第7話 嘆きの壁
スパ=フランコルシャンは、F1時代からドライバーの評判が高かったサーキットの一つである。大きな特色があり、総合力が試され、かつ極めてチャレンジングなコースレイアウトを有している。そしてFIにおいて、このスパ=フランコルシャンというサーキットは更なる進歩を遂げていた。F1というカテゴリーが失われて数世紀、どのサーキットもまともな状態では保存されていなかったのだが、モンテカルロは新しいセクションを追加された以外はそのままの形で復元され、ホッケンハイムは改修された跡を正規のサーキットとして復元された。どちらも、原型に大きな変化はない。しかしここ、スパ=フランコルシャンだけは、大規模な改修が行われていた。
(さて、こりゃどうしたもんか……)
ほぼ頭上にあるデジタル表示を見ながら、北嶋はヘルメット内で溜め息を漏らした。2周目を迎え、自らのラップタイムが見間違いでなかったことを改めて実感する。この1周で前を走るハミルとの差が0.2秒開いたことに大きな驚きは感じないが、後ろから追いかけてくるサリスとの差が0.3秒縮まっているのは由々しき事態だった。コレだけを見ても、彼のラップタイムは周囲比べて遅れていると言わざるを得ない。
「ツクモ、この一周でトップとはどのくらい離れた?」
『0.5秒だ』
予想はしていたが、優勝を狙うフォーチュンベルにとっては極めて喜ばしくない事実である。しかも今回は、突発的なトラブルや不利な状況がある訳ではない。彼らとしては精一杯走った上で、タイムが伸びていないのである。
ただその理由に関しては、すでにある程度わかっていた。
右へとハンドルを切りながら、まるで奈落の底へと吸い込まれていくような感覚に陥る。ホームスタンド前を走り抜け、かつてラ・スルスと呼ばれたコーナーの名残は、もう微塵もない。鋭角なコーナーは姿を消し、代わりに作られたのが渦を描くように伸びていく複合コーナーである。それは立体交差になる寸前で鋭角な左コーナーへと変じ、このサーキット最大の名物でもあるオー・ルージュへと伸びている。
赤い水と名付けられた細かいコーナーを繋いだ上り区間は、ドライバーの度胸を試す場として有名だ。F1当時から80メートル近くあった急勾配だが、低く削られた新しい最下層から120メートル、高低差は40メートル近くにもなる。単純に度胸だけではなく、アクセルワークからマシン性能まで測られる難所へと変じている。ちなみに名前の由来は近くを流れている川が鉄分を含んでいるため赤く見えることからきている。その光景は今でも健在だ。
そしてこのオー・ルージュをいかに効率よく、かつ高速で抜けるかによって、続くロングストレート――ケメル・ストレートでの伸びが決まってくる。ここも緩やかな上り区間となっており、この二つの区間で100メートル以上ある高低差を一気に駆け上ることになる。特にオー・ルージュは『壁に突っ込むようだ』と評されることが多く、前後ではなく上下のGと戦う必要があるという珍しいコースでもあった。
「くそっ、ここで伸びないなんてよ!」
本来、ストレート区間である筈のオー・ルージュからケメルへと連なる区間は、フォーチュンベルにとって有利な区間の筈だった。しかし今、その直線区間こそが足を引っ張る要因となっている。最高速にもセクションベストにも、北嶋の名前はなかった。
『やはりエンジンだな』
これまで最高速を記録してこれたのは、ウイングがないことによる空気抵抗の少なさが要因である。それは決してエンジンパワーの功績ではない。むしろその非力を、抵抗の少なさで補ってきたのである。しかしこの長い上り区間は、否応なくエンジンパワーを要求してくる。予算の都合もあり、非力なエンジンを選択するしかなかったフォーチュンベルにとって、これはあまりに酷な要求だった。
「でもシミュレーターじゃ、そんなに差はなかったぞ。こんなに伸びなかったか?」
1キロ以上続くケメルストレートを抜け、山道区間とも言うべき下りのオフロードに突入する。細かく、そして厳しいコーナーの続く低速区間だ。右左右と曲がり、回り込むような右コーナーを抜けると、幅の広い中速区間へと入る。
『いや、シミュレーターは正しいよ。タイムはそう変わっていない』
「ってことは……」
『相手のエンジンパワーが上がっているということだ。ウチらはGとのバランスを崩さないために、エンジンにはあまり手を加えてないからな。その差が出たのさ』
