この展開こそ携帯小説 第1話?
風花が薄情なほどさわやかにわたしの頬を愛撫し、世界の絶壁から滑り落ちた。
漆黒の闇にこぼれるこの白雪は、なかなかどうして幻想的だと思うのだが、目を細めて空をあおげばたちまち、瞳に浸透するかのごとく流れこんでくる。
それは淡く美しい混じり気ない純潔なのに、どこか黒い闇を運んでいるようにも思えた。
この夜を彩る冷たさが、そう感じさせるのだろうか。
六花の踊るこの真っ白い大海原でぽつり、わたしはただただ立ち尽くしていた。
何をするわけでもなくただ身を沈めながら、何かにすがるようにそれを受け止める。
漆黒の髪の毛が無色に濡れて輝きを増したそのとき、そこから哀しげな色が放たれているように感じられた。
「……多希」
「ん」
「雪、綺麗だね」
ふわり、ふわり、ひらり。
桜の舞い散る様も儚くきれいだが、雪もまた同時に、儚く物悲しい気持ちにさせる。
一面の白さに心を奪われそうになるが、そのような誘惑は必死に追いやった。
心が惹かれるなんて軽いものではない。“心”というものを自分の中から引っこ抜いて、どこかへ持って行かれそうだと思ったのだ。
ああ、こわいな、“白”は。
どうにも自分の中の何かが揺らぎそうになる。
頭が真っ白になるとはよく言うが、こんなときの一面の白はまるでそのよう。
そんなことを言ったらきっとこの男は、歪めても端正な顔を見せつけながら、「へぇ」と適当な相槌を打ってみせるのだろうとおもうけれど。
「んー、でもこのままここにいると、寒さにやられて死んじゃうよ」
「死なないよ」
そう言ったわたしだったが、実際、このままここで身体を冷やすのが良くないことだというのはわかっていた。
体調に大打撃を与えていることは明らかなのだ。
現在の気温はあまりに低い。加えて、わたしは馬鹿みたいに薄着である。
分かっている。このまま立ち尽くしてしまうのは良くない。そんなことは分かっている。
分かっているけれど、わたしは白から動けなかった。雪がわたしの足を絡め捕るように縛っている――そう感じるほど、雪に魅入っていたのだ。
白いのに、黒い。この感覚が、心地良い。
それは危険なものに魅了されたときの感じに似ていた。
「君の髪の毛は漆黒で、とても綺麗だよね。ちょっと羨ましいな」
「あ、ありがとう。嬉しい」
多希の言葉はすんなり聴覚を刺激したが、脳が理解するには少し時間を要した。ストレートに発されたセリフはあまりに率直すぎて、わたしの脳内で屈折したらしい。
ひねくれ者、とだれかがわたしを罵ったが、その通りだとおもう。素直に褒められたセリフさえ受け取れないなんて、とんだひねくれ者だ。
それでも、わたしの脳は彼の真っ直ぐな感情を否定するように働く。
多希が、わたしの髪の毛に指を絡めた。
くるり、くるり。その心地よさに陶酔しながら、踏みしめた大地で、やわらかく壁を作っている雪に目を細めた。
人の足跡がそこに刻まれて、そしてまた、何事もなかったかのように覆い隠される。
不思議なものだ。「形」にすれば結果として残るはずのものさえ、雪という「形」の前では無意味なのだから。
雪はすべてを消し去ってしまう。
見えていたはずの道路も、歩んだひとの歴史も、そして、わたしの心も、全部ぜんぶ消し去ってしまうのだ。
淡く儚い純潔に、ぽつり陰る黒。
そして、黒い闇色に、ぽつり映る白。
「雪、綺麗だね」
「うん」
雪を見ながら目を細めた多希に、わたしも目を細めた。
茶色く染められた彼の髪に雪が舞い降り、そっと溶けあおうとしている。
ふ、と微笑みを浮かべた彼の口元は、淡く赤みを帯びており、澄んだ肌によく映えているなと思った。
鼻筋の通った端正な顔立ちは、力強い瞳で対象を捉えている。
それなのに、その力強さとは正反対に、彼の存在は自然ながら不自然な色合いをもって、この空気に溶け込んでいた。
まるですべてに溶け込むことができるような儚さで、それなのにどこか違和感を残して。そしてその違和感が、力強さを隠してゆく。
ああ、雪、みたい。多希を見ながら、そう感じた。
それはまるで解けた結び目のように、すらすらとわたしの中を駆け巡る。
