一章 終わる平穏
三月十八日。爺の第一声は「御主人様。またそんなに」だった。
「わりーか。俺は苺ジャムが好きなんだよ」
通常の二倍程厚くなったトーストにガブッと噛み付く。うーん、美味い。
だが、流石伊達に年を食ってない。尚も言い下がる。
「三日前のマーマレードも、五日前のチョコレートもそう言ってましたが、私の気のせいでしょうか?」
「ああ」
意地悪そうに白眉を吊り上げる。
「この後にベリーパイを控えた方の言う事とは思えませんが」
「それは別腹」
「明日は人間の貴族の方の御招待を受けておられたような」
「明日は明日の風が吹く」
「全く、程々にして下さいよ」
老執事は諦めたのか笑い、春野菜サラダを食べ始めた。
木造の二階建て小屋。一階のダイニングで俺と老執事はメシを食っている。リビングの寝椅子に掛ける時は菓子に限定される。面倒な時はそっちで食べたくなるが、この爺さん頭から火を出しかねない勢いで反対する。三食ぐらいは姿勢を正せ、と言うのが持論。
「……またか」
左手首に刃物で切ったような傷、の影があった。十センチ前後。痛みは“まだ”無い。
ウィルベルクという男、つまり俺には一つ厄介な能力がある。運命視という、未来の傷を見通す目だ。但し見えても回避はできない。うっかり見つけた日には鬱がぶり返す、便利でも有り難くもない。精々事前に手当ての道具を用意できる程度の役にしか立たない。
「馬鹿じゃねえの、俺」
虚勢でも、張っていれば気が少しは楽になる。
壁掛け時計は九時十分をさしている。半日に一回鳩が出てくるゼンマイ仕掛け、もう三十年間無修理で動いている。
「今日は一日中寝てるかな。特にする事ねえし」ミルクコーヒー色の前髪を弄ぶ。
「今日“も”、の間違いでは?」
「勘違いだよ」
痛い所を突く。俺が極度の出不精人間嫌いと知ってて言うのだ、この爺さんは。
「いい天気ですし、剣の練習でもなさったらいかがです?」
リビングに掛かった物を指差して提案する。
「やだ」
強盗も悪魔もいない田舎でそんな疲れることできるか。
「では洗濯などは?今日はよく晴れていますからね、すぐ乾きますよ」
「いいよ。別に洗う物ねえし」
昨日そう言って、自分でベッドシーツまで含めて全部やったじゃないか。
「そうそう、畑もそろそろ耕さないといけませんね。草むしりが先でしょうか」
逃げよう。腰を上げかけた時だった。
「そうだ御主人様、家事が嫌ならお隣さんにパイを届けてきて下さい。歩いても片道“たった”三十分。いい運動になりますよ」
「隣……あったか?って言うか、転移は?」
家の周りに拡がる半径十キロの天然森林、通称“聖樹の森”。その中なら老執事はどこでも転移が使える。おとぼけ老人に見えて森を統べる聖樹の化身、人(樹か?)は見かけによらない。
「駄目です」あっさり。「それだと御主人様の糖分消化になりません」さらっと本音が出たな。
「いい年した大人がぐーたら生活するものではありません。はい、たまには労働しましょう。脂肪燃焼メタボ解消」
「どう見たって太ってねえだろ……ちぇ、分かったよ。パパッ、と行ってパパッ、と帰って……寝る」
爺は俺を見て忍び笑いを洩らした。
「はいはい、結構です。南の廃屋はご存知ですよね?同居の方に頼まれまして」
しばらく考えて、「ああ、あのオンボロ屋か」と手を叩いた。
「あんなトコ住めないだろ。ホームレスか?」
「いえ、違います。今なら“取り合えず”はいると思いますので、よろしくお願いします」
「“取り合えず”って、何だよそれ」
「訪ねてみればお分かりになると思いますよ」
石で組まれた平屋に二人の人間がいた。
一人は十代にも満たない青い髪の子供だ。もう一人は二十代前半の男、黒髪を肩まで伸ばしている。二人は一枚の茶色い毛布に共にくるまって暖を取っている。
