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F・∞  作者: 栖坂月
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第5話 タイヤ攻防戦

 空中を、幾つもの大きな四角い物体が高速で飛んでいく。

 この極めて奇妙な構図が、FI名物の一つであるカーゴ移動の情景だ。FIという競技が複数のサーキットを渡って勝敗を決するというシステムを採用、構築して以来ずっと続いている習慣的光景であった。ちなみに内部は慣性制御が働いているため、観光地を走っている路面電車程度の揺れしか感じないが、実際には音速を超えるスピードで飛んでいる。モナコからドイツ――ホッケンハイムリンクまで約十分の空中移動は、参加する側にとっても観る側にとっても適度なインターバルとして認知されていた。

 そのカーゴ内の一角、ガレージとは壁一枚隔てたモニター室に、病院の待合室で診察を待っている患者よろしく、5人の男女が静かにシートで時を費やしている。マシンの設定や点検を行うメカニック達、片平と中根、そしてタイガーウッドの三人と補佐役である5体のアンドロイド、加えてマシンに乗ったままの北嶋はここに居ない。彼らは今頃、ホッケンハイムに向けての最終点検に追われている筈だった。

 会話はない。佐藤がキーボードを叩くリズムと、体勢を変えた時に生ずる衣擦れの音が時折響くのみだ。あまりにも静か過ぎて、音を立ててしまうことがはばかられるほどだ。こんな時には自然と、そして興味がなかろうとモニターに視線が集中するものだが、高速移動中のカーゴは電波も遮断するレベルの防御シールドを展開しており、垂れ流しの民間放送が受信されることはなかった。

『なぁ、一ついいか?』

 インカムを首にかけていたため、ツクモの抱えていた端末から北嶋の声が響く。この状況では当然のことながら、全員の視線がツクモの膝上へと集中した。

「何だ?」

 この奇妙な注目に苦笑しつつ、ツクモが短く応じる。

『朱里ってさ、学校とか大丈夫なのか?』

「アンタはこの状況で何の心配をしてるワケ?」

 自分が今、全銀河から注目を浴びるような立場に居るという事実からすれば、朱里の発言の方が至極真っ当である。とはいえ、北嶋には北嶋なりの言い分もある。

『いやでもさ、お前の学校って超お嬢様学校だろ? 前のレースから二週間くらい休んでるじゃねーか。そんなんで大丈夫なのか?』

「あのねー北嶋クン、確かにウチは世間一般に言われているお嬢様学校だし、こんなに長く、しかもレース観戦なんて理由で休学を認めてくれるような学校でもないよ。でも銀河標準時刻とヤマトの時刻が違うことくらい知ってるでしょ?」

『ん? どういうこと?』

「つまり、ヤマトは今夏真っ盛りという意味だ」

 朱里の説明を、ツクモが補足する。

『え、夏?』

「フリーターの北嶋クンには分からないかもしれないけど、世間の学生には夏休みという便利な長期休暇が存在して――」

『知っとるわ!』

 室内に笑い声が木霊する。たったそれだけのことで、どこか淀みが堆積していたかに思えた雰囲気が消し飛んでしまった。それが自然な、北嶋の抱える緊張から発生した発言であろうことは、容易に予想出来る。しかしそれでも、ツクモはこの一連の流れに感心し、このチームを評価していた。わかっていても出来ないことなど山ほど存在する。だがこのチームでなら、その出来ないことが出来るようになるような、そんな気がしていた。こと仕事において、個性という名の資質にこれほどの価値を見出したのは、生まれて初めてのことだった。

 そんな柔らかな笑みを浮かべるツクモの視界に、オレンジ色のカウントダウンが入ってくる。到着予定時刻まで残り二分を切ったところで表示されるようにしていたものだ。

「北嶋、そろそろ時間だ。準備は出来ているな?」

『おうよ!』

「順位的には9位だが、10位とはほとんど差がなかった。カーゴのタイミングで引っ繰り返っているかもしれん。リスタートは慎重にな」

『あぁ問題ない。そもそも次はホッケンハイムだ。モンテカルロと違って、コースに足を引っ張られることはないよ』

「そうだな」

 内心としては不安もある。しかしツクモは、あえてそれらを封じて同意した。今この瞬間に最も重要なのは、勝利を掴むという目標を見定めた上で、勝てるという確信の元に新たなサーキットへと走り始めることである。トップとのタイム差は約20秒、上手くいけば追いつける差であると同時に、上手くいかなければ絶望的な差でもある。結局のところ、北嶋の内心と技術に依る側面が大きいのだ。

