覚醒
死神のようなその女性は不気味に笑う。その声は甲高く、しかし地よりもずっと低い場所から響いてくるような感触がある。例えるならば、冥界から声が届いているような、おぞましい冷たさに満ちた声だ。
漆黒の着物は、裾が影のようにどろりと空間へ溶け込んでおり、地へと着きそうなまでに長い黒髪は、風もないのに揺らめき出す。
「その言い方、まるで私たちが悪者みたいじゃない」
全身真っ黒の女性は、全く悪びれずにそう言ってのけた。
それを聞いた青いドレスの女性は、黒い女性を睨みつつユウキの前に出た。
「そうよ! あなたたちがこの世界を破壊しようと企てているんでしょう!」
「違うわよ? 私たちはこの醜い世界を正そうとしているだけ。そして、私は全ての生命に安らかなる死を差し上げているだけよ」
黒い女性は目の前に飛んできた蝶を切り払った。小柄だというのに、大鎌を軽々と扱っている。
「酷い……。何の罪もない命を!」
「何を怒っているの? 私はこの羽虫に、生きるという醜い行いを終えさせてあげたの。生とは這いずり回ること。死こそ美徳よ。だから、あなたにも素敵なプレゼントをあげたじゃない」
その言葉に、青いドレスの女性は一瞬固まる。そして、直後に拳を握りしめた。
「……あなたのせいで、私は死と隣り合わせになったのよ!?」
「まあ! そんなに喜んでいただけているなんて、私もうれしい!」
ユウキには、この二人の因縁が具体的にはわからなかった。しかし、どちらが悪なのかは、その問答から感じ取っていた。
「さあ、そこのぼうやにも眠りを与えましょう。私が子守唄を歌ってあげるわ」
そう告げると、黒い女性はゆっくりとユウキたちへ向かって歩きだした。水面を波紋も立てずに……。
「……いい? 振り返らずに全力で走るのよ?」
「え? は、はい?」
突然、ユウキは青いドレスの女性に腕をつかまれた。だが、その咄嗟の出来事に上手く対応できずに転びそうになる。
だが、そんなことはお構いなしに、黒い女性は鎌を掲げて襲いかかってきた。
「さあ! お眠りなさい!」
「逃げるわよ!」
「うわあ!」
青いドレスの女性は、ユウキを半ば引きずる形で全力で走りだした。
背後からは木々の倒れる音と共に殺気が追いかけてくる。
捕まったらどうなるかなど容易に想像できるが、運動音痴のユウキは速く走ることができない。
「大人しく彼を渡しなさい。何を迷う必要があるの? 私が今すぐ永遠の安らぎを与えてあげるわ……」
狂気に満ちた声が徐々に近づいてくるのを聞き、青いドレスの女性は渋い顔をする。戦わずに済むと思っていたのだが、ユウキのあまりの遅さが誤算を招いた。
「……仕方ないわね。逃げ切れそうにないから、あなたも覚悟を決めて」
「え? 覚悟って?」
「私はポジティブの一員、マリアよ! あなたを守るため、ネガティブと戦うわ!」
青いドレスの女性はマリアと名乗り、ユウキの腕を離し立ち止まった。そして、背後から迫る殺気へと向き直る。
だが、その緊迫した事態とは裏腹にユウキの表情には焦りが見てとれない。
「さっきからネガティブとかポジティブとか、一体何のことですか?」
「説明は後! いい? 私のそばを離れないで!」
ユウキは状況を呑み込めずにいた。先程死んだばかりなのに、なぜまた死ぬのかという疑問を抱く。
そもそも、ここが死後の世界だと思っていたこともあり、今一つ危機感が足りていない。
だが、すぐさま追いついた殺気は、非情にも彼へと死を告げる。
「大人しく渡す気になったようね。さあ、すぐ楽にしてあげるわ」
「そんなわけないでしょ! 私はあなたと戦うわ!」
「全く……何でみんなわからないのかしら? In the World……この醜い世界の中で」
「一生わからないわ! In the World……この美しい世界の中で!」
二人の女性は向かい合い、お互いに構えつつ宣言した。
「あなたの好きにはさせない!」
マリアがいち早く仕掛けた。
「アクア!」
「ふふ……。効かないわよ」
かざした左手から勢いよく放たれた水は、鎌の一振りによって弾かれてしまう。だが、その隙を突いてマリアは黒い女性へと迫っていた。そして、鉄拳から蹴りと流れるような攻めに繋がる。
ユウキの目には一見してマリアが押しているように映ったが、黒い女性はドクロ型のオーラを放ち、それを受けきっていた。しかも、黒い女性はマリアの隙を突き素早い峰打ちで反撃した。
接近戦は不利と見たマリアは瞬時に距離を取るが、チャンスとばかりに黒い女性は鎌を天に振りかざした。
「闇よ、我の契約に応じよ!」
詠唱の直後、赤紫の魔法陣が鎌の刃先に現れ、虚空から黒い靄が湧き出てきた。
「炎よ、我が扇となり舞え!」
マリアは瞬時に反応し、両の手に炎を纏う。それによって伸びたリーチを駆使し、襲い来る黒い靄を薙ぎ払った。
靄は低い唸りをあげて、徐々に薄れてゆく。
「斬風!」
鎌の一振りによって黒い衝撃波が生じる。
「ウォール!」
マリアはそれに対し半透明の壁を生成して応じる。衝撃波はその壁にぶつかって消えた。
「そんな壁でいつまで耐えられるかしら?」
「絶対に傷付けさせない! この人は私が守る!」