「本当に行くの?」
黒髪の方が不安を目に溜めて訊ねた。少年はコクリ、と頷き、「もう決めた」と言った。
「明日、必要な物を買ってくるよ。兄様はここでお留守番しててね」
「必要な物……身体が良くないから?」兄様と言われた黒髪が小首を傾げて尋ねた。
「うん、ちょっと無理し過ぎたみたい。でも薬を飲めばすぐ治るよ。あ、もちろん安静にしててよ」
青髪の子供はそう言って、顔色の悪い兄の髪をそっと撫でた。
部屋の中を見渡し、遠出に必要な物を整理してバッグに入れ始めた。財布、パスポート、タオルに下着。兄に背を向けながら話しかける。
「僕がいない間、外へはなるべく出ないでね。だるかったら無理しないで寝てて。ご飯はそこに乾パンと干し野菜、固形スープの素はいつもの所。水分の補給は忘れずに。ええと、それから」
「心配してくれてありがとう、オリオール」
「家族だから当然だよ」少年は照れ臭そうに言う。
「あと、知らない人は絶対、ぜえーったい家に上げないこと。聖樹のお爺さんが時々見に来てくれるから、それ以外は戸を閉めておいて」
うん、と青年が素直に言う。
「朝一番の船で行ってくる。えーっと、そうだなぁ……運が良ければ二日ぐらいかな。見つからなくても五日したら一回帰ってくるよ。兄様の顔見にね」
「オリオール。一緒に行っちゃ駄目なの?五日も一人だと寂しい」
「なるべく早く帰ってくるよ。兄様を放っておくわけないじゃない」
横になっている青年の隣に座り、薄い唇に自分のを重ねた。僅かな体温を確かめるためにちぅ、と音を立てて吸い付く。
「僕は必ず帰ってくるから、待ってて」
「で、来たいいが……」
廃屋は一階建てで、灰色の石で組まれていた。元は薬草研究をしていた学者の住処だったが、二十年程前老衰で死んだ。以来、ここを訪れた者はいない。老執事の話だと十日前から男の二人組が出入りしているらしい。そして今は一人が留守番をしている。
……静かだ。暇があれば寝ている俺でさえ起きる時間だというのに、気配が全くしない。よほどの朝寝坊か。
「よっと、入口は……おーい、誰かいないのか!?」
木の上で小鳥が二、三匹囀った。
ドンドンドンッ!
少々乱暴にノックをしてから、真新しい木のドアを開けた。わざと靴音を響かせ石畳を歩き、中に入る。
「もしもーし、不法侵入してますよー。おーい……」
家は二部屋に分かれていた。三畳ぐらいの玄関には黒い傘がぽつん、と壁に立て掛けられている。埃は綺麗に払われていた。という事は、一応誰か在宅中か。
「ホントにいるのかよ……」
段々不安になってきた。森の中のことなら全て分かる執事が嘘を言っているとは思わないが、これでは疑いたくもなる。
「幽族でも少しは反応するぞ、ここまで入ったら」
仏さんになってんじゃねえか、とちらり考えた。我ながら何て適切かつ妥当な予想だろう。
奥の部屋、居間へのドアをゆっくり開いた。
ギ―――ィッ……………………
「おはようございま………」
いた。
部屋の中央。茶色の羊毛布を上掛け、茣蓙のような物を敷いて眠っている。
黒髪を肩まで無造作に伸ばし、一本の癖もない。毛布から浮かぶのは女にしても華奢過ぎる体で、年齢と身長は自分と同じぐらい。天井に向かった顔が窓から入ってきた日光に当たって黄みがかる。
月、だ。太陽とは決して相容れぬ儚い美しさがある。
「………綺麗だ……」
何を言っているのだ。顔の造型は素晴らしいが、胸で紛れも無く同性と確認できる。
人形の小鼻から寝息が微かに漏れている。爺の言ったとおり“取り合えず”いるし、一応生きてはいるが当分起きそうにない。とりあえず青年の隣に腰を下ろし、パイの入ったバスケットを床に置いた。
