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横山君と一之瀬さんの天気模様  作者: 青田早苗
横山君と一之瀬さん
12/17

横山君とせいやくん1

 4曲目のあとの休憩から、5曲目の演奏に向かう。

 ステージに出る直前、ふと足が止まった。ピアノの前に座っているせいやくんの後ろ姿が、今までと違う。

 極端な表現をすれば、今まではいやいやではないけど弾くのに乗り気には見えなかった。

 でも今は本気で臨もうとしている、と分かった。思わず、あたしも背中を伸ばす。


「一之瀬さん。」

 小声で呼ばれる。隣に目を向けると、晴れやかな表情に真剣な眼差しをしたせいやくんがいた。

「ありがとう。終わったら、もう一回言いたいけど、一之瀬さんのお陰でピアノもう一回やれた。」

 自然と自分の口角が上がり、目じりが下がったのが分かった。


―せいやくんのその顔が見たかったんだ―


「うん。」

 頷きながら、座る。


 指揮棒が振られ、目で合図し、二人同時に白と黒の鍵盤を鳴らした。





「横山君ってば、こんな所にいたの?」

 薄暗い礼拝堂の一番前の席に座っていた僕の背に声がかかる。


 礼拝堂は昼間の熱が嘘のように静まり返っていた。でも、僕の頭の中では最後の曲の旋律がはっきりと奏でられていた。体のどこかに未だ熱が残っている一方で、やり遂げたんだと言う爽快感も湧きあがっていた。それは、ピアノを辞めてからは感じたことのない感覚だったけれど、理由は分かっている。


―本気でやるって、こういうことなんだな―


 神父さんにダメ元で頼んでみたら礼拝堂の鍵を渡してくれて、帰る時にメッセージボックスに入れるように言われた。学校の規則を考えたらありえないことだが、心配りがありがたいと思う。


 こういう時に、皆がそっと周りで見ているような時に、一之瀬さんは遠慮なく僕の近くにやってくる。なんのためらいもなく。

 ちょっとだけ距離を開けて僕の左隣りにぽすっと座る一之瀬さん。

 煩わしいとばかり思っていたけれど、一之瀬さんがこうやって側に来るのは嫌な気分じゃない事に気がついた。多分、今までは、誰かが近くに来ることに慣れていなかったのだろう。


「はい、これ。随分、無理したんじゃないの?朝からだったでしょう?」

 ひんやりとした感触が左肩にあたる。どこかの模擬店で使っていたのだろう小さな保冷剤数個と、ハンドタオルだった。

 何となく、バツが悪くなり、さりげなく右手で左手首のリストバンドを隠した。

 一之瀬さんが呆れたようにこちらを見ている。その視線を遮りたくて、一之瀬さんから目をそらすように顔を右下に伏せて眼鏡を外すと、左手で髪をかき上げる。

「よく、気がついたね。」

 一之瀬さんの視線を左手で防ぎつつ、いたずらが見つかった子どもが陰から顔を出すように、手の陰から彼女をのぞき見る。

「そりゃあ、あれだけあたしの伴奏の力加減に文句言ってきたのに、いきなり左の音だけ弱くなるんだもん。見てみたら、リストバンドまでついてるじゃない。しかも、終わった後、立花君が大丈夫だったかって聞いてくるし。」

 内緒にしたいからって言ったのに、と少しだけ立花君に文句を唱えて、天井を仰いだ。

「やっぱり、ばれちゃったか。ありがとう。」

 ハンドタオルに保冷剤をならべ、細長く三つ折りにして手首の周りに巻き付けた。




 外はもう夕暮れ時を過ぎた時間で、空の中腹に昇っている半月の光がステンドグラスを通っていた。窓からの逆光で横山君の表情は良く見えなかった。

「僕、小五の時、いじめられてたんだよ。」

 ふと、横山君が口を開く。

 そうだろうとは、思っていた。昔の横山君は人に興味がなかったけれどもう少し明るくて、今までのように他人を寄せ付けない雰囲気を出す人ではなかった。ピアノをやめた前後に、急に今までのようになったので、どうしたのかと思っていた。


「小学校の音楽室でさ、ピアノ弾いてたんだ。結構、低音から高音まで使うような曲でさ、ピアノ弾いてる人にとっては上体を音に合わせて揺らすのなんて普通のことだけど、小学校の男子でしょ、面白がってみんな真似してからかってきたんだよね。僕も馬鹿だったんだけど。一緒になって面白がれば良かったのに、意地になって怒っちゃって、それから、何してもからかわれちゃって。小六の頃には、空気状態だったんだ。」

 だから、中学に入っても目立たないようにもっさりをキープしていたのだろう。

「そんなんで、原因になったピアノも弾く気が起きなくて、でもやっぱり弾きたくて。正直中学入ってから、全然楽しくなかったんだけど、最近、もう一度ピアノを始めてから、なんか楽しいんだよね。」


 ステンドグラスを背に、横山君がこちらを見た。

「一之瀬さんがここで弾いてみてって声かけてくれたからだよ、ありがとう。」

 逆光で表情ははっきりとは見えないけど、背後の柔らかい色とりどりの光に包まれたその声で、微笑んでいるのが分かった。つられてあたしも微笑んだ。


 と、横山君が立ち上がり、ピアノに近づいた。一瞬ためらうように、でも、そのためらいを振り払うように、両手を鍵盤に乗せた。

 低い音が礼拝堂に響き渡る。音の存在が、祈りの空間が静寂に満ちていたことを思い出させた。ゆっくりと始まる旋律、そして少しずれているように聞こえて美しくからまる音。


 ショパンの幻想即興曲。


 きっと、これがピアノをやめる原因になった曲。

 低い方の音が時たま抜けるのは、左手が痛むせいかな、とも思うけど、演奏を止める気にはなれなかった。


 せいやくんは、今、この曲を弾く必要があると思ったから。

 

 軽やかながら激しくも感じる短調の旋律。

 まだ慣れていないからか、僅かに滑らかさを欠いた音が、弾きたいのに向き合えないでいたせいやくんを思い起こさせる。

 やがて、音調が変わり、柔らかくも甘やかな夜の光を思わせる旋律が礼拝堂に満ちる。ステンドクラスを通って来た月光が音に合わせて揺らぐ。

 そして再びの短調。最初と同じ旋律のはずなのに、今度は滑らかでそして低音がより深みを増したように感じる。

 両手で紡がれる音の中、時折、名残惜しそうに聞こえてくる短い旋律。


 そして、だんだんとゆったりとしたテンポになり、最後の音は薄暗い闇に溶けていった。


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