第3話 ブラックアウト
話の都合上、専門用語はもちろん、レース上必要な固有名詞も多数出てきます。特にコーナーの名前などは分かりにくかろうと思います。ウィキで調べればコースレイアウトと共にコーナー名もわかりますので、もしよろしければ活用なさってください。
果てしなく続いているように見える青い空の下に、様々な色をしたマシンとパラソルが並んでいる。折り紙でも撒き散らしたかに見える光景は、鮮やかなどという感慨を通り越して目が痛くなるほどだ。それらを満遍なく照らし続けている太陽は、数世紀前と何一つ変わらず空にある。地球の時刻を標準として設定されている銀河標準時刻でも、あと二ヶ月ほどで一年が終わろうとしている。一見眩し過ぎるように感じられる陽光も、その輝き自体に力強さは感じられなかった。北半球での季節は秋、FIにおいて、シーズンの終幕を意味する季節である。
ここでカメラが切り替わり、空からの映像から地中海を見渡す映像へと切り替わる。海からの観戦を楽しむ道楽者のクルーザーが点在し、レースの開始を静かに待っている。かつてF1が行われていた頃は、モナコGPと言えば春から初夏にかけて行われることが多く、マリンスポーツを楽しんだりプールサイドで歓談しながら観戦するという光景が数多く見られたが、さすがに冬の足音が聞こえてきそうな時期になっては、そういった観客などほとんど見られない。
『F1で約150年、FIで約30年、このモナコはドライバー達を受け入れてきました。しかしそれだけの時間があっても、大和民族にその栄光が輝いたことは一度もありません。今日この日、ヤマトの誇る最速フリーター北嶋が、その栄光に挑戦します』
静かな立ち上がりのナレーションが、むしろ内なる高揚を感じさせる。そんな雰囲気を察したのだろう。浮付いたクルーザーの群から切り替わったカメラは、アスファルトという大地に根を下ろした極彩色豊かな人口の花々を正面から捉えていた。その群の中段に居るカブトガニの姿は、残念ながら確認できない。
『島宮さん、とうとうこの日がやって参りました』
『そうですね。ヤマト、更に言えばF1時代の日本まで遡っても現れることのなかった初めてのチャンピオン誕生なるか、楽しみなところです』
『前戦において、北嶋はポイントリーダーの座から陥落していますが、トップとの差は僅かに7ポイントしかありません』
『はい、そればかりか4位までが12ポイント差にひしめく大混戦となっています。5位のサリスもトップとは24ポイント差ですから、辛うじてチャンピオンになるチャンスを有していますね』
ここで画像が遠景のパンに切り替わり、文字情報が表示される。
『ここで改めてポイントについておさらいしておきましょう。FIでは10位までが入賞とされており、1位には25ポイントが加算されます。以下2位18ポイント、3位13ポイント、4位10ポイント、5位8ポイント、6位6ポイントで、以下1ポイントずつ減っていき10位で2ポイントとなります。そして完走したマシンには更に1ポイントずつが加算されますから、最大で26ポイント以内にいるマシンがチャンピオンの権利を有していることになります。それでは、現在のポイントランキングをご覧いただきましょう』
画面が人工的なCGへと変わり、上位ランカーを表示する。
『ポイントリーダーは前戦優勝しジャンプアップしたマイケル・シュマックで172ポイント、次いで我らが北嶋が165ポイントで続いています。以下163ポイントでネル・マイオールが3位、160ポイントでルース・ハミルが4位、148ポイントのアンドレ・サリスが5位となっています。島宮さん、やはり注目すべきはポイントリーダーシュマックのポジションだと思うのですが?』
『そうなりますね。他の者達は、まずシュマックを捉え、追い抜かないことには優勝、そしてチャンピオンという目標が見えてきません。その点、ポールポジションを獲得したシュマックが、現時点では一歩リードと言えるでしょう』
『なるほど。それでは、スターティンググリッドを見ていくことにしましょう』
熱く、同時に軽快な音楽が流れ始めると同時に、デフォルメされたマシンが横向きに流れていく。
『まずはポイントリーダー、赤き帝王の優勝はこれで磐石か。ポールポジションから連覇を狙う。ベテランマイオールは4位とまずまずの位置、虎視眈々と優勝を窺う。5位に壊し屋サリス、波乱に強い男はスタートで何を望むのか。そして中段グループ上位が並び、11位に我らが北嶋、是非優勝で悲願達成を見たいっ。しかし隣には因縁のライバルルース・ハミルが並ぶ、最年少記録のかかる二人はどのようなバトルを見せるのか。全15戦に及ぶ総決算に、一体どのような結末が用意されているのか、今は誰にもわかりません。総勢16チーム、30台のマシンによって最終決戦が行われます。と、たった今ピットレポーターの川尻さんが北嶋選手のグリッドに到着したようです。川尻さん、インタビューお願いします』