棚、整頓して床に置いてあるもの、約十畳の部屋を見渡す。微かに違和感を感じたが、とりあえず目に付いたのは隅の水瓶だった。水の残り具合から見るに今朝の分も無い。
「確か、裏に湧き水があったな……」
瓶を両手で抱えながら、玄関を潜り裏に回った。清水が滾々と湧き出し、緩やかな小川を作っている。小魚がニ、三匹右から左へ泳いでいった。
「ん?」
茂みの中から兎が跳ね出した。よく見ると、首に白いハンカチを巻いている。
「怪我してるのか、お前」
手を伸ばそうとすると、奴は素早く撤退した。食われるとでも思ったのだろうか。
たわしで一通り洗ってから、中にあった柄杓で水を注いだ。八分目まで入れた所で、今度は底を地に付けたままゆっくり移動させる。その度中の水が揺れる。ちゃぷちゃぷ。
運んでくるまでで結構腰が辛い。少し減らせばよかったと後悔しつつ再び玄関の戸を開けた。
「うわっ!」
月の青年が立っていた。所々布の擦り切れた薄藍色の浴衣を着た彼は、ぼんやり眼のまま瓶と俺を交互に見た。
「……誰?その瓶が……いるの?」
まだ眠いのか目が半分閉じている。彼は少し思案した後、「どうぞ持っていって」と言った。
「それは借りているこの家の物だけど、困っているなら聖樹さんも許してくれる……と思う」
誤解している。こんな古い、かと言って骨董品でもない、しかもクソ重い瓶をどこの誰が欲しがるのか。おまけに口の縁に三箇所も罅が入っている。
「違う。中が空だったから」
「………え?」
「水を汲んできた。ちょっとどいてくれ、部屋まで持ってく」
よっと。一瞬底を浮かして僅かな玄関の段差を越えた。本気でボランティアだ。明日は筋肉痛になるかもしれない。
「……手伝って、いいですか……?」
枯れ枝のような両手が淵に掛けられる。殆ど助けにならぬほどか弱い腕力。それでも懸命に助力しようとする青年に「ありがと」と声を掛ける。
「重い……」「無理するなよ」
協力して五分後、ようやく運び終えた。青年は棚から瓶口に掛ける清潔な白い布を取り出す。同時に出した二つの木のカップで水を汲み上げて両手で差し出した。
「お茶の葉っぱ、切れていて……お水しか出せなくて、あの」
おずおず、という感じで突然の来訪者に謝る。
「い、いいよ。丁度喉渇いてたところだしさ……ああ、美味いなあ!」
何だかとても済まない気がした。その反動からか普段有り得ないぐらい陽気さを出し、一気に水を飲み干す。森の清々しい味がした。
「もう一杯いりますか……はい、どうぞ」
「サンキュ」
青年は未だ半分も減っておらず、ちびちびと唇を湿らせている。飲まない、というよりは飲み込む力が無い。これでは食事もまともに摂れないのではないか。
「具合悪いのか?顔色良くないぞ。熱は……無さそうだけど」
「あ、うん……しばらく旅をしていて、身体が保たなかったんだろうってオリオールが言ってた」
「――何で旅を?」
見たところ彼はれっきとした病人で、それをおしてまで世間を渡る理由があるようには見えなかった。
「……分からない」
彼は言葉を続けた。
「記憶を無くして……何か目的はあった、けど全部……」
「何も、覚えていないと」
「……うん。船の中からなら覚えてる。オリオール、えと……弟が目の前にいて荷物の点検をしてて。でも……どうして前に座っているのか、どこなのか、誰なのか、一つも分からなくなって」
彼は続けた。
「『どうしてここにいるの?』って訊いたら、あの子とても驚いて。色々質問されても分からない事だらけで。空っぽに、真っ白になったんだ……って」
「だがその、弟君はお前を知っているだろう?一緒に船に乗っていたんだから」
