1/高瀬舟
1/高瀬舟
青葉繁は自らの欲望のままを机の上のキーボードに叩きつける。同じく机の上にあるモニターには彼の思いのままをぶちまけた文字の羅列が映し出される。
ガタガタガタガタガタガタ。
繁の筆圧は強い。それに比例する形で、彼のタイピングする音はかなり大きくなる。キーボードが壊れんばかりであった。握力や腕の力が強いわけでもない彼は不器用なだけであった。叩きつけるという動作において、最強か最弱化しか有しない。少し、人生を生きにくい人種でもあった。彼が必死で黒板に文字を書いていると、チョークは彼を嘲笑うかのように折れる。だが、彼はそのことを気にはしない。自分以外のことに繁は興味がないのだった。
「く、ふう。」
彼の体力切れと同時に、かけていたアラームが鳴りだす。
「ちっ。」
繁はあからさまに舌打ちをする。彼が彼でいられる時間を遮るものはなんであれ、彼の敵なのであった。
「なんて退屈な毎日だ。」
彼は用意していたカバンを持ち、スーツのジャケットを腕にかけ、テキパキと部屋を出て行った。
「ああ。ああ。」
最初の嘆きは驚きだった。そして、次のああ。は嘆息であった。繁はアパートの前のゴミ捨て場に燃えるゴミが置いてあるのを見て、今日が燃えるゴミの日だと気づいたのだ。
「めんどくさい。」
今から部屋に戻るのは億劫だ。だから、また今度出そう。
そうやって、三つも四つもまとめて出すことになるのだが、繁は致し方ない事だ、とあきらめて職場に向かう。
現代の技術を集結して作り上げた牙城。学校。繁は自分がこの何年もの間飽き飽きした牙城に戻ってくることになるとは思いもよらなかった。
どこの都道府県で試験を受けるかにも依るが、教師は母校に帰ってくることが多かった。少なくとも地元の市町村を好んで赴任する教師は多い。だが、繁はその例から外れていた。むしろ、自分がどの学校に通っていたのかさえ覚えていなかったりする。記憶喪失であるとかそういうことではなく、ただ、興味がないというだけだった。
「おはようございます、青葉先生。」
教師が繁に挨拶をする。
「おはようございます。」
相手が壮年の男性教師なので、繁は相手が教師であることが分かった。なので、挨拶を返した。
「今年もクラスを任されなくて、残念でしたね。でも、来年こそは任せられますよ。」
「いえいえ。」
繁は的を得ない回答をする。繁は担任になどなるつもりはなかった。だが、教師を続けていれば、いずれかはクラスの担任になることだろう。今年度は免れたが、来年はどうなるのか分からない。その事実は繁を億劫にするばかりであった。
「では、私はお先に。」
教師はそそくさと繁の先を行く。繁に興味を無くしたのであろう。
「ったく。」
めんどくさいったりゃありゃしない。
俺が声をかけてやったのになんて奴だ。
繁は自分の考えと、教師の考えを代弁する。教師はその様なことを思ってはいないかもしれないが、あながち間違いではあるまい、と繁は理解していた。
いつも自分は好かれない――
「おはようございます。青葉先生。」
職員室に入るなり、女性教師が繁に声をかける、繁と同じく若い教師だった。
めんどくさいのによく飽きずに挨拶などできるな。
「おはようございます。」
「青葉先生は一限目からですよね。頑張ってください。」
「そちらこそ・・・ええっと。」
「橋本緑です。」
「橋本先生。」
そう言って繁は自身のデスクに座る。繁は名前を覚えていなくて申し訳ないとかそういう考えを抱いていなかった。ただ、覚える価値もなく、その労力も鬱陶しいだけだった。
「私は今日から担任で。初めてなので、緊張してて。」
「そうですね。頑張ってください。」
繁にはどうして橋本が話しかけてくるのかが分からなかった。別段、仲が良いわけではない。
「はい。頑張ります。」
繁はカバンから文庫本を取り出し、読み始めた。題名は三島由紀夫の『禁色』。
「では、授業を始める。」
繁の見るのは俯瞰風景。ただ、自分でない誰かの見ている世界を、ただ眺めているだけだった。規則正しく並んだ、同じような恰好の生徒達。その姿は進学校だけあって、黒一色だった。繁は黒板に大きく文字を書く。
「教科書の該当ページを読み、ドリルをすること。」
生徒達は言われている意味が分からず、穴が空くほどに繁を見つめていた。
「すいません。先生。」
一人の女子生徒が手を挙げて、声を出す。
「ええっと・・・」
繁は出席簿から、生徒の名前を探す。
「コッキシロ?」
「くろきじょうです。黒木城浜辺。」
「なんだ。浜辺。」
「いきなり呼び捨てとはどういう了見なのですか!」
浜辺は立ち上がり、繁に指摘する。生徒たちは浜辺の方を驚いてみている。
「そっちの方が言いやすいだろ。コクボクジョウ。」
「バカにしてませんか?」
繁は別段バカにしているわけではなかった。ただ、どうしても黒木城という苗字を覚えるということが生理的にできないようだった。
「どうでもよかろう。ええっと、コッキシロ。なにか?」
「もう、浜辺でいいです。」
繁は生徒に怒った態度を取られるので少し困惑していた。だが、対処に困ることはない。普段通り振舞うだけだ。どうせ、この世界はつまらなくて、大したことなどないのだから。
「真面目に授業をやってくれませんか?私たちは来年受験を控えているんです。」
「だから、俺はお前たちが受かるようにしているんだが。」
「はい?」
教えるのは面倒だが、結局毎年質問が来ることなので、繁はわざわざ答える。
「この授業はなんの授業だ。浜辺。」
繁は虚ろな目で浜辺を見つめている。決して浜辺から目線を逸らさない。その様子を見て、浜辺が先に視線を逸らした。
「現代文ですけど。」
「そうだな。」
それだけで回答としては十分だと繁自身は思っているが、昨今の高校生は頭が悪い。
「では、浜辺。古文と現代文はどうして別れているんだ。」
「それは、教える内容が違うからではないですか?」
浜辺は顔をしかめながら答える。それは自分自身でもあっているのか分からないということを示している。
「そうだな。古文と現代文は全く違う。古文は難しい。そうだろ。」
うんうん、と数人の男子が頭を縦に振る。
「だが、現代文は簡単だ。だから、教える必要はない。以上だ。」
浜辺は繁の回答を待っているようだが、繁はそれ以降口を開こうとしない。なので、
「ええっと、すいません。もう少し詳しくお願いしますか?」
浜辺の目は血走っていた。だが、繁はお構いなしである。
「現代文は教科書読んで、ドリルをやってればできるだろ。わざわざ、授業をする必要もない。」
なるほど、とつぶやいた男子を浜辺は物凄い形相で睨む。その男子は世にも恐ろしいものを見た、というような表情でその場に固まった。浜辺はその男子からすぐに目を離し、繁をきつく睨む。
「それでは授業の意味もないではないですか。」
「ああ。だから、勝手に自習でもしておけと言っている。」
「あなたは教師でしょう。」
「そうだ。」
「では、授業を教えるのが仕事ではないですか?」
「違うな。」
繁は浜辺の問いにはっきりと答えた。
「お前らは勝手に勉強して、勝手に賢くなるだけだ。俺が教えたところで賢くならないだろ。それなら、勝手に好きな勉強をしていた方が効率がいい。」
「あなたはそれでも教師なんですか。」
繁は間違ったことを言っているとは思わなかった。むしろ、自分は当然のこと、物体は上から下に落ちるというくらい当たり前のことを言っているという実感しかなかった。
「俺が気に食わないのなら、あの、なんだっけ・・・パーターアー?とやらに言いつければいい。もしくは他の先生とかな。」
こんなところで議論していても始まらないし、無意味すぎると繁は考えた。それに、今の言葉を言えば、浜辺も納得すると思ったのだ。しかし、浜辺は少しも納得などしはしない。
「あなたはどうして教師になったんですか!このろくでなしが!」
繁はここに来て、本気で困り始めた。収まると思っていた浜辺の怒りが余計にエスカレートしているからである。
「これだから、人間は、嫌いだ。」
「はい?」
浜辺は繁の言った言葉が聞き取れなかったので聞き返す。
「いや、なんでもない。」
繁はそうとだけ言った。
「他の生徒が勉強するのに邪魔だろう。浜辺も早く席について自習しろ。」
「私はきちんと授業をやれって言っているの。」
口調が荒くなったのを見て、繁は浜辺が我を見失っている状況だと察する。なので、浜辺の望む通りにして、事を穏便に済まそうと思った。
「はあ。現代文には小説と評論文がある。小説はやっても無意味だな。」
「どうしてですか。」
