第8話 スパウェザー
屋根のない急増スタンドに、ポツポツと赤や青の花が咲く。
『今年もやはりスパウェザーは健在ですっ。残り8周を迎えたところで、ホームスタンド周辺に雨が落ちてきました。予報では五分以内に本格的な雨になると出ています』
『標高の高いケメルストレートの終わりは、すでにウエットコンディションになっているようです。全体としてはまだドライですが、慎重にドライビングしないと危険な状況ですね。局地的に路面状況が変わってきています』
解説の言葉通り、メインスタンド周辺の路面はまだ乾いていたが、画面上の路面はすでに色が変わっている。かつてのF1と違い、ドライでなくなった瞬間に走れなくなるほど極端ではないが、それでもラップタイムの低下は避けられない状況だ。
『このまま走り切るのは難しい、ですよね?』
『今のまま最後まで走れれば問題はないでしょうが――』
『おっと駄目だぁ! レ・コームの入口で一台スピンオフ。インディアナフォースのマシンだっ』
『何とか復帰しましたが、間違いなくコンディションは悪化していますね』
『この終盤に来てまさかのスパウェザー! 勝利の女神の悪戯かっ、あるいは勝者に与えられる最後の試練なのかっ、いずれにしてもこの状況を乗り切らなければ栄光のチェッカーはありません!』
スパ=フランコルシャンは山間部に存在し、天候が目まぐるしく変わることがある。またコース全長が長いこともあり、仮に雨が降ったとしてもドライとウエットが混在することすらある。この『スパウェザー』と呼ばれる天候の悪戯が、スパ=フランコルシャンというサーキットの大きな特色の一つでもあった。元々チャレンジングなコースである上に判断の難しい局面を突きつけてくるため、番狂わせや突発的なアクシデントが起こりやすく、ドライバーの腕もチームの力量も問われることになる。
『お、この状況に早くも数台のマシンがピットイン! 後方からの巻き返しを図るマシンが……いや、北嶋だっ。北嶋も入ってきた! これが起死回生の策となるのか、残り7週に全てを賭けてタイヤ交換に臨むっ!』
『スタンダードウェットのタイヤですね。ある程度の雨を予想してのチョイスでしょう。他のチームは、カットスリックが主流のようですね』
ウエットコンディションを走るためのレインタイヤというのは、素材からして違っている。それは路面温度がドライとウエットでは大きく違うため、低い温度でも十分な摩擦を得られる仕様になっているためである。すなわちドライタイヤで濡れた路面を走ると全くグリップを得られず、逆にレインタイヤで乾いた路面を走ると著しく磨耗してしまうという事態に陥ることとなる。もちろん、その両方の中間を選ぶことも可能だが、それではどちらでもタイムが伸びない。速く走ることを目的としたレースにおいて、万能は必ずしも優秀ではないのだ。
ちなみにカットスリックというのは水捌け用の溝を彫り込んだドライタイヤのことを指し、レインタイヤとは厳密に言えば違う。よりドライに近い、乾きかけの路面や所々濡れた程度の環境に適応するタイヤであり、基本的な性質はドライに近い。一部にウエット区間を有するモナコでは、ほとんどのマシンが装着していた。
「さて、これが英断と出るかどうか」
見守るだけでジットリと汗をかいている監督の富田が、眉間に深い皺を刻んで重苦しい呟きを漏らす。同じようにモニターを睨み付けている女性陣二人も、祈るような面持ちでシートに座っていた。
『北嶋ピットアウト。順位は……8位でしょうか。しばらくはタイヤ交換によって混乱するでしょうから、まだわかりません』
『雨が降り始めたとは言え、まだドライの区間もありますからね。どちらのタイヤがラップタイム的に有利なのかは、実際に走ってみないとわかりません。ただ、シュマックに前を押さえられるような形になっていましたし、タイヤ的にも苦しんでいましたからね。北嶋としては賭けに出た形でしょう』
同時にピットインを行った場合、よほどの偶発的なトラブルでも起こらない限り、ピット作業で順位を逆転することは難しい。しかしそのタイミングをずらし、シュマックが入るまでの周回数でラップタイムを稼ぐことによって、順位を変動させることは可能だ。F1から続く伝統のピット戦略というヤツである。
『ラップタイム的には、まだドライの方が優位でしょうかね?』