「あ、そろそろ?」

 小さな揺れを感じて、朱里が天井を見上げる。

 急減速によって吸収し切れなかった慣性が、揺れという形で間近となった到着を訴える。外の景色は見えず、衝撃もほとんどないが、それでも大地に降り立ったことを、どこか本能的に察知してツクモと佐藤は立ち上がった。

 そしてそれと時を同じくして、開かれたシャッターから轟音と共にカブトガニが発進していく。優勝というただ一つの栄冠を掴む、そのために。



 ホッケンハイムリンクは、上空から見ると大きなオーバルコース――歪んだ卵が少しばかり欠けたような形に見える。緩やかに右回りをしている直線に近い曲線と、ヒモをクシャと丸めて放り投げたような形をしたテクニカルコーナーがシンプルな直線とコーナーによって繋がれているような印象だ。基本的にはストップアンドゴーを重視した立ち上がり勝負のコースであるが、やはりこのコースを最も象徴しているのは森林を抜ける高速区間であろう。森林が切り開かれるような形で伸びている半径の大きな曲線は、二つのシケインを挟んでいるにもかかわらず瞬間的に時速400キロを越えることも珍しくない。かつてはこのスピードが危険視され、改修を重ねられてテクニカルなコースへと変貌した時期もあったが、鮮やかなマシンが深緑の森を駆け抜ける様は、やはり人目を惹くに十分な魅力を有しているようだった。

 そんな、最高速と直線スピードを求められるコースにおいて、このフォーチュンベルのマシンが遅れを取る道理もなく、快進撃を続けていた。

 ツクモが予想していた通り、到着直後は10位に一旦後退した北嶋だったが、ピットロードを抜けた最初の直線で簡単に追いつき、その周回が終わる頃には追い抜いていた。そして現在の順位は7位、トップとのタイム差も18秒にまで縮めている。

(6位とのタイム差は3秒、アレを追い抜けばトップとの差も15秒くらいになってるかな)

 このポジションになると、さすがに中段グループほど簡単には抜かせてもらえない。特色に違いこそあるものの、相応のタイムを弾き出せる程度の性能は有しているのだ。だからこそ、一台かわすことに対する価値も上がってくるし、抜かれないことの重要性も増すこととなる。

(前の車は……青魚ブルーフィッシュか。そうなると、勝負はシケイン後だな)

 ホームストレートを立ち上がり、そのまま若干右へと湾曲している高速区間へ突入する。ブルーフィッシュ・レーシングのマシンも高速仕様にしてある筈なのだが、それでも元々中低速のコーナーを得意とするマシンである。その差が見る見る縮まってくる。しかし真後ろに追いつく直前にシケインへと突入し、立ち上がりに優れたブルーフィッシュに水をあけられた。しかし続く区間も大きく右に回り込む高速コーナーであり、直線スピードに勝るフォーチュンベルが差を詰めていく。

 と、スリップストリームの影響を受ける領域に入ろうとした矢先、ブルーフィッシュのマシンは大きく右へとハンドルを切る。もちろん進路を譲ったのではない。北嶋とは別のコースを『選択』したのだ。

 FIにおけるホッケンハイムリンクの大きな特色として、複数のコースから任意のコースを選択出来るというシステムがある。距離にして最大2キロメートル近い差異が生ずることもあり、各チームにとって極めて重要な選択となる。その基本的なポイントは、オフロードコースをどの程度走るか、というものだ。ホームストレートの途中に一箇所、最初のシケイン出口に一箇所、そして先程ブルーフィッシュの入って行った計三箇所が、その分岐点となっている。いずれも逸れた瞬間からオフロード区間へと移行し、最終的には正規のオフロード区間で全て合流する。

 二つ目のシケインを抜けた北嶋は、直前で車高とサスペンションを調整してオフロード区間に突入する。他のコースではオフロード区間のコーナーが複数存在するが、この最も距離の長いコース選択ではオフロード区間にコーナーがない。これは、特にタイヤへの負担を憂慮しているフォーチュンベルにとって、極めてありがたい仕様だった。

(来るなよ来るなよ)

 合流ポイントには白線で区切られた路側帯が設けられており、トラブルを避ける工夫はなされているものの、そこは真剣勝負の世界である。微妙なタイミングで飛び出してくれば事故にも繋がるし、不要なブレーキやハンドル操作が必要にもなってくる。