一々絡んでくるやつだ、と繁は流石にイライラしてきた。
「碌な小説がないからだ。恐らく、ここのクラスの生徒は大学の入試問題などを読んだだろう。実際解いた者も多いはずだ。こんな、ちんけな教科書に載っている小説を読んだって、ためにならないことくらいは実感しているだろう。」
「それをためにするのが――」
「教科書に載っている小説など、クソだ。こんなのを長々とやるくらいなら、過去問をやっているほうが有意義だ。お前たちだって、時間を無駄にはしたくないだろう。」
「でも――」
「芥川の羅生門をやるくらいなら、鼻をやれ。カッパや地獄変をやれ。蜘蛛の糸をやれ。だが、杜子春はくそだ。太宰や、江戸川乱歩はどうした?どうして彼らは教科書に載らない。森鷗外よりは夏目漱石や尾崎紅葉だろう。教科書が何を考えているのかわからん。」
浜辺はすらすらと自分の席に座る。放心状態だった。なぜ、そのような状態になるのか、繁にはますます理解できない。
「ふう。今年の子はどうでした?」
緑は繁に問いかける。繁は自席に座り、落ち着いてから口に出す。
「少し、反抗的な子はいましたね。」
「そうですか。」
あまり喜ばしい事ではないのに、嬉しそうに繁を見つめる緑に繁の心は静かな波風を立てる。それは小さな苛立ちだった。
「どんな子ですか?反抗的って、ガムとか噛んでたり?うちなんて、去年、ガム職人になるからガムを噛んでるんだってバカがいましてね。」
「女性がそのような汚らしい言葉を発するのはどうかと思いますが。」
「そうですよね。ほほほ。」
緑は気まずそうに染められた爪の生えた手で口を覆う。白い肌にくっきりと浮き出た青い静脈がグロテスクで、繁は思わず吐き気を催してしまった。
「どうしましたか?」
「いいえ。」
「でも、最近の子で教師に歯向かってくるのは珍しいですよね。驚きました。」
「ええ。」
「どのような子で。」
やけにがっつくな。この女。そんなに子どもが好きなのだろうか。鬱陶しい。
「女子でしたよ。なんだか俺の授業が気に食わないみたいで。」
「女の子・・・ですか。難しい年頃ですものね。」
「そうなんですか。」
繁は彼女らの年齢の時に女子に興味はなく、そして、今も興味はない。人間自体に興味を持っていない。
小説に比べたら、現実など味気ない。
繁は兄妹を持っていなかったので、余計に浜辺の考えていることが理解できなかった。
「ええ。この年頃だとにきびとか生理とかでイライラしっぱなしですし、それでなくとも反抗期で。逆に今の子がどれだけ大人しいのかって。」
繁のころも周りは大人しかったので今のこの大人しさと繁の頃の大人しさが同じかどうかも分かりはしなかった。
「でも、女の子とは。どんな子です。」
「どんな子・・・」
そう言われても、繁は思い出せなかった。顔は愚か、名前さえも思い出せない。
「クロボクシロです。」
「ほくろ?」
緑は首を傾げながら繁に聞いた。
「いえ。普通の子でしたよ。」
「普通の子が教師に突っかかるのでしょうか。でも、青葉先生がおっしゃるのでしたら、そうなのでしょう。」
繁の印象に残る人間などいなかった。小説の人物なら、名前は愚か、特徴や性格、セリフまで言うことができる。だが、現実の人間はどうしても影が薄くて仕方がない。
繁は会話に興味を無くしたので、文庫本を取り出し、読書を開始する。それを見た壮年の男性教師はこれ見よがしに繁に指摘する。
「青葉先生。あまり忙しそうではないですね。会議の資料の割り当てがあったんじゃないですか。」
「そうですね。」
繁は何事もなくパソコンを起動させる。壮年の教師は嫌味を言ったつもりが、特に反応がないので困惑というよりも恐怖に似た気味の悪さを覚えた。
「な、なにか手伝えることがあれば私に言ってくださいね。」
そう言って壮年の男性教師は繁の元を去っていく。
「私も何かお手伝いしましょうか?」
向かいの席の緑がこっそりと繁に言う。
「別にいいです。」
あまり難しいことでもない。時間をかければ何とか出来る類のものだった。なので、誰の助けも求めず、繁はキーボードを打ち始めた。
「お昼はどうします?」
「学食で。」
「え?」
緑は驚いたように繁に言った。だが、繁にとってはいつものことなので、別になんとも思いはしない。
「教師が学食ってのは――」
「何か文句でも?」
「いえ。でも、あまり教師と生徒が仲良くするのも――」
「別に誰も話しかけて来たりはしませんが。」
「そうなんですね。」
緑は肩を落としたが、繁は気が付かない。繁はおおよそ自分自身にしか興味がないのだ。
「橋本先生。」
ふと、思ったことを繁は口に出す。
「あなたはどうして教師になったんですか?」
「ええ?そういうのは、お酒を飲みながら――」
繁は席を立つ。早くしないと学食が混むと思ったのだ。
「えっ。どこに?」
「ですから、学食です。」
「えっ。私の話は――」
「後で。」
「いや、先生も私も授業が――そういうこと。」
緑は妖し気に微笑む。何のことか分からない繁は考えるのも辞めて、職員室を出た。
学食は混むのかと思いきや、そうではない。豚小屋のような、さびれたプレハブの学食は近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
「いつもの。」
「あいよ。」
不愛想な繁に不愛想な学食のおばちゃんが不愛想に答える。繁相手であるから不愛想と言うわけではなく、おばちゃんは人類みな平等に不愛想なのであった。繁はおばちゃんに渡された食事を机に持っていく。寂れて、ところどころはがれてささくれが目立つ机。それはまるで世紀末のバーの如き容貌であり、生徒はあまり食堂に近寄らない。だが、いつもそんな誰も寄り付かない場所を好むように奇妙な生徒が食事を採っている。
学ランを着ているのは男子生徒の特長である。だが、その生徒は顔を黒い布で覆っている。
繁はいつもいるその生徒を気にすることなく食事をする。人ごみのない静かな空間は彼にとって平穏以外の何者もない。ゆっくりと考え事のできる空間は繁にとってこの上なく快適であった。ゆっくりと自作の小説の流れを考えることができる。
奇妙な男子生徒はお盆をおばちゃんに返しに行く。二人は無言だった。男子生徒は音もなくゆっくりと食堂から出て行く。その後のことを繁は知る由もない。
午後の三時間は怒涛であった。初めの頃は繁も連続の授業には手を焼いていた。しかし、それはもう何年も前のことである。一時間ごとに学年が変わり、授業が変わるが、それを器用に切り替え、こなす。あの授業態度であるので、それほど重労働でもないのだが。
繁の現代文の授業を碌に受ける生徒は少ない。浜辺がやけに熱心だったので、繁自身、未だ戸惑っているばかりだった。
「質問があれば答える。テスト範囲は黒板に毎度書くページ数だ。テスト前にぱらぱらとめくっていろ。」
高校ですべきことは受験に受かる授業をすることである。評価など多少甘くつけても問題はない。むしろ、繁の現代文を落とす方が稀であった。このクラスの生徒は半分以上が居眠りをしていた。繁はそれを咎めることはしない。むしろ、暇ができて楽だとしか思えなかった。
繁は文庫本を取り出す。禁色を読みだした。
怒りに燃える浜辺の老人。ギリシャ彫刻からそのまま飛び出したような精悍でたくましい体つきの青年。三人の魅力的な女性と青年とのドラマ。しかし、青年は仕方がないほどに男色なのだ。
「先生。」
繁は声をかけた生徒を睨む。目つきが悪いことは自覚しているがそのことで繁は不利益を被ったことはない。
「なんだ?」
「ここのところが分からなくて。」
繁は家庭教師のように生徒のもとに向かう。生徒は自分で買って来たドリルを見せて繁に言う。
「何処が分からない。」
「この傍線部の表現がどういう感情を表しているのかというところで、答えはこうなっていますが、選択肢を見ると、こっちの答えとあまり変わらなく見えて。」
「なるほど。きわどい問題だ。」
繁は問題をさらりと見るだけで、解くことができた。
「まず、君の着眼点は正しい。国語は選択肢を見れば古文でもそうだが、何を言っているのか漠然と分かる。そして、この問題は選択肢の違いをよく観察するんだ。ほら。これはひっかけに近いが、強調の副詞が微妙に違う。この不正解の選択肢の方が甘い副詞だ。そして、題文の前に戻ってみよう。ほら、ここだ。ここと傍線部とはほとんど同じ意味だ。となると――」
「なるほど。」
「こうやって、現代文はある程度解き方が決まっている。この解答例は解説がないのか。不親切だな。」
「先生。ありがとうございます。」
「いや、いい。」