『全体としてはその傾向が見られますね。ただ、ケメルストレートを中心としたセクター1は完全なウエットコンディションです。直線に強いマシンは早々に履き替えておくのが正解かもしれませんね』
『そういう点ではフォーチュンベルの選択は正しかったと言えるのかもしれません。しかしそれでも、全体としてはドライがまだ優位です。この状況でタイムを縮められるのかっ。それとも開いてしまうのかぁ!』
『セクター2通過のタイムは、あまり伸びていませんね。むしろ差が開いています』
『とここで、先頭のハミルがピットに入ってきた。シュマックは……来た来た来たぁ! シュマックも続いてピットイン。すぐ後ろを走っていた2台、サリスとマイオールも続けてピットインです。さぁ、この1周の差がどう出るのかっ。まずはハミルがピットアウト、約5秒遅れる形で3台が続きます』
『ハミルとシュマックの差がずいぶん詰まっていますね。コースアウトやスピンはなかったようですが、やはりウエットコンディションが急速に広がっているのかもしれません。ハミルは相当慎重にマシンを運んできたのでしょう』
『その慎重さが吉と出るか凶と出るか。ハミルのラップタイムは……シュマックのタイムに比べて5秒以上遅れています。そして問題は、北嶋との位置関係だぞっ!』
一足先にコース上へと復帰したハミルが加速を開始する。それとほぼ同時にピット作業を終えた3台のマシンが、ピットロードへと車体をスライドさせた。入ってきた時と、その差は全く変わっていない。まるで鎖で繋がれているかのように、3台が数珠繋ぎになって走行していた。この3台に割り込んで入ることは、見た目からして不可能に近い。3台を一度に抜き去るか、それとも3台の後方に付くか、二つに一つしかないように見えた。
『北嶋がたった今バスストップシケインを抜けてくるっ。カブトガニの加速はここからだっ。しかしシュマックがピットロードを出るぞっ。駄目かっ。駄目なのかぁ!』
黒いマシンの急加速も、連なった3台を捉えるには至らない。
『やはり1周の差が出ましたね。もう少しウエット寄りの路面状況であったなら、あるいは逆転していたかもしれませんが、これは苦しいチャレンジでした』
『厳しいっ。北嶋は二つ順位を落としての5位、残るは僅かに6周のみですっ。泣いても笑ってもこれでシーズンが終わりますっ。勝利の女神は北嶋を見放したのかぁ!』
思わず立ち上がった朱里に追随するように、傍観者にしかなれない三人がモニターの前で立ち尽くす。もはや座っていることすら出来ないほどに、気持ちが逸っていた。少なくとも、落ち着いていることなど出来る状況にない。
「私、ガレージに行ってきます!」
「あ、ちょっと朱里ちゃん!」
クルーの邪魔になってはと注意しようとした高千穂の肩を、富田が優しく叩く。ここまでくれば邪魔にもならないことは事実だが、それ以上に彼女の逸る気持ちを大人らしい理性で押さえ込みたくなかったのかもしれない。
残された二人は、朱里の出て行った扉を眩しそうに見詰めていた。
思っていたよりもショックは少なかった、そう分析している自分が居ることに、彼は少ながらず驚いていた。残す周回数は極僅か、トップを走るハミルまでのタイム差は10秒ないが、その間に3台のマシンが挟まっている。決して、楽観できるような局面ではない。
(確かに5位だけど)
現実に対する落胆は全くない。むしろ何か、とてつもなく恵まれた境遇の中に居るかのような、果てしない高揚が全身を支配していた。激しいポイント争い、しかも近年稀に見る最終戦での決戦だ。その中を、主役の一人としてサーキットを駆け抜けている。もちろん今でも勝つつもりでいるし、諦めるなどあり得ない。しかし心のどこかで、勝ち負け以外の価値を見出している自分が居ることも自覚していた。
(去年の今頃は、どうだっただろう……)
レースという競技から離れても、FIを見ることは辞められなかった。それは未練というより、単純にレースという舞台が好きだったからに違いない。そしてもしも、一人の傍観者としてこのレースを見ていたならば、モニターの前で手に汗を握り、この熱く激しい展開を堪能していただろうと確信する。ポイントランキング上位者が意地を張り合い、最後まで残った挙句にスパウェザーという最高の演出を得ているのだ。これで興奮しないなど、レースを観ている意味がないというものだ。
