闘牛士(トレアドール)
原稿用紙三枚のショートショート。
「もう少し、食べさせてやってもよろしいんじゃありません?」
水から顔を出すのは、腹を空かせているせいだろう。金魚たちは水面に集まっていた。
節子は、縁側で夕涼みをする喜一の側に座り、先ほどまで仏間に供えていた飯粒を一粒ずつガラス鉢に落としていく。すると金魚たちは口を広げ、勢い良く喰らい始めた。
「そうは言うけどね、こうやって必死な形相で飛びつくのは、実に生命に満ち溢れている」
喜一もまた飯粒を手に取り、機嫌良く歌いながら、飢えた金魚に餌を撒いている。
——闘牛士、闘牛士。思え其の人。突如叫びは消え、人々は手に汗を握る——と。
「すっかり、その歌がお気に入りですのね」
喜一の子供じみた興奮に、節子は呆れたように縁側を下りた。
「来月もまた、君と見に行こうじゃないか」
ガラス鉢の金魚を牛に見立てる喜一は、一昨日、見たばかりの浅草オペラが忘れられないのだろう。事あるごとに、パナマ帽を片手に、子供たちの前でカルメンの闘牛士の歌を口ずさんでいるのだ。
——見よ、牛は血に狂い馳せ廻り、最期の喚き高く——
歌声と共に、ぱしゃん、と音がした。振り返った節子が目にしたのは、鉢に手を入れた喜一が水を掻き混ぜようとする姿だった。
握り飯が土に転がると、一斉に幼い子たちが飛びついた。甲高い声と共に奪い合いが始まったのだ。
勝ち目の無い末の子は、輪から弾き出されてしまったが、僅かに付いた指先の匂いを舐めとっている。
「いけませんよ、あなたたち」
節子は止めようと割って入ったが、始終ぐらぐらと揺れる地面に足を取られるうちに、抱えていた最後の握り飯は、あっという間に年長の子供たちに奪われてしまった。
出来る限り集めた食料だが、八人もの胃袋を満たすことは出来ないのだろう。食いはぐれた子らは、力なく項垂れている。
髪を掴まれて泣き叫んでいた三女を抱きしめると、もう八歳にもなるのに透子は胸に齧りつき、せめて乳を、と縋ってくる。
「ほら、しっかりおし。兄さんたちは、あんなに元気にしておいでだよ」
透子の頭を優しく撫でてから、立ちあがった。そろそろ日が傾き始める時間だが、空はいつまでも赤々と燃え、熱い風が吹き荒れている。
近くまで火が移りはじめたのかもしれないと、節子は辺りを見渡した。このまま自宅に居ても良いのだろうか。
遥か向こうに見える浅草十二階は半分に崩れ落ち、雲を凌ぐと言われた建物が焼け落ちた古木のように取り残されている。
「母さん、また煙が上がってるよ」
どこからか焦げた臭いが漂ってくる。風は、逃げ惑う人のざわめきを運んで来た。
節子はもう、いつまでも留まっていられないのだと感じている。
子供たちを集め、身の回りの荷物と抱えられるだけの食料を纏めなければならないのだ。
だが、その前に——と、焦土の浅草に向けて突き刺した柱屑の前に立つ。
目を閉じて、焼けついた空気を深く吸い込めば、どこからか闘牛士の歌が聞こえて来るような気がした。