『はいこちら川尻です。北嶋選手、いよいよ決勝の舞台が――』
「朱里ちゃーん、ちょっと飲み物が少なくなってきたから、何か作ってもらっていいかなー?」
「はーい、今行きまーす!」
携帯を閉じ、簡素なパイプ椅子から立ち上がる。静かな、いや静か過ぎる客員控え室に彼女以外の人影はない。本音を言えば現場の空気を吸いたいと思っている彼女だが、レース直前の忙しい状況を邪魔したくないとの思いから、レースが始まるまでは大人しくしていようと考えたのだ。
彼女はあくまで、自分がスポンサーの娘であり単なる客人であることを自覚している。しかし同時に、このチームの動向を我がことのように感じてもいた。昨晩はワクワクして、ほとんど眠れなかったほどだ。
「よしっ、頑張れみんな。頑張れ私!」
控え室を後にしてキッチンへと向かう。
この瞬間、レース開始まで十分を切った。
微かなノイズの後、意味のある言葉が聞こえてくる。
『ほいほーい、こっちは準備完了だ』
ヘルメットに内蔵されたマイクから、北嶋の声だけがクリアに聞こえてくる。実際の現場は会話すら困難なレベルの騒音で溢れているが、密閉型の特性である防音機能とノイズリダクションによって、一般的な電話かそれ以上の鮮明な音声を実現している。FIは現場におけるテクニックや瞬発力が重要であると同時に、バックアップの戦術や判断が明暗を分ける競技でもある。円滑なコミュニケーションのやり取りは、絶対に必要な要素だった。
「インタビュー、ガチガチだったな」
『あぁ、川尻さんだっけ? あの人昔からFI見てるだろうし、やっぱり思うとこがあるんだろうけど、インタビュー受ける身としてはちょっとなぁ』
気の入ったインタビューアーと違い、北嶋の様子はどこか他人事のようにも映る。見る人によっては真剣さが足りないと思われるだろうし、そういう指摘をする批評家も居るが、こういう時の彼が強いことを、ツクモは知っている。
開幕戦でも、北嶋はどこか別世界に居るような面持ちで、自覚がないかのような素振りだった。こんな状態でレースになるのだろうかと不安に思ったことも、今となっては懐かしい昔話だ。
「こっちのモニターに異常は出てないけど、そっちはどうだ?」
『こっちも問題ない。エンジン音もいつも通りだ。調子良いと思う』
「そうか」
ここまでは順調だ。まずはリタイアしないこと、これは最低条件である。
『でもなぁ、さすがにモナコで11位スタートってのは、ちょっと問題だろ』
昨日の予選結果に、北嶋は満足していないらしい。
『狭くて抜きにくいモナコでこれだと、さすがに辛いぞ?』
「もう泣き言か?」
『そうじゃねーけど、事実じゃん』
「別にモナコで決める必要はないさ。確かにここは抜きにくい。直線が少ないから、ウチに向いているサーキットでもないしな。だが、この最終戦の舞台はモナコだけじゃない。ドイツとベルギーでも争われる。本音を言えば、ここでの順位は二つくらい上がれば良いと思っている程度だよ。勝負はドイツ以降だ」
『くっそー、向こうで予選してくれればなー。ポールだって夢じゃなかったのに』
「仕方ないさ。むしろゴール地点がモナコじゃなくて良かったと思っているよ。とりあえず、最後まで希望を捨てずにいられるからね」
『そりゃ同感だな。最後ガチガチに守ってチェッカーとか、つまらないにも程がある』
いずれにしても、北嶋の中には勝利というビジョンが現実的な形で存在しているようである。ツクモとしてはそれで十分なのか、満足そうな笑みを浮かべていた。
「ともかく、モナコでの第一目標はトラブルを抱えないことだ。タイヤとブレーキはいつものことだから言わなくてもわかるだろうが、今回は特にスタート直後、気を付けろ」
モナコに限った話ではないが、レース中に最も順位が大きく変動するのはスタート直後である。このタイミングで犯した少しばかりのミスが、一つ二つどころか五番十番という勢いで降格に繋がることも少なくない。しかもモナコが抜きにくいサーキットであることは周知の事実であり、数少ないチャンスであるスタート直後を狙っているドライバーは少なくなかった。強引な割り込み、オーバースピードによる突っ込み、逃げ場を失ったマシンによる接触事故、それらを誘発する要素が満載されている状況なのだ。ある程度落ち着いてくれば避けられる事態も、スタート直後にはままならないことも多々存在する。
『まぁトラクションに関してはお世辞にも強い方じゃないからな。そう気張る気はないよ』
