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むかしばなし

作者: 中吉藤黄

 「むかしばなし」


 むかしむかし、って言ったって、わたしの話にはなんの教訓も戒めもない。ただのむかしばなし。隣で寝ている大きないびきを聞きながら、真っ暗な部屋の中に視線を漂わせる。何度も同じことをくりかえしているわたしにとって、むかしばなし、はただの昔の記憶のひと欠片でしかない。


 わたしが小さい頃、近所に、ショウちゃん、という男の子が住んでいた。小学校が終わると、いつもの公園で、いつもの友達が集まって遊んでいた。わたしとショウちゃんを入れて、全員で五人。いつからはじまったのか覚えていないけれど、幼稚園を卒園してみんなが別々の小学校に通うようになっても、その公園に集まるようになっていた。かくれんぼや鬼ごっこやままごとや、毎日のように遊んでいたけれど、飽きることなくみんな笑っていた。晴れの日も雨の日も、暑い日も寒い日も、当たり前のように。

 それでも日が経つにつれてひとり、ふたりと公園に集まらなくなった。小さな世界が小学校に通うようになって少しだけ広がったのだろう。陽が暮れているのが早くなりはじめたころ、気づけばわたしとショウちゃんだけになっていた。わたしも小学校で友達みたいな存在はできたし、放課後に遊ぼうという誘いもあったけれど、ショウちゃんが来る限りは公園に行こうと決めていた。公園に行けばショウちゃんがいる。それだけで良かった。


 ひとり暮らしをしているわたしの部屋は、大学に通っているころから住んでいるワンルームの狭い部屋だ。あまり物を置きたくないので殺風景だ。そしてわたしの部屋はまわりから、ラブホテル、と呼ばれている。わたしはその呼び名を部屋に来た男から聞いた。

「シンプルなラブホテルだな」

 わたしが誰でも部屋に連れ込むという噂を聞いた男が思わず呟いた。しまった、みたいな顔をしていたけれど、わたしは、殺風景ってよく言われるの、と言って笑った。男はそのままわたしにキスをしてベッドに倒れこんだ。

 わたしは別にセックスが好きなわけではない。ただ誘われたらほとんど断らない。この部屋に何人もの男が入り込んできては、わたしを抱き、朝になれば部屋から出て行った。わたしも朝になれば大学に行き、仕事に向かった。朝日が昇れば部屋から出て行く。それは当たり前のことだから。

「損をするのは女なんだから気をつけなくちゃ」

 まわりの人からはそんな言葉をたくさん聞いた。裏ではわたしのやっている行為を犯罪かのように眉間にしわを寄せて軽蔑の眼差しで口を歪ませながら言っている人間が、わたしの前ではわたしを心配しているかのような表情で、裏でしている同じ表情で、言った。

「大丈夫。避妊はしているから」

 なにが損するのかよくわからないけれど、おそらくこういうことなのだろうとわたしは言い返す。

「避妊してるって言っても、絶対じゃないんだから」

 たいていの人は必ずこう返してくる。わたしを見ているようで、わたしの向こう側を見ているような目で。世の中に、絶対、なんてことはないってみんな言ってるじゃない、と思いながら、わたしは笑ってすごす。


 ショウちゃんがどこに住んでいるのか、わたしは知らなかった。家どころか本名すら。みんなが、ショウちゃん、と呼んでいたからわたしもそう呼んでいただけだった。本名を知りたいとは思わなかった。ショウちゃんはショウちゃん。それさえわかっていれば大丈夫だった。ショウちゃんはわたしのことを、なっちゃん、と呼んだ。公園に行くたびショウちゃんがいて、たまにわたしがショウちゃんのことを待っていた。ふたりだけでもいろんな遊びをして、晴れれば公園を駆け回り、雨が降ればトンネルのついたすべりだいの下で一緒にいた。ショウちゃん、なっちゃん、と何度も呼び合い、笑った。