繁は人が何故意味のない言葉を発するのかが分からなかった。ありがとうという感謝の言葉もその一つである。それは言うだけ無駄なものだった。繁の仕事は生徒を教育することであり、その見返りとして給料をもらっている。その給料の一部は生徒の両親から払われている。だから、わざわざ礼を言う必要もない。繁はやって当然のことをしているだけなのだから。
放課後に繁は特にすることはない。緑などは部活動の顧問を任せられているので忙しいそうだが、繁はそれさえない。それは繁が学校で特別扱いされているからである。繁は超一流大学を卒業後、この高校に赴任した。それ故に頭はよく、また、それ故に疎外に似た特別扱いを受けることとなった。そのことを繁は特に気にはしていない。面倒なことを引き受けなくて済むので、むしろ好都合だと思っていた。
多くの生徒はもう校舎には残っていない。垂れ下がってくるような、もったいぶったオレンジ色の陽光が、均一的な校舎の窓からレトロチックに廊下を照らす。
「逢魔が時。」
一瞬の時間と時間が重なる瞬間。決してつながることのない糸が触れ合うひと時――
所詮はありふれた、つまらない日常のひと時に過ぎない。
繁は感傷に浸っている自分を嘲り、前へと進む。前へと進むたび、春特有の人肌の温度の風が繁の頬を撫でる。それはくすぐったく、また、繁の心にほんの少しの隙を、人恋しさを思い出させた。
そんな折である。
きこーき、きこーき。
普段聞くことのない、独特の機械音が人のいない静けさによく響いた。
ほんのわずかな一瞬。
繁は向かって来る車いすを見た。その王の玉座にさえ見える台車の上に、主張のない、小さな体がちょこんと鎮座している。車いすが人間か。どちらがその少女を構成する要素なのか繁には判別がつかなかった。
重ならないはずの時と時が相見える。
「さようなら。先生。」
少女は何事も無いように繁に挨拶をして、車いすを巧みに操作して進んでいく。その姿は橙色の陽光の演出もあって、ひどく滑稽で、奇妙なものに思えた。
「おい。」
どうして繁は少女を呼び止めたのか分からない。呼び止めたかったからに決まっている。それは繁の行動原理である。したいからするはずで、したくないことまでする必要はない。そんな考え方をしているので、繁は自分自身について深く考えようとはしなかった。どうして少女を呼び止めようとしたのかという問いの答えは今の繁には出せないだろう。
「は、はい!」
少女は小さな体を跳ねさせて、何事か、と伺うように怯えた目で繁を見る。自信に愛想がないのは分かっていたが、ここまで露骨に怯えられると、繁は自身を顧みて反省せざるを得なかった。
「どうやって帰るんだ?」
「へ?」
繁は少女を呼び止めたところで、何を話そうとしていたのかをすっかり忘れてしまっていた。
だが、実は、何を話そうと考えて話しかけたわけでもない。
「その体では大変だろう。この学校はスロープも碌についていない。」
古い校舎であるので、身体障碍者用の設備はなかった。エレベータはもちろんのこと、車いす用の折り畳みのエスカレータや段差を上る際のスロープも碌にない。
「あ、はい。車いすで出入りできる玄関がここにしかないので、スロープを使って行こうかと。」
「一人でか?」
生徒用の昇降口へと続く道は少し急な坂になっていた。その坂を車いすで上るのは大変なことだと繁は用意に想像がつく。
「はい。今までそうしてきたので。」
その言葉には苦しみは微塵もなく、太陽は東から西に上るというような当然のことを言っているようだった。
何故だが、繁の胸は苦しくなった。
そして、質は違うものの、浜辺と接した時に感じたのと同じくらいの苛立ちを繁は感じていた。気が付くと、車いすの持ち手を握り、少女の車いすを押していた。なにも乗っていないように軽いので、繁は拍子抜けしてしまった。
「あ、は、わあ!」
突然のことに驚き、少女は混乱していた。
「すいません。こういう時は一言かけていただけるとありがたくって・・・」
「すまない。」
繁は小さな山を乗り越えた。
「ここまでで大丈夫ですので・・・」
繁は少女の言葉を聞かず、そのままスロープまで車いすを走らせる。
「あの、先生、ですよね。」
「下駄箱はどこだ?」
「あ、そこで、です。それでですね・・・」
繁は少女の話を聞かずに、少女の指さした下駄箱を開ける。
「これか?」
「はい。」
車いすであることを配慮してなのか、それとも偶然なのか、少女が座ったままでも上靴を取り出せる位置に下駄箱はあった。繁は少女の上靴を取り出し、少女の正面に座る。
「あ、あの・・・」
少女は急いで自らのスカートを押さえた。顔を赤くしている。トマトのようにここまで顔が赤くなる人間を繁は初めて見た。
「ああ。そのまま押さえていろ。」
繁はそう言うと、少女の足首を持つ。その足首は中身が入っていないように軽く、細かった。繁は浜辺に打ち上げられた流木を思い出した。
「え?ええ!?」
少女は何が起こっているのか理解できず、ただ、声を上げ、悶えるばかりであった。
「あまり動くな。」
繁は少女の細い足から上靴を脱がせる。靴下の肌触りが気持ちよく、繁は思わずずっと触っていたいというような気持になった。
「はうぅ!」
少女はくすぐったかったのだろう。おかしな声を上げて、足をばたばたさせる。
「動くな。あまり動くと中が見えるぞ。」
「意地悪です。」
繁は少女の言葉など気にせず、少女に靴を履かせる。
「迎えは来ているよな。」
「はい。」
繁は車いすを押して、玄関から出る。
「その、ありがとうございました。」
先ほどまで差していた、幻想的な陽光は、太陽が山辺に差し掛かったことにより、すでに終わってしまっていた。残っているのは、ただの余韻であった。
「それが仕事だ。」
繁はそう勝手に結論付けた。そして、それが一番正しい理由なのだと決めつけた。繁にはそうだとしか考えられなかった。
「先生、お名前は?何の先生なんですか?」
「俺は――」
そんな時、竹を割るように唐突な声がして、その声は二人の時間を引き裂く。
「イミナ!」
そう言って駆け寄ってきたのは壮年の女性だった。顔に疲れがにじみ出ている、というのが繁が感じた女性に対する印象だった。
「先生ですか?すいません。ウチのイミナが。」
「いいえ。かまいません。」
繁にとっては迷惑でもなんでもなかった。繁は帰るつもりであり、また、帰るにしてもそれほど急いでいたというわけではない。
「ありがとうございます。ほら、イミナもきちんとお礼を言いなさい。」
「ありがとうございます。」
イミナと呼ばれた少女は少し不服そうに、暗い声で繁に言った。繁と目を合わせはしなかった。
「では。これで。」
イミナの母親らしき女性は繁から車いすの取っ手を奪うと、そのまま駐車してあった車に向かって行く。
「青葉繁と言います。」
「はあ。」
そう言われた母親は奇妙なものを見る目で繁を見た。イミナは首を車いすから出して、繁を見て、にこり、と笑った。
イミナが去った後、繁は一体何をしているのか、と、職員用の下駄箱から帰っていく。車の運転は好きではないが、田舎では必須である。事故を起こさぬように注意するのみであった。
景色が流れていく。その景色に何の意味があるのだろうか、と繁は思った。それは無意味で、繁に何かをもたらすことのないものである。であるにも関わらず、繁の中は、荒れていると表現してもいいような、複雑怪奇な心情に覆われていた。
あたかも自分が動じているような――
運転席から、下校している生徒が目に付く。その少女たちは何不自由なく歩道を歩いており、歩行者の邪魔になるだろうというくらいに歩道いっぱいに広がり、じゃれ合っていた。
それが青春というものであって、それは自分には程遠く、それを手に入れることはもう能わないことだ、と繁には分かっていた。それに、繁は青春というものに興味などないはずだった。だが、少女達の笑顔を、五体満足の体を見ていると、体の内側が彼を責め立てた。ふと油断すると、視界がさきほどの車いすの少女でいっぱいになる。
俺はあの少女に同情しているのか――
自分と同じく青春を謳歌できない少女を哀れんでいるのか、と繁は問う。だが、その問いに答えるものなどどこにもいない。
いまさらどうしろと言うのか。
彼の緻密で綿密な理性は、繁を自動車の運転に集中させた。
食事は近くのスーパーの惣菜で済ませる。独り暮らしでは、一々料理をしている暇もない。繁は食事に喜びを感じることはない。テレビの食レポを見ても、飲み込んでないのになんでうまさが分かるのかという感想しか抱けないし、不味いという味は分かるものの、美味しいという感情は今一分かりはしないのであった。
