繁が突如として大きな声を出すので、柴崎は驚いてしまう。心臓が止まるかと柴崎は思った。繁の太い声は、廊下に響き渡った。

「お前は何かしようとしたか?浜辺のことを少しでも分かってやろうとしたのか?」

「私だって、あの子を理解しようと頑張ったんです。でも、あの子は心を開かなかった。もう、私には頼れるのは先生しかいないんです。」

 柴崎は涙を流し始める。だが、その程度で繁の心は動くはずもない。

「俺はろくでなしだが、人でなしではない。人でなしはお前らだ。お前らは初めから浜辺が死にたがりだと決めつけていた。だがな、初めから死にたがりの人間なんて、この世からとっくに消えているんだよ。死にたくないけど、死ななければならないようにしているのはお前らだ。」

 繁は胸糞悪くなり、立ち去ろうとした。

「どこに行くんですか!」

 その問いに繁は答えようとしなかった。


 最も空に近い場所。それはどこかと言われると、高いところ、と普通の人は答えるだろう。だが、それは違う。最も空に近いのは死に場所。あの日の風景。

「全く、騒がせやがって。」

 屋上には心地の良い風が吹いていた。屋上には図太い教師たちの怒号が重なっていた。

「来るな。」

 浜辺はフェンスのない屋上で、一歩後ろに下がる。数歩後ろは虚空であった。繁はあしのふるえを抑えることができなかった。

「怖いよな、ほんとに。」

 繁は震える足で浜辺の下に歩み寄っていく。

「おい、待て。」

 教師たちが繁に続いて進み寄ろうとする。その教師たちを腕を伸ばして止めるものがあった。緑である。

「どうしてあんたが震えてるのよ。」

 浜辺は泣き出しそうだった。

「そりゃあ、高いところが怖いからだよ。」

 繁は浜辺の傍にたどり着き、おずおずと下を覗き込む。繁は立っていられずに、その場に座りこくってしまう。

「意外ね。あんたが怖がるなんて。」

「当たり前だろう。死ぬんだから。」

 その言葉を聞いた瞬間、浜辺の中の堰が崩壊し始めた。

「私は死ぬのなんか怖くないわよ。」

「お前のことなんか知らねえよ。」

 その愛想のない言葉が浜辺には嬉しかった。自分のことが分かると言われるよりもそっちの言葉の方が、自分のことを分かってくれているように浜辺は思った。

「ねえ、あんた、私のこと、全部知ってるんでしょう?」

 浜辺も立っていられなくなり、繁と同じく屋上に腰を下ろす。

「知っているわけないだろう。そんなもの。」

「嘘ばっかり。」

「お前の親のことやら、自殺のことなんざ分かる訳ないだろう。俺はお前ではないんだ。どうして自殺するのか、なんてのも興味はない。」

「このろくでなしが。」

 その言葉を聞いて、繁は少し笑う。

「何が面白いって言うのよ。」

「いやあ、な。お前の担任に人でなしって言われたが、お前はろくでなしとしか言わなかったと思ってな。ああ、お前がいろいろと愚痴りたいなら、話半分に聞いてやる。俺はお前に興味はないから、聞いたら三分後には忘れてるだろうな。」

「私は、自分が要らない子だと思ってたのよ。」

 浜辺は繁に話しかけるつもりはなかった。ただ、空に向かって話しかけているだけだった。

「でも、足が不自由な子に出会って、それで私にも生きる意味が見つかったのよ。」

 だが、そんな浜辺の意味もすぐに消えてしまうことになる。

 ある日、浜辺はイミナと男性教師が仲良くしているところを見てしまったのだった。そして、その教師の授業を受けたいとイミナが言ったのだった。だから、今度は本気で死ぬことに決めた、はずだった。

「それが裏切られて辛かった。もう、私は要らないって思ったの。でも、すぐには死ねなかった。どうしてでしょうね。」

 その答えは、屋上に繁が現れた瞬間、気が付いていた。でも、言葉にするのは癪だった。自分が負ける気がしたのだ。

「さあな。俺は死にたがりだが、死ぬのは怖いさ。最近は余計に怖くなった。その気持ちはお前にも分かるだろう?世の中、死にたがりなんていっぱいいるからな。俺だって、こんな現実とおさらばしたいさ。現実と戦うなんて嫌だからな。ほんと、大人ってのはよく生きてやがる。」

「あんたも大人でしょう。」

「俺は俺だ。大人なんかじゃないさ。」

 繁は立ち上がる。風が吹いて、投げ出されそうに思ったので、ひどく及び腰だった。

「これから授業を始める。『よだかの星』だ。早く来いよ。」

 繁はこんな空の青い日に死ぬもんじゃない、と思った。もっと空が曇っていて、じめじめとした日がいい。ただ、そう思っただけだった。


「あんた、バカにしてるの?」

 先生から厳重注意を受け、やっとのことで教室にたどり着いた浜辺は繁の渡した短編を読んだ。宮沢賢治の『よだかの星』であった。

「別にふざけてなどいないが。」

「自殺しようとした私に対する当てつけにしか思えないんだけど。」

「ちっ。ばれたか。」

「さっきはっきりバレたかって言ったわよね。」

 浜辺は他のメンバーに同意を求めるが、みんな、くすくすと笑うだけだった。

「さあ、浜辺。お前はこの小説を読んでどう思った。」

「どう思ったって・・・」

 浜辺は今だと思った。自分が一歩踏み出すのは。それは生と死の境である虚空に一歩踏み出すのではない。空を仰ぎ見ながら、大多数の人間とともに地面を歩いていくのだ。

「まるで私みたい、かしら。私はよだかのように何かになりたいってわけじゃない。でも、何にもなれないって否定ばかりされてきたわ。」

「そして、空まで飛んでいったよだかは最後に星になる。つまりは自殺だな。」

「でも、やっぱりナンセンスだって、今は思う。死んで星になったって、その内忘れられてしまうもの。だったら、生きながらえて、今までさんざんバカにしてきた奴らをわっと驚かせてやりたいって、私はずっとそう思ってたんだわ。」

「いや、お前のことなど知らない。」

「このろくでなし。」

 繁は浜辺を突き放すが、浜辺は繁に食いついて行く。何故だか、この形が一番いいような気が、浜辺も繁もしていた。

「童話というのは常に残酷だ。救いがない。宮沢賢治が体の弱い青年だったのは有名なことだ。そんな中でも賢治は少しの希望を見出したわけだ。それが当時の精一杯だろう。だが、お前たちはまだ若い。今からなら、何にでもなれるさ。死ぬのなら、曇り空の下で死ね。独りでに、知られず死ね。別に死ぬことは悪いと思わない。そいつは負け犬の道を選んだだけだ。」

 もし、今、死にたいような気分になっている人がいるとしよう。

 そんな人にできるメッセージは一つ。

 誰かを悲しませるような死に方は絶対にするな。そんな死に方をされたら、残された人間が、家族が、友人が、生きながら死ぬことになる。

 君はその責任を取れるか?



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