ユウキはもどかしかった。黙って見ているのは辛いが、余計なことをしては足手まといになるだけだ。戦う力が自分にはないという現実に、悔しさを覚えずにはいられなかった。
ユウキの見守る先で、マリアは黒い女性の猛攻を必死で防いでいる。
「秘術の壱、シャドウ!」
その詠唱の直後、黒い女性は忽然と姿を消した。
「気をつけて!」
「え!?」
マリアは慌てて注意を促したが、ユウキにはどうすることもできなかった。見えない殺意に対しどう警戒すればいいのかと戸惑っていると……。
「おやすみなさい……」
突如、彼の目の前に女性は現れた。すでに鎌を振りかぶっており、避ける余裕などない。
刺された時同様、彼にはその動きがゆっくりに見えた。しかし、体は咄嗟に動くことはできず、再び死ぬのを覚悟するしかなかった。
鎌は容赦なく彼の首を捕らえた。
「……させないって言ったでしょ?」
マリアが静かに言い放った。
確かに鎌が当たったはずなのに、ユウキは無傷だった。
あまりの驚愕に黒い女性は息を呑む。しかし、しばらくして彼女はそのトリックに気付き、落ち着きを取り戻した。
「プロテクションね……。あなた、そんな余裕があるなら本気出したら?」
その言葉を聞いて、ユウキも何が起きたのかをようやく知った。マリアはユウキに守りの魔法をかけていたのだ。
「……戦ってください、お姉さん。俺のことはどうでもいい。だから、気にせず戦ってください!」
「この大変な時に冗談言ってるんじゃないわよ!」
「本気です! 俺のせいで……誰かに傷付いてほしくない!」
ユウキは必死に懇願した。彼にとって、誰かが目の前で苦しむのは耐え難いことだ。だから、自分一人が犠牲になれば済むと、本気でそう思っている。
ユウキがマリアを困らせていると、黒い女性はクスクスと笑いだした。
「あらあら、生きている人にしてはなかなか美しい心を持っているのね。それなら話を変えましょう」
「な!? あなたまさか!」
ユウキには話の流れがわからなかったが、マリアにはその後のセリフが手に取るようにわかった。
「あなたも私たちの騎士団に入りなさい。あなたにはその資格があるわ」
「なっ!? さっきお前たちのグループは悪の集団だって言ってたじゃねえか!」
「それはこの人の勘違いよ。どう? 一緒に世界を正しましょう?」
黒い女性はユウキへと手を差し伸べた。その口元は、相変わらず邪悪に歪んでいる。
「騙されてはダメ! ネガティブはこの世界を恨み、自分を正当化する組織よ!」
マリアが必死にユウキを引き止める。その言葉には、またしても先程のよくわからない単語が混じっている。
「迷うことはないわ。さあ!」
「ダメ! ネガティブに入ってはダメ!」
二人の女性がユウキを説得する。ネガティブとポジティブ、それからこの世界のこと。何もかもわからないことばかりだが、その中で彼は一つだけ確信を持つことができた。
「……あのさ、俺は難しいことはよくわからない。けど、これだけははっきりわかる。今、俺を命がけで守ってくれているこっちのお姉さんが正義で、お前は悪だってことはな!」
「誤解よ。あなただってこの世界を知れば、きっと私たちに共感するはずよ。何ならそこのマリアという女に、この世界を見せてもらえばいいわ」
黒い女性は数歩下がり、マリアが駆け寄った。
「あの……お姉さん」
「大丈夫? 怪我はない?」
「あ、はい」
「よかった……」
マリアは何よりもまずユウキの無事を確認した。そのことを、ユウキはうれしく思った。同時に、こちらを正義と信じてよかったと、その確信をさらに強める。
「私にはあなたが悪だとは思えない。だから、この世界の映像を見せても、その気持ちが揺らぐことはないと信じるわ」
マリアはユウキの額に手をかざした。
「ヴィジョン!」
詠唱の直後、ユウキの脳内にこの世界の景色が映った。緑が溢れ、水はどこも透き通っていて、そして大地はどこまでも広く続いていた。
しばらくそれらの映像を見せた後、マリアは魔法を解いた。
「……どうだったかしら? 答えを聞かせてもらえる?」
黒い女性はニタニタと笑いながら回答を迫る。
「ああ、これでよくわかったよ」
ユウキは黒い女性の方を向いた。その目はどこまでも真っ直ぐだ。
「あなたの価値観を教えてくれるかしら? あなたの、In the Worldを……」
「俺の……価値観」
ユウキは先程の二人の宣言を思い出した。そして、In the Worldの後に続けて述べるというその決まりを把握する。
「In the World……この広大な世界の中で!」
強い決意と共にその宣言がなされた。その途端、彼の姿は眩い光に包まれた。
「これは! まさか伝説の!?」
「そんな!? こんなのウソよ! ウソに決まってるわ!」
マリアと黒い女性は、それぞれの動揺を露にする。ユウキ自身も、突然の現象に衝撃を受けている。
数秒程で光が収まった後も、しばらくは誰も動くことができなかった。
「伝説の……勇者様」
マリアの一言で全員我に返った。
ユウキは自分でも気付かない内に持っていた剣を、黒い女性へと向けた。
「俺は自分の正義を信じる!」
「……残念ね。見込み違いだったわ。歪んだ思考を持っているみたいだから、浄化してあげるわね」