「来たっ!」

 姿の見えた青魚のマシンと並ぶ。フォーチュンベルの直線性能とブルーフィッシュのコーナーリング性能は、ほぼ互角の水準にあるようだ。だが、すでにスピードに乗り始めているフォーチュンベルのマシンに対し、ブルーフィッシュのマシンはこれから立ち上がるところである。並んだとは言っても、それは一瞬のことでしかない。

「よしっ、6位!」

 横目に残る二つの合流ポイントを確認しつつ、後続のマシンがブルーフィッシュ一台であることを確信する。もっとも、二つ目の合流ポイントはともかく、最後の合流ポイントから出てくるマシンなど皆無なので、さして心配もしていなかったが。最も距離を稼ぐことのできるオフロードコースは、全く整備されていないような林道でしかない。どのチームも一度は模索してみるが、活用法は見出せていないのが実情だ。特殊な装備とタイヤで挑めば何とか、という分析もされているが、そんな装備ではオンロード区間で劇的に遅くなってしまう。それだけのリスクを背負うだけのメリットは、例え下位チームにおいてすら存在しなかった。

(さて、ウチとしてはこっからが問題だな)

 実のところ、数周という範囲においてなら最短オフロードを選択するだけのメリットがない訳ではない。しかしながら、このホッケンハイムでの成績をトータルで考えた場合、それはどうしても難しい選択となってしまう。それはこのホッケンハイムが、極めてタイヤに厳しいサーキットへと変じているからである。

(うわっ、やっぱり食い付きが良過ぎる!)

 直線とオフロードが終わり、緩やかな右コーナーを過ぎて鋭角な左コーナーを曲がった瞬間、何かに後方へ引っ張られるような感覚すら北嶋には感じられた。それは原因だけを述べればタイヤのグリップ力が一時的に増したために起きたことだが、それは決して嬉しい話でも楽しい話でもない。

 ここからホームストレートまでの中低速区間は、通称灼熱区間と呼ばれている。熱吸収効率の良いアスファルトを敷いてある路面は、すでに秋めいた直射日光を浴びているだけだというのに、60℃近い温度にまで上昇している。元々タイヤに厳しいフォーチュンベルのようなチームはもちろん、オフロードにセッティングを合わせているチームにとっても鬼門となる。オフロードでも十分なグリップ力を得られるタイヤというのは、それだけ摩擦抵抗の少ない路面でもグリップ力を発揮するということになり、低温で効率良く機能を果たす。そしてその事実はすなわち、高温の路面による磨耗がより激しくなるという結論をも導くことになるのだ。そればかりか、あまりに高温が進むと表面が沸騰して気泡が発生(ブリスターと呼ばれる)し、即座のタイヤ交換を求められる結果にも繋がりかねない。つまり、あの最も短いオフロードコースを選択していたら、この灼熱地獄に20周耐え抜くことは不可能であるということなのだ。

 北嶋は陽炎に揺れるコース上を右に折れ、すぐに迎えるザックスカーブを左へと回り込む。そこから右に二回折れると、ホームストレートに戻ってきた。さすがにこれだけ小さなコーナーが続くと追い抜かれる心配はないものの、ストレート重視のマシンでは差を詰められてしまう。せっかく追い抜いたブルーフィッシュの紺地にマリンブルーのサメが描かれたマシンが、すぐ後方まで迫っていた。

 しかしそれもここまでだ。

 ストレートを立ち上がるカブトガニは、まさに水を得た魚の如く直線を突っ走る。最大全長6.9キロメートルというタイヤに厳しい難コースも、これでようやく半分の10周を消化した。残り10周でどこまで順位を引き上げ、タイム差を縮められるかに、優勝とチャンピオンの可能性がかかっている。

『5位のサリスとは4秒差だ。2周後には追いつく』

「あぁ、もう尻尾が見えてるよ」

 ツクモの言葉を楽しそうに返し、北嶋はアクセルを踏み込んだ。



 マイオールの乗るフランク・グランプリのマシンとサリスの乗るブルーフィッシュ・レーシングのマシンは、ほぼ変わらないペースで走っている。ホッケンハイムに着いてすでに13周を消化して尚、この2台はポジションとペースに変わりがない。同じルートを選択しているのも、変化が見られない要因の一つだろう。問題は、そのマシンの後方に北嶋のマシンが追いついているということである。ただモナコと違い、ルートを変えることによって自らのペースを維持できるホッケンハイムという舞台は、北嶋にとって優位に働く筈だった。この2台がそうであるように、同じコースを選択すればブロックをされる危惧も考慮に入れなければならないが、前の2台はいずれも細かいコーナーで真価を発揮するタイプのマシンである。直線で張り合って負ける相手ではない。何より、そんなことは彼らも重々承知しているだろう。ブロックするために高速のロングコースを選択するとも思えなかった。

「北嶋、ここが勝負だ。奴らがオフロードに入ったら全力でプッシュして2台まとめて抜け。下手に粘られるとこちらのペースを掴まれる」

『あいよっとおおおおぉぉっ!』

 インカムから思わぬ絶叫が迸る。あまりの大声に一瞬耳が遠くなったような印象を受けるが、そんなことを気にしている場合ではないと思い直し、ツクモは現状の確認に入る。

「どうした。何があった?」

『くそっ、危ねぇな!』

「北嶋?」

『あぁ大丈夫だ。サリスはウイングをやったみたいだが――あ、駄目だ』

「駄目? 何が駄目なんだ?」

『ちきしょー! 振動が出てる。多分フラットスポットだ』

 フラットスポットというのはタイヤに平らな部分が出来てしまったことを差す言葉である。アンチロックシステムを搭載しているFIのマシンでは滅多に起こらない現象だ。ちなみにこの現象が起こるとタイヤが振動を起こし、サスペンションなどの足回りに悪影響を与える。丸い消しゴムの一部を激しく擦って平らにするとどんな風に転がるか、そんなイメージで考えるとわかりやすいだろう。むろん、そういったイレギュラーな振動は故障の原因に繋がり、最悪の場合はリタイアという結末を迎えることになる。

 ここでツクモは考える。これが全20周の内、18周目か19周目であったなら、このまま走らせるべきだろうと判断するところだ。ピットでのタイヤ交換は短く見積もっても15秒程度の損失となる。現在トップとのタイム差は15秒――緊急停止によって数秒は増えただろうから18秒程度は開いている。これに15秒足すと30秒以上の遅れとなる。フラットスポットの影響によってペースが落ちるとしても、数秒のロスなら安いと考えるべきだろう。単純に一つでも上の順位を目指すだけならともかく、優勝を目指すとなれば安易なピットインは選びたくない選択肢だ。では逆に、このまま走らせてみたらどうなるだろうかと考えてみる。残る周回数は6周、その間2秒のペースダウンをしたと仮定して12秒のロスだ。だがタイムロス以上に振動によるトラブルが発生することの方が問題である。どれほど後方に下がろうとも、ペースが落ちようとも、走り続けている限りは可能性が残る。リタイアしてしまえば全てが水泡に帰すのだ。

 問題は残り6周、この数字をどう判断するかである。

「北嶋、タイヤを用意する。入ってこい」

『マズくないか?』

「そのまま走ってもリタイアを待つだけだ。あと6周ある。ニュータイヤで可能な限り追い上げるんだ!」

『……わかった!』

 我ながら無茶な注文をつけるものだと、ツクモは自分に感心していた。ただ、どちらを選ぶにしても、それを消極策として採用したくはなかったという内心は存在する。勝つためにベストの選択肢など存在しない。常にベターを選ぶしかないのだ。そしてだからこそ、勝利が決まるその瞬間まで周囲を煽るし、敗北が決まるその瞬間まで無様に足掻き続ける。

「片平さん、聞いてましたか?」

 インカムの繋がる相手を切り替えて、ツクモはチーフメカニックへと呼び掛けた。

『あぁ、すでにタイヤの準備は出来てる。なーに、ここはタイヤに厳しいサーキットだ。どこもそろそろ苦しくなってくるだろう。案外ニュータイヤに切り替えるのは正解かもしれんぞ?』

「そうですね。とにかく、そちらはお願いします」

『任しとけ!』

 不安はある。しかし希望もあった。

 確かに片平の指摘通り、このホッケンハイムはタイヤに厳しいサーキットだ。トラブルの直前にペースアップを指示したのも、タイヤが苦しくなってペースが落ちるであろうことを予想してのことである。そういう観点から見れば、15秒というロスタイムを抱えてでもタイヤを新しくするのは、それほど悪い選択肢ではないのかもしれない。むろん、このロスを埋めるためには限界を超えた猛プッシュが必要になってくるワケだが。

「さて……」

 気を取り直してモニターへ視線を戻すと、佐藤から送られていたデータが画面上で自己主張していた。急ブレーキ後のマシンチェックの結果と問題のシーンを捉えたカメラ映像がセットになっている。

 とりあえず大きなトラブルがないことを大雑把に確認してから、映像を見てみることにした。

 森を切り裂くように続くロングストレートを3台が縦に並んで走っている。シケインに突入するまでは安定した挙動を見せている。その内の2台がシケイン出口で右側に進路を寄せていき、別ルートへの分岐点に差し掛かった所でマイオールの後輪が流れた。その突発的な動きと急すぎる減速に対応し切れず、マイオールの後輪とサリスのフロントウイングが当たり、それでも直撃を避けるように左側へ膨らんだサリスのマシンが、結果的に北嶋の進路を妨害する形となってしまった。北嶋は辛うじて接触こそ避けたものの、急ブレーキをした際に後輪の片方がアスファルトを外れて横に滑り、スピンするような格好で停止した。この時、発端となったマイオールはすぐに復帰、サリスがそれに続いて即座にペースを戻し、北島が少し遅れた。画面を見る限り、サリスのウイングは完全に破損し交換が必要な状況だが、マイオールには大きなトラブルが見られない。リアタイヤのホイール部分に運良くヒットした形になったのだろうと推測された。そして問題は北嶋である。彼は単に避けただけに留まらず、完全に停止している。このタイムロスは決して小さくない。順位の変動こそほとんどないものの、トップとのタイム差はかなり広がったことだろう。その上ピットインのロスが上乗せされるのだ。状況は極めて思わしくない。

 渋面を作ったツクモの視界に、新たな情報が割って入る。

「25秒差か……」

 思ったよりも開いた差を噛み締めながら、背後へと視線を移す。そこには丁度ピットインしてきたカブトガニが、タイヤ交換を行うための大きなカバーを乗せられようとしているところだった。かつては人力によって効率的な作業を競っていたタイヤ交換の作業だが、FIではどのチームも同じ条件でタイヤやウイングの交換が行われている。特に人員の少ないフォーチュンベルのようなチームにとってはありがたいシステムだ。

 機械仕掛けでも状況によってタイムに差が生ずるが、単純なタイヤ交換で4秒を上まわることはほとんどない。今回のタイヤ交換も3.52秒で完了した。ピットロードでのロスタイムを考慮に入れると16秒から17秒程度の損失となる。単純に計算すれば、トップとのタイム差は40秒以上に広がったことになる。

『フェテルの後ろで戻った。10位だな。トップとは何秒ある?』

「トップとはよ――」

 言いかけて、ツクモは自分の目を疑った。状況を読み上げようと思った瞬間、表示が劇的に変動したのである。

『どうした?』

「……北嶋、とりあえず驚け。お前の順位は9位だ」

『フェテルも順位を上げてたのか?』

「いや、そうじゃない。トップとの差は33秒丁度だ。ちなみに現在のトップはシュマックだよ」

『え、パウルはどうしたよ?』

「リタイアだ。エンジントラブルらしい。しかも3番ルートの途中で止まっている。あそこは撤去できないゾーンだ。間違いなく通行禁止になる」

 3番ルートは二番目に長いオフロードルートで、コーナーリング重視のマシンは大半が選んでいるルートでもある。先程トラブルを起こした二人が利用していたのも、その3番ルートになる。普段使っていたルートが使えなくなるということは、同時にペースが落ちることを意味し、しかもトップのマシンがリタイアしたことによって差異が劇的に縮まった。

『よっしゃ、風向きがこっちに向いてきたぜ!』

 素直に喜ぶ北嶋とは対照的に、ツクモはどこか気味の悪いものでも見ているかのような顔で現状を無感情に報告し続けるモニターを睨む。これが何のため、誰のための流れであるのか、図りかねているからだ。北嶋の言うように、これは確かに風が吹いているということなのかもしれない。ただ自分達に向かって吹いている風が、必ずしも追い風であるとは限らないのだ。激しい向かい風ではないと、誰が断言出来るのだろう。

 とはいえ、例えどのような風が吹いていようと、今の彼らに選択出来る戦術などたかが知れている。それも戦術監督などと銘打っている立場の人間からすると、情けないほど陳腐な策だ。

「北嶋、とにかく今はプッシュだ。何も考えなくて良い。あと6周全開でかっ飛ばせ!」

『了解!』

 不安を胸に、流れる情報を見ながら歯噛みする。唯一の好材料は、とりあえずトラブルらしいトラブルを抱えていないことだけだった。


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