トラクションコントロールシステムというのは、簡単に言えばタイヤの空転をさせないようにする制御機構のことである。走行時の立ち上がりなどは空力などのダウンフォースが影響を及ぼすが、止まった状態から走り出すスタート時にはそれがない。そのためトラクションコントロールシステムの優劣が、すなわちスタートの出来不出来を左右することが多かった。
「まぁ、お前とカブトガニなら、スタートに頼らなくても中段グループなら抜けるさ。例えモナコであったとしてもな。ただ、一つ不安はある」
『何だよ?』
「隣に居るお前の『お友達』だ」
『友達じゃねーし。腐れ縁だし』
ハミルが聞いたら、同意しつつ淋しそうな顔をしそうな台詞である。そんな様子を思わず連想して、ツクモは口元だけで僅かに笑う。
「とにかく、出来れば彼には後ろを走ってもらいたいね。お前とのポイント差も5つしかない。シュマックをマークすることはもちろんだが、ハミルとマイオール、それにサリスの順位も頭に入れておいてくれ」
『あぁ、わかってる。というか、任せるよ、そういうのは』
初めて聞いた者なら投げやりにすら聞こえる台詞だが、ツクモが北嶋を責めることはない。北嶋の役目がマシンをコントロールしてゴールへと無事に運ぶことだとするなら、ツクモの役目は北嶋に余計な悩みや迷いを与えないことである。二人はお互いを高く評価すると同時に、互いの能力に依存してもいた。北嶋の面白いところは、高いレベルの要求をした時と低いレベルの要求をした時とで、結果の質が変わらないところにある。簡単も難しいも、どちらもそれなりに片付けてしまうのだ。この特徴が、理知的でタイトな要求をするツクモの性質と合わさって、これまでの結果に繋がってきたのである。
それを察した時、ツクモは当初無茶な要求を突きつけたことがある。不可能なことを要求したらどのようなパフォーマンスを見せるのか、興味が湧いたからだ。しかし結果は惨敗、不可能なことは不可能だった。そればかりか明確にパフォーマンスも落ちていた。まるでそう、出来ないとわかっていながら仕事を押し付けてくる上司に当てつけでもするかのような状況で、見事に失敗してのけるのである。以降、ツクモは可能と思えるラインギリギリを、気楽に要求することにした。プレッシャーを与えるより、現実的な目標を与えて伸び伸びとドライビングさせることにしたのである。
開幕3連勝は周囲からも驚かれたし、彼らにとっても偶然の産物だ。しかしここまで優勝争いを維持してこれたのは、彼らなりの正攻法が功を奏した結果と言える。
「さて、そろそろ時間だ。さっさと勝って、最年少王者の誕生を盛大に祝うとしよう」
『最年少? そりゃハミルだろ』
「お前が勝っても記録更新だよ。一ヶ月弱だけどな」
『マジかよ。というか、一ヶ月ってむしろカッコ悪いな、それ』
「記録は記録だ。ありがたく貰っておけよ」
最年少記録よりも、FIのデビューイヤーに銀河チャンピオンを獲得する方が遥かに偉業なのだが、それはあえて言わないでおく。彼の優勝は、色々な意味で人々に新しい夢を見せてくれるものとなるだろう。少なくとも、ツクモはそう思っていた。
『記録か……そうだな。よし、行くか!』
派手なパラソルと女性が消え、張り付いていたメカニックも撤退を始めている。激しくも雄々しい甲高い悲鳴を上げる30台の猛牛達が、逆立つ角を研ぎ澄まして己を制していた。
その最後尾に、牛追い犬のようにマーシャルカーが黄色いパトライトを点灯させて現れる。舞台は、ようやく整った。待ちに待った瞬間を察してか、観客席のざわめきが歓声へと収束していく。
機が熟したことを示すように、青い光が灯る。
最終戦のフォーメーションラップは表面上落ち着いて、しかし秋とは思えない熱気を纏って、開始されたのである。
アスファルトに記された白い括弧状の印、グリッドに合わせて各マシンが整列していく。前から数えて30台目、最後列のマシンが停止を果たし、その横で見守るように佇んでいた大きなシグナルに淡い緑色の輝きが宿る。
フォーメーションラップ、コースと路面を確かめるかのような一周を終えたマシン達が、いよいよ臨戦態勢に突入する。
準備は整った。
『長く続いたFIも今日が最終15戦、終わりの始まりが今始まります。権利を有した5人の勇者、その決着が如何なるものとなるのか、これは誰にとってのシナリオなのか、運命の女神は誰の頭上で微笑むこととなるのか、それらの答えがこれから全て示されます!』
エンジンから立ち昇る熱気と、アスファルトによって温められた大気が混ざり合い、透過する可視光線を歪ませる。陽炎に包まれたマシンの一つ一つから決意や覚悟、そして高まる緊張が湯気のように溢れているかのようでもあった。
