異世界転生
「やめろー!」
ユウキは中年女性を庇い、前へと躍り出た。中年男性がナイフを手に突進してくるその前へと……。
中年の男性はハッとして目を見開いたが、飛び込んだ勢いを抑えることなどできない。
そうしてユウキの左胸を鋭角が貫いた。
倒れゆく彼の視線の先には、血のように染まった空と、不気味な影を落とす木々のみ。ゆっくりと遠ざかってゆくその深紅と漆黒の風景。そして彼は、自分もまた世界からゆっくりと遠ざかってゆくのを感じていた。
徐々に倒れゆく体は全く言うことを聞かず、ただただその流れに身を任せるより他はない。
この状況下においても、未だに自分が刺されたという実感が彼にはなかった。
だが、襲い来る今までに味わったことのない感覚が、否応なしに事の重大さを告げる。彼はたった数秒の出来事をやたら長く感じ、おまけに走馬灯まで見始めたのだ。この最期の瞬間、連なる刹那のひとつひとつに、今までのあらゆる出来事がものすごい速さで彼の脳裏を掠めては消えてゆく。
そうして大半のどうでもいい記憶を見た後、この事件の直前の映像がゆっくりと流れだした。彼はそれを反芻するように顧みる。
家の近くにある公園。午後六時を迎える頃、いつもここには誰もいない。だから、一人になりたくなった時などに彼は来ていた。
今日だって何気なくベンチに座り、考え事をしていただけだ。
ただ一つだけ違っていたのは、不意に悲鳴が聞こえてきたということだけ。だが、それは彼の運命を大きく変えてしまう。
ここにいたのがユウキではなく誰か他の人ならば、首を突っ込まずにその場を後にしたかもしれない。だが彼がそうしなかったのには……否、そうできなかったのには理由があった。
思い出してしまったのだ。過去の出来事を……。
二度と繰り返したくない過ち。その十字架は、それを背負う者の生き様をも変えてしまい得る。トラウマとして鮮烈に刻み込まれる映像は、いつまでも取り憑いて離れることはない。
だからこそ、この悲劇は引き起こされた。
過去の過ちに縛られ続ける彼は、その悲鳴が聞こえた方へと向かってしまった。ベンチの後ろ、木々が密集している場所へと……。
ほとんど無意識に、条件反射のように行われたから、そこに一切の迷いなどなかった。だからこそ、ナイフを持った男性が女性を襲っている光景が目に飛び込んできた瞬間、躊躇なく躍り出たのだ。
女性めがけて突進する男性。そこへ割り込めばどうなるかなど、凡そ誰にでもわかることである。だが、その結果がわかった今、再び同じ場面からやり直す権利を与えられたとしても、きっと彼は全く同じ選択肢を選ぶだろう。だからこそ、その表情には後悔というものが存在しなかった。
丁度彼もその結論に至ったところで、ようやくその体が地面へと叩き付けられた。だが、彼は不思議と痛みを全く感じなかった。
そして、最後にもう一度悲鳴が聞こえたところで、彼の視界は暗転し、無音の世界へと落ちていった。
彼は思った。あっけないものだ。これで俺の人生は終わりかと。
せめてあの女性が無事に逃げ切れたかどうか知りたい。彼がそう願うと、目の前に靄のかかった映像が現れた。そこで彼は、男性が自分を刺した後、呆然として膝から崩れ落ちてしまったことを知った。
追いかけると予想していた彼は、そのことを意外に思った。そして、なぜそうしなかったのかと不思議に思った。
映像はその疑問に答えるように、二人の過去を映し出した。驚くことに、二人は夫婦だった。
彼はとても悲しい気持ちで胸が押しつぶされそうになり、思い悩んだ。なぜ、愛し合ったはずの二人がこんなことになってしまったのか? どちらにどれだけの落ち度があったのか? 本当に他の解決法はなかったのか?
様々な疑問が湧き起こり、果てはあの女性を助けたことが正しかったのかということさえわからなくなった。
当然、法律上は如何なる理由があっても殺人など許されるはずもない。それは間違いないことだし、犯罪を肯定するつもりは彼にもなかった。けれど、そのもっと奥深くに存在する、正義とか悪とかの定義がわからなくなったのだ。
彼は涙が止まらなくなった。
もうこれ以上は見たくないというのに、先程までと違って今度は彼の意思が反映されない。それならばと後ろを向くと、映像もそちらへ回り込む。
嫌悪感に耐えられなくなった彼は、目を閉じて耳を塞ぐ。それなのに、先程の映像は脳内に直接流れ込み、音声も直接流し込まれる。
「やめろ! もう見たくない! 聞きたくない!」
必死の叫びも通じず、音声と映像はどんどん酷くなってゆく。その大きさも、内容も……。
「やめろって言ってるだろうが!」
もう一度叫んだ瞬間、In the Worldという赤い文字が浮かび上がり、ユウキの脳内へも届いた。それは波打ちながらゆっくりと薄れてゆく。
そして、それっきり全ての音と映像が消えた。
ようやく解放された彼は思った。いよいよ俺は無になるのかと。
しかし、何やら様子がおかしいことに気づく。閉じた目の向こう側が、なぜか明るいことに。
不思議に思って開けた彼の目にはやわらかな木漏れ日が映った。体を起こして辺りを見回すと、青々と茂る木々が連なっている。見たことのない蝶が飛び交い、時々何かの鳴き声みたいな音が聞こえる。不思議な雰囲気の森だ。
その幻想的な雰囲気に、彼はまるで夢でも見ているかのような気分になる。また、彼はここを天国なのかもしれないとも思った。
何がどうなっているのかよくわからず、とりあえずまずは誰かを探すことに決めた。
「おーい! 誰かいませんかー!」
返事の代わりに遠くで嘶きが聞こえ、直後に走り去る音が聞こえた。
周囲に誰もいないと判断した彼は散策を始める。
木漏れ日が宝石のように輝く中、しばらく歩くと泉があった。ここまで来る間に誰とも、何者とも会っていない。
水面を覗き込むときれいに澄み切っている。不意に喉の渇きを覚えた彼はおもむろに手を差し伸べた。注意書きのようなものはなかったし、飲んでも問題ないだろうと思って。
だが……。
「こら! そこの人! どうしてここにいるの!?」
「ひい! すみませんすみません! 飲んじゃいけないとは知らなかったんです!」
彼が振り向いた先で、一人の女性が険しい表情を浮かべている。背はやや高めで、肩までの黒髪と真っ青なドレスがよく似合っており、大人びた印象だ。
彼女をここの番人だと思ったユウキは、慌てて向き直り、そして地面へと手を付いた。
「何を言っているの? そんなことはどうでもいいわ! さあ早く、町へお戻りなさい!」
女性は張り詰めた様子で、せっかくの透き通った美声に焦りの色が滲む。
「えっ!? ま、町って……」
「……あなたまさか! 着ている服もおかしいし、この世界の人間じゃないわね!?」
「す、すみません! 来ようと思って来たわけじゃないんです! 許してください……」
「さっきから何を謝っているの? 私はあなたを心配して言っているの! この森にだってネガティブの魔の手が及んでいるかもしれないのに……」
「ネガティブ……?」
ユウキが首を傾げていたその時。
「あ~ら聞き捨てならないわねえ?」
「なっ!?」
ユウキが再び泉の方へ振り返ると、対岸にもう一人女性が佇んでいた。目は前髪に覆われており、邪悪な笑みを浮かべている。その髪と着物は禍々《まがまが》しい程に真っ黒で、背丈より大きな鎌が目立つ。その容姿は死神と呼ぶに相応しいものだった。