(13)
礼似が香と暮らす部屋を飛び出すのと入れ替わるように、ハルオはその部屋の呼び鈴を鳴らした。
香が扉を開けてやると、ゼイゼイと荒い息をついていた。
「そんなに慌てて来たの?」香はコップに水を汲んでやった。
「れ、礼似さんが、香さんが、姿をくらまさないように、急いで来るようにって」
ハルオは一気に水を飲み干しながら言う。
ちっ、読まれたか。こっそり倉田さんのところにでも、逃げ込もうかと思ったのに。
「だってハルオが丸腰で出歩くんだもの。危なっかしくて。え?」
ハルオはドスを握っていた。鞘を付けたまま香に差し出してくる。
「これ、香さんが持ってて」
「何で私が」そういいながらも反射的に受取ってしまった。するとハルオがもたれかかってくる。
は? なんでこんなに積極的なの? って、ちょっと、息が酒臭い! とりあえず椅子に座らせる。
「ハルオ、あんた、呑んで走って来たの? これじゃ、ドス持ってても意味無いじゃない!」
「これなら、どもらずに、話ができる。俺が、大っきらいな、刃物を、持つのと、大好きな人に、いてもらうのと、どっちを、選ぶと思う?」
「そういう問題じゃ、無いでしょ? つけ狙われているくせに」
「俺には、そういう問題。自分の身は、丸腰でも、守れる。でも、香さんを、守る時には、ドスを使う。このドスは、特別なんだ。これは、土間さんから、もらったんだ」
「知ってる。土間さんが言ってた。あんたを守りたくて渡したんだって」
「だから、持ってて欲しいんだ。俺が、ドスを使うのは、香さんを、守る時だけ。香さんが、刃物が嫌いなのは、分かってるし、随分迷ったんだけど、今はまだ、刃物を持たない俺を見ていてほしい。そばにいてほしい。そのために預かっていてほしいんだ。持っていてくれるんなら、俺の、心ごと預けるよ」
ハルオの心ごと。何だか持っているドスが、ちょっぴり重くなったような。
「あんた、自分の身は守れる自信があるのね?」
「勿論だ。香さんの前で、無様な真似は、出来ない」
香はため息をついた。まいった。降参だ。
「分かった。私の負け。これは預かるわ。第一、こんな危ない真似をされるんなら、私が持ってた方がマシ。それにしても、どもらないためだけに、こんな馬鹿な真似したの?」
「だって、口説くのに、どもってる訳には、いかないじゃないか」
これには香も吹きだした。口説くったって、どもって無くても足腰がふらふらじゃないの。ろれつさえ、あやしい。言葉で伝える代わりに、態度がまるで締まらなくなってる。
俺達は大丈夫、か。ホントに大丈夫なのかしらね? 香は一人、クスクスと笑ってしまった。
礼似はすぐにこてつ組に飛び込んだ。一樹を呼びつけ、会長室に向かいながら立ち止まりもせずに一樹に注文をつける。
「悪いけど、このノート、すぐに始末して。華風がらみの業者のリストを読み込むための偽名の一覧や、彼らが華風に上納するための裏帳簿の保管方法と場所、大まかな数字が書いてあるの」
「そんなもん、お前は持ち歩いているのか」一樹は文句を言ったが、
「仕方ないのよ。香に見られた。このままじゃ物騒だから、すぐに役に立たないようにするの。いざって時の脅しの材料だったけど、こんなもの必要ない状況を作るわ。土木業者の中野と親しい職人の情報を大至急洗って。ここ最近、中野と接触した職人は特に丹念に調べて。大谷は?」
「面子を重んじるタイプの職人に会って、片っ端からかき口説くつもりのようだが」
「それでいいわ。それと同時進行で中野の会社を特にアピールしながら工事を進める事を約束して。その分の広告費はこっち持ち。企画会社にも頼んで。必ず中野をこっちの味方につけるのよ。急いで」
「注文が多すぎやしないか? 職人を口説くのだって、かなり金も力も割いているんだ。これで失敗すればいくら大谷だって、組員の信頼を失いかねない。崖っぷちに立たされるぞ」
「そんなこと分かってる。でも、私を信用するように言って。失敗しても必ず大谷の立場は守る。それに大谷の実行力なら、必ず成功する。信じられないなら、今すぐ私をここから叩き出すのね」
お決まりの台詞を聞かされ、一樹はあきらめたようにため息をつき、ノートをもって走り去る。礼似は会長室のドアをノックすると、返事もロクに聞かずに部屋に入る。
「会長。今すぐ土間と真柴組長に会長命令を出して下さい。どんなに下っ端の組員でも、私も含めて傘下の組員に手出しをしたら、三つの組の連携は、即、解消するって」
「穏やかじゃないな」こてつ会長は探るような視線を礼似に向けた。
「ええ、穏やかじゃありません。でも、こういう騒々しくなりそうな時には、圧力は一定の効果があります。私、土間を信じてますし。なし崩しで事を荒げるのを防ぎたいんです。お願いです。出して下さい」
「頭を下げてきたか」
「やみくもに下げている訳じゃありませんよ。私、それなりに奥様をお守りして来たでしょう?このくらいは受け入れてもらう権利、あるはずです」
「生意気になってきたな。さすがはこの組の組長だ。どうだ? 初仕事の感想は?」
「まだ組長じゃありませんよ。こんな仕事、うっとうしくて仕方ありません。でも、やりごたえはあるかも」
「そうやって親分らしくなっていくもんだ。命令は出そう。あとはお前達の腕次第だ。これ以上の口は挟まないからな」
「十分です。ありがとうございます」
礼似はそれだけ言うと、会長室を飛び出した。自分でも、大谷を説得するために。