「不味い。」
惣菜の冷めたコロッケを口に運んで、繁は呟く。食べられない程度ではない。だが、美味しくはなかった。所詮は好みの問題であり、好き嫌いはよくない。なので繁は不味いコロッケを口に運ぶ。
「物を食わなければ死ぬのだろうが、腹が減って死ぬのは面倒臭い。第一、時間がかかり過ぎる。」
食事を終えて、繁は食器をキッチンに持っていく。そして、水に浸す。後で食器は洗うのだろう。
「さて。嫌いな現実とはおさらばだ。」
繁はデスクトップパソコンに向かう。そして、感情のまま、狂気の導くまま、キーボードを叩き続けた。
繁は起きてシャワーを浴びた後、適当に髪を乾かしながら、パソコンに向かい合う。
繁は小説を書いていた。現実に飽き飽きしていた彼は現実離れした物語を書くのが好きだった。
実験室のラベンダーの香り。謎の少年。そして、巻き起こるハプニング。
「どこの駆ける少女だか。」
繁の書く小説はいつもそのような感じであった。誰かの借り物。悪く言えばパクリ。そんな自分の想像力のなさが腹立たしく、情けなく、嫌悪感を抱いていた。しかし、彼のありようを彼自信の力では変えることができない。
「文学なんてパクリだ。日本の小説なんて、全部海外のパクリ、いや、インスピレーションなんだ。」
それが詭弁であることが分かっているので、より悔しい。
繁のタイピングが止まる。何も頭に入ってこない。
「一体何だってんだ。」
唯一の楽しみを邪魔されて、繁は苛立つ。だが、頭に何も浮かばないときは何も浮かばない。そのことを繁は分かっているので、モニターから目を離し、虚空を睨む。
流れてくる景色は昨日の黄昏時。車いすの少女。それは小説よりも劇的で繁は気に食わない。いや、その感情はそれよりも強力だった。自信の信念が揺す振られる感覚――
現実を否定する俺が、小説の方が素晴らしいと思う俺が、現実に心を揺さぶられるなんて。
「はあ。」
そんな時に、出勤のアラームが鳴る。繁はその不快な音に初めて感謝した。
繁は簡単に髪を整え、ジャケットを手に取り、部屋を後にする。
部屋に追い立てられているような気分がしたのは気のせいだと、繁はそう思いたかった。
食事は学校までにあるコンビニで適当にパンを買い、頬張る。そして、彼のつまらない日常の象徴へと足を踏み入れる。
「おはようございます。」
「おはよう。」
自分が生徒の時は先生に挨拶などしなかった。別に教師を嫌っているというわけではなかった。繁はただ単に教師という生き物に興味がわかないだけだった。それに、繁に挨拶をする生徒は全体の一割ほどだった。繁は自分が不愛想であるということを自覚しているので、顔を知らないとはいえ、あいさつをしてくる生徒は稀有に思えた。
「おはようございます。」
「おはよう。」
緑が生徒と挨拶をしていた。
「おはよう。」
「・・・おはようございます。」
緑は人当たりのいい性格なのだと繁は思わないこともないようなこともあるので、生徒からの人気も高いのだろう。自分から人見知りの生徒に声をかけている。張り付けたような笑顔は繁にとって不快だった。
「おはようございます、先生。」
繁は緑に見つかってしまう。
「おはようございます。ええっと・・・」
「橋本です。」
「橋本先生。」
一日で記憶喪失に陥るという特性を繁は持っているわけではない。ただ、名前を覚えるのが苦手なのだった。繁にとって名前などあまり意味をなさない。自転車なら自転車であるし、自動車なら自動車なのだ。中古車なら中古車で、新車なら、新車。ただ、車種を覚えることはない。車を見れば、色や形で自分のものだとある程度分かるし、同じ車なら、ナンバーを見れば分かる。だから、繁は緑をただの女性教師としてしか認識できなかった。顔で誰であるかは認識できるので名前を覚える必要などないのだった。
「おはよう。」
先ほど緑に声をかけられていた生徒が繁に挨拶をする。目つきの悪い女子生徒だった。
「おはよう。」
繁は何事もなく挨拶をする。傍から見れば不躾な態度なのだろうが、繁には興味がなく、むしろ、繁自身が挨拶をしない人間であったから、あいさつをするだけマシなのではないかと思うほどだった。
女生徒は繁と緑を一瞥した後、踵を返し、下駄箱に戻っていった。
「あの子・・・」
「ええ。俺が授業を担当している子です。名前は・・・」
案の定、繁は名前を覚えてはいなかった。
「そうなんですね。なんだか仲が良く見えましたが。」
「むしろ悪いです。」
それは明白であった。なにせ、その少女は昨日繁に食ってかかった少女であったからだ。
「もしかして、昨日の生徒ですか。」
「はい。」
としても、三日後には忘れてしまうだろう、と繁は思っていた。
四時間目の空き時間、繁は職員室に戻っていた。グラウンドからは体育の活気の良い声が聞こえている。主に教師がドスを効かせている声ではあるが。
「うーん、ああ。」
向かいの緑が唸っているので、繁は気が散って仕方がない。
「橋本先生は何年生の担当ですっけ?」
「え?ええ!?」
突然緑が喧しくなるので、繁は耳を覆いたくなる。自分と関係ない喧騒は無音より好ましいが、会話においての騒音は繁は嫌いであった。
「興味あります?」
「ないです。」
繁は文庫本に視線を落とす。
「それが、三年生と一年生の授業なんです。担任は一年生のクラスで。どっちも大変なクラスを。」
繁がいいと断ったにも関わらず、緑は話し出すので、繁は胸が逆立つ思いがした。
「車いすの生徒をご存じですか?」
「丹路さんですか?」
「イミナ・・・だったはず。」
「ええ。よく、ご存じ、で。」
緑の顔があからさまに変わったので、繁は眉を顰める。
「彼女になにか?」
いじめなどあるのではないかという事柄は簡単に予期でき、また、それを危惧している自分自身がいることに、繁は吐き気を催す。ならば聞かなければよいのだが。
「いえ。問題があるわけではありません。いじめとかはないはずです。でも、車いすということが負い目なのか、クラスメイトと距離を置いているみたいには見えます。ほら、あの子です。」
緑の視線の先には日光の指す、健康的な窓があった。そこから、体育の授業を受けている生徒たちが見える。そのグラウンドの木陰に一人、目立つ車いすの姿があった。
「当然見学か。」
イミナはさぼる風もなく、真剣に体育の授業を見学していた。体育の授業が大の嫌いだった繁には羨ましい限りだった。
「ほら、あんな風に。」
体育の授業が終わったのか、生徒たちはグラウンドから解散していく。数人の女子が気持ちが悪いほどの愛想のいい、布袋のような笑顔を張り付けて、イミナのいる木陰まで歩いていく。ニ三、会話をしていたようだが、イミナは少しぎこちない笑みを浮かべて、一人で車いすを使い、グラウンドから去っていく。
「彼女は誰かの助けを借りようとしなくって。だから、ちょっと孤立してしまうんじゃないかって。心配ですね。もうちょっと助けを借りてもいいと思うんですけど。」
「あんたには分からないだろう。」
緑の表情が凍り付く。そのまま音を立てて崩れ落ちそうな表情だった。そして、それは繁も同じだった。自分は何故、むきになっているのか。何故、ここまで、血管の脈動が耳に触るのか。
「あ、あの・・・」
「だが――」
繁にはよく分かっていた。それを認めたくない気持ちがあるにもかかわらず、そして、繁とイミナはどこかが決定的に違うにも関わらず、どうしようもなく似通っているという事実を認めないわけにはいかなかった。
「迷惑だ。周りに迷惑がかかる。」
今は窓の端に移るイミナは、スロープが上がりづらく難儀しているようだった。その姿を見かねた先ほどの女子達がどうしようか、と互いに顔を見合わせている。
「そんなひどいことを言わなくても。」
弱気な声で緑は否定する。だが、繁の心には緑の声は聞こえてきていなかった。
「事実ですよ。」
湧きおこってくる感情は怒り。イミナに対する怒りであった。それを宥めようと、繁は小説の世界に潜り込む。
これだから、現実は嫌いなんだ。
繁にとって、次のチャイムの音は長いひと時になった。
「食堂ですか?」
「ええ。」
なにか文句でもあるのかと思ったが、別に怒っているわけではなく、ほんの少しの疑問程度のさざ波であった。
「食堂ってどのくらいの人がいるんですか?」
「二人ですね。」
繁と名の知れぬ生徒だけである。
「そうなんですか。もう一人というのは?」
「生徒です。」
繁は食堂にいた生徒を思い浮かべ、どう説明すればいいのか分からず戸惑う。そして、説明などしなくてもいいことに気が付く。昨年も食堂にいたので、二年生であろうことだけが、あの不気味な男子生徒について分かることだった。