「うん。パスポートを見せて、『小晶 誠』が名前だって。あの子は家族で、目的のある旅に付き添っている、だから安心して、って教えてくれた。肝心の目的は解らないけれど、旅をしていればきっと思い出せるだろうって」
小晶 誠は無垢な笑顔を浮かべた。
「だから誰か分からなくてもいいの。オリオール、喜んでた。どうしてかは分からないけど、あの子は前の事を話したくない」
何て……素直な奴だ。
「それで、お前は本当にいいのかよ?自分の事だろ、思い出したくないのか?」
「え?……優しい人ですね。オリオールが悲しむと思って、考えもしなかった」
それなら彼こそ優しい人だと言うのに。悪意を欠落して生まれ出た人間、正にそれだった。
「……まーくんは寂しくないのか?弟は外出、誰も来ない森で一人お留守番なんて」
「まーくん……(自分を指差して)?」
「変か?普通に呼んだ方がいい?」ぴったりだと思ったが、子供っぽ過ぎただろうか。
彼は首をぶんぶんと横に振った。
「う、ううん。とても嬉しい。ありがとう、ええと……」
「ウィル。聖樹と森の北に住んでる聖族だよ」
「ういる……ウィル、セイゾクさんの」
「ああ、聖族さんのウィルさんだ。呼び捨てで構わない」
聖族という言葉すら覚えていないのか。まあいい、面倒だ。どうせ彼にはあまり関係なさそうだし。
「……あ」
「どうした?」
「あの、寝巻き……」
頬をほんのり桜色に染めて俯く。
「お、客さんが来てるのに……ごめんな」
「いいって!さっきまで寝てたんだから」
俺はビックリして礼儀正しい彼に言った。
「でも」
「そういや、家の前に兎が来てたぞ」
無理矢理話題を変える。
「うん、知ってる。毎朝、会いにきてくれる」
「そうなんだ。あのハンカチ、まーくんが手当てしたのか?」
彼は気持ち俯いて、「うん」と言った。
「怪我、させてしまったから……中々治らなかったけど、もう大分元気になった」
「ああ、元気に飛び跳ねてたぜ。まーくんが心を込めて手当てしたお陰だな」
俺がそう言うと、彼は複雑な表情で「ううん……」と消え入りそうな声で言った。
「そういや、今日の朝メシは?」
「メシ?」
「ご飯、食材、食い物、フード」平易な言葉に置き換える。十秒して、ようやく彼は理解したようだ。
「ああ。二日前に今にも倒れそうな人が来て」
自分はもう倒れているじゃないか。
「まさか、全部そいつに食わせたのか?」
「あ、うん。元気になってすぐ出て行ったよ」
ため息を一つ付き、バスケットを開けた。冷たくなりかけたベリーパイが四つ入っている。
「これ、パイ?」
「まーくん。二日間マジで水しか飲まなかったのか」
「う、うん……お腹、あんまり空いてなかったし」
「それはなぁ、絶食したと言うんだ」
「ぜっしょく……?」
「オリオール君もメシはきちんと三食摂れと言ったろ。体力ないんだから、買うなり爺にたかるなり」
いささか説教臭く言った。誰も気付かない内に死んだらどうするんだ。ストン、と餓死しそうで怖い。
「おい、爺!!」
「はい、御主人様」
ドアから入ってきた老執事は深々と会釈をした。
「おはようございます、小晶様」
「お、おはようございます、聖樹さん」吃驚している。
「いつからそこにいたんですか?全然気がつきませんでした」
「今さっきです。ああ、すぐ退散いたしますので御気になさらず。お水は結構ですよ」
(爺!何で助けなかったんだよ!)アイコンタクトで叫ぶ。
(行き倒れ何某のせいでまーくん死にそうなんだぞ!)
(……お言葉ですが御主人様。その何某を家に入れなかったのは)
……忘れてた。そういやそんな事もあったような………。
(この森には食おうと思えば食える物が沢山あるから)
(わ、分かったよ!俺のせいです、ごめんなさい!)
