零
ほう ほう ほたる こい
あっちのみずは にがいぞ
こっちのみずは あまいぞ
ほう ほう ほたる こい
――――――それは、冷たい眠りに着くその刹那に垣間見える、ひとつの光だった。
耳を劈くほどの轟音、鼓膜を震わす振動。その場にいる全ての者に等しく降りかかる鳴動ののち、誰かの頭蓋の砕ける音がする。
それは一発の弾薬。
その鉛が残す軌跡は、炎ともいえぬ熱を残していく。
等しく命を食い荒らしていくその炎は、鬼火にも狐火にも非ず、寧ろ蛍火のような刹那の種火だった。
その儚い灯を、誰しもが畏れた。
やがて、ある噂が広まる。
この国中を行脚する商人の間で、口伝に広がりつつある、幼い噂話。
日本中を放浪する、凄腕の鉄砲上手の話だ。
どんなに離れた場所であろうと、獲物がどれだけ速く馬を駆っていようと、その者が放つ弾丸は寸分狂わず獲物の額に命中するのだとか。
一発あれば仕留められる。二発目は必要ない。
その迷いのない軌跡を残す一粒の鉛で、対象は必ず死ぬのだから。
ある商人の話では、160間(約290m)ほど離れた山から、一瞬青白とも燈とも言えぬ美しい光が刹那垣間見えた。
その直後耳の中に落ちるような鳴動がし、次の瞬間には、その商人から27間ほど離れた家の中から悲鳴が聞こえた。
駆けつけてみれば、家の中では着物を剥かれかけた若い女が、男に跨られながら半狂乱で泣き叫んでいた。
暴漢に襲われていたのだろう。
しかし、不思議な事にその暴漢は既に事切れていたのだ。
額には穴が一つ。人差し指ほどの太さの、歪みのない丸い穴だった。
男に苦悶の表情が無い事から、その死は正しく一瞬の出来事だったのだと読み取れた。
恐らく種子島(鉄砲)で撃たれたのだろう。
だが、ここに種子島の射程距離の、この家の中のこの暴漢の額を寸分なく狙える場所などない。
その途端、何故か商人の脳裏に、あの向こうの山の光が過った。
まさか、と家の外を、見た時だった。
家の前に広がる田に、その空を覆い尽くすような蛍の群舞が存在していた。
あの轟音に驚いたのだろう、潜んでいた蛍が一斉に飛び立ったのだ。
――――――蛍は死んだ人間の霊魂だという言い伝えがある。
あの死んだ男の魂を、空へと連れて行くかのような、そんな幻想的な景色だった。
あの山の一瞬の灯は、この蛍たちのような、微かな光だった。
あの光が、あれから放たれた鉛玉が、この光景を作り出したのだろうか。
この蛍達の長が、あの暴漢を蛍へと変えた。
そうなのだと信じた商人は、まるで御伽話のように言い広めた。
それ以来その狙撃手は『蛍』と言う名で言い広められた。
『蛍』はそれ程の腕を持ちながらどの大名にも仕えず、対価次第で仕事を受け、そして完遂してみせるという。
しかしその対価は依頼者の命だとか、その者の最も大切なものだとか、目が飛び出るほどの金額だとか、噂ははっきりしない。
しかし法外な程の高い報酬であることは確かのようだ。
容姿も、名前も誰も知らない。
姿を現したかと思えば、次の瞬間には闇に紛れて消えていく。
本当に蛍のように朧げな存在である、とまことしやかに噂は流れる。
耳から耳へ、噂は流れる。
ほう ほう ほたる こい
あっちのみずは にがいぞ
こっちのみずは あまいぞ
ほう ほう ほたる こい