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F・∞  作者: 栖坂月
9/9

第9話 チャンピオンロード

 残り2周を切っても、北嶋に焦りは無かった。

 雨が降り始めてから、状況が一変したせいだ。

 オー・ルージュを駆け上り、ケメルストレートを突き進む。周回遅れのマシンが巻き上げる派手な水飛沫を切り裂いて、その先に見える赤い光を追いかける。1位との差は3.2秒、まだ抜けるほどの距離ではないが、ハミルの視界には迫り来るカブトガニが映っている筈だ。凌げばハミルの、抜けば北嶋の銀河チャンピオンが決まることになる。まさしく人生を賭けた大勝負である。

(あと一周半というところか)

 本来、この時点で前に出ていないのは極めて不利な状況である。少なくとも、背後にピタリと張り付いているくらいでないと、逆転劇など期待出来よう筈もない。しかし今、北嶋は自分でも不思議なほど落ち着いていた。しかも諦観しているのではない。このまま行けば勝てると、確信すらしていたのだ。

 確かに、カブトガニが雨天において強いマシンであることは過去の例から判明している。雨という不確定要素が空気の流れを乱し、空力によってダウンフォースを得ようというマシンにとっては難しい局面となる。反面カブトガニは、単純に路面状況の違いのみが問題となるだけで、ダウンフォースそのものには大きな影響が無い。しかもここで問題となる路面状況は、全てのマシンが平等に受けるものだ。差異を考える上では考慮に入れる必要すらない。結果、直線での伸びにこれほど差が出るとは思っていなかったものの、それ以外は予想していた通り、雨が降り始めてからの安定感は完全に頭一つ抜け出ているような状況だった。

(アンダー気味だな。ダウンフォースが足りてないのか?)

 オフロード区間に突入し、差が縮まらなくはなったものの、やはり北嶋の表情に焦りの色はない。冷静に現状、ハミルのマシンにアンダーステア傾向が出ていることを考慮し、頭の中で先々の展開を再構築する。

(それでもまだ、ケメルでは無理か)

 どこまでも、北嶋は冷静だ。

 いや、それは単純に冷静というよりも、すでに確定した事実を確認しているかのようにすら見える。結末のわかっている推理ドラマを見直しているかのような、そんな素振りにすら思えるほどだ。

 時折ではあるが、彼はこういった状態に入ることがある。

 今年の初戦、無警戒のダークホースとして勝利を果たし、2戦目は『まぐれは二度続かない』と囁かれた中での勝利だった。この二つはいずれもカブトガニの特異な性能による勝利だったと、少なくとも北嶋は思っている。しかし3戦目は、それまでと少しばかり様子が違っていた。警戒され、包囲されての第3戦、レース展開は想定されていた通りに厳しいものになった。しかし北嶋は、このレースで結果的に優勝を果たす。圧倒的な差を開いてトップを快走していたシュマックのマシンにトラブルが発生したという運の要素は少なからずあったものの、それだけで優勝できるほど甘い状況ではなかった。この時彼は、久しぶりにこの状態へと移行したのである。

 普段の生活では決して到達することの出来ないレベルの反応と判断力、それはレーシングスクールに通っていた頃に何度か経験したことがあるという、偶然の産物だった。彼自身はこれを『覚醒』と呼んでいる。経験的に高いレベルの緊張と意欲が重なった時に起こると認識しているが、好きなタイミングで覚醒状態に移行することは出来ない。入ったらラッキーというのが、北嶋の基本的なスタンスである。

 そして何より重要なのは、こうなった北嶋に見えた事象は、その全てが事実になっているという実績である。抜けると思えるなら抜けるし、優勝出来ると思えれば優勝出来る。そこに希望的観測や無理な願望は存在しない。在るものだけが、在るように見えるという感覚でしかなかった。

 この時の北嶋を、もしも事情を知らない他人が垣間見ることが出来たとしたら、とてつもなく冷酷で自信に満ち溢れた人物であると感じるだろう。あるいは、人間というよりアンドロイドに近いと思われるかもしれない。

(あと2.2秒)

 大きな左コーナー、ブランシモンで一秒近く縮めたカブトガニが、バスストップシケインで銀色のマシンに接近する。低速コーナーに入ると、2台の間隔は無いに等しいようにも感じられた。何かあれば、それが些細なミスであっても、簡単に順位が入れ替わるほどの状況である。

(さすがに追いついた程度では慌てないか)

