(5)
「こてつ!」
由美は必死でこてつを捕まえたが、こてつはもがき続ける。何かの拍子でこてつに着せていた浴衣が緩んだ。
こてつを浴衣ごと捕まえていた由美の腕をすり抜けて、こてつはパニック状態のまま駆け出した。
「こてつ! 待って! そっちは山よ!」
突然の土砂降りの中、由美はずぶぬれでこてつを追いかける。友人達もその後を追ったが、こてつはとうとう山際の森の奥へと姿を消してしまった。
当然由美もその後を追おうとしたが、幸い、今日は友人達がいた。由美の体を押さえて止める。
「ダメよ由美。知らない山の奥に一人で入ったら、遭難しかねないわ」
「だって、こてつが……」
「お祭りの案内所の人に、山に詳しい人を紹介してもらいましょう。地元の人に協力してもらった方がいいわ」
さすがに友人達は冷静だ。動揺する由美を落ち着かせながら、観光案内所へと由美を連れて向かって行く。
由美の事は友人達に任せられると判断した礼似は、一人、そっと森の中に入って行った。
こういう時に森に入るにはちょっとしたコツがいる。まずは森の出口が見えるところまで入って行く。そして少し雷と、雨脚が落ち着くのを待つ。
雨音が静まり、森が静寂に包まれたところで、礼似は手持ちの発信機を雨に濡れぬよう手近な木にくくりつけた。受信機の電波が届く範囲でこてつを探し始める。ある程度探すとハンカチを割いたものを木に結び、移動する。そんな事を何度か繰り返すと、無事、こてつの姿を見つける事が出来た。
こてつはすっかりおびえてしまい、木の根元にうずくまってしまっていたが、礼似の姿を認めると、ゆっくりと近づいてきた。
「なあに? こてつ。あんた、他の犬の前ではあんなに威張っていたくせに、雷にはからきしなのね」
礼似はこてつに笑いかけながら頭をなでてやる。引きずられて泥だらけになったリードを手にすると、
「さあ、ご主人様のところに戻りましょ。ダメよ。飼い主に心配かけちゃ」
そういいながら、こてつを連れて木に結び付けた布を頼りに発信機のある方へと歩きはじめる。
「あんた達、犬はいいわね。親分、子分も単純そうで。人間は大変だわ」
たいして意味もなくそんな愚痴を言って、こてつの方を見る。するとこてつも視線を合わせて来た。そうでもないんだぞとでも言っているようにも見える。
「犬は犬なりに大変なの?そうねえ。あんた一唸りで一喝してたもんね。私もそうできたらいいのに」
こてつは身体をぶるりと震わせ、ふんっと、鼻を鳴らした。
「そうよね。犬の年齢で考えたら、あんたはベテランの親分か。私みたいなひよっこの愚痴、聞いたって馬鹿馬鹿しいわよね」あまりのタイミングのいいしぐさに、礼似も思わず返事をしてしまう。
発信機はすぐに見つかった。回収するとさらに森の出口へと向かう。雨は早くも上がっていた。
「雷におびえるあんたでさえ、子分を従わせる力があるのよね。私にも、何か出来る事があるはずね」
もう、振り向きもしないこてつに、礼似は話しかけた。出口が近付いている事を、こてつも分かっているのだろう。
無事に森を抜けると、礼似はこてつのリードを近くのガードレールにくくりつけた。
「ここで待っていれば、すぐに奥様達があんたを見つけてくれるわ。おとなしくしてるのよ」
そう言い残して、礼似は姿を隠した。間もなく由美達がやってきて、由美がこてつに抱きついた。地元の人たちにお詫びとお礼を言い、懸命にこてつをタオルで拭いている。こてつは満足そうに由美に甘えていた。
由美達が帰り仕度をすると、礼似は遠慮なく一樹を呼び出した。自分がいる詳しい場所を知っているのは会長と土間を除くと、一樹しかいないのだから、文句は言わせない。
「大谷に、土産話はあるのか?」帰りの車の中で、一樹が聞いてきた。
「残念ながらいい話は無いわ。ほぼ、予測通りよ。華風組は頑固だから。でも、私の腹は固まったのかも」
「何だ? まだ、固まってなかったのか?」
「たまには迷うのもいいもんよ」礼似はそう言い返した。
土間は久しぶりに一人で歩いていた。最近はのんびり一人で外を歩く事さえも難しくなっている。それでも一人の開放感を味わう余裕はない。やはり、こてつ組は地元の土木業者にも圧力をかけていた。
そして、業者たちはそれを無視している格好だ。ありがたいにはありがたいのだが、それだけ結束が固まってしまっていると、これから落とし所を探るには、厳しいと言わざるを得ない。
大谷は礼似も古カブと呼んで、手を焼いているようだった。そんな奴が実務に関わっているならば、これからは単純な脅しに出てくるとは思えない。
特にシマの歓楽街はかなり経営が厳しい店も多い。こてつ組には以前、麗愛会の金貸しに関わった者達もいる。融資がらみで締め上げられると、厄介な事にもなりかねない。裏金融なんて、何処につながっているか分かったものじゃない。こうなったら、こっちが多少の身銭を切ってでも、シマの店の身は綺麗にしておかないと。