「そうなんですね。お弁当などは?」
「作る暇がないので。」
「でしたら!」
繁は職員室を後にした。
食堂には陽が当たらないだけで、決して不潔であるというわけではない。むしろ、手入れが行き届いている方である。だが、薄暗い雰囲気は、今にも蜘蛛が降りてきそうな印象さえ与え、評判は良くない。
「コロッケそば。」
「・・・」
食堂のおばちゃんは数秒でメニューを出す。繁の食べる食事はある程度決まっているので、事前に準備しているのであった。繁は代金を無言で置き、いつもの定位置につく。そこは、謎の生徒と向かい合う席だが、三つの机を挟んでいるので、相席ではない。
どうしてこんな位置に着くようになったのか、繁は意識していなかった。初めはどちらが先だったのか。先なのは繁に決まっている。だが、どちらが遠距離に向かい合う配置をとったのか、それだけは思い出せない。そして、思い出すほどのことでもなかった。
かつおだしの聞いた、濃い色の海の中、茶色く魅力的な島が浮かんでいる。その海の幸をふんだんに取り込んだ大地の恵み。それは地球という天体の神秘を凝縮した宝物に他ならない。
「不味い。」
不味いのは分かっているものの、そのほかに食べられるものはなかった。
少年が何を食べているのかは分からなかった。そう言えば、いつも自分より早く食堂に来ているのは奇妙に思える。箸を持つ手には仰々しい黒の手袋をしていて、どこか暗殺者めいていた。
きっとアニメや漫画の影響なのだろう。むしろ、教師が何故このような服装を認めているかの方が謎であった。だが、謎など明かされてしまえば大したものではなく、そのあっけなさもまた、繁が現実を憎む理由でもあった。そして、不思議なものを不思議なままでいたいという夢想家のような、おとぎ話を真実ではないと分かりながらも信じていたいような聡明な子どものような心を繁は持っているということの証明でもある。
繁は日によって濃かったり薄かったりするソバの汁を啜った。
今日は濃かった。
7限目の授業は浜辺のクラスだった。
「もしテストで高得点を取りたければ、読んで質問でもしておけ。範囲はこの小説と評論文。まあ、教科書の後ろの問いを読んでいれば何とかなるだろう。」
「この高瀬舟についてなんですが。」
「なんだ?」
また浜辺か、と繁は溜息を吐く。
「中学校でやってないのか?」
「やってません。そのくらい確認すればいいんではないですか?」
「そうだな。そのうちやろう。」
プチンという擬音が聞こえてきそうな表情だと繁は浜辺を観察して思った。
「この小説の主題は、自殺ほう助は罪かどうかということで間違いないですか?数年前、そのような事件で話題となりましたが。」
「砲台山か。伊勢の。」
とあるライトノベルの舞台となった町で高校生が自殺ほう助をしたという事件であった。その当時は少なからず騒がれたことを繁は記憶していた。
「残念ながら、そうではない、と言うことぐらい知っているだろう?ええっと・・・」
繁は名前を思い出すつもりもないので、浜辺が名前を告げるのを期待して口に出す。
「黒木城です。」
「言いにくいな。浜辺でいいだろう。」
「覚えているじゃないですか。」
「話が脱線しているが。」
浜辺は虚を突かれた表情をする。繁に上げ足を取られたのが癪に触り、そして、そのことになんの興味も示していない繁を見て、さらに癪に触る。
「で、どういうことですか?」
分かっていることを一々言うのは面倒臭いというのが繁の心情だった。読めばわかるというのに。
「何故、鴎外は江戸時代なんていう過去の話を題材にした?そして、どうして島流しになった?そして、どうして・・・」
その先は続けるべきではない、と繁は思った。それは、人間の奥深くにある抗えない衝動であり、それを惹起するのは、人としてしてはいけないことである。その言葉を言った瞬間、人は人としての機能を失う。
「所詮は美を誇張したかったに過ぎない。鴎外は武家の出身だからな。そこで、過去のあれとかあったんだろう。なんだ?栄華への郷愁とでも言うのか?船の上で語るというのはなんとも芸術美だろ?そういう芸術美は、作家の虚栄心を現しているんだ。」
浜辺はきょとんとしていた。繁の言っている言葉が全く分からないのだ。
この人は心にもない言葉を紡いでいる。そして、どこか――
「そもそも、だ。教科書に何故こんなに絵柄がついているのか。挿絵程度なら良いが、こんな短編に挿絵など入れてどうする。それなら、当時の高瀬川の絵でも写せばよいものを。」
「ありがとうございます。」
繁は助かった気分であった。繁は作品を批判したいわけではない。だが、肯定してしまえば作家としての生命が途絶えてしまう。作家などという大層なものではない。ただ物を書くというアイデンティティは過去の作家を冒涜することでしかプライドを維持できない。
「他には?」
質問しても碌な回答が返ってこないことを分かった生徒たちは繁を無視して、各々の勉強を始めていた。
「なお、先ほどの話はテストにでない。ありきたりな問題で、ありきたりな選択肢を用意する。小説の見方など、人それぞれであるから勝手に解釈すればいい。でも、それでは不正解なんだよ。この世界は――」
独自性など、個人の意見など求めてはいない。
ただ、求めているのは、普遍で、均一的で、無個性な、人形だけだからだ。
だらしない授業は終わりを告げる。繁以外の教師がこの授業を見てどう思っているかと言うと、いい思いを抱いているものは少ないだろう。だが、現代文の授業の意味のなさは折り紙付きであり、黙認しているというのが現状である。それに、繁は査察が入る時は老年の教師でさえ舌を巻くような授業を披露する。その授業は生徒に聞かせる為のものであり、査察官にアピールするものではないが、それでも査察官は心地の良い飲料水を飲み干したような満足感に満たされながら帰っていくのだった。
「はい、終わり。」
繁は大きな欠伸をした。現実は退屈過ぎて、何の動きもなく、彼に喜びを与えない。また、繁自身がそれを心から切望しているのでもあるが、繁自身はそれを心から否定する。
螺旋矛盾。
「先生。」
この教室で繁に話しかけるのはただの一人だった。
「なんだ。浜辺。」
「私、その呼び方、嫌いなんですが。」
「そうだな。安い三文小説の主人公のような名だ。何度でも呼んでやろう。」
繁は浜辺をバカにしているわけではなかった。ただ、自分よりも下に見ていて、興味がないだけの、いわば、行きたくもない動物園に行かされて、興味も無い動物にどうでもいいことを話しながら過ごす聡い子どもなのだ。
「で、何の用だ?」
浜辺が用もなく繁に話しかけるはずがなかった。繁に用もなく話すのは学校では緑しかいない。どうして女は意味もない会話に意味を見出そうとするのか、繁には分かりもしないことだった。
「部活動の顧問になってください。」
「だが、断る。」
繁は即答した。面倒ごとは誰だって避ける。
「逃げ出すのね?」
「その手には乗らない。」
繁は教室から出て行く。
「この意気地なし!」
「うるさい蠅だな。」
「どんな内容かも知りもしないで逃げ出すの?」
「ああ、逃げ出す。」
繁は廊下を歩き出した。その後ろを浜辺はしつこく歩いていく。
「話を聞きなさい。」
「ああ、聞いてる。というか、聞こえてくるな。聞いてないけど。」
どうして自分に固執するのか分からない。
「部室に来なさい。そうしたらわかるわ!」
「話さないのかよ。」
繁は職員室へ入って行った。
「青葉繁!出てきなさい、卑怯者!」
「そう言ってますが?」
緑は呆れた顔で浜辺を見ながら繁に告げ口する。
「今更ツンデレなんて古いんだよ。」
繁は昔の古臭い特撮の再放送を見るような目で、浜辺を傍観していた。
「あなたの秘密をばらすわよ!」
「え?どんな?」
「何も知りませんよ。」
食いついてきた緑に繁は無味乾燥な言葉で答える。他の教師が浜辺を諫めると思いきや、誰も注意をしない。内輪もめは当事者が解決しろということなのだろう。繁は仕方なく立ち上がり、職員室の前でわめいている浜辺の前に立ちふさがる。
「な、なによ。」
浜辺は警戒するような口調で繁を睨む。
繁は職員室の扉を勢いよく閉めた。
「あんた!」
繁はそのまま自分の机に戻る。お茶を一飲みして、傍観を決め込むことに決めた。
三十分ほどすると、浜辺は諦めたのか、声が聞こえなくなる。
「ばかぁ。」
泣き入る子供のような声が聞こえた後、浜辺の気配が消えた。
「一体何だったんですか?」
緑は教師全員の意見を代弁するように繁に問いかける。
「さあ。」