すなわち、ウイングによる抵抗を何とかフォローしようとエンジンでカバーしようとした分、上りのコースで効果を発揮したということになる。カブトガニとの間にストレートスピードの差がなければ、それほどの強化が行われなかったかもしれないと考えると、少しばかり皮肉めいた話である。
「……他にないのか? タイムを縮める方法が」
激しい横Gで滑るマシンを制御しながら、二つ続く左コーナーを越えていく。更に訪れた右左右と続くコーナーで重力制御を細かく行ってはみたものの、さほど大きな効果が出たとも思えない。重力制御はあくまでウイングの代わりにダウンフォースを得るための道具でしかなく、決して万能な加速装置ではないのだ。
『今は難しいな。とにかく現状のペースを維持して、何とかチャンスを待つしかない。しばらくは頑張ってくれ』
「あいよ」
気楽に返事をしたものの、北嶋の内心は穏やかではない。どんな無茶な作戦であろうと躊躇しないツクモが、無策で耐えろと言っているのだ。これは極めて思わしくない状況である。
(待つのは嫌いなんだよなー)
大きく右に回るコーナーを抜けた所で、オンロードへと戻ってくる。大きく左へ曲がりながら僅かに下っているため、ようやくカブトガニが『らしい』走りを許される区間でもある。それでも二つ続いている高速コーナーは半径がきつく、その後に訪れる大きなシケイン――バスストップシケインはブレーキに厳しく、マシンへの負担が増大していく。しかしこの区間だけが唯一他のマシンに比べてタイムを稼げることから考えると、無理をせざるを得なかった。ここでのマージンがなければ、ラップ毎のタイム差はもっと広がっている筈だ。
3周目に入ったところで、後方の様子を映し出すサブモニター――通称ミラーにサリスのマシンが映り込む。攻めることを得意とする北嶋にとって、その事実は決して嬉しいことではない。ただもちろん、この程度の状況で諦められるほど、伸ばした手は短くなかった。
ストレートに強いフォーチュンベルのカブトガニ、その真価が今、試されようとしている。全長7.53キロメートル、標高差120メートルにも及ぶ難コースは、まだ15周残されている。
その結末は、まだ見えない。
状況に変化が見られないままに、2周が過ぎ去った。いや、変化がなかったのではない。彼らフォーチュンベルにとって、好転していなかったというだけの話だ。
(トップのシュマックと2位のハミルからは0.5秒ずつ離され、後方のサリスからは0.3秒ずつ縮められる展開か……良くないな、これは)
ペースそのものを見る限り、大きく差を開けられるほどのレベルではない。相応のペースを維持して先頭集団の只中にあることは間違いなかった。ただ、それだけでは優勝へ歩み出すことは難しい。現状、敵側のトラブルを待つ程度の消極策しか打てない以上、勝つための明確なロジックを組み上げることは難しかった。
(この状況では動けない。ならば……)
目の前のモニターで刻一刻と推移するタイムと周回数を眺めながら、ツクモは現状の整理を開始した。
まず重要なのは目標である。もちろんレースを走るからには優勝を目指すのはどのチームの誰であれ当然のことだし、出来る優勝を逃すほど無欲でもない。ただ、状況によっては優勝以上に価値を持つ入賞が存在することもある。
例えば北嶋とポイントリーダーであるシュマックとは7ポイントの差がある。もし仮にシュマックがリタイアしてしまった場合、完走によって得られる1ポイントを引いた6ポイントを稼ぐことが、最低限銀河チャンピオンを獲得できる条件となる。すなわち6位というボーダーポジションを死守することが、何よりも重要視されることとなるワケだ。もちろんこの場合、下位にいるハミルやマイオールといったドライバー達の獲得ポイントにも気を配る必要があるのは言うまでもない。いずれにしても何より重要なのは、このレースを何位で終わるかということではなく、ドライバーズランキングに何ポイント加えることが出来るのかという一点のみなのである。本来なら、チームとしてのポイントであるコンストラクターズ争いにも関係してくることなのだが、1台しかエントリーしていないフォーチュンベルがコンストラクターズタイトルを獲得することはない。だからこそ尚のこと、北嶋のポイントはより重要性を増すとも言える。