 ただショウちゃんは、五時になるとどんなに遊びが盛り上がっていても必ず帰った。公園にある塗装の剥げた時計を見て、五時ぴったりに。

「じゃあね、なっちゃん。またね」

 ショウちゃんは毎回そう言うと、笑顔で大きく手を振った。わたしもショウちゃんに手を振る。ショウちゃんはすぐに振り返って公園を出て行く。角を曲がるとすぐにショウちゃんの姿は見えなくなる。わたしはそれがとても哀しかった。見えなくなったショウちゃんの背中を探すように公園を見渡し、また曲がり角を見る。また、なっちゃん、と言って笑った顔で手を振ってくれるのではないかと。ただ、一度も、ショウちゃんが顔を出すことはなかった。わたしはそれをわかっていたけれど、毎回、同じことをくりかえした。

 ショウちゃんがいなくなった公園でわたしはひとり、しばらく佇んだ。来るはずのないショウちゃんがいつ来てもいいように。まわりにはほかの子供たちが遊んでいたり、それを迎えに来る親たちが何人かいるだけだった。わたしは首からぶら下げた鍵を握りしめ、家に向かう。わたしの両親は共働きで、七時をすぎないと帰ってこない。わたしは鍵を開け、からっぽの家に帰る。ただいま、と一応声に出してみる。もちろんなにも返ってこない。すぐにテレビをつけ、音量を上げる。空っぽの家の中に無機質な音が響いていく。無性にさみしくなって、何度か泣いた。声だけ響いて、なにも返ってこない。はやく明日にならないかな。そうすればまたショウちゃんに会える。家の中ではそんなことばかり考えていた。

 ある日、いつものようにショウちゃんと遊んでいると、いつものように五時を迎え、いつものようにショウちゃんは言った。

「じゃあね、なっちゃん。またね」

 大きく手を振り、背を向けたそのとき、わたしの頭の中にはからっぽの家が流れた。

「ねえ、ショウちゃん。わたしの家に、来ない?」

 ショウちゃんは笑顔を消して、わたしの前まで歩いてきた。

「なっちゃん、女の子がそんなこと言ったらダメなんだよ!」

 ショウちゃんは今までに聞いたことがないような強い口調で言った。

「……そうなの?」

 わたしはたださみしかっただけなのに、もっとショウちゃんと居たかっただけなのに、なんで怒られているのかわからなかった。背の高さは同じくらいなのに、やたらと見下ろされているような気がした。

「じゃあね、なっちゃん。またね」

 ショウちゃんは、笑顔で言った。わたしはショウちゃんが角を曲がる前に背中を向け、公園をあとにした。


 大学に通うようになって働きはじめても、わたしは誰もいない部屋に帰っている。仕事は定時が五時の会社を選んだし、残業だって極力しない。からっぽの部屋に帰るのは慣れているはずなのに、このまま家に帰りたくないと思う日がある。今の時代、どこにいたって誰かしらと出会うことはできるし、連絡をとることだって簡単だ。近いようで遠く、包まれているようで放たれている。五時をすぎると心のすみっこで人を探しているのかもしれない。からっぽの家を埋めてくれる人を。わたしは無理矢理にでも理由を探す。だって誰だってなにかしらの理由をつけたがるから。

 わたしは隣でいびきをかいている男の顔を見る。みんなからは、ショウちゃん、って呼ばれている。小さいころかららしい。同じ歳で、ショウちゃんの面影があると言えば、ある。仕事が終わって居酒屋で飲んで、そのままこの部屋にやってきた。この人は、はじめてこの部屋にやってきた。シンプルな部屋だね、と言ってわたしをすぐに抱きしめた。わたしは酒の匂いに包まれた彼の胸で目を閉じた。手を振って笑顔で消えていくショウちゃんが現れ、去っていく。目を開けると大きなショウちゃんが目の前にいる。なぜこの男がこの部屋にいるのか理由を探してみる。名前がショウちゃんで、今日はからっぽの家に帰りたくなかったから。わたしが見つけた理由は、今、思いついた。