 メインスタンド前を立ち上がり、いよいよファイナルラップへと突入する。泣いても笑っても、これが最後の1周だ。そしてもちろん、泣くつもりなどあろう筈もない。

 ストレートを抜けて螺旋の下り区間へ突入する2台のマシンには、微細なブレすら見られない。後方を走る北嶋は覚醒しているため、自身に驚きはないものの、その前を走るハミルのドライビングに全く隙が見られない事実には舌を巻いていた。スクール時代のハミルは、速いが詰めの甘いドライバーという印象だった。単独で走ると北嶋を上回るものの、レースで張り合うと抜かれてしまうというイメージを持たれていた。予選のハミル、本戦の北嶋などと呼ばれたのも懐かしい思い出である。

 あれから、北嶋が父親の死を切欠にレースという娯楽から離れて五年以上、アルバイトで小さなマシンを操る程度だった北嶋と違い、ハミルは常に上のカテゴリーを目指して走り続けてきた。昔とは違うのも当然の話だろう。

(伊達じゃない、か。だがっ!)

 今の北嶋は平時の北嶋ではない。そして何より状況が北嶋に味方している。不利な立ち位置であると認めても尚、このレースに敗れる気は全く起こらなかった。

 螺旋の奥にある小さなカーブを曲がった瞬間、壁に向けての加速が開始される。どちらもストレートスピードに自信のあるマシンだ。10周前だったなら良い勝負をするのがやっとだっただろうし、そもそも差を詰めることすら困難だったであろう。しかし現在、その差は歴然としたものへ変じつつある。

 最後のオー・ルージュを駆け上がり、時速300キロを超えるスピードでケメルストレートへと突入する。2台の差は1.7秒、スリップストリームに入るには少し足りない。しかしそれでも、カブトガニの伸びは完全にハミルのマシンを凌駕していた。見る見る差が縮まって行き、尖って見えるノーズがリアウイングの足元を捉えると思えた瞬間、その挙動が劇的に変化する。

 進路を塞ぐようにブロックしてきたのだ。

(当然だな。ならば)

 イン側を押さえているハミルのマシンから逃れるように、アウト側へとマシンを振る。重力制御を操作し、最大のダウンフォースを得られるように設定した。ブレーキ勝負に出るつもりのようである。

 そもそも、コーナーの入口でアウトから抜くというのは難しい。FIにおける基本的なコーナーリングはアウトインアウトがセオリーであり、レコードラインはむしろアウト側にある。しかし抜くという状況になると、イン側を押さえている方が圧倒的に優位となる。この優位を引っ繰り返すためには、相手より大幅にブレーキタイミングを遅らせて前に出た上で、コーナーのイン側を先に押さえる必要がある。もちろん、そんな理屈は抜かれる側も承知している。そのため、よりギリギリの速度でコーナーに飛び込むことが必要とされるのである。そういった踏ん張りの利かないマシン、性能であれトラブルであれ、より早めに速度を落とさなければ曲がれないマシンは抜かれやすいということになる。

 コーナーが迫り、まずはハミルがブレーキをかける。予想していた通りの位置だ。この瞬間に生じた速度差が北嶋のマシンを前へと押し進める。そして三分の二ほど前に出たところで、北嶋が遅れて急ブレーキを踏んだ。そのままイン側に向けて鼻先を差し込んでいく。

(ちっ!)

 そこへ、僅かに遅れて到着したハミルの鼻先が割り込んできた。多少は慌てているのだろう。若干のオーバースピードである。そのせいでアウトへと膨らんでいき、北嶋を押し出すように寄せてくる。それはあまりに危険な、強引極まりないドライビングではあったものの、北嶋の反応速度は突発的なオーバースピードを許容し、冷静な判断力はハミルの焦りすら計算の内だった。

 2台は並ぶようにしてコーナーを抜け、イン側に陣取ったハミルが辛うじてポジションをキープした。テールトゥノーズの状態を維持したまま、オフロード区間へと突き進んでいく。差は全く無いに等しく、0.5秒以内から離れない。だがそれでも、二人の順位は相変わらず変わっていなかった。どれほど走りで優位に立っていても、実際に抜けなければ意味はないのだ。

(これで良い)

 それでも、いやだからこそ北嶋は思う。ケメルで追いつき、しかし抜けない。この絶妙としか言いようのない状況を、彼はすでに予測していた。自らの捉えた真実が真に正しいものであると、今この瞬間に確信したのである。そしてそれは次の真実、ブランシモンでのオーバーテイクを導くものでもあるのだ。