沈黙の問答の後、俺はいつも通りの調子で言った。
「爺、食材揃えてくれ。夜までに」
爺はコンマ〇・一秒意地悪な視線をよこした後、いつも通りニッコリと笑って頷いた。
「はい。それでは小晶様、夕方お持ちしますね。この辺りに置いておけばよろしいでしょうか?」
人差し指で棚の下の辺りを指し示す。
「はい。ありがとうございます聖樹さん。それと」
「はい。何でしょう?」
「誠、でいいです。呼ばれ慣れてなくて」
「はい、誠様。では、私めはこれで失礼させていただきます。今日はお婆さんとの約束がありまして」
「また碁かよ。よくやるぜ」
「面白いですから。では」
次の瞬間にポンッ!と消えて、元通り何も無い空間だけあった。
「さて今夜からのメシの心配は無くなったと……ま、とりあえずコレ食え。そうだ、昼の間に村へ行くか。こんな田舎でも一応医者はいるし」
付き合ってやるよ、と呟いた。
「貧血ですね、こりゃ」
教会の牧師兼医者はそう診断を下した。
「しかもかなり重度だ。何、旅の途中?いかんいかん。早いとこ“黄の星”の病院に手続きしたまえ。ウィルさんは聖族の中でも一応偉い(んだよなあ?)……方だからね、いい所に入院させてくれるだろう(多分)。それにしても、君平気なのか……いつもこう?脈も血圧も随分低い、普通なら倒れてるぞ」
説法の時間を前倒しして診察を受けている。説教席の前で椅子に座る(面接を受けるように行儀よくしている)誠、席に老医者がいる。
「はい。旅の時もよく倒れました」
「倒れる前や後に、頭が痛くなったり吐き気がしたりとかはあるかね?」
出掛ける際、旅で着ていたという真っ黒の衣服に着替えた。“碧の星”ではあまり見かけない、ローブに似たデザインだ。ちなみに彼はこれと浴衣と、あとフリル付きの薄緑のシャツとグレーのパンツしか持ち合わせがない。サイズは俺と同じなので後で適当に見繕って渡そう。
「無い……です。いつもふらっ、としてそのまま……」
村人達は説教の事など忘れて(マジメに聴きに来る奴なんかいるのか?)やりとりを見物している。
「そうだなぁ。とりあえず鉄剤を処方しよう。それと薬草で作った滋養強壮剤、毎日朝夕お茶にして飲みなさい。しかし、なるべく早く大きな所にかかることを薦めるよ」
医者はそう言うと奥の扉から倉庫へ引っ込み、数分後持って来た小さい紙袋を渡した。
「これで足りますか、薬代?」医者は一枚ずつ数え、足りていると言って小さく頷いた。
「ありがとうございます、お医者さん」深々とお辞儀をする。医者もつられて会釈する。
「いやいや。健康を預かる者として当然のことだよ。
さあさあ、お集まりの方々。今日も説法を始めますよ。寝ている方は容赦なく叩き起こしますからね」
医者は(鬼)牧師へと変貌し、椅子を片付け分厚い聖書を手に取った。
「今日は大父神が七種を作った話をします。くおらあっ!!そこの悪ガキ走り回らない!」
誠は前から二番目の席に座った。長椅子が五列十席あり、南側の内側だ。隣には寝る体勢の俺。又隣には俺の友人だとのたまう中年男が既に寝ている。村の農夫でオウグ、年は四十五。子供の時から頭の中身が人様の半分しかない可哀相な奴だ。
「どうだった?緊張したか?」
「うん。お医者さん、初めて会った。ウィルも診てもらったら?」
「いや。俺は別に悪い所無いから」
「……?そう」小首を傾げる。
「さて。宇宙と星を創った父は、次に植物と虫と精霊を創りました。最後に七種の知恵持つ生命を誕生させ、創世は終わります。