真っ白なのに闇がある。確かに白いのに、立派な黒をみせてくる。
真っ白な彼が真っ白な筆で塗りたくるのは、真っ黒な深淵の世界。
彼は白をもって黒に染め、黒に染めて白に沈む。
白に沈み黒を浮かべ、黒を浮かべて白を望む。
真っ白な雪のもたらす黒い切なさが、どうにも彼に似ていると思った。
切なさを黒とおけば、彼ととなり合わせにいるときにそれを感じている。
彼はとてもやさしく素敵だけど、どこか残酷だ。拒絶たる拒絶をしてくれないから、わたしは喜びと虚しさの間をさ迷う。
となりにいられる喜びと、そのやさしさが拒絶にもおもえる虚しさ――それはわたしにとって、白と黒。
「多希、今から雪だるま作ろうよ」
「えー、もうすっかり夜だよ。寒いからやだ」
「男ならつべこべ言わずに作ってよ!」
「はは、まったく強引だなぁ」
にこりと笑う口元の赤に気を取られながらも、しゃがみ込んで雪をかき集める。
けれど、どれだけかき集めても手にした瞬間溶けてしまい、涙の傷痕を残して去りゆく雪の姿は、多希に似ていながら恋にも似ていると感じた。
いや、わたしが彼に恋心を抱いているから、それを重ねた雪にも彼を投影したのだろうか。
好きと思えば思うほど、多希のやさしさが刃となってわたしに傷痕を残す。
好きだと彼を追い求めるたび、どこか拒絶にも似た禁断領域をかざされ、踏み出そうとした足をその場に縛り付けてしまう。
入り込んではいけない区域、それまでを行き来しながら、彼を想うしかないのだ。
彼という存在が、わたしを支えるひとつの礎だ。
切なさの闇に囚われたとしても、確かな喜びは彼にある。彼がわたしを拒否さえしなければ、わたしはそのまま闇に心地よく沈めるのだ。
地面という闇に直接触れないように、多希という白がわたしを支えるだけのことであって。
しかし、多希の白は黒であって、わたしをちがう闇に沈めていく。
そうしてわたしのすべてを奪っていく。奪っていきながら、自身は何にも染まらない。
自分だけの世界を確立して、そうして結局拒絶している。
「……そっか」
「ん?」
「……なんでもない」
ああ、そっか、そうなのか。
雪の白が持つかげりに心地よさを覚えたのは、なるほど多希がわたしの心を抱きすくめるその感じに、似ていたからだった。
雪だるまを作りながら、「うまく作れない」と愚痴をこぼす。靴をはいていない足はもう感覚を無くしていて、手袋さえしていない手は真っ赤になっていた。
その様子に目を細めた彼が、それでもわたしになにも言わないのは、きっとなにを言っても、いまは聞かないとわかっているから。
「手伝わないよ」
「やだ、手伝ってばか」
「ほら、泣きそうな顔をしない」
「してない!」
仕方ないなぁ。そう言いながら、雪上にしゃがみ込んだ多希を、わたしは立ち上がったまま眺めた。
真っ白のよく似合う人なのに、やはり黒だと思ってしまう。
そんな彼の目には何が映し出されているのだろうと、そのきれいな色に静かで素朴な疑問を抱いた。
「やっぱ君の色って黒だからさ、君がいるだけで雪景色が色付くね」
突然、多希が口を開いた。その言葉に少しムッとする。
「黒だなんてイメージ、べつに嬉しくないよ」
「そう? でもイメージは黒。もちろん、悪い意味じゃない」
わたしに視線は寄越さない。彼は下を向いたまま、雪を拾い上げては下に落とし、それを繰り返していた。
彼の表情が分からない。だからその未知なる色合いを予想しながら、そのテノールに体を委ねていく。
「君の漆黒はきれいだから、よく記憶に残るな」
「そう、なの? ……わたしがいる多希の脳内を見てみたい」
「面白いこと言うなぁ」
本気のわたしの言の葉を、彼は戯れるように弄んで溶かしてしまう。
でも、確かに多希の脳内をのぞいてみたいと思ったのだ。もし本当に多希の中にわたしの漆黒が泳いでいるならば――そう思ったから。
多希の中に漆黒の色をもって侵入できているならば、これほどうれしいことはない。
わたしの全てを無視されるより、少しでも彼の意識に「わたし」があれば、それが幸せ。
白色というのは純粋で純潔で、数字で云うなれば「零‐ゼロ‐」のような役割を持つのだ。