(けど、この分だと来年は見られないな)
大きく左にハンドルを切り、螺旋の最下層にある鋭角のコーナーを曲がっていく。前を走るフランク・グランプリ――マイオールのマシンとは2秒ほどの差がある。この距離ではスリップストリームには入れない。ここから訪れる絶壁、オー・ルージュからケメルストレートという直線区間で追い抜くことは、この状況では難しいところだ。
まるで天を衝くような上り坂を辿り、細かく左右に切って視界を開く。一瞬浮き上がるような錯覚が通り過ぎた後、果てしなく伸びているような直線が眼前に広がった。マイオールとの差は大きく変わらない。雨が降り、好機を活かせなかった結果としての5位が、現実として視界を覆う。本来なら舌打ちと共に踏み込むべきアクセルが、この瞬間は不思議なほど軽く感じられた。
(やっぱり、この楽しさはやらなきゃ味わえん)
ヘルメットの中で、口元が吊り上る。不利としか表現のしようのない状況にもかかわらず、今この場に居ることを誰よりも感謝したいと思っているのは、間違いなく彼――北嶋だった。
こんなに楽しい現在が待っているなど、過去の彼は想像することも出来なかった。そして恐らく、現在の延長に居る彼は、過去の姿に戻ることなど出来ないだろう。レースを他人事として傍観するなど、絶対に不可能だ。この楽しみを味わってしまった彼に、映像で満足出来る道理など微塵もない。人の欲の深さを、今の彼は改めて噛み締めていた。
「あーくそっ、楽しいぜ!」
叫ぶように声を発し、叩き付ける雨粒を弾いて加速を続ける。路面はウエット、天候は土砂降りの一歩手前という様相だ。直線ですら、マシンが挙動を乱さないかと神経を張り詰める必要があるほどである。しかもそんな状況下で、4台のマシンが互いの動きを牽制し合い、隙あらば抜こうと画策しているのだ。常人からすれば、精神が異常な領域に達しているとしか思えないだろう。
人が高いレベルの集中力を発揮する時、世界を覆う時間という規則性に揺らぎが生ずる。微細な変化は手に取るほど明確に認識し、何もかもが美しく映る。雨の一粒すら例外ではない。
4台の中で先頭を走るシュマックが、イン側に入られないギリギリのラインでブロックする。その背後にサリスがピタリと張り付き、空いたベストラインにマイオールがマシンを置いた。それぞれの意志と挙動を即座に察知した北嶋はコースの丁度真ん中に陣取り、ラインを変えて立ち上がりでの勝負をかける。表示されているタイムを見るまでもない。このケメルストレートを走り切った瞬間、状況が変化していることは即座にわかった。何もかもが、絶望へと向かっているワケではないのだ。勝利の女神は、必ずチャンスを残してくれている。問題は、そのチャンスを見極める目と掴み取る腕を有しているかどうかだった。
シュマックがコーナーへと入る。十分な減速とハンドリングが見て取れる。そして背後にピタリとついたサリスが続いて減速を開始し、2台の距離が詰まっていく。
この瞬間、北嶋は大きくブレーキを踏んだ。
本来の計画からすれば、まだタイミングは早い。しかし彼は、何かを察知してブレーキを踏み込んだ。それは恐らく、カメラで捉えた映像を見ていても全く感じ取ることが出来ないほどの、微細な違和感であったに違いない。しかし彼は、サリスのブレーキタイミングが遅いことを、僅か数センチの挙動から判断したのである。
白地に鮮やかなマリンブルーの魚がデザインされたマシンのフロントウイングが、深紅のマシンのリアウイングを引っ掛けるようにしてスライドしていく。流れるようにアウトへと逸れていく2台のマシンを避けるように、白地に青いストライプの入ったマシンを駆るマイオールが、強引にハンドルを切ってイン側へと逃れてくる。もしも北嶋がブレーキを踏んで急制動をかけていなかったなら、重なったライン上でマイオールと激突していたに違いない。もつれるように砂地へと離れて行く2台のマシンと共に、この場から動くことが出来なくなっていた可能性すらあった。
『な、何があった!?』
突然の急ブレーキと状況変化にデータがついてこられないのか、ツクモから確認の催促が入る。さすがに見えない中での激変は、いつも冷静なツクモですら不安にさせるようだ。
「シュマックにサリスが追突した。多分2台ともウイングをやってる。脱落したよ」