経典により定められた位により、第一位は人間。以下、聖族、龍族、獣族、幽族、妖族となり……」
常人には退屈極まりない講釈を熱心に聴き(もはやある種の才能だ)、指折り数えていた誠はおや、と首を捻った。
「どうしたの?」
振り向いた先、反対側の席に十三、四歳ぐらいの娘がいる。栗色の髪と目をしたワンピースのよく似合う少女だ。ここいらでは見かけない格好で、恐らく他の星からの観光客だろう。
「あの……さっき牧師さんが言っていたの、もう一度言ってくれませんか?」
少女は一瞬不思議そうな顔をしたが、笑顔で快諾した。
「いいよ。えっと、人間、聖族、幽族、妖族でしょ……あと龍族と獣族だっけ。うん、順番バラバラだけどこれで全部だよ」
小さい指折り数えて、小指だけ立てて終わった。
「……七種なのに、どうして六つしかないの?あと一つは?」
「え……?あ、あの。あなた……」少女はとても驚いた顔をした。
「こいつ、記憶喪失なんだよ。それで、ちょっとな」顔を傾けて説明する。
「ああそ、そうなの……ごめんなさい」
誠はどうして謝られるのか分かっていないようで、小首を傾げて娘を見ている。
「無いのは第七位種。理由はいないから」
「いない……?」
「正確に言うといる。けどまず会う事はない」
「?」
「何故かと言うと……」
とその時隣のオッサン、加齢臭漂うオウグが目を覚ました。
「ふぁ~あ~あぁっ~と。誰かさんが何時になく饒舌だから眠気が覚めちまったぜ」
「なら一生寝てろよ。ほら、奥さんが来たぜ」
二人の婦人がこちらに歩んできた。浅黒い肌の筋肉質な女が盛大に笑う。
「あっはは、アンタまたウィルさんにチョッカイかけてるのかい?もう年寄りなんだから、無理しないでよ」
「うるせー。お前こそ今頃来やがって万年サボリめ。信仰心の無い奴は畑の草でも抜いてろ……ああ、ヨーコさんの付き添いか。もう大丈夫なのか、身体の方は?」
やけに色白の女は「はい」としとやかに答えた。肌の感じが誠に似ている。彼女も病人か?
「牧師さんに診察してもらいに、今日は……」
「まだ良くないのよ。ったくあのヤブ、薬間違えてるんじゃないかしら」
「サチ、それは言い過ぎでしょう。私は誠実にですね」すかさず牧師が反論する。
「セイジツでもヤブはヤブだわ。ウィルさん、どっかいい病院知らない?」
俺に振られても困る。
「あの」
ヨーコの薄い手をそっと握り、誠は声を掛けた。
「どうしたの?」
「氣が乱れています。上手くできるか判らないけど……少しだけ手を貸してくれますか」
一同はしばし困惑していたが、「お願いできるかしら」と言ってヨーコが隣に座った。
「私は何かすればいいの?」精一杯の笑顔で彼女は尋ねた。
「……えと、楽にしてもらえば。肩の力を抜いていれば、巡りも良くなります」
彼は薄い胸を一杯に動かしてすー、はー、と二、三度深呼吸をし、目を閉じた。しばらくして手がほんのりと光を帯び始める。
「あ、温かい……とても心地良いわ」
影響は二人の間だけに留まらなかった。不可視の波が教会にいる人々に作用し、身体の芯から本来の力が蘇っていく。
「精霊が……この空間の中にいる精霊が喜んでいるよ」
少女が感嘆を込めて呟く。水と大地と風の精が舞い踊っているのが見えたのだ。
彼が使っているのは普及している魔術とは似ても似つかぬ、正に奇跡としか呼べない物。今のは安らぎを齎す力だろう。
(しかし……何だよこれ。あんな細い身体のどこから出てくるんだ?)