この世に生まれ落ちて形を持ち、外界の空気に触れて何かになった瞬間に、白は意味を失う。
けれど同時に、どんな色も薄めて侵食してしまう、恐ろしくも強大な力を持っている。
それゆえに、白とは「全てを受け入れながら同時に全てを切り捨てる」、純潔であるが故に残酷な、それはさながら子どものような、色。
その中に侵入することは容易くとも、その中に留まることはできない。そして侵入することが不可能でも、向こうから接触だけはもたらしてくる。
そしてそれが傷痕となって、侵入者側の心にのみ刻まれていく。白は侵入者を拒絶したとしても、侵入者側には傷を残すのだ。
――ああ、まさに侵食。受け入れながら切り捨てて、無意識下に侵食していく。
自身は何ものにも侵されることがないながら、何ものにも染まっていく。
「雪景色だからこそわたしの黒が映えるのなら、わたしずっとここにいようかな」
「それ寒すぎる。凍え死んじゃうよ」
「だって、一番わたしが記憶に残るいい場所じゃない。わたしが一番美しく輝けるんでしょう」
「そのまんまでも十分、綺麗だけどなぁ」
けたけた笑う多希を流して見ながら、心を降らす空を仰いだ。
だってわたしが一番輝ける場所なら、多希の記憶に残るでしょう。彼の中にきちんと、わたしたるわたしが存在できる。
わたしが一番輝ける場所で、多希の中に侵入できる。
わたしの漆黒がこの白の雪景色の中、どれだけの意味をもって多希を支配できるだろうか。
多希にとってわたしの漆黒が意味あるものにさえなれば、わたしは確立されていく。
そうさえできれば、わたしはそれで構わないのに。
もしこの雪が恋心ならば、それはなんとも寂しく悲しいことだろう。行き場をなくした雪は、ただただ消え行くだけなのだ。
積もる場所さえあればそれは大きな力となり、可視性を高めて残りゆくのに、今の状態ではわたしの雪には終点が見当たらなかった。
多希の心にわたしの「好き」が積もればいいのに。
行き場をなくして消えてしまわぬよう、多希がそれを汲んでくれたらいいのに。
積もる場所さえあれば輝ける。それさえあれば、とたんに雪は意味を持つ。
受け入れられて切り捨てられて、白は白ながら黒の部分も持ち合わせている。
ならば、ならば多希の白にわたしを置いても不思議なことではない。
元々共生している黒色に加え、わたしの強くも儚い漆黒が、そこに佇み、居を構えても、おかしくはない。
溶け合って混ざり合って、解け合って交ざり合う。きっと、不自然なく在り続けられる。
そんなの、わたしの自分勝手な妄想でしかないのだけれど。
「……多希、わたし多希が好きだよ」
「知ってる」
「!」
「態度に出やすいからね、分かりやすいよ」
「っうそ!」
「ほんとほんと。気付いてないなんて可愛いなぁ」
嘘か本当か分からない多希の発言に、少なからず翻弄される。
それでも、しゃがみ込んだままわたしを上目遣いに見上げてくる多希を、わたしも必死に見つめた。
負けはしない、とでも言うように。
「僕も好きだよ」
「、え」
「好き」
真剣な瞳。でも、それが真剣なのか見せかけなのかは分からない。
だから、やっぱり多希は掴めない人だと思った。
だけどね、そんな彼の中に、わたしの漆黒が棲んでくれたらとも思うのだ。
ふとした瞬間に漆黒が離れないとでもいおうか。
どうしてか佇む景色に、漆黒を見てしまう――多希がそうなってくれたらと思う。
「多希、多希は白をまとったままでいてね」
同じで溶け合うよりも、反発し合って溶け合いたい。
多希の中に埋もれてしまうよりも、多希の白にある一点の穢れとなって、多希の中を泳いでいたい。
同じ色で溶け合えば自然に個人は失われ、存在の意味をなくしてしまう。しかし、反する色で刺激すれば必ず感覚に残るはずだから。
だから、そう。
わたしの色を忘れないで、わたしの色をあなたに留めて。それは明らかなる対な彩りであっても、だからこそ反発し合って溶け合える。
あなたに溺れるだけは嫌。あなたの中をきちんと泳ぎたい。
下手くそでも嘲笑われても構わないから、だから願わくば、あなたの世界を。
叶うなら、永遠にきみの世界を泳ぎたい。