 本来苦手としている中低速のオフロード区間すら、今の北嶋には障害にならない。ハミルの背後にピタリと張り付いたまま、滑るようにして抜けていく。ここで抜けないのは道幅が狭いからだとでも言わんばかりの走りだった。

 そしていよいよ、オフロード区間の終わりが訪れる。左へ折れるスタブローコーナーを抜けると、高速コーナーブランシモンが視界に飛び込んできた。目前には曇天で尚輝きを失わない銀色のマシンがいる。距離はほぼゼロ、完全なスリップストリームに捉えていた。ブレーキの長さから立ち上がりのタイミングまで完璧にこなした北嶋は、満を持してアクセルペダルを踏み込んでいく。

 そして転機はすぐに訪れた。

 雨の中、ハミルの駆るデニス・レーシングのマシンが最高速に達した瞬間、北嶋は鼻先をイン側へ振ってから即座にアウト側へと進路を切る。一瞬の虚をつかれる形となったハミルは、足元の不安定さも手伝って対処し切れず、ブロックが外れてしまった。高速コーナーのアウト側から並走してくる白いマシンと懸命に張り合うものの、その速度差は歴然とし過ぎていた。コーナーの半径を半ばほど過ぎた所で完全に順位は逆転し、ハミルは仕方なくテールを拝むことになる。

 この瞬間全てが完結した、誰もがそう思った。

 当の北嶋でさえ、その事実を疑わなかった。

 しかしそれは不意に、かつ最悪のタイミングで訪れる。

「なっ!」

 ブレーキを踏み込んだ瞬間、その違和感に気付いた。想定していた景色と実際の光景が乖離し、何もかもが崩れていく。スピードを落とし切れなかったマシンはバスストップシケインを直進し、縁石を跨いでコースを外れる。慌てたようにハンドルを切って急旋回するものの、ハミルのマシンはすでにシケインを抜けるところだった。

 見えなくとも良い、むしろ見えて欲しくない二人の差を、相変わらず覚醒した意識が冷静に把握していく。離れていく銀色のマシンが、地鳴りのような歓声を浴びていた。

 北嶋は、自らの敗北を悟る。誰よりも真実の姿が見える今の彼には、誰よりも正確に敗北の姿が映っていた。すでに走る意味はない。勝ちは無くなった。それが事実だった。

『諦めんなっ、さっちん!』

 ハンドルから手を離そうと力を抜きかけたところで、張り手のような声が耳に届く。それは精一杯の叫びと、願いと、望みだった。

(やべー、もう終わったつもりでいたぜ)

 情けない自分に対する叱責からか、奥歯の擦れる音が耳の奥に木霊する。それが意識を引き戻したのか、雨靄の向こうに遠ざかりかけていた景色が、甲高いエンジン音と共に戻ってきた。

 アクセルを踏み込み、体勢を整えながらシケインへと復帰する。ブレーキの不調は変わらないが、マシンをゴールまで導くのに支障はない。何より3位を走っているマイオールのマシンが迫っていた。のんびりと現状分析しているだけの時間的余裕はない。

 マイオールがシケインへ突入する寸前に復帰した北嶋は、強引なブロックでインを死守した後、ホームスタンド前に走り出るなり自慢の加速を開始した。

 白と黒、伝統的なゴールの象徴であるチェッカーフラッグが、カブトガニの通過と共にはためく。

 こうして北嶋は、最終戦を走り終えたのである。



 月が翳る。

 海と違い、モナコの空は静かな光に満ちている。今の北嶋にとっては、海上で点々と輝くクルーザーの内側にある人々の温もりよりも、一見ひしめき合っているように見えて孤高の存在の集合体である夜空の方が、より相応しいように感じていた。

 レースが終わり、FIという大きなイベントが終わって、すでに数時間が経過している。直後はマスコミの質問攻めが鬱陶しくも感じられたが、その興味が銀河チャンピオンへシフトするなり、夏を終えた海水浴場のように人の姿が消えていった。元々マスコミを好まない彼としては、むしろ静かで良いと素直に思える反面、どこかで現実を突きつけられているような痛みを感じてもいる。

 総合ポイントランキング2位という成績は誇るべきものだ。チーム状況、彼の経歴と実績、経験や年齢、そういったものを考慮すれば更に評価は跳ね上がるだろう。しかしそれでも、銀河チャンピオンに届かなかったという事実には変わりがない。