「大丈夫ですか…?」手を離して尋ねた。ヨーコは急に立ち上がり、教会内を早足で一周した。その俊敏さはさっきとは比べ物にならないほどだ。
「まあまあまあっ!?サチ、身体がすごく軽いのよ!治った、もう全然平気だわ!」
戻ってきてピョンピョンその場を跳ね、友人の手を力一杯で掴んだ。
「よかったじゃないのヨーコ!こんな元気になるなんて、まるで夢みたいだよ!!」
「いえ、まだ無理はしないで下さい。氣が落ち着いていないから」
「ありがとう、奇跡使いさん!!」
途端、教会全体から拍手が沸き起こった。人々は立ち上がり、次々誠に握手を求めた。そして賞賛を以って彼を讃えた。
「よう、奇跡使いの坊ちゃん。何か入り用かい?……なんだ、チーズケーキ一個でいいのか。ちょっと待っとくれよ」
菓子屋の主人は豪快に笑って奥に行った。
あれ以来、村のどこへ行っても誠はえらく歓迎された。昼食も婦人会で特別に用意された物を三人揃ってタダで貰って食べた。
「ほらよ、気いつけて持て。おっと、それとこれはサービスだ。……いち、にぃ……はい、毎度ありぃ!また来てくんな!」
店を出た誠は待っていた少女、リーズ・ビトスにケーキの箱を渡した。
彼女は“赤の星”の学生、幽族と人間の混血。今日は学校の課題で“聖樹の森”の薬草を採りに来ているそうだ。
「誠君、ヨーコさんから貰ったお金全部遣っちゃったの?」
治療費だと半ば無理矢理握らされた金、およそ十万。それをまず俺に殆ど渡し、リーズが欲しがっていたチーズケーキを買う分だけ手元に残した。ここのチーズケーキは牛乳が良質で他とは一味も二味も違う。俺も年に五回は食べる。
「少し返してもらったら?あれは誠君の物なんだもの。ね、ウィルさん?」
「ああ。最低限は家に置いといた方がいい」
ここでなら三ヶ月は暮らせる程の金をいともあっさり手放そうとしているのだ。普通の人間なら絶対にそんな事はしない。
「でも、家の食材を揃えてくれるから……せめてお礼になればいいと思って。もしもの時は宝石があるし」
彼の家の棚には大粒のサファイア、エメラルド、オニキスが一つずつ入っている。出自は不明だが、あれだけでも相当な金になる。が、それとこれとは勿論別だ。
「そうだ、これももらったんだけど」オマケの包みを渡そうとした。少女は慌てて首を横に振る。
「い、いいよ誠君食べて。クッキーでしょ?私もお兄ちゃんもあんまり好きじゃないの」嘘だろう。
「あ、うん。分かった。ありがとうリーズ」
礼を言うのはリーズのはずだが、誠は全く気付いていない。底抜けのお人好しだ。
「大切に食べるね。でも本当にいいの?誰かにあげたりしない?」
「う、うん!私の知り合い、皆好きじゃないの」
「そう……」
リーズは「あれ?」と呟いた。
「誠君って年いくつ?私、つい君付けで呼んじゃった」
「え……っと。二十歳になっているけど」ポケットのパスポートを見ながら答える。
「ああ、それじゃおかしいよね。誠さん……でもちょっと違和感あるなあ」
幼い雰囲気満点の彼は小首を傾げて、「リーズが好きな呼び方でいいよ」と言った。
「うん、分かったよ誠君」
途中雑貨屋でリーズの課題の薬草を購入した。ここでも誠は握手を求められ、しかも二割も値引きしてもらえた。
木陰で休みながら雑談をする。
「今年は暖冬だったからな。森に行っても殆ど枯れてる」
「そーなんだ。ウィルさんがいなかったら今日中に揃わなかったかも。ありがとうございます」
ペコッ。何だか照れる。
「薬草って何に使うの?」
「代表的なのは傷薬や病気の薬かな。アロマで匂いそのものを楽しんだり料理のスパイスもそうだね」
小首を傾げる。どうやらよく分からないようだ。
「うーん……要するに、人を元気にする物なんだよ。まーくんの奇跡みたいに。食べたり飲んだり嗅いだりする。ただ、草によって作用が全然違うし、量を間違えると死ぬのもある」
「死ぬ……の?」
彼の顔が見る見るうちに真っ青になる。リーズが慌てて説明を付け加えた。
「ううん、量って言っても適正の百倍とか千倍だから!誠君の滋養薬にも入ってるけど、きっと致死量って言ったら……」
茶にして飲む薬は、一杯分が小さなガーゼに包まれている。大体三グラムか五グラムぐらいだろう。
少女は畑に撒く石灰の缶(重さ五キロ)をびしり、と指差した。
「あれぐらい!」
多っ!
