第4話 モナコ戦線異常アリ
3周目を迎える頃には、大分状況が落ち着き始めていた。各マシンが自分のペースを取り戻し、前のマシンに比べてペースの遅いマシンが遅れていき、その後方にいるマシンの頭を抑える形となる。先頭集団が間隔を広げ始め、6位から数珠繋ぎとなっていった。抜きにくいと評判のモナコでは、もはや珍しくない光景である。
しかし、それは同時に前車との間隔が狭まり、追い抜きしやすくなるという事象を生む結果となるので、後方に沈んだ北嶋にとっては悪いことばかりでもなかった。むろん、この状態に長く留まればトップとの差が開くことになるので、出来る限り早い段階でのペースアップが必然であることは言うまでもなかったが。
(抜き所が少ないとはいえ、無いワケでもない。まずは第一コーナー、仕掛けてみるか?)
スリップストリームから加速を見計らってイン側へとスライドさせる。距離的には微妙だが、ブレーキタイミングを遅らせれば前に出られるという予感があった。
『待て。まだ行くな』
「あ? 何で?」
メインストレートの出口が見えかけたところで、ツクモの指摘が割って入る。北嶋は疑問を口にしつつも自然にアクセルを戻し、レコードラインにハンドルを切って再び14位に納まった。
『第一は接触があった。破片がまだ残ってるかもしれん。あと2周は様子を見てくれ』
「なるほど、了解」
FIのマシンを支える車体は硬く、しかも軽いプラスチック素材で出来ている。繊維強化プラスチック(FRP)ほど脆くはないが、接触事故によって破片が飛ぶことは珍しくない。そして飛び散った破片は、間違いなくタイヤよりも硬い。つまり、パンクの原因となり得るのである。非常に軽い素材であるため、風圧などによって飛ばされるので、その場に長く留まることはないが、しばらくは警戒の必要があるのだ。
(とはいえ、第一で抜けないとなると、抜くチャンスがますます少なくなるな)
美しい海を望むと名付けられた上りの直線を抜け、左右とコーナーが続く。メインストレートもそうだが、このボー・リバージュも距離が短く、車間を詰めるのがやっとだ。メインストレートでは持ち前のストレートスピードで何とか追いつけるものの、上りのボー・リバージュでは詰めるには至らない。
(このちまちましたとこは、やっぱ嫌いだな)
それからすぐに訪れた右に折れるミラボーコーナーから、極めて半径の小さいロウズ・ヘアピンをグルリと旋回していく。最高速400キロを越えることすらあるFIのマシンが、時速50キロ程度にまで減速しなければ曲がれない超低速コーナーは、迫力にこそ欠けるものの、じっくりマシンを観察するには見所のあるコーナーだ。
ヘアピンを抜けてすぐに右へと90度折れたマシンは、緩やかに右へと旋回しているトンネル区間へと突入する。視界が悪く先の見えないトンネル内で、それでも最高速へと引き上げるドライバー達の度胸が試される局面でもあった。
(順当に考えるなら、ここしかないよな)
北嶋は手元のボタンを操作し、ダウンフォースのレベルを一段下げる。加速によって生じるダウンフォースを減らし、瞬間的に車重を軽くするのだ。すなわち、直線スピードが伸びる。もちろん、安定性の崩れたマシンはコントロールが難しくなり、ハンドル操作によるレスポンスにもブレが生ずる。このシステムとて、決して万能というワケではないのだ。
緩い右コーナーとトンネルを抜けた先に、小さなクランク――シケインが待っている。このヌーベル・シケインこそが、モナコにおける唯一の抜き所と言われていた。それ以外では、直線スピードによほどの差がない限り、なかなか抜くことは難しい。
彼は更に手元を操作し、今度はダウンフォースを上げる。コーナーでのダウンフォース確保はマシンの側で勝手にやってくれるが、今回の引き上げはブレーキのためだ。ブレーキの効きを上昇させ、シケインに入るまでのブレーキタイミングを遅らせるためである。そうすることで、前の車より前に車体を持っていくことが可能となり、結果としてオーバーテイクが可能となるのである。
(よしっ、行ける!)