「さあって。」
「反抗期ですよ。」
「ああ!なるほど!」
緑はその言葉で納得したが、他の教師たちは納得のしようがなかった。しかし、繁と話しあおうとする教師もなく、それでいいか、と教師たちは無理矢理各々の疑念を納得させた。
「部活動、ね。」
繁はほとんど生徒のいない廊下を歩いていた。青春をなんども繰り返したような、独特のむさくるしさの籠りに籠った、胸糞悪い雰囲気は繁にとって毒だった。それは精神に刺激を与えるという類のものではなく、体に作用するものだった。つまり、繁は青春のにおいを感じると、衰弱するのだ。
「な、あほな。」
どうして繁が廊下を歩いているのかという理由は明白だった。浜辺の言う部活動が何であるのかと興味が湧いたのだ。興味が湧いた、というよりは関心を持った、と言うべきか。それとも、ハッキリしないのがどうも気にかかるということか。
黄昏時も終わりを告げ始めていた。空は徐々に紺色で染め上げられようとしている。繁はどこを目指そうというのでもない。今までの人生と同じように、ただ、慣性で歩いてゆくのみだった。そんな折、少女達の囁き合うような楽し気な声が聞こえた。繁はその声のする方へと歩みを進める。
時が止まったような、少女ら以外には呼吸をするもののいない空間。そこには二人の少女がいた。一人は長い黒髪に、気の強そうなつり目をした少女、黒木城浜辺。そして、もう一人は、幻想的に佇む、車いすの少女――
教室を覗いている繁の姿に気が付いたのか、イミナは繁の方へと顔を向ける。
「先生!」
幼き声、繁に向ける無邪気な眼差しに、繁はたじろぐ。この時、繁はイミナに苦手意識を持った。イミナの声に、浜辺も顔を向ける。イミナと話していた時とはガラリと変わった、不機嫌そうな顔である。
「来てくれたんですね。」
「いや、そうではない。」
弁解できる状況ではないことを繁は分かっていた。今の繁の状況は、いくらうまい話術を巧みに行使しようとも、偽りの言葉であることは明白なのであった。
「さあ、早く授業をしなさい。」
「待て。」
浜辺の唐突さに繁はなおも驚かされる。深く息を吐き、事態を整理しようと努める。
「お前たちは何をしようとしているんだ。部活動と言っていたが、それと俺が授業をすることと何の関係がある。」
「私たちは文学について研究しようと思ってるの。だから、あんたに顧問になってもらおうとしているの。」
片腹痛い、と繁は二人を嘲る。この歳はも行かぬ少女ごときが文学を研究しようなどと。
「お願いします。」
イミナは両手で車いすの取っ手を握りしめバランスを取り、繁に向かって深々と頭を下げる。その姿は健気でしかない。だが、その姿は繁に疑問を湧き起こさせる。
「どうして俺が必要なんだ?勝手に自分たちでやっていればいい。」
そこまでして自分に頼み込むことの意義を繁は感じ取れなかった。
「それは・・・」
その問いに誰も答えることはできなかった。目に見えぬ何かが螺旋を描きくるくると回っている。それ自体を矛盾と称する。しかし、その矛盾しているものの正体をこの場の誰一人知らない。それは小説よりも奇なる状況であった。
「どちらにせよ、俺はやらない。」
繁はその矛盾螺旋を早々に打ち切り、教室を後にした。
職員室に戻り、荷物を取ってきて、繁は学校を後にする。そろそろ暗くなってきたので、生徒たちも下校を始めていた。汗で明るく彩られた顔は、藍色の空気の中でもよく映えていた。そんな中、一台の車と女性が繁の目に入る。イミナの母親だった。いらだった様子で、待っている。イミナを待っていることは想像が簡単だった。繁は、イミナの手助けをすればいいのに、と思った。浜辺がいるとはいえ、昨日のように準備に戸惑っているに違いない。
そう考えた時、繁はイミナと浜辺との関係が気になった。浜辺は確か、二年生である。授業を受け持っていることから分かる。では、浜辺は何年生だろうか。そのことを知らなかった繁は緑にまた今度聞こうかと思ったが、何故聞かなければならないのかということに気が付き、その疑問を心の奥底にしまう。謎の部活動の顧問を断った繁にはもう無関係なことだった。少し、イミナの母親のことが気になったが、構わず、繁は自分の車に乗り、学校を後にした。
街灯も碌にない夜の街での運転は、繁にとって注意が必要だった。突然、暗闇から動くものが現れたと思うと、それが信号のないところを横断しようとする人間だったことがあり、その時繁は肝を冷やしたものだった。まだ町中はいいが、少し郊外に行くと森のような場所になり、そこは獣が出てくるという。そんな郊外から通っている教師が、車のフロントをペシャンコにしながら登校してきたことがあり、それは突然飛び出してきた鹿をはねてしまったのだという。毎年のことで、修理代が大変だとその教師は言っていた。まだ、猪や熊でなくてよかったと言ったとき、繁は思わず苦笑してしまった。
「俺は一体何なのだろうか。」
哲学的なことを考えるのは繁の癖である。そして、その癖を発現する時は、目の当たりにしたくない現実から目を逸らす時であった。
浜辺が俺の授業を聞きたいとは思わない。ならば、俺の授業を聞きたいのは当然イミナの方だ。
繁はいつものスーパーが見えたので、車で駐車場に入って行く。田舎の店は駐車場が多い。小さなスーパーでさえ、繁が子どもの時の遊び場より大きかった。
ずらりと並ぶ店の品物はどこでもあまり変わりがない。都会と違うのはその売り場面積の大きさと、人の少なさだった。仕事帰りで、スーツ姿の主婦が今の時間は多い。多忙を極めながらも、都会の人々のような疲れて干からびたような顔はしていない。ただ、何事もなく日常を受け入れている顔だった。そんな人々はどんな生活をしているのだろう、と繁はカートを押しながらぼんやりと考える。家庭を持ち、旦那がいて、子どもがいる。そして、家がある。それは普通なことだった。そんな普通を望んでいるような自分がいるような気がして、自分は一体どうしたのだろうか、と頭を悩ませる。繁は普通が嫌いだった。とはいえ、自分から非日常を引き起こすつもりもない。小説の主人公のような非日常を望みながら、それを引き起こすような一歩を踏み出すことはなかった。ただ、ラノベのように空から突然少女が落ちてくるようなそんな出来事を望んでいるようなものだった。
繁は生肉をちらと見て、おいしそうに思いながらも、調理の面倒臭さを考え、惣菜コーナーへと足を運ぶ。この時間の惣菜コーナーは品切れ状態で、あまりいいものは残っていない。それは優柔不断な繁にとってありがたいことでもあった。
「野菜類ばかりか。」
独り暮らしは野菜が不足しがちであるので、良い事であるだろう。しかし、野菜ばかりでは腹が膨れない。繁はひじき煮を手に取り、籠に入れる。コンビニで肉の類を買わなければならないと思った。
繁は回り道をしてコンビニに寄った後、マンションに帰ってきた。マンションから最寄りのコンビニまでは四キロはあるので、そう気安く行けるものではない。市内にはコンビニは数えるほどしかないので、貴重であった。最近は過疎の影響でコンビニがどんどん潰れていっている。その分、大きな店があり、そういうところは色々と揃っているのだが、仕事終わりではほとんどが閉店しているので、休日の買い出しが重要となってくるのだった。車がないと移動できず、買いだめが必要な事態を繁は初めのうちは不憫に感じていた。しかし、もう何年も暮らしていると慣れてしまった。まだ、学校が市内にあるので、マシな方ではある。小学校などは本当に過疎地であるので大変だそうだった。その小学校も統廃合で数が年々減っている。そのうちこの町には老人しかいなくなるのではないか、と思い、繁は面白く思う。それは由々しき事態なのだろうが、非日常を愛する彼にとってはご褒美に他ならない。だが、子どもの数が減っている近年、あまり笑える状況ではないと繁は思った。老人を養う負担は若い自分たちが負わなければならないのだ。世も末だと繁は思うが、なんとなく危機感を持つことができない。テレビのニュースを眺めているような気分だった。そもそもテレビのニュースなどなぜしているのか、と繁は考える。元々は情報発信のはずだが、要らない情報も多い。特に妙な危機感を抱かせるニュースをする意義が繁には分からなかった。現実はこれほどまでに悲しく、残酷なのだ。お前だけ夢見がちでいていいわけがない。そんなメッセージを伝えたがっているような気がして、繁は呆れてしまう。だが、悲劇が喜劇よりも好まれるのは世の常だと言うことも分かっているので、繁は気にも留めない。自分の身の回りのこと以外には興味を示さないのが普通であり、変に正義感を出すと碌なことが起こらないということを繁はよく分かっていた。この世界はどこか狂っていて、終わりに近づきつつあるような気が繁にはした。