「あ、あんなに沢山?口に入らないよ」
「うん、だから大丈夫。心配しなくていいの」
「うん」
「この辺りは一年中色んなのが生えてるから、誠君も好きな匂いの草を摘んで部屋に置いておくといいよ。リラックスしていい夢見られるよ」彼女は組手して、「私学校で夢療法の勉強しているの。人の視た夢を聞いて悩み事を解決する、精神医学の一分野なんだ」
「セイシンイガク……って?」
「心の病気を治すお医者さんの事。閉所恐怖症や人格障害、誠君が罹っている記憶喪失とかの専門家なんだよ」
「記憶が無いのは病気なの?そのお医者さんなら思い出せない事を思い出させてくれるの?」
リーズは困惑の表情を浮かべた。
「病気と言うより一つの状態かな、身体の調子が良い悪いと同じ。治療しなくてもある日パッ、と思い出すケースが大半。誠君の場合他に症状は無いみたいだし特に心配する必要無いよ」
「そうなんだ。教えてくれてありがとうリーズ」鬱とは無縁の微笑み。
あれこれ話して村を一通り見て回る頃には、すっかり夕方になっていた。
「でもスゴいなあ。誠君奇跡が使えるんだ。どこで教わったの?」
「奇跡……氣の事?皆は出来ないの?」
「うん。癒しの魔術は使える人いるけど、奇跡はまずいないよ。天性のものだって聞くし。きっと、誠君にはそういう才能が元からあるんだね」
不思議そうな顔をしている彼に、「研究のために押し掛けてくるかもよ」と笑う。しかし当の本人は実感が湧かないようだ。
「研究?……旅続けられないのかな?あ、でもその前に入院もするから……オリオールに余計迷惑……かけちゃうよね?」
「時間は掛かるだろうな。でもまぁ、本調子でない身体引き摺って旅するよりはいいんじゃないか?」
「そうだよ。弟さんもその方がいいって言ってくれると思うよ」
「そう、かな」
少々思案し、「帰ってきたら相談してみる」と言った。
「ねえ誠君。もしよかったら、今度家に遊びに来てよ?“赤の星”にある“白い羊”って孤児院。皆優しい人ばっかりだし、誠君なら子供達に好かれると思うけど」
「うん。いつになるか分からないけど……いい?」
「ありがとう。学校無かったら街案内するね……あ、もう船が出ちゃう!それじゃ、そろそろ帰るね。バイバイ!それにありがとう!」
「さよなら」
「またな」
「またねー!」
少女の背中が見えなくなる頃、ようやく彼は夕陽の存在に気付いたようだ。眩しそうに眉を寄せて、ゆっくり目の硬直を解いた。綺麗、声に出さずに呟く。
あかぁい、光が世界を染めていた。
「まーくん。さ、帰ろう」
横から俺は言った。こちらを向いた彼は寂しげな顔を、
(えっ……)
倒れ込んできた彼を夢中で支える。成人にしては軽い体重。
「まー……くん……」
柄にも無くどきどきしてしまう。緊張で震える手で額の髪を払った。立ったまま気絶しているのか、ピクリとも動かない。
そして。赤い額に生生しく浮かぶ傷跡を見つけた。放射状に広く、額上方から天頂にかけてあった。
これは幻だ。朝は確か無かったはず。
「御主人様?」
いつの間にいたのか、買い物籠を提げた老執事がこちらへ歩いてきた。
多分その時、自分は酷い顔をしていたのだろう。老人が目を見開いていた。