『レッドシグナル点灯!』
秒読みが始まる。一つずつ順番に灯る輝きに呼応して、エンジン音のオクターブが跳ね上がっていく。回転数が上昇している証拠だ。そして最後の一つ、5つめのレッドシグナルが灯った瞬間、歓声とエンジン音が一つのハーモニーを導いた。
『ブラックアウトッ!』
時が止まっていたのではと思えるほどだった画面上で、一斉にマシンが動き始める。マシンは急加速を始め、その全てが目標に向かって走り始めた。
『全てのマシンが第一コーナー、サント・デボーテに向かって突き進むっ。パウルのスタートが良いっ。シュマックは遅れたぞ。後ろからガブリエルも来ているっ。デニスとカバロ、最初のコーナーを制するのは――デニスッ、デニス・レーシングのパウルだっ。シュマックが遅れ――おおっと、中段で砂煙発生! コースアウトしたマシンが一台……北嶋っ、北嶋だぁ! 何とかコースには戻りましたが、順位は……14位に後退、チャンピオンロードにイエローシグナル点灯かぁ!?』
『第一コーナーで押し出されたようですね。その後方で接触もありましたから、むしろコースアウトだけで済んだのはラッキーだったのかもしれません。ただフォーチュンベルのマシンはタイヤにあまり優しくないので、余計な負担がかかっていなければと思いますが』
『それにしてもモナコでこれは致命的過ぎるっ。お、スタートリプレイです』
まずは先頭集団を上空から捉えた画面に切り替わる。
『シュマックが明らかに遅れていますね。レコードラインに居なかったパウルに完全に前を押さえられています。3位のアインもなかなかのスタートでしたが、カバロというチームはファーストとセカンドの役割を明確にしていますから、あえて後方のブロックに回ったのでしょう』
上から見るとハッキリ分かるが、2台並んだ深紅のマシン――バラッカ・カバロの2台の内、後方の一台の挙動が明らかに不自然である。急加速して、明確に減速している。もっとも、その後の彼――カバロのセカンドドライバーであるエドムンド・アインの働きがなければ、後方から迫るマイオールやサリスにも抜かれていた可能性もあった。
『この辺りは、さすがカバロらしいところですね』
解説の言に、実況が感想を添える。
『と、今度は中段グループを捉えたリプレイです。北嶋に何が起こったのか?』
斜め前方、恐らくはスタンド上部のカメラからの映像である。
『ハミルがロケットスタートを決めていますね。その後方に付いた北嶋が直線スピードを生かして加速し、アウトから行って――ハミルがオーバースピードでコーナーで膨らんでいますね。そのせいで北嶋がコースアウトしています。そしてこの際、強引にインへ割り込もうとしたロッソのマシンがメイファのマシンと接触、大きなクラッシュには発展していませんが、数台のマシンがトラブルを回避してコースアウトしていますね』
『結果、ハミルは7位にジャンプアップ、北嶋は14位ですか。これは大きく差が開きましたね』
実況の嘆きは、溜め息が聞こえないことが不自然なほどの落胆が窺える。そして代わりにとばかりに、朱里は小さな吐息を漏らした。
しかしそんな彼女の背中を、大きく無骨な手が優しく叩く。
「こらこら、まだ溜め息なんぞ吐くのは早すぎるぞ!」
「あ、そうですよね。始まったばかりなんだし」
ピットガレージの一角に陣取る一員の中に、朱里の姿はあった。その隣には眼鏡をかけたオッサンと、切れ長の目が妖艶な雰囲気を増長させている女性の姿があった。
「そうそう、まずワシらが信じずに誰が信じてくれるんだ? 正直レースが始まってしまえば、お前さん同様ワシや高千穂クンに出来ることなど応援くらいしかない。ならば精一杯、応援してやらねばな」
「はいっ」
朱里の笑顔に場が和む。
「でも監督、これはやっぱりピンチですよ?」
笑顔ではあったが、現実的なフェイ・高千穂の指摘に嘘はない。
「大丈夫。ワシは北嶋クンもツクモクンも信じている。むろん、他の皆もだ。このチームは確かに若い。しかしだからこそ、いつでも前を向いて進んで行けるとも思っている。やってくれるさ、彼らなら」
チーム監督、富田宗治の瞳には、いつになく力が宿っている。優勝すればスポンサーの受けが良いばかりではない。それは間違いなく次へと繋がり、このチームの発展へと続くこととなる。しかしそういった損得勘定は、今の彼からは見られない。ここに居る彼は、小太りで額が広がっていくことを少し気にしているオヤジでしかなかった。ビール片手に勝った負けたとはしゃいでいる、そんな純粋さがあった。
いずれにしてもレースはまだ始まったばかり、それだけは誰の目にも明らかな、純然たる事実だった。