そして現在、ポイントリーダーであるシュマックが先頭を走っているというのは、彼らフォーチュンベルにとって極めて問題のある状況であると言える。1位と2位のポイント差は7ポイント、北嶋が優勝してシュマックが2位ならば、ポイントの上では並ぶことになる。そしてこうなった場合、優勝回数の多い方が上位となる。北嶋はこのレースを含めて6回優勝することになるので、優勝3回のシュマックより上位に来ることとなる筈だ。一見すると希望を抱きたくなるような状況だが、シュマックをコース上で抜いての優勝がどれほど難しいのか、今まで同じ土俵の上で戦ってきた彼らには痛いほどわかる。そして、それか出来なければ銀河チャンピオンが獲れないというのが、今の彼らに突きつけられた現実でもあった。
(せめて、タイムを縮めることが出来るなら良か――)
すでに20秒を越えたトップとのタイム差を確認した瞬間、状況の変化に気付く。毎周0.5秒ずつ広がり始めていたタイム差が、一気に2秒以上縮まっているのだ。
(北嶋のペースが上がった? いや、ハミルやサリスとの差は相変わらずだ。つまり、シュマックに何かあったということか)
一時的なタイムの変調は、決して珍しいことではない。しかし今の状態で、タイムを故意に落とす理由はなかった。まして相手はサイボーグと揶揄されるシュマックである。自らのミスでコースアウトしてタイムを落とすなど、そうそう信じられることではない。
「佐藤さん、シュマックのここ3周分のデータを寄越して下さい」
すでに佐藤も気付いていたのだろう。ツクモの台詞が終わるより早く、眼前のモニターに測定点毎のタイムが三つ並んで表示された。やはり予想したとおり、コースアウトしたような大きなタイムロスはない。少しずつ生じたロスが積み重なって出来上がった一秒差だった。
「北嶋」
インカムを操作し、相棒を呼ぶ。
『どうした?』
すでに5周目に突入し、相変わらずの悪戦苦闘を繰り広げている北嶋の声に余裕は感じられない。前は見えなくなり、後ろは迫り来るという状況は、モニター上で経緯を見守るより遥かに過多なストレスとなっている筈だ。
「シュマックにトラブルだ。多分、下の方のギアが幾つか死んでいる。次の周にはハミルが追いつく、そうなればチャンスも出てくるぞ。諦めず前へ前へ、だ」
『はいはい、最初からそのつもりだよ』
時代が変わっても、ギアに関するトラブルというのがなくなることはない。完全な故障というのは少なくなったが、一部が死ぬ――すなわち入らなくなることは決して珍しいことではなかった。更に言えば、同じチームの片方にトラブルが出た場合、もう片方にも同じようなトラブルを生ずることが多い。シュマックのチームメイトであるアインのマシンは、ギアボックストラブルによってコントロールを失い、リタイアしていた。
「風向きが変わったんだ。勝つぞ!」
『当然だっ』
とはいえ、シュマックのペースが落ちたからといって何もかもが望ましい方向に進むとも限らない。むしろそれは、更なる混沌を呼び込む始まりに過ぎないのかもしれない。
そんなことを思いつつ、張り付いた前髪を人差し指で掬いながら空を見上げる。そこには丘陵と頂の向こう側から、重く厚い雲が広がりつつあった。
実況が白熱する。
『おおっと、いよいよハミルがシュマックのテールを捉えたっ。二人の差は0.5秒、仕掛けるか、凌ぐか、オー・ルージュを駆け上ったところでどう出るっ。ハミルが右から左へ大きく振ってスリップストリームから抜けたぞ。並ぶ並ぶっ、しかしシュマックも直線は伸びるっ。簡単には行かせないっ!』
固唾を呑んで見守る中、トップの2台がデッドヒートを繰り広げていた。タイムが落ちたとはいえ、シュマックのスピード自体に翳りが出ているような印象は受けない。もちろん、トラブルを抱えていることはタイムが証明しているし、直線でのパフォーマンスがマシンの全てではない。しかし理由はあれど、シュマックの技術と迫力が今の走りを支えていることは疑いようがなかった。
『さすがはシュマック、インをキッチリ抑えます。ハミルは、このブロックを攻略出来るのかっ?』
『ライン取りの上手さはさすがですね。それに、どうやら高速走行には支障がないようですから、追いつくことは出来ても抜くことは難しいのでしょう。デニス・レーシングはフォーチュンベルに次いで直線速度の速いマシンですが、それでもカバロのマシンをパスするにはスリップストリームを必要とします。オー・ルージュからの立ち上がりを含め、技術や性能ばかりでなく、度胸や運という要素も必要になってきますね』
『チャンピオンになりたければオレを越えてみろと言っているような感じですね。それにしてもカバロのマシン相手にスリップストリーム必須とは、あまりにも高すぎる赤い壁だっ!』
