第一話 はじめまして欠陥王子、そうしてさようなら
――良い、この携帯小説。
声にならない叫びを発しながら、一人の少女が悶えていた。
ああ、身体の奥底からわき起こるこの熱いパトスを、どうして留めることができようか!
彼女は興奮の醒めない脳で、そんなことを思っている。
(この切なさ、その中にあるどこか神秘的な色を漂わせた世界観! 多希ぃぃぃい!)
ある個室にて、ちいさく叫ぶこの少女。
黒髪で長めのストレートをそのままたらし、まじめな顔つきどおりきっちり着こなされた制服。いかにも「優等生です」とでもいうような格好だ。
そんな彼女は握りこぶしをひとつ作り、天井にむかって勢いよく捧げていた。
よろこびを露わにしているのである。
その「ある個室」では、なにやら白い大きめの物体がどどーんと真ん中に鎮座している。フタもついており、彼女はその上に腰掛けている。
壁にはセンサーらしい何かが組み込まれており、手をかざすと流水音が響いた。
川のせせらぎのような、爽やかで清らかなその音、多くの者がある場所で聞き覚えがあろう。
そう、ここはトイレである。ある学園の、女子トイレである。
先ほどまでこの少女・藍川 雛梨は、携帯にていま流行りの「携帯小説」というものを読んでいた。
さて、携帯小説とは。
その種類はさまざまだが、基本的には「簡単に書けて簡単に読める」という文体で人気を集めているものだ。
文庫本とちがい、プロの小説家というよりも、一般人が好きなように自分の世界観を表現、インターネット上に公開しており、最近では人気作品の書籍化やアニメ化も広く行われている分野である。
当然ながら、この携帯小説を「日本の新たな文学」として振りわけるか否かについては賛否両論あり、未だ議論の絶えないジャンルであることは確かだ。
けれども、自由であるからこその斬新な発想、作者の独擅場ともなりうる内容には、惹かれるものが多いこともまた事実だった。
そして、このたび雛梨が探しに探して見つけ出した携帯小説。それが、先ほど読んでいたものであり、活字を好む彼女にはたまらない作風だった。
ほとんど独白であるにも関わらず、「多希」というキャラクターの雰囲気が彼女にはよくわかり、同時に哲学的で言葉遊びの激しい表現方法に、彼女の「活字好き」が刺激されたのだ。
一人その世界観に浸りながら、うんうんと納得するようにうなずいてみせる雛梨。
もちろん、ここがトイレだということを忘れてはならない。よって、彼女は心の中で、熱い感想を述べるのみ。
じつは最近この作者の大ファンとなり、暇があればこのひとの小説を読んだ。軽い文体も嫌いではないが、雛梨はあのような、少しだけ言葉遊びのあるものが好きだった。
サイトはもちろん、ブックマーク完了済み。雰囲気や書き方が特徴的なため、好みがはっきり分かれそうだが、彼女はとても気に入ったのだ。
どの作品も関連性のない、まったくちがう短編を書いているが、人物の名前だけは固定されており、この作者が描く作品の王子様はいつもこの「多希」という名を持っていた。
ゆえに今では、雛梨にとってこの「多希」は脳内彼氏であり、密かな王子様だったりする。二次元キャラクターに恋をする、オタクのようなものだろう。
ああ、わたしも王子様に巡り会いたい。
トイレ独特の落ちつく雰囲気に呑み込まれながらも、考え付く先は「多希」というイケメンキャラクターだった。
いや、「多希」というキャラクターに、雛梨の勝手な脳内補正がかかっていることは否めない事実であるのだが。そんなことなど“おかまいなし”な彼女は怪しい笑みをこぼし、彼に想いを馳せるのだった。
現在このトイレには彼女しかいないために、つっこむ人間が皆無であることは幸か不幸か。
「ふふ」
満足した様子でニヤニヤと笑みを浮かべている雛梨は、完全に不審者丸出しだ。トイレ内であることはやはり幸いだったらしい。
数日前にこのサイトを見つけてからというもの、公開ぶんを制覇することはもちろん、新作にも目を向けている。
先ほど読了したのはログだったが、早く全制覇したいと密かな闘志を燃やした。
どの作品でも、タイトルだけで「読みたい!」と思わされ、どれだけ忙しくとも最後まで見ようと思えることから、とにかく作風が好みなのだろう。
すべてを読むまで、わたしは何も手につかない。いや、何にも手につけない!
そうして次のタイトルをクリックしようと指を置いた瞬間、ふと、スマホのディスプレイに表示された時計が目に映った。
12時42分――ハッとした。
「早くしないと、お昼休みがなくなっちゃう!」
すなわち、ご飯を食べる時間がなくなってしまうということである。
そう、現在はお昼休み。こんなところで小説を読み、ニヤニヤしている場合ではない。
急いでトイレから出て、念入りに手を洗った。黒色を基調とし、さくらんぼの刺繍が入ったハンカチを、ポケットから取り出す。
手を拭いた彼女は、大して速くもない足を懸命に使って屋上へと駆け上がった。少しの運動で息切れするあたり、運動不足が身に染みる。