『お前は……大丈夫なようだな』
モニター上でチェックしたのだろう。声に安堵が宿る。
「少しばかり強くブレーキは踏んだけどな。とりあえず問題ない」
『これで、残るはマイオールとハミルだけか』
「大丈夫だ。すぐに抜く」
今の彼には見える以外のものが見える。自分のマシンばかりではない。相手のマシンの状態や挙動まで、手に取るように見えていた。そして今、彼は確信したのだ。
自分のマシンが、他の誰よりも速いことを。
ツクモはタイヤ交換のタイミングが間違っていたとは思っていない。他の3台に比べて、北嶋の駆るカブトガニには余裕がなかった。特にタイヤの状態は最悪だ。もしあのままもう1周走らせていたら、途中でスピンしていた可能性も低くはない。しかしそれでも、仮定や結果に絶対はなく、より状況を好転させる策が存在しなかったとは言い切れない。
彼の仕事にベストはない。あるのは優れたベターと、最悪でないベターだけだ。だからどのような選択も、常に相応のデメリットを抱えることになる。今回、早めにレインタイヤに交換した結果、余計に磨耗させることになってしまった。その分水捌け用の溝は浅くなり、ウエットコンディションが更に進んだ場合、他の4台に比べてハイドロプレーニング現象の起きる確率が上がることになる。逆に言えば、雨の状態が弱まる方向に推移すれば、路面との相性が向上する可能性もある。こればかりは運だ。いかに正確性を増した気象予報システムであっても、天候そのものをコントロールすることは出来ない。そして何より、下した決定を巻き戻して覆すなど、神ならざる彼には不可能な話だった。判断し、決定し、送り出した以上、あとはマシンと北嶋を信じるより他にないのだ。無論、だからこそ心苦しくもある。
「改めて言うが、異常は出ていない。思い切り走れ、北嶋」
残りは5周余り、トップを走るハミルとは10秒を切っている。これまでの紆余曲折を思えば、よくぞここまで辿り着いたと喝采して然るべき状況だ。しかしそれでも、銀河チャンピオンになれるかどうかで、評価は大きく変わってくる。ここまでの努力を無駄にしないためにも、ハミルを追い抜く必要があった。
(そのためにはまずマイオールだが……)
マイオールの駆るフランク・グランプリのマシンは、特別大きく特徴を有するマシンではない。可変ウイングの先駆けと言われたのも、最早ずいぶん懐かしい話となりつつある。現在はバランスの取れたオーソドックスなマシンとして認識されている。それ故に欠点がなく、特にマイオールのようなベテランがシートに座ると、粘りのある厄介な相手へと変貌する。今期のマイオールは優勝こそ一度しかないが、完走率は極めて高い。積み重ねてきたポイントは伊達ではないと、隙のない走りが主張しているかのようだ。
オフロード区間を抜け、2台のマシンは揃って大きく左へ旋回している高速コーナーへと突入する。激しくも大きな水飛沫が上がり、それだけで視界が一杯になる様が、画面の隅に小さく映っている車載カメラの映像からも窺える。この、何一つ前が見えないような状況下で北嶋はアクセルを踏み込み、マイオールを追わなければならない。もちろん光学カメラ以外のセンサーも積んでいるので、完全な盲目状態で走ることにはならないが、時速300キロを超えるレベルに加速しつつコーナーを立ち上がっていくのは、常人からすれば狂気の沙汰でしかないだろう。
(あれ、差が……縮まっている?)
高速区間は元々得意とするカブトガニではあったが、それでも上位を相手に簡単に差を縮められるほど大きな差はない。しかし今、オフロード区間を抜けてからシケインを出るまでの間に、マイオールとの差は明確に縮まっていた。例の事故があり、不得意なオフロードの中低速区間で若干開いた差を、一気に縮めたような印象だ。
改めてタイムを確認すると、数字上にも表れていた。トップとの差は8.2秒、2位マイオールとの差は0.5秒にまで詰まっている。完全なウエットコンディションにレインタイヤと条件はすでに五分、逆に言えばこちらが有利になる理由は見当たらない。強いて言えば、雨が降るという状況がフォーチュンベルにとって相性が良かったというところだろうか。
(いや、相性だけなら北嶋一人が速い理由にはならないな。何かある。そしてそれを、北嶋は感じていたのか?)