 彼は視線を落とし、自らの右手を見詰める。グッと握り、そしてゆっくりと開いた。彼はまだ走ることが出来る、いや走りたいと思っている。やり残したことはなかったかと自問自答をしてみるが、何も思い付くことは出来なかった。そもそも、心配するピットクルー達を尻目に、誰よりも今回のレースに満足していたのは北嶋であったと言える。結果こそ2位だったものの、出来るパフォーマンスの限界まで迫ったと自負していた。それで2位だったのなら仕方がないと、そう思えるほどのレースだった。

 楽しかったし、満足もしている。

 ただ、これは彼自身も不思議なのだが、誰よりも納得している筈のレースなのに、他人に誉められたり慰められたりするのは、とても不快だった。それが善意からの、あるいは真意からの発言であるとわかっていても、聞く気になれなかった。

「あぁ、わかってんだ、本当は……」

 呟き、噛み締めた奥歯が鈍い音を発する。

 悔しいのだ。腹の底から、事実に対して憤っているのだ。恐らくこれからなのだろう。心臓に針を一本一本刺していくかのように、チクリチクリと悔しさが込み上げるのは。もちろん、悔しい思いは始めてというワケでもない。今期のレースにだって、悔しいリタイアは何度もあった。だがそれは、一晩寝て起きれば忘れられる程度の感情に過ぎなかったと思い知る。今の彼は、とても眠れるような気がしなかった。

 と、不意に通りがかった乗用車が、軽快なエンジン音を響かせて背後を通り過ぎる。一般的な乗用車はモーター駆動が主流だ。レースカーならともかく、エンジンを積んだ乗用車などマニア向けの代物である。大きなイベントの直後ということで、火の点いた愛好者がレースを気取っているのだろう。取るに足らない、さほど注目すべき出来事でもない。

 しかし今、北嶋の心臓は早鐘のように打ち鳴らされ、呼吸のペースすら乱れ始めていた。何かスイッチでも入ったかのように、物の輪郭が鋭利に見えてくる。感覚が研ぎ澄まされていく経過が、手に取るようにわかった。

「くそっ!」

 制御出来ない自分の感性に驚き、歯噛みし、額に手を当てて声を発する。頭ではわかっているのに、身体は未だにハンドルを欲していることが、たまらなく苛立たしかった。誤魔化してなどいないと信じる自分が、まるで全てを誤魔化すために嘘を吐いていると主張しているかのようで、どこまでも不快だった。

「オレだって優勝したかったさっ。チャンピオンにだってなりたかった。だが、今日のレースはオレの精一杯だっ。満足してる。それは嘘じゃない。嘘じゃないんだ!」

「あぁ、良いレースだった」

 慌てて振り返ると、そこには金髪の青年が歩いていた。車も人も見当たらない灰色の大地を、白線を横切るようにして悠々と踏み締めてくる。北嶋は嫌なところを見られたと言わんばかりのバツの悪そうな顔で鼻の頭を掻きつつ、青年の到着を待った。

「立ち聞きとは趣味が悪いな」

 そして目の前で笑っている青年に、苦しい文句を言い放つ。

「あれだけ大声で叫んだら、パーティ会場にだって聞こえてるさ」

「んなわけあるかっ。どんだけ離れてると思ってんだ」

「五分くらいは歩いたね」

 公式の祝宴が、今もまだ続いている。基本的なセレモニーはすでに終了しているが、皆どこかシーズンの終了を惜しむかのように会場から離れない。これもまた一つの風物詩とも言えた。もちろん、一方で北嶋のように抜け出る輩も居るし、咎められることはない。FIで戦う動機が人によって違うように、その終わり方も人それぞれなのだ。

「で、何か用か?」

「あぁ、主役が居ないと締まらないからな」

「主役って……ハミルがいりゃ十分だろうに」

 呆れたように言い放つ北嶋の表情には、中途半端としか表現のしようのない笑顔が張り付いている。友人の勝利と栄光を祝福し認めながらも、それと相反する気持ちを持て余し、戸惑っているかのような顔付きだ。

 そんな複雑な顔をする相棒に向けて、やれやれとばかりにツクモは溜め息を吐く。

「何かムカつくぞ」

「公式なんてどうでも良いんだよ。お前を呼びに来たのは、残念会へのお誘いのためだ」

「残念会だぁ?」

 ストレート過ぎて皮肉すら感じ取れない祝宴に、さすがの北嶋も面食らう。こうまで直球だと、慰めようとか思っているのかすら疑問に思えるほどだ。同情など真っ平ゴメンな彼だが、だからといって全く気を遣われないというのも淋しいものである。