 ショウちゃんに怒られた次の日、ショウちゃんは公園に来なかった。わたしはいつものように小学校が終わって公園に直行した。秋を迎えていたのに、その日はやたらと暑かった記憶がある。わたしが先に来てショウちゃんを待っていることなんていくらでもあったから最初はおかしいともなんとも思わなかった。ひとりで時間をつぶしながら、何度も公園の錆びた時計に目をやった。いつもならやってくる時間をすぎてもショウちゃんは来ない。公園の様子はいつもと変わらない。何人もの子供が声をあげ、親たちが集まってなにやら話している。ショウちゃんがいない以外、いつもの公園の光景だった。わたしは何度も時計に目をやる。時間はいつまでたっても進まない。時計を見る間隔はどんどん短くなり、もしかしてという思いが芽生えると、時間が経つのはだんだんはやくなった。五時というタイムリミットに向けて、針が止まることはない。わたしはいつもショウちゃんがいなくなる曲がり角に向かう。車が何台か走り抜け、買い物袋をぶら下げた自転車がチリンと鳴っている。太陽は橙色に染まりはじめ、影が長くなってくる。わたしは何度も公園を歩き回り、曲がり角まで走っていき、すべりだいの中に座った。

 時計の針が五時をすぎてもショウちゃんは現れなかった。わたしは家に帰って泣いた。いつもとは違う理由で。涙が枯れると、明日はきっと来る、と思うようにした。それを信じて早く寝た。次の日、小学校が終わると、少しゆっくりめに公園に向かった。公園の入り口に辿り着くと、ゆっくりと中を見た。いつものようにほかの子供たちが遊んでいて、大人たちが囲んでいる。すべりだいや鉄棒や砂場や、ひとつずつゆっくりと視線を移していっても、ショウちゃんの姿はなかった。

 その日以来、一度もショウちゃんの姿を見ることはなかった。わたしのあの言葉で愛想を尽かしたのか、引っ越したのか、死んだのか。小さいころのわたしはもちろん、今のわたしでさえ理由がわからない。ショウちゃん、というあだ名以外、わたしはショウちゃんのことを知らなかった。家を知らなければ、本名さえ知らない。知っているのはショウちゃんがいなくなる曲がり角だけだ。何日も泣き続けてから、ショウちゃんはもう公園に来ないとわかってから、わたしは公園に行かなくなった。それでもたまに、理由をつけては、公園の前を通った。もしいても気づかないふりをしようと、横目で公園の中にいるショウちゃんを探した。今までの公園とは違う光景が、いつしかショウちゃんのいない公園がいつもの光景になっていった。


 ショウちゃんがわたしを裏切ったから、わたしはショウちゃんの言うことを聞かなくなった。暗闇に目が慣れてくると、隣で寝ている男の顔がはっきりと見えるようになってきた。リズミカルないびきがたまに途切れる。死んでしまったように時が止まり、また動き出す。わたしはカーテンを少しだけ開けて窓の外を見る。月は半分ほど欠けていて、薄い雲がかかっている。輪郭がぼけて平べったくなっている。

 ショウちゃんが言った言葉がずっと頭のはしっこに引っかかっている。まわりの人になんて言われようと気にならないのに、ショウちゃんの言葉だけはわたしを、チクリ、と刺す。わたしは寝ている男の耳元でささやく。

「ショウちゃん」

 男は、うーん、とうなって、またいびきをかく。リズミカルで、たまに止まるやつを。わたしは小さく笑った。こんなことをしていれば、いつかきっと、またショウちゃんが言ってくれるはずだ。

「なっちゃん、女の子がそんなこと言ったらダメなんだよ!」

 輪郭のぼけた、成長したショウちゃんがまぶたの向こうで言う。答えはもう用意している。ごめんね。わたしはそう言おうと決めている。

 むかしむかし、ではじめる物語は、めでたしめでたし、で締められるはずだ。なんの教訓も戒めもない、わたしのむかしばなしが、そうなることを誰よりも願っている。わたしはもう一度、ショウちゃん、とささやいた。


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