前を窺うように牽制しながら螺旋へ突入していくカブトガニの様子をモニター上の光点で確認しながら、その差が更に詰まっていることを認識する。間違いなく、北嶋のペースがマイオールのそれを上回っている。抜くチャンスさえあれば、いつでも抜けるような差に見えた。
北嶋はツクモに『大丈夫』と言っていた。あの時の北嶋は気味が悪いほど落ち着いていて、それがかえって常軌を逸しているように感じられた。もしかしたらすでに諦めていて、口先だけでそんな強がりを言ったのではないか、そんな風に疑いたくもなった。しかし同時に、何かを期待させるような凄みが潜んでいたことも無視は出来ない。彼にしか見えない、あるいは感じられない何かがあって、だからこそあの言葉へ繋がったのだとすれば、ここで彼が希望を捨てるワケにはいかなかった。
(だが、抜くと言ってもどこで抜く? この上り区間がエンジンで頭打ちになるとしたら、あとはバスストップシケインくらいしか――)
糸口を探そうと思考を巡らせ始めた矢先、思ってもいなかった事態に頭の回転が止まる。彼らにとっては文字通り嘆きの壁、天へ向かって伸びるオー・ルージュにおいて、マイオールとの差を更に縮めたのである。それはまさしくテールトゥノーズ、火花が散るほどの接近戦だ。だが今は雨中決戦、火花の代わりに水飛沫が舞い上がっていることだろう。無機的なポジション表示しか示さない画面からは現場の熱さも酷さも伝わってはこないが、間違いなく視界ゼロの状態で戦っている筈である。
オー・ルージュを駆け上がった2台のマシンは、スリップストリームという状態を形作る間もなく横に並び、そのまま強引にカブトガニがオーバーテイクしていく。ケメルストレートにおける最高速は、オー・ルージュをどれだけ高速で抜けたのかに由来する部分が大きいので、追い上げてきた北嶋のマシンが伸びるのは理解出来なくもない。しかしそれでも、エンジンの非力にあれだけ悩まされ、実際に追い上げられてすらいたマシンが、環境が変わったからといって直線の伸びを取り戻すというのも不可解だった。まるで何か、性能とは別の何かが作用しているのではないかと、怪奇現象の一つでも想定したくなるほどの激変である。
(雨が降って何か……雨?)
ツクモが思わず立ち上がる。
「そうかっ、雨か!」
環境が変わり、カブトガニの直線スピードが伸びたというのは間違いである。エンジンの性能に変化はないし、ラップタイム的には伸びていない。ウエットコンディションになって路面状況が変わり、摩擦係数に変化が起きているものの、それはフォーチュンベルに限った話ではない。全てのマシンが同じ条件で走っている。ただ、降っている雨に関しては、同じ条件であるとは言えなかった。
直線での伸びは、もちろん様々な要素が絡み合って生まれるものであるが、エンジンによる推進力が各種抵抗力によってどの程度削られるかによって決まってくる。抵抗は主に空気抵抗とタイヤによる摩擦抵抗が影響を及ぼすが、タイヤによる抵抗は共通項も多く大差がない。そのため空気抵抗の有無が直線スピードの速度を決する極めて重要な要素となるのである。以前にも述べたが、カブトガニにはウイングがない。慣性制御を利用してダウンフォースを得るという仕様のため、ウイングを取り払ったからである。そのため直線では空気抵抗が低くなり、結果として最高速を伸ばすことに成功しているのである。ところがこのオー・ルージュからケメルストレートに至る直線区間は勾配のきつい上りであるため、エンジンが悲鳴を上げて思うような伸びを得ることが出来なかったのだ。しかし今、マイオールを軽々と抜いていく北嶋に、数周前のもたつきは感じられない。それは何故か。
推進力に変化がないとするなら、答えは簡単である。抵抗力が変化したからだ。空気抵抗に雨粒による抵抗が加わり、それが総合的な抵抗力へと取って代わる。一粒一粒は大した力を持たずとも、それが束を為してウイングを直撃するのである。ウイングの有無はそれだけ大きな差を生むことになり、結果としてウイングの有るマシンと無いマシンでは差が生ずることになる。微細ではあるが、抵抗の無さを売りにしたマシンだからこそ、得られたメリットなのである。
ちなみに、もしもこのコースがモナコのような中低速サーキットであったなら、この状況は大してプラスに働いていない。ストレートでの速度よりコーナーでの速度が重要となるコースでは、路面の状態に対する相性の方が大きく影響したであろう。何もかも、今という時間と場面が揃わなければ起こり得なかった偶然だった。
「北嶋よ」
インカムに触れ、穏やかな声で呼びかける。
『どうした?』
「スパはお前を歓迎しているようだ。最後まで走って、精一杯の祝福を受けてこい」
『……あぁ、そのつもりだ』
今この瞬間、ツクモは自らの役割が終わったことを実感した。残りは4周半、ハミルとのタイム差は7秒フラット。追いつけるかどうかすら微妙な局面だ。しかし、希望を捨てる気には到底なれなかった。勝てると、勝ってくれると明確な根拠も無く信じられるなど、ツクモにとってはオカルトそのものである。
彼はモニターから離れ、雨の中に身を乗り出す。
メインスタンド前を立ち上がり、大歓声の中でチェッカーを受ける相棒を、その双眸で直接受け止めるために。