スリップストリームというのは、レースにおいて追い越し(オーバーテイク)を行うための基本的なテクニックである。FIに限らず高速で走行する物体の後方は気圧が低くなり、同時に本来存在している前方からの空気抵抗が少なくなる。その領域に後方からマシンを寄せることにより、気圧が低いことによる吸引効果があるばかりでなく、前方からの空気抵抗が少ないためにマシンパワーに余裕が生まれる。この余裕を利用して追い抜くことになるのだ。特にFIのような高いカテゴリになればなるほど、技術やマシン性能のみで抜くことが難しくなり、この技術が多用される。ただ、ウイングに受ける風が低減することからダウンフォースの管理が難しくなったり、そうさせないための乱気流を発生させるウイングを使用しているマシンもあるので、現在では万能と言えるほどの技術ではなくなっている。
そして、特にシュマックの駆るカバロのマシンは、抜きにくいことで有名だった。
『しかし北嶋にとってはチャンスですよ』
解説の指摘に合わせたかのようなタイミングでカメラが切り替わる。
『その通りですっ。前の周では12秒あったタイム差が、7.8秒! 4秒以上縮めていますっ。残るは11周、確実に追い付きます』
『先頭の2台が争ってくれれば、自然とタイムは伸びなくなりますからね。それに、北嶋選手のタイムも少しずつですが伸びています』
『北嶋自己ベスト更新っ。後方サリスとの差も2秒から縮まりません。いよいよエンジンがかかってきたのかぁ!』
ここで再び、ケメルストレートに入った先頭の2台が映し出される。すでに並んでいる2台のマシンが、最大のオーバーテイクポイントを駆け抜けていく。先程の周回と違い、十分に引きつけてからアウト側へ抜け出たハミルのマシンは、フロントウイング一つ分リードしている。
『アウトから行くつもりかっ。しかしこの接近戦は厳しいっ。インを抑えたシュマックがブロ――』
ブロックという単語が完結しない。いや出来なかった。
『シュマック、引きましたね』
『島宮さん、今のは?』
状況の見極めは勝負の世界に踏み止まる者にとって、間違いなく重要なスキルである。しかし同時に、どんな状況でも優位を譲らない頑固さが求められる時も確かにある。現状で、シュマックとハミルのラップタイムには2秒以上の違いがある。もし抜かれれば、その時点で優勝を諦めることになるのは必至な局面だ。優勝するつもりなら、ここは絶対に引いてはならないところである。残る11周、可能な限りブロックに徹すべき状況だ。
『抜かれる判断をしたというよりは、無理をしなかったように見えますね。もしこのまま走っていれば、次の周にはハミルの後方に北嶋が追いついてくるでしょう。その状況を避けたかった、ということなのかもしれません』
『確かにハミルに抜かれても縮まるのは7ポイントですから、12ポイント離れているシュマックにとっては問題のない相手でしょうが、すぐ後方につかれるよりもワンクッション挟んだ方がブロックしやすいのではないですか?』
『確かに、1台になら抜かれても大丈夫という安心感はあります。ただ、ブロックする相手が2台になることによって、ドライバーの負担は大きくなりますし、突発的なアクシデントが起こる確率も増えることとなります。シュマックとしては、確実にブロックできる状況を作った方が間違いないと考えたのかもしれませんね』
『なるほど。とはいえシュマックのレースペースが落ちたことは事実、北嶋にとってチャンスであることに変わりはありません。オフロード区間を走り終えて、シュマックと北嶋のタイム差は5.1秒まで迫った! やはり苦しい、苦しいぞシュマック!』
右コーナーを立ち上がって加速を始める深紅のマシンの後方に、ウイングのない白いマシンが映り込む。まだ距離はあるが、確実にミラーには姿を晒している筈だ。
「よしよしよしっ!」
鼻息も荒く、拳を振り上げた朱里が立ち上がる。
仮にもお嬢様学校に通う淑女としては、あまり誉められない応援風景である。もし母親がここに居たら、確実に彼女を叱責していたところだろう。だが、同席している二人が彼女を止めることはない。それは彼女の親ではないからというだけでなく、同じ気持ちを抱いているからに他ならない。本音を言えば、感情を素直に表現できる彼女が羨ましいほどだった。
『ホームスタンド前から漆黒のマシンが螺旋階段へと向かう。その差は何と3.8秒、いよいよ迫ってきた。もうすでにシュマックの視界にはカブトガニが大きく映っている筈です。残り10周、ここが正念場だぁ!』