「だから、現実など嫌いなんだ。」
繁は食器を台所に持っていき、パソコンに向かう。このような世紀末に人々が空想の世界へと飛び立つのは正しいように思えた。ゲームなどの娯楽が流行るのもよく理解できる。VRなどというものが実用され始めているのはなおさらだ。人はいつか現実から飛び立つのは当然の道理だった。
「さて・・・」
いらぬことを考えるものの、小説の続きを書くことができない。
「きっぱりとあきらめるか。」
繁は新しい文章を書こうとワードを開く。真っ白な世界。そこは自由で、何の制限もない。だが、それが繁には恐ろしい事でもあった。真っ白であるということは可能性に満ち溢れている。それは時に魅力的で、時に残酷であった。何にでもなれるということは、何にでもなってしまう。善良な子どもに育つこともあれば、人を殺すことに快感を得る大人になってしまうこともある。
だから、繁は可能性を限定する。それがストーリーを作るということだった。世界を設定し、登場人物の性格を考え、そして、物語を紡いでいく。それは現実とは別の、あるかもしれない可能性を生み出すことでもあった。
「はあ。」
しかし、モニターは真っ白なままであった。何も思いつかない。
繁は小説を書くものの、それを完結させたことは一度もなかった。なので、終わらないままの小説がゴミ箱に大量に詰まっている。書いている途中は楽しい。だが、ふと気が付くと、自分の小説の拙さを思い知らされ、面白みを感じなくなってしまう。
繁は自分に才能がない事を自覚していた。過去の作家たちの作品をよく読む彼なら、なおのこと、それを痛感しているはずである。では、どうして書き続けているのか。その理由は繁には明確に分からない。ただ、分からないままにするのが嫌だから、現実逃避であるということにしているのだった。人間は分からないものに根底から恐怖を感じる。だから、解き明かそうと躍起になる。それ故に学問は発達してきた。それ故に神話は作られた。
「作家というのは何のために作品を書いているのだろうか。」
作家でない繁には分からないことだった。かつては職業として作家を目指していた者もいるだろう。太宰治は書かないと生きていけなかったから、書いていた。だが、そのような理由が繁にはない。書かなくても生きていける繁にはその貪欲な精神が欠けているのだった。
「まるで家畜の豚だな。」
繁は悲し気に自分自身を笑う。
「なら、家畜の豚を主人公にしてやろうか。」
そう言って両手をキーボードに置くが、何も思い浮かんでは来ない。過去に家畜の豚を主人公にした作品があったかどうか、と考えるが、繁の読んだ中にそのような小説はなかった。
「そう。俺は書かなくてもいいのに書いている。書かなくてもいいのだ。」
だが、繁には趣味と言えるものはそのくらいしかなかった。仕方がないので、文庫本を読み、その日は眠ることにした。
「おはようございます。」
「おはようございます。ええっと・・・」
「古橋です。」
「古橋先生。」
繁は緑に挨拶をする。
「はあ。先生。私の名前、覚えてないんですね。私は橋本です。」
「そうですか。失礼しました。橋本先生。」
繁は悪びれる様子もなく、淡々と言った。
「そう言えば、昨日の部活の件、どうなりました?」
繁は浜辺が職員室で大暴れした事を思い出す。どうして浜辺があれほどまでに熱心なのかは繁には分からない。
「断りました。」
緑は明るい口調になって言う。
「でも、どこかの部活の顧問になっておいた方がいいですよ?ほら。先輩方がいい感情を抱きませんし。」
どうして先輩の教師のことを気にしなければならないのか、繁には分からなかった。それに、緑の口調は繁を諫めている風ではなく、まるで世間話をするように軽いものだった。
「私なんて、バレー部の顧問ですけど、バレーなんて学生の時授業でやった程度なんですもん。だから、お飾りだけで。でも、大会の付添とかあって。もう、大変だなあ。」
「そうですね。大変そうです。」
繁は心にもない言葉を言う。繁にとって特に関係のない言葉だからである。
「そう言えば、彼女、なんの部活の顧問になって欲しかったんでしょう?大抵の部活は初めから顧問が決まってるのに・・・もしかして、新しく部活を作るんでしょうか?」
「さあ。」
断ったというのにどうして聞いてくるのか。そのことが繁にとって大いに不快だった。
「でも、青葉先生には文化系が似合いますよね。でも、もしかして、スポーツが得意だったりするんですか?」
「いいえ。全く。」
「そうなんですか?体格はいい方だと思うのに。ちょっと残念です。」
残念だろうがなんだろうが知ったこっちゃない、と繁は思った。どうして女はこれほど無意味な会話をするのか繁には一生分からないことである。
「学生の頃はなにか部活に入っていたんですか?私はテニス部でしたけど、補欠で。結構さぼり気味でしたね。」
「入ってないです。」
「大学はどうですか?私はバイトで忙しくって何もできなかったけど、友だちから楽しそうな話を聞いて、羨ましかったです。」
「入ってないです。」
繁は面倒臭くなり、とうとう文庫本に目を落とす。そのことに気付いていないのか、緑は会話を続ける。
「先生には文芸部とか似合うと思うんですよね。でも、この学校、なかったけ。」
繁は無視する。自分には関係ない。だが、そう躍起になって思っている自分を認識してしまい、胸を押し付けられるような圧迫感を感じざるを得ない。緑は繁が興味をなくしたことに気が付くと、パソコンを起動させ、キーボードをたたく。授業のプリントを制作しているのだった。
「先生。丹路イミナについてですが。」
「はい。」
突然声をかけられ驚いた緑は反射的に答える。
「あの子は何年生ですか?」
「一年生ですけど。先生が名前を覚えているなんて珍しいですね。」
含みのある声で緑は言った。
「そうですか。現代文の授業の時の様子はどうですか?」
「そうですね。別におかしな点はないですよ。現代文の授業なんて誰も真剣に聞いてないのに、彼女はきちんと授業を受けてますね。そう考えると真面目な子だと思います。」
「そうですか。二年生の黒木城とは知り合いだそうですが。何か知ってますか?」
「え?いや。それなら、沢木先生にお伺いになった方がいいんじゃないですか?担任ですし。」
「そうですね。」
繁は沢木に尋ねる気はなかった。それほど真剣にイミナについて知りたいというわけではない。ただ、今日の天気はなんだろう、という程度に気になったというだけにしか過ぎない。
「丹路さんが気になるんですか?可愛いですもんね。」
緑は繁を恨めしそうに睨んでいるが、繁は毛頭気が付かない。
「いえ。別に。」
気になっているのは疑いようもなかった。だが、繁は気になっているというだけで、それ以上の感情を持ち合わせてはいない。
「生徒と教師の恋愛ってやっぱりご法度ですよね。まあ、私はあんなガキに興味なんてないですけど。男の人って年下が好きですもんね。どうしてそんなに好きなんだか。」
「え?なんかおっしゃいましたか?」
繁は読書に集中していたので、緑の話を聞いていなかった。
「何でもありません!」
そう言って緑は机を大きく叩いた後、職員室から出て行った。その後しばらくして、授業開始のチャイムが鳴った。
高校生の頃、繁は多忙であったことを記憶している。英語の授業は毎日あり、その毎日が単語テストであった。数学もほとんど毎日。それを犠牲にするように、生物や社会などの授業は少なく、教師が授業数が足りないとぼやいていたような気がした。そして、国語も現代文と古文に別れ、古文の授業の方が多くなっている。
「今日の授業は終わりだ。」
繁にとっても終わりの授業だった。七限まである授業を無事に終えた生徒たちは、疲弊した顔つきで、大きく伸びをする。それから部活動をする生徒もいるのだから大変だろう。部活をしていなかった繁も高校生の頃は正直手一杯であった。それ故に、勉強以外のことに気を配る余裕さえなかった。その頃からだろう。人の顔を覚えることを忘れたのは。
中学生の頃は余裕があった。勉強など宿題をするくらいで十分で、中のいい友達とアニメや漫画の話をしていたように思う。だが、高校生になり、何もかも変わった。気が付くと、高校生になったことを後悔している繁がいた。それでも時間は進み、否が応にも進んでいかなければならない。大学になると中学生の頃よりも余裕ができたが、高校生の頃の癖が抜けず、ひたすら孤独に勉強をするだけだった。同じクラスになっても、数か月後にはバラバラになるので、誰と会話したのかも忘れてしまう。