「主催のお嬢様が乗り気なんだ。朝まで盛大に騒ぐと今から気合を入れてるよ。お前が来てくれないと始められないと言うし、何より彼女の相手はお前じゃないとな」

「それ、厄介者を押し付けようとしてるだろ?」

「否定はしないがね。でもまぁ――」

 漆黒の天を見上げ、再び姿を現した弓張り月を眺めつつ笑顔が曇る。

「居なくなったお前を心配してたのも事実なんだ。とりあえず戻って、安心させてやれ」

「……へいへい」

 止むを得ずという渋々の頷きを横目に見て、ツクモは微かな笑みを取り戻す。彼とて悔しい気持ちを十二分に抱えているのだ。最前線でチェッカーを受けたドライバーが悔しくない筈はない。それでも尚チームの一員でいられる北嶋を、彼は心から歓迎したかった。

「あ、そうそう」

 残念会の会場に向けて歩き出し、追うようについてくる足音を確認したツクモが、首だけを巡らせて北嶋を見る。

「何だ?」

「来年も走ることを決めたらしいな。迷っていたみたいだから、安心したよ」

「迷っていたというか――」

 立ち止まり、海と空の境界へと視線を向ける。

「不安だったんだよ」

「不安? あれだけの成績を上げていたのにか?」

「オレさ、親父が死んでスクールを中退した時、レースを諦めたんだ。続けても良いって婆さんには言われたんだけど、自分で蹴った。でもレースばかりやってたヤツが、いきなり普通の人生に戻ったところで、まともな学校や就職先に落ち着ける筈もなくてさ、滑り落ちるように底辺でゴロゴロしてたよ。でも仕方なかった。そういうもんだって、自分を納得させてたんだ」

「北嶋……」

 妙に自虐的な北嶋の言い方が少し気になったが、ツクモはとりあえず最後まで話を聞くことにした。今日の敗北はただの敗北ではない。平時と違うのは、むしろ当然だった。

「だから、いきなりこんな舞台に引き上げられて、正直言うと戸惑いはあった。本当に良いのかって、ドライバーという職業をすることがオレに出来るのかって、そう思ってたんだ。それが蓋を開けてみたら、まさかのチャンピオン争いだろ。夢なんじゃないかって思ったことも一度や二度じゃない」

「だが、夢じゃない」

「あぁ、わかってる。いや、ついさっき、やっとわかったんだ」

「さっき?」

 最終戦までの14戦は、全て夢の中だったようである。

「最後のシケインでさ、朱里の声が聞こえた時――」

「あの『諦めんな』ってヤツか?」

「そう、それ。あれがなかったらきっと、オレはあの場所で止まったままリタイアして、今でもただ後悔していただけだったと思う。あの場所からチェッカーを受けるまで、本当に僅かな距離だったけど、自分の意志と力でマシンを運んだんだって実感したんだ。そしてあの瞬間、チャンピオンを逃したことが本当に悔しかった。と同時に欲しくなったんだ、心の底からね」

 ツクモは理解する。北嶋はやっと、最終戦の土壇場になって現在の立ち位置とその先に見える未来を認識することが出来たのだろうと。今までは、その覚悟がなかったから、来年のシートを渋ってきたのだ。

 その生真面目ぶりに、ツクモは笑わざるを得ない。

「お前、ずいぶん今更だよなぁ?」

「笑うなよ。オレだって、今更だって思ってんだ」

「悪い悪い」

 ポンポンと肩を叩き、歩みを再開する。

「笑ったお詫びに、時給アップを進言してやるよ」

「いや待てっ。来年も時給制なのかよ!」

「しかも一気に300円アップだ」

「わぁい、って喜ぶと思ったかっ!」

 静かに輝く月明かりの下、二人の影が並んで歩く。

 そこにあるのは単純な、そして平凡な一歩でしかない。しかし同時に、フォーチュンベルというチームの新しい門出の瞬間でもあった。終わりがあって始まりがあって、そんなことをこれからも、二人は繰り返していくことになる。

「時給じゃなくなったら、銀河最速フリーターの称号がなくなるだろうに」

「そんなもん、ドブに捨ててしまえっ」

 ただ今は、少しだけ切ない終焉を堪能しつつ、安堵の笑顔と共にある。

 共通の願いと誓いを、胸の奥に秘めたまま。


何だか続くみたいな内容ですが、これで終幕となります(笑)

完全な趣味の代物にここまでお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

あぁ楽しかったと、ほんの少しでも思っていただけたら幸いでございます。


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