グルリと回り込んで大きく下り、鋭角の弧を左回りに描いて立ち上がる。ここから先はオー・ルージュとケメルストレート、1.5キロ近く続く高速区間だ。
『ここからはカブトガニの本領発揮、得意なスト――いや、差が開くっ。オー・ルージュで北嶋が遅れたぁ! ケメルストレートでもジワジワと差が広がっていく。スリップストリームにすら入れない。まさかの直線失速だっ!』
『これは……エンジンでしょうかね。それとも、高速系のギアに何かトラブルを抱えているのかもしれません。ただ、ラップタイムは刻んできています。大きなトラブルではないと思いますが』
『北嶋黄色信号! ここまで来たのに赤い壁を越えることが出来ない!』
『あるいは、シュマックは気付いていたのかもしれませんね。ストレートで北嶋に抜かれることはないということを。だからこそ、余計なトラブルを避けて一対一の勝負に持ち込んだのかもしれません』
低速コーナーの続くオフロード区間に入って、2台の差が詰まる。しかしそれは、物理的な距離が縮まった以上の価値を有してはいなかった。シュマックの駆る深紅のマシンには、いささかの動揺も見られない。
『何ということだっ。チャンピオンへ至る絶対条件は帝王シュマックの攻略しかないというのに。この赤い壁は今の北嶋には高過ぎるのかっ!』
「まだ大丈夫!」
強く拳を握った朱里が、誰にともなく言い聞かせる。
『まだ9周半あります。プレッシャーをかけ続ければ、いずれ綻びが生ずるかもしれません。焦りは禁物ですよ。北嶋選手は、こんな時こそ冷静に走ってもらいたいものですね』
『とはいえ、この隙にとトップに躍り出たハミルが逃げるっ。シュマックにとっては問題のない相手でも、5ポイント差しかない北嶋にとっては問題のある相手だっ。早々にシュマックをかわさなければ、ハミルに追いつけなくなります!』
『恐らく、それもシュマックの狙いの一つでしょう。焦りが軽率な判断と行動を生み、ミスが増えることになります。少なくとも現状では、逃げるシュマックよりも追う北嶋選手の方が大きなプレッシャーと戦っているでしょうね』
「さっちん……」
不安そうに呟く朱里は、何かを耐えるよう口を引き結び、モニターへと視線を集中する。今の自分に出来ることが、それしかないと嘆くかのような表情だ。
画面内の北嶋は、素人目にも判るレベルでシュマックを追いたて、可能な限りのプレッシャーをかけている。しかしその圧力を、時には受け、時には流して、シュマックは飄々とレースを続けていた。この辺りはやはり、百戦錬磨のツワモノといったところなのだろう。それほど詳しくもなければのめり込んでもいないと自負している朱里でさえ、その程度のことはわかる。そしてそれは、北嶋の精一杯がどうやっても赤い壁を越えられないという、極めてわかりやすい幻想へと繋がった。
信じたいという気持ちに偽りはない。だがそれでも、どうしようもないことというのは現実に山ほど存在する。
『またもやオー・ルージュで離される! ケメルでスリップは……駄目だっ。差が縮まらない! 残り9周、この絶望はチェッカーを受けるまで終わらないのかっ』
どうしようもないと思った時、どうすれば良いのかなど朱里にはわからない。ただ、諦めるという選択肢だけは、最後まで選びたくなかった。
『……おや、北嶋選手が遅れ始めましたね』
解説の指摘通り、オフロード区間に入った2台の間隔が広がっている。
『小休止でしょうか?』
『あるいは、タイヤかブレーキに限界が来ているのかもしれません。ストレートに強いカブトガニが、ストレートで伸びないという状況の中であれほどの猛プッシュを見せたのです。負担がかかってても不思議ではありません』
『何ということだっ。北嶋本人ばかりかマシンも満身創痍、傷だらけの大和魂に勝機は訪れるのかっ!』
『まずは走り続けることです。今はそれしかありません』
的確過ぎる解説が、今の朱里には腹立たしい。
苦しそうに、辛そうに走る様がモニター越しにでも痛々しく映る。それでも尚、喰らい付く姿勢だけは決して崩そうとしていなかった。北嶋はまだ、何一つ諦めてはいない。そう実感することが出来た。
ただ、このままでは何一つ変わらない。それは彼女にもわかる。しかしどうすべきかなど、思いつく筈もなかった。所詮は傍観者の一人でしかないという現実が、こんな時にはもどかしい。そんな気持ちを紛らわそうと、何か一つでも自分に出来ることをと見回した彼女は、分厚い強化ガラスによって区切られた四角い窓で視線を止める。
そこに残された一条の痕跡が、変化の兆しだった。