そんな運命を彼らも辿るのかと思うと、繁は少し、気の毒になった。
繁は教室から出る。教師という職業も多忙であった。次々と変わる授業要項に合わせた授業をしなければならない。繁の場合はそれも放棄してしまっているが。繁が高校生の頃、現代文の授業を碌に聞いていた覚えはなかった。自分の好きな分野、つまり小説は熱心に聞いていたものの、教師の言っている言葉はどこか的を得ず、きちんと作品を理解しているのかと疑問に思うことばかりであった。だが、教師になった今の繁には当時の教師の抱いていた不満がよく分かる。自分がこうだと思たことでも、現代文の授業にはあらかじめ誰が決めたのか分からない答えが設定されているので、それに従った授業をしなければならないのだ。
それが億劫で、繁は授業に対する熱意を失った。
「先生!」
繁は自分が声をかけられたのだとは思わず、去っていこうとする。だが、コキコキという独特の音を聞き、もしやと思い、声の方へと振り向いた。
そこには、車いすの車輪を必死に回し移動するイミナの姿があった。
「はあ。はあ。」
イミナは寝息のような小さな吐息を上げていた。イミナにとっては車いすを押すという行為も重荷なのだった。
「先生。私たちの部活・・・ってまだ部活じゃないけど、顧問になってくれませんか?」
荒ぶる息を必死で抑え込みながら、イミナは繁に告げていた。実に健気な子だと繁は思った。だからと言ってなんでもない。
「何故俺なんだ。どうして俺に付きまとう。他にも手の空いてる教師はいるだろう。」
繁は叫びだしたくなる衝動を必死で噛み殺しながら言った。どうしてこのような衝動が巻き起こるのか分からない。考えたくもない。
「それは・・・」
イミナはまっすぐ繁を見つめていた。それは今まで繁が接してきた人間の中でもっとも真剣な目つきであり、自分の心が見透かされるような気がして、繁は恐怖を覚えた。
「私が、先生の授業を受けたいからです。」
イミナは意を決したように、唾を大きく飲み込みながら言った。その透き通る声は、芸術的余韻を繁に味合わせる。
「浜辺ちゃんに先生の授業のことを聞いて、面白そうだなって。そう思ったから。私のわがままってことは分かってますけど・・・」
最後の方は伏し目がちだった。わがままを言うことは許されない。そういう環境で育ったことは明白だった。
「俺は碌に授業をした覚えはない。」
昨年も浜辺は繁の授業を受けていたのだろうか。だが、昨年も碌に授業をした覚えはない。
「それは・・・」
イミナは車いすでさらに繁に近づく。そして、おもむろに繁の空いている手を自らの小さな手で包む。
「先生が可哀想だと思ったから。」
「お前に、お前なんかに何が分かる!」
繁は思わず叫んでしまう。廊下の生徒がギョッとした顔で奇妙な組み合わせの二人を睨んだ。
「ごめんなさい。」
イミナは驚いておままごとの人形のような小さな手を引っ込める。人形のような不器用な皮膚の感触が手を引っ込められた後も繁の硬い皮膚に染みついて離れなかった。
「先生は私と違いますよね。でも、なんだか、ほっとけなくて。」
それはお前も同じだろう。お前は俺と同じ、孤独で不器用で、誰からも理解されなくて、そして、どうしようもなく――
「急いでるんだ。」
繁はそう言って逃げるようにその場を去った。
苦しいほどに悲しみを含んだ心臓の鼓動が鳴りやまない。繁は不快だった。それは今まで体感した中でも最上級のものだった。どれほど自分の心情と似通った小説の主人公の言葉でもここまで繁を打ちのめしたことはなかったというのに。
「ああ、ああ、ああ。」
繁は職員室に戻ることができずに、意味もなく校舎を渡り歩いた。下校する生徒の人ごみが邪魔な校舎。そして、授業をする教室そのものが少ない、人気のない校舎。
「どうして俺はここまで動揺しているんだ。」
見透かされたのが不快だった。ずっと心の奥にしまっていた感情を呼び覚まされたのが不快だった。不快、不快、不快。
繁は足を止める。その先は行き止まりだった。いつの間にか廊下の突き当りにたどり着いており、もう少しのところでぶつかるところだった。その突き当りには窓がある。窓はいつの日とも同じ橙色に染め上げられた景色が広がっていた。
そんな時、窓から一羽の鳥を見た。オレンジ色に染められた景色からはその姿は影のように見える。掌で握りつぶせそうなほど小さな小鳥。その鳥は繁の姿に驚いたかのように、空高く飛び上がる。スズメではない。かといって美しいほどの鳥でもない。ただ、誰も気にも留めないながらも、少し珍しいと思うような鳥だった。
その鳥を見た時、繁の中の矛盾螺旋は時を戻すかのように逆戻りしていく。ぐるぐるりと逆戻り姿を現したのは繁だった。
『俺を責めたいのか。』
繁は繁に言う。
『何か言えよ。』
だが、繁は何も言わない。ただ、繁の見せたことのない笑顔で繁を見つめているだけだった。それは邪気のない笑顔。皮肉のない笑顔。ただ、純朴なあの少女のような――
繁は繁のままだった。あの少女の姿に代わることはない。
矛盾を矛盾のまま取り残し、進んでいき、螺旋を描いていた矛盾は、その時、矛盾螺旋ではなく、ただの矛盾となった。
繁は教室に向かった。イミナと浜辺のいるであろう教室に。
教室の窓からは嬉しそうに話している二人の姿があった。美しくもない色どりの小鳥。そんな小鳥がくちばしをぶつけるかのような近さで互いに囀りあっている。
繁は一歩を踏み出した。矛盾は並行する。螺旋を描かない。
「先生!」
イミナは昨日と同じように繁に笑顔を見せる。繁は決心した。
「今日から俺は――顧問だ。」
そう言ってから、その教室には二人の人影以外にも人影が存在することに気付いた。影のように佇む、頭をすっぽりと覆う頭巾。そして、若いスーツ姿の女性。
「青葉先生。良かったですね。」
緑は笑顔でそう言った。
「何故お前が。」
繁の思考回路はぐるぐると回っていく。だが、絶対に答えの出ないことを悟る。
「だって、私がいたっていなくったってバレー部は一緒ですもん。というか、実はもう一人顧問がいて、体育の先生だから私、必要ないんですよね。」
「そうではなく。」
ふと、繁は視界の隅に白い色がちらついているのをみて、そちらの方を向く。黒い頭巾の少年がスケッチブックを揺らしている。繁に文字を読めと促しているようだった。
『白崎すずめです。』
自己紹介のつもりであるようだった。
「ええっと、誰か詳しく説明してもらえないだろうか。」
繁は我ながら情けない声だと思いながら、教室の四人に説明を求める。
「つまり、みんなあんたの授業を受けたいってことよ。いいから、早く授業をしなさい。」
浜辺はぶっきらぼうな口調で繁に言った。
「はあ。」
間抜けな声を出しながら、繁は教壇に立つ。
「さて、授業を始める、その前に、俺は何をするんだ。授業をするだけでいいのか?」
「そんなこと、おいおい考えなさいよ。授業だけでネタ切れになったらみんなでなにか考えればいいでしょう?」
かなり上から口調だと繁は呆れる。年上であることを忘れているのではないか、と繁はイミナを睨む。
「なによ。」
繁は相手にすることを止めた。仕方なく、授業を始める。
「さて。では、高瀬舟の授業を始めよう。読んでいないものはネットで読むか、本を購入するように。休日の中に呼んでおけ。青空文庫で無料で読めるだろう。著作権切れだ。俺は神媒体を読むことをお勧めするが。それと、橋本。飲食は禁止だ。」
「先生。いいじゃないですか。部活ってもっとほのぼのしてるもんでしょう?」
「ここは放課後ティータイムではない。」
緑はぶつぶつ文句を言う。
「そうですよ、先生。飲食はダメです。授業を受けるなら、きちんとした態度でしないと。」
イミナは緑を窘める。怒っている風ではあるが、その幼い体つきでは気迫がない。
「イミナちゃんに怒られた。いいけど。でも、先生は紛らわしいから、緑ちゃんでいいわよ。」
「お前ら、授業を受けるつもりはあるのか?」
呆れ気味に繁は言った。きちんとした授業でもないので、繁はそれほど怒ってはいない。
「だって、先生。私の学校はもっとひどかったですよ?授業中に飲食は当たり前だし、生理用ナプキンでキャッチボールはするし。」
『どんな学校ですか。』
すずめは紙に書いてコメントする。
「女子校。まだうちは治安が良かったみたいだけどね。流血騒ぎは一年に一回くらいだし。」
「世紀末・・・」
イミナは明らかに引いていた。繁も普通の学校に通っていてよかったと思った。