シミュレーターやテスト走行でコースレイアウトと特性は身体に憶え込ませてあるが、それでも実際のレースで他のマシンと並走するのは勝手が違う。そんなことは重々分かっている筈の北嶋ですら、やはり現場で驚かされることも多かった。
更に彼は、次いで現れた左に折れるタバコ・コーナーを曲がり、左右と細かなコーナーを繋いで難易度の高いラスカス・コーナーへと突入していく。ちなみにこの厳しいヘアピンを抜けると、F1ではメインスタンド前へと戻ることになるのだが、FIではここで左に折れる。
(さすがにここはなぁ……せめてストレートだったら何とかなるのに)
通称海岸通りと呼ばれる区間は、大きなS字コーナーが二つ重なったような形になっている。そして何より大きな特徴は、ここの路面がウエットコンディションであるということだ。この路面の標高はゼロ、すなわち海面とほぼ同じ高さに設定されている。しかも波が直接入ってこないようシールド処理こそされているものの、飛沫は絶え間なく降り注いでいた。すなわち、常に雨が降っている状況と変わらないのである。そのためタイヤチョイスはウエット寄りに設定せざるを得ず、ドライでも持ちの良い浅溝のタイヤを選択することが必須だった。しかし浅溝にも何種類かあり、どの程度ウエット寄りに設定するかは各チームの特性と裁量に委ねられる。ちなみに北嶋が採用しているのは、最も溝の浅いタイヤだ。
(だぁっ、やっぱりダウフォを強めにしないとスライドが酷い)
ダウンフォースの上昇は確かに便利な機能の一つだが、それはタイヤやブレーキといった部位に明確な負担を強いることになる。ただでさえ強めなければならない状況下で無理な挙動を演じられるほど、北嶋にもカブトガニにも余裕はなかった。
(ここからはさすがにウイング組に付いていくのがやっとだな)
ウエット区間を抜けた瞬間、右回りの大きな複合コーナーが見えてくる。ほぼ180度回り込むことになる大きなコーナーは、加速+遠心力によるGとの勝負となる。アウトには膨らまず、しかし出来る限り加速しながら抜けていかねばならない。そしてこの先は、短い直線と直角のコーナーが連続するストップアンドゴーの区間に入る。左右右左と連続で訪れるコーナーは、旋回性能と加減速性能を問われることとなる。直線スピードを売りにしているフォーチュンベルにとっては、むしろ差を広げられる区間だ。前の周に第一コーナーで負い付けたのは、数珠繋ぎという特殊な状況があったからこその話である。
(これで一周、やっぱり基本的にはヌーベル・シケインしかないか)
一周5.18キロメートル、その区間で明確に抜けるポイントが一つしかないというのは、やはり北嶋にとって喜ばしくはない。しかし第一セクションにあたるモナコの周回数は22周ある。一周にたった一度でも、残り18周なら18回のチャンスが訪れるということだ。
諦めるつもりはないとばかりに、北嶋は力強くアクセルを踏み込むのだった。
分析人の仕事は、膨大なデータの海から必要な情報を抽出し、時には演算処理を施した上で提示することにある。チームによっては総合的な判断を下す監督と兼任することもある、極めて重要なポジションだ。フォーチュンベルで分析人――通称データマンをしている佐藤拓也も、かつてはセッティングや状況判断を任されていたことがある。しかし今は、あくまでデータの回収解析と抽出に専任している。その理由はただ一つ、ショーリ・ツクモという戦術監督が隣に居るからだ。元々無口で、滅多に他人と話すことのない彼が積極的な自己主張を好む筈もなく、その役割から開放されて喜んだことはもちろんだが、それでも自らの判断が劣っているなどとは思っていなかった。譲ったのは指示や命令系統の権限だけで、データ解析による結論が間違っていると判断した場合、すぐにでも監督へ報告するつもりでいた。
だがツクモがチームに加入して三年、佐藤は一度として上告をしたことはない。その的確な判断を見る度に、人は経歴や見た目ではわからないものだと実感する日々である。
元々ツクモは、レースとは全く関係ない所で働いていた。彼は鈴本運送で配送ダイヤの管理をしており、少なくともレースという観点で見た場合素人同然、というより素人そのものだったのである。そんな彼がスポンサーの娘とはいえ、年端の行かない高校一年生の朱里の勧めでチームに入った時、相応の衝突や不満が当然ながら持ち上がった。しかも当時、切れ者と評判ではあったもののツクモの年齢は26歳、社会ではまだまだ若造の部類である。整備担当のオヤッサンこと片平左京などは、正面から馬鹿げた抜擢だと食ってかかったものだ。しかし今は、急先鋒だった片平でさえ、ツクモの采配に不満を漏らす者は居ない。むろん意見を違えて異を唱えることはあるが、それは明確な議論であり、確執や私怨などとは無縁のことである。
不思議な人だと、佐藤は改めて思う。特に彼がそう実感するのは、今の自分の仕事が、かつてしていた仕事よりも遥かにエキサイティングな喜びに満ちているという点だ。
他人に指示を出すのは億劫だし、接触を自ら求めるのは苦痛が伴う。それでもやはり、自らが選び、弾き出した答えによってレース展開が左右されるという状況にはやりがいを感じるし、実際に楽しいと思っていた。しかし今、緊急性の高い情報を引き出してツクモに提示する瞬間は、そういった見える張り合いとは別のワクワク感が、明確に存在するのである。自分のものではない自分よりも面白いと思えるストーリーラインが、自分の提示したデータによって動き始めるのだ。ずっと裏方だと思っていた自分が舞台の上に引っ張り上げられたかのような、奇妙な高揚感を感じていた。自分が示し、それを元にツクモが考えれば何かが動き出す。まるで積み重なっていく歴史を見ているかのような感慨なのかもしれない。
「あと7周……4周足りないか」
猛プッシュを続けて順位を11位と、スタート時のポジションに戻した北嶋が10周目に突入したところで、佐藤は解析の終わったデータをツクモのモニターへ送った。
それはタイヤの磨耗状況とブレーキの温度変化、それらを周回毎に並べ、更に予測値を弾き出して限界値を明示したものである。このままのペースで走り続ければ、このモナコでの周回数、すなわち22周目を待つことなくタイヤとブレーキに限界が訪れる。仮にこの二つが悪い意味での相乗効果を生めば、予想よりも更に限界が早まる可能性もあった。
「北嶋、一旦ペースを落とすぞ」
インカムに手を添え、素早い決断を下したツクモがドライバーに指示を出す。
『タイヤか?』
「それとブレーキもだ」
タイヤと同様ブレーキも消耗品の一つではあるが、この場合問題なのはブレーキ自体の耐久性ではない。そもそもブレーキという機器は、ブレーキパッドなる物を押し付け、その摩擦によって制動をかけるという仕組みで成立している。この時、失われた運動エネルギーは熱エネルギーへと変換されることによって、止まるという行為が達成されるのである。すなわち、ブレーキパッドが熱いままでは効率的な熱変換が行われず、制動に異変が起こったり、ブレーキ機構そのものに何かしらの不具合をもたらす原因にもなり得るのだ。軽度の故障であれば交換という手段もあるが、事故でリタイアなどという状況を招くようなことにでもなれば、そこで全てがお仕舞いとなってしまう。それだけは避ける必要があった。
『まぁ、さすがにこのコースで抜こうとなると、そうなるのも当然か……で、このままモナコは諦めか?』
「そのつもりならタイヤ交換をオススメするがね?」
『まさか』
北嶋の声は楽しそうだ。
「それならしばらくはタイヤとブレーキを休ませてくれ。11位は決して悪いポジションじゃない。トップとのタイム差も30秒ないしな。まだ諦めるには早すぎる」
『当然だな』
佐藤から見れば消極的な策にも思えるが、北嶋の声に落胆はない。むしろ何か、心躍るチャレンジを突きつけられたかのような、奇妙な高揚感すら感じられた。
「さてと――」
耳元でボタンを操作し、今度はガレージにいるチーフメカニックへと繋ぐ。
「片平さん、聞こえてますか?」
『おう、タイヤ交換の準備ならもう始めてるぞ?』
ここまでは、佐藤の予想通りだった。
この状況で取れる策は大きく分けて二つしかない。攻めるだけ攻めて限界が来たら守りに入るか、まずは余裕を作ってラストスパートをかけるか、どちらかしかない。ツクモは後者を選択したようだが、いずれにしても保険のためにタイヤを準備しておくのは当然のことだ。
「いえ、交換用のタイヤなら片付けて下さい。アイツは絶対に入ってきません」
さすがに佐藤も、この台詞には驚いた。
『おいおい、そりゃ入っちまったら絶望的だってのはわかるが――』
「そうではなく、アイツのタイヤマネジメントが的確であることを知っているからです。大丈夫、最後までもたせますよ、絶対に」
『……わかった。で、わざわざ連絡を入れたのはそんな話をするためじゃないんだろ?』
「今このモナコで出来る努力は、全て北嶋にしか出来ないことです。我々はそのための材料しか与えることが出来ない。しかしその先、ホッケンハイムまでになら、出来ることは山とあります」
『もう向こうへ行く準備を始めろと?』
「正直、ブレーキが思っていた以上に消耗しています。交換作業は時間が時間ですから出来れば避けたいですが、一応準備はしておいて下さい。それと、この状況ではオーバーテイクが必須となります。追い抜き係数を0.1上乗せしてセッティングを組んで下さい」
『あいよ。次が勝負ってことだな?』
「我々はいつだって勝負していますよ」
『わははははっ、もっともだ!』
佐藤は改めて感心する。それは勝負を志す者にとって当然のこととわかってはいるが、それでも勝つことだけを目標に据えることは難しい。特に状況が思わしくない場合、リスク回避を優先するのはむしろ当たり前のことだ。しかし今、ツクモはその選択の一つをバッサリと切り捨てたのである。この流れを、佐藤は正確に評価する自信がない。もし失敗に終われば非難を受けて当然だと思うだろうし、成功しても結果論だと感じるだろう。しかし何故か、この場に居る佐藤にとって、ツクモの選択が間違っているような気がしなかった。いや仮に失敗したとしても、それを諦められるだけの覚悟があったと言うべきだろうか。
「拓さん、面倒なお願いをしても良いですか?」
拒絶する気にはなれない。佐藤は神妙な面持ちで、それでもしっかりと頷きを返した。
「各車のペース変動と路面状況の変化を出来るだけ数値化して欲しいんですよ。元になるデータのチョイスはお任せします。出来れば5周以内に」
抽象的かつ明らかに困難な要求だ。しかも時間的な制約が厳しい。
しかし彼の頭は、それが可能かどうかということよりも早く、どういうデータを集めれば良いのかという方向へと、自然に思考が流れていった。
そして気付く。
苦しい時、今が苦しいことを認識するのは重要なことだ。しかしそれは、苦しみから逃れる最良の手段ではない。
佐藤は求めに応じ、データの海へと潜る。
自分が楽しんでいることを自覚しながら。
15周目、順位の変動もなく単調に続くかと思われたモンテカルロに、突然の変調が訪れる。
「あぁっ!」
画面内の変化に逸早く気付いた朱里が、思わず声を張り上げた。
『おぉっと! トンネル出口で一台がウォールに激突しているっ。この深紅のマシンはまさかシュマック……いや、アインですね。シュマックのチームメイト、3位を走っていたエドムント・アイン、痛恨のミス!』
声を上げてしまった朱里同様、監督の富田と秘書の高千穂もモニターに釘付けだ。
『リプレイ出ます』
トンネルに3台、アイン、マイオール、サリスのマシンが縦に並んで入っていく。しかしトンネル出口付近で前を走るアインの挙動が突然乱れ、後輪が左に流れてガードレールに激突、破片を散らしながらシケインを突っ切った。そのすぐ後ろを走っていた2台はフルブレーキをかけて危うい所で何を逃れたものの、緊急避難のためコースアウトを余儀なくされ、少し後方を走っていたマシン――ハミルに抜かれる結果となってしまった。
『トンネル内で接触がありましたかね?』
『どうでしょうか。見た目にはドライバーのミスか何かしらのトラブルに思えますが』
実況の疑問に、解説が曖昧な答えを返す。
『とりあえずドライバーは――無事のようですね』
後部を激しく破損し、フロントノーズをシケイン出口のコース上に突き出すような格好で停止した深紅のマシンから、フルフェイスヘルメットにパイロットスーツを着込んだ男性が姿を現す。
モータースポーツに事故は付き物で、それが死亡に発展するケースも存在したのだが、このFIにおいて、少なくとも密閉式のカプセルシートを採用してからは、死亡者どころか重傷者も出してはいない。人命優先のため形や大きさに変更が効かず、特に空力重視のチームにとって厄介な標準パーツではあったが、さすがに異を唱えるチームは皆無だった。
『おっと、ペースモードに突入したようですね』
ペースモードというのは、レース進行に何かしら障害の起こり得る事態が発生した時、その要因を取り除く目的で一時的にコース上でのバトルを禁じるための措置である。このモードが発令している時は全車が強制的に自動運転となり、前後との差を保ったまま周回数を重ねることとなる。もちろんこの時に重ねた周回もカウントされるので、珍しいケースではペースモードのままチェッカーフラッグが振られたということもあった。
『では、ここで改めて順位をおさらいしておきましょう。トップはスタートで飛び出したまま独走を続けているデニス・レーシングのパウル、そのパウルを3秒差でポイントリーダーのシュマックが追う展開です。3位にはスターティンググリッド12位からロケットスタートを決めたハミルが続いています』
『あの事故が起こる前は6位だったのですから、アインには申し訳ありませんが、まさに幸運だったと言わざるを得ませんね』
『モナコの風はハミルに吹いているということでしょうか。4位にフランク・グランプリのマイオール、5位にブルーフィッシュ・レーシングのサリスが並んでいます。この二人はスタートから全く差が変わりませんね』
『どちらもずっとアインに頭を抑えられる格好となっていましたから、これからペースが上がるかもしれません。ハミルのペースも速いですから、シュマックを含めた4人が直接対決という構図になる可能性もありますね』
かつてF1においては、エントリーしている2台によるチームプレイ――チームオーダーが原則的に禁止されていた。フェアプレイの精神にもとる行為であると判断されたためである。しかし現在、それが極めて悪質な行為と判断されない限り(故意によるクラッシュや周回遅れによる進路妨害など)基本的にはチームオーダーが容認されている。それは一説には、マシンやコースの多様化が進み、抜くという行為の価値が昔ほど高くなくなったというのが根底にあると言われている。
もちろん、チームオーダーを甘んじて受け、他車へのブロックやペース調整を行っているドライバーに対する風当たりが強いのは、今も昔も変わらない。
『6位に同じくブルーフィッシュのウェブナー、7位にフレール・レーシングのクラクフ、8位にフランクのガブリエル、9位にロッソのフェテルと続き、入賞圏内ギリギリの10位に我らが北嶋の名前がようやく出てきます。スタートから一つ順位を上げていますが、まだまだ先頭は遠いですね』
『とはいえ、スタート直後のトラブルで14位まで落としての10位ですからね。このモナコでこれだけ順位を押し上げているのは彼とハミルだけです。ただ、ここ5周ほどペースが落ち着いていますから、さすがにタイヤが苦しいのかもしれません』
『現在周回数は17周を終えようとしています。と、ここでようやくマシンの撤去が始まったようです。あー、リアウイングはかなり損傷していますね』
『この様子だと、路面にもかなりの破片が残っていると思います。基本的にオートクルーズ中はハンドル操作も出来ませんから、破片を拾ってしまうかどうかは運次第なんですよね』
吊り上げられる深紅のマシンが、前後に揺れながら空中を移動している。作業者の面子は人間からアンドロイドへと変わりつつあるが、光景そのものは数百年前と大差はない。
「もう、さっさと片付けなさいよっ、そんなの!」
その緩慢に映る作業に声を荒げたのは、朱里である。
「そう言うなって。彼らも怠けているワケじゃねーんだ」
窘める野太い声に三人が一斉に振り返ると、フォーチュンベルカラーである黄色い作業着に身を包んだ片平左京の姿があった。当年で日本式には厄年になる彼だが、童顔で浅黒い肌の彼からは若々しさすら感じ取ることが出来る。ぶっきらぼうなオヤッサンという認識が定着しているが、ぶっきらぼうはともかくオヤッサンと呼ばれるのは少しばかり抵抗があると本人は思っている。
「でもさ、そうこうしている内にドンドン周回数が減っていっちゃうじゃない。もう4周くらいしか残ってないよ?」
「確かに10位は優勝を目指すために十分な順位じゃないが、このモナコでトップを走ることが目的じゃないからな。むしろタイヤを温存するためなら、このままペースモードが続いてくれた方がありがたいだろ」
「タイヤ温存?」
「かなり苦しかったみたいだぞ。まぁ、あれだけ派手にプッシュしたんだ。タイヤに負担もかかるさ」
「じゃあひょっとして、ピットに入ってくる?」
「いやそれはない」
片平は笑った。この状況でこのような断言をすること自体、滑稽な話だ。
「北嶋もツクモも、ずっと前を向いて走っている。だがたからこそ、伸び上がるために身を縮ませることだってあるんだよ。今がその時だし、奴らならきっと――」
『北嶋ペースアップ!』
実況が叫ぶ。
『ペースモードが解除された途端、北嶋のペースが目に見えて上がりました。前にいるフェテルとの差は3.2秒、一周で2秒以上縮めています!』
『北嶋はペースを落としてタイヤの温存を図っていたようですね。一方のフェテルはかなりコーナーリングが苦しいようです。アンダーステアが出ていますね。ペースが伸びません』
アンダーステアというのはハンドルを切った角度に比べて大回りしてしまう傾向のことで、モータースポーツにおいては主にタイヤの磨耗によって起こる。これと逆の現象をオーバーステアと呼び、前輪と後輪のグリップ力の差異によって生ずることが多かった。前輪が磨耗してグリップ力が低下すればアンダーステア、その逆に後輪がグリップ力を失えばオーバーステアとなる。どちらにしても、マシンコントロールが難しくなるという一点においては共通している。
『一方の北嶋はペースが良いですねー。フォーチュンベルのマシンはタイヤに苦しいというイメージがありましたけど』
『北嶋選手はタイヤマネジメントに定評がありますからね。バランス良く磨耗している、ということなのでしょう』
『おっと、またタイムを縮めたっ。フェテルとの差は2秒を切ったぞ!』
「まぁ、そういうワケだ」
突然の変化に画面を凝視することしか出来ない面々の後方から、ニヤリと笑った片平がそう告げる。とはいえ、彼も内心では舌を巻いていた。タイヤの状況を考えれば走り切るだけでも限界ギリギリだった筈だ。その状況下で前を走るマシンに追いつき、追い越そうとしているのである。メカニックとしては心臓にも胃にも悪い。
「連中は心配いらないさ。むしろカーゴ移動で監督達が怪我でもされたら問題だ」
モナコが終われば次はドイツ、高速カーゴにマシンと関係者を乗せて一度に移動するというのがFIのシステムだ。基本的にチームによって差異のないシステムとなっているが、それでも慣れたチームとそうでないチームの間には差が生ずる。
「そうだな。我々が足を引っ張っては本末転倒だ。そろそろシートに座って観戦することにしよう」
監督富田の言に二人の女性が頷きを返す。ここに居る誰もが、チームの勝利を望んでいるのだ。異論や反論など出る筈もない。
『北嶋、とうとうフェテルの後ろに張り付いたぁ!』
結果、北嶋はモナコを9位というポジションで走り終えることになる。銀河の覇者を目指す小さなチームの挑戦は、ささやかながらも明確な前進によって、単なる夢物語からの脱却を果たしつつあった。
次はドイツ、